過去編80-1
イライセンが祖国に引導を渡すために用いた策は、基本的に国境でアーク・ルーン軍に用いたものと同じだった。
タランドを自分と手勢で制圧し、その報を自分の手で連合軍に伝える。
国境の場合、クラングナの基地を襲撃したことを伝えた際、ヅガートはそれが敵の策略であるのをすぐに見抜き、アーク・ルーン軍は混乱したものの即座に立ち直り、ワイズ軍につけ入る隙を見せなかった。
だが、それもアーク・ルーン軍であるからであり、連合軍は無様な混乱に陥り、そこをアーク・ルーン軍に突かれて敗走するだろう。
そして、敗走した連合軍が逃げ延びようとする先の王都を押さえれば、タランドに逃げ込みたくてもかなわない状況となる。
王都を前に棒立ちとなる敗残兵たちが、アーク・ルーン軍の追撃によってさらなる敗走に追い込まれれば、もはやワイズ国内での再起はまず不可能となる。
もちろん、イライセンの内応の最大のネックは、王都をいかに制圧するかだが、少数の手勢でそれを成すのはそう難しくない。
イライセンの権限で動かせるのは、一千強。アーシェアが可能な限りのワイズ兵を最前線に引っ張っているが、それでも王都には一万数千の正規兵がおり、それに貴族の私兵などを足すと、二万を軽く越えるだろう。
だが、兵の数など大した問題ではない。何しろ、王都にいる兵の大半は、アーク・ルーンと半ば通じている軍務大臣の指揮下にあるのだ。
もちろん、国務大臣が反旗をひるがえせば、軍務大臣もそれに呼応するということはない。半ば以上、祖国を裏切っているような状態にありながら、最後の一線を越すように求めれば、大いに迷って境界線に踏み留まり続けるであろう。
だが、そんな中途半端な心理だからこそ、動かずにすむ理由さえ与えれば、軍務大臣は祖国の滅びを座視し続けるのは明白だ。
そして、その理由、義弟に右手の小指を切り落とされてのたうち回るワイズ王妃と、従姉に小刻みに震える小さな体を押さえられたエクターンを前に、何人ものワイズ騎士が、否、王都にいるワイズの将兵は立ち尽くすことしかできなかった。
イライセンからすれば難しい話ではない。ワイズ王とは幼少期よりのつき合いであり、義兄弟の関係なのだ。亡き妻や娘と共にワイズ王家のプライベートなエリアに出入りするのは、むしろ当然の行為と周りから見られているので、その日の朝、イリアッシュと共に誰にもとがめられることなく、ワイズ王らの私室に踏み込むことができた。
タイミング悪く、ワイズ王は所用で不在だったが、王妃と王太子のみで人質で充分と判断したイライセンが、背信というカードを切ると、裏切られた側が大いに驚いたのは言うまでもない。
父親に従うと決めたとはいえ、弟も同然もエクターンを押さえるイリアッシュの表情はかなり苦しげなものであったが、義理の姉に隠し持っていた小振りな剣を突きつけるイライセンは、感情を消した顔で非情に徹していた。
仕掛けた方は感情を抑えているが、ワイズ王妃や王太子は突然のことに驚き、騒いだ声が、護衛のワイズ騎士たちを呼ぶが、護る対象を押さえられてはうかつに動けるものではない。
「我々はアーク・ルーンに与することとした。アーク・ルーンの軍勢が到来するまで、こちらの指示に従ってもらう」
淡々とそう驚天動地な要求を突きつけられても、祖国の滅亡を受け入れられるがごときそれをワイズ側とてうなずけるものではない。
「イライセン卿、正気を失われたかっ! 一時の苦境でこれまでの名声を失われるつもりかっ!」
「女性や子供を人質にし、恥じ入るところはないのかっ!」
「アーク・ルーンの倍を数える我らの勝利は間違いないのだ! 今、悔い改めねば、反逆者として終わるだけですぞっ!」
ワイズ騎士たちは口々に説得を試みるが、ワイズ王妃の指が九本に減ると、彼らの舌は凍りついたように動かなくなる。
「こちらの要求をここで留めるのはいいが、王妃様の血は流れ続けているぞ」
反逆者から現実を突きつけられ、ワイズ騎士の半数は現場より離れ、イライセンの凶行の報告に走った。
止血しなければ、最悪、王妃が出血死するとも限らない。また、手当てが遅れるほど、傷口が化膿する可能性が高まる。
当然、イライセンの反逆を知ったワイズ王や家臣一同は愕然となり、一通り騒ぎ立てた後、
「王妃と王太子、両殿下の身の安全こそ優先すべきでしょう。当面は向こうの要求に応じておくべきです。でなければ、王妃様の治療もできぬやも知れません」
弱腰な方策で、彼らの意見はまとまった。
ワイズ王は妻や子供を見捨てることのできる性格ではないし、強行策も「両殿下の身に何かあったらどうする?」と言われては、強く主張できるものではない。
「イライセン卿の行動は一時の気の迷いでありましょう。時が経てば正道に立ち戻るはず。当面は向こうの指示に従い、様子を見るべきです」
軍務大臣も消極策に積極的に賛同し、外務大臣もそれを支持した。
これまでと違い、アーク・ルーンから何かしら連絡はないので、イライセンの行動がアーク・ルーンと連携したものであるかは、確信はもてないものの、保身を第一に考える両名は、イライセンの読みどおりアーク・ルーンの心証が悪くなる行為を極力、避けようとする。
王妃と王太子を人質とされ、王と軍務大臣が様子見を指示し、王都の軍勢が人形の群れと化すと同時に、イライセンの手勢が動き出し、わずか一千強で一国の中枢を制圧した。
すでに指一本が飛ばされたことを聞き知っている士官らは、抵抗すれば人質の命が危ないという点を兵たちに徹底させたので、裏切り者らは歯噛みするかつての味方の目の前で自由に行動ができた。
ワイズ王が反逆した義弟に要求できたことは、妻と息子の安全のみであり、その一環として王妃はようやく治療を受けられた。
もちろん、貴重な人質の片方に死なれては困るが、不測の事態を避けるため、宮廷医師が室内に入って来ることをイライセンは拒んだので、王妃の失った小指に薬をぬり、包帯を巻くのは、沈痛な面持ちのイリアッシュの役割となった。
父親の反逆に従っているが、心から賛同しているわけでもないゆえ、良心の呵責に苦しげな表情のイリアッシュは、震え気味な手で包帯を巻いている。
王太子エクターンは母親の指が飛んだ瞬間から、自分の両手を押さえ、真っ青になってずっと震えており、悲鳴さえ上げられない状態にあったが、ワイズ王妃の方は姪にぬられた薬で痛みを和らいだせいか、少なからぬ出血に顔は青白いままであったが、
「……イ、イライセン……こ、これは、いったい、どういうつもりなのです?」
歯をカチッカチッと鳴らしながら、恐怖に満ちたその声はあまりにも愚問であったゆえ、義姉の問いかけをイライセンは無視した。
冷然と自分たちを見下ろすだけのイライセンに王妃は気圧され、反逆が明々白々な状況で無用な問いかけを、しかし止めることはなかった。
怯えて震える自分の体が、自分以外の震え、体を寄せる息子に気づいた王妃は、
「あ、あなたの目的はどうあれ、エクターンを、この子だけは解放して上げて……ひ、人質はわ、私ひとりで充分でしょう……」
「お断りいたします。ご不便でしょうが、エクターン殿下ともども、このままでいてもらいます」
「そんなっ! エクターンはまだ九つなのよ! イライセン、何が不満か知りませんが、エクターンは何も悪くないはずよ! 王妃として、何か落ち度があったなら、私だけを罰してください!」
「いえ、王妃様も、エクターン殿下も、陛下にも、何も悪いところはございません。心優しきワイズの王家に仕えられ、また、これまで親しくしていただけ、感謝の念に絶えません。陛下方に、一片も悪いところはありません。悪いのは全てアーク・ルーンでございます」
「では、なぜ、悪しきアーク・ルーンに与し、我々に刃を向けるのです! 何も非とするところがないというならっ!」
「何も悪くなくとも、何もできず、何もわかっておられないからです。陛下方は、もはやワイズの民にとって害虫でしかありません。ならば、民の害悪となる前に駆除せねばならないのです。自分で自分を処せぬ以上、この手でもって」
冷然と見下ろす反逆者が、自分に向ける視線が本当に虫を見るようなものであったのに気づくと、ワイズ王妃は完全に絶句するしかなかった。
傍らで震える息子と同様に。