過去編66-3
「いやあ、危なかった、危なかった。あやうく、こっちが全滅するトコだった」
百の兵を一人も欠けることなく引き連れ、クメル山の陣地に帰還した軍団長の発したほがらかな第一声を耳にした者は、その内容にいぶかしげな表情となった。
クメル山の地形は険しいだけではく、山道が四方にいくつも伸びている。その山道を下れば山の四方にカンタンに移動できる反面、上から見張っていれば山道を登って来る者をいち早く発見できる。
連合軍への二度に渡る襲撃を成功させ、その山道の一本を使って悠々と引き上げて来たヅガートの表情は、実に満足げなものであった。
大軍の運用が不得手なわけではないが、少数で大多数をかき回すのを好むので、百の兵で二十万以上の敵を二度もしてやったのだから、当人としてはこの上なく愉快痛快な気分であるのだろう。
そして、自ら「危なかった」と告げつつも、その表情は隠し切れぬ笑みが浮かんでいて、危機感などはそこからカケラも感じられなかったので、
「何かあったのですか、閣下?」
「いや、別に何もなかった」
不審そうにたずねる副官に、ヅガートは噛み殺し切れぬ笑みをもらしながら応じるのだから、何もなかったということはないだろう。
クロックはもったいつける上官がこらえ切れずにしゃべり出すのを待ち、
「単に、二度目の襲撃の際、ゼラント軍の中に面白い動きをする連中がいてな。数は五百もいなかっただろうが、オレらが襲いかかった途端、それに巻き込まれないよう、巧みに兵を動かしていた。敵にも、中々、目端が効くヤツがいる」
百の兵で三千の兵が守る輸送隊を襲うのだから、敵の動きを注意深くうかがうのは当然のことである。
輸送隊を守る三千のゼラント兵の中に、モニカの父ミストールと兄ムーヴィルの率いる約三百もいた。
彼らは瞬時に、味方の大半が右往左往する状況でアーク・ルーン兵らを迎え撃つのは不可能と判断し、手勢を混乱の場からうまく移動させる手際は、ヅガートすらも感心すると同時に、
「そいつらが護衛の指揮をとっていれば、返り討ちにあっていたな。人材というのはいないようで、わりといるものだ」
ゼラント軍のほんの一部だが、油断ならない連中がいるから気をつけろ。クロックたちは軍団長の言いたいことを理解し、一同は神妙な顔でうなずく。
ミストールらは一万、二万の兵を率いているわけではないが、たった百の兵でもやり方しだいで戦局に大きな影響を及ぼすのは、ヅガートが証明したばかりだ。
ましてや、ワイズとの、否、七竜連合との戦いの第一ラウンドが大詰めを迎えようとしているのだ。ここで失策をおかせば、これまで積み重ねてきた勝利が一気に色あせる。細心の注意を払って事に当たらねば、アーシェアら連合軍の喉笛を噛み裂くどころか、窮鼠、猫を噛むという事態になりかねない。
弱った敵を決死の反撃も許さずに徹底的に叩く。それがアーク・ルーン帝国の勝利の定義である。
何万もの敵に逆落としをかまし、思わぬ大戦果に少しゆるんでいた陣中の空気が引き締まっていくの感じ取ると、
「で、クロック。こっちのあんばいはどうだ?」
「はい、順調です。このクメル、やはりワイズに押さえられたままでは、どうにもできなかったでしょう。移動の利便性や地形の険しさのみならず、山中の至る所にわき水があり、水源にこと欠きません。また、天然の洞窟がいくつもあり、兵糧や物資をそこに置いておけば、ドラゴンに焼き払われる心配はないでしょう」
「なるほど。だが、その洞窟がつながっていて、敵から奇襲を受ける危険性はないか?」
「正直、洞窟は広大でして、即日、全容を把握するのはとても無理。ですので、洞窟からの奇襲の危険を排するため、通路を全てふさいでおきました」
「なら、当面、こっちがやることはないな。後はじっくり敵が焦れて動き出すのを待つだけか」
「山中には一応、五十日分の兵糧を運んであります。腰を据えて、敵の出方を待つのに、これだけあれば充分と思います」
副官の慎重を期した方針と報告に異を唱えるわけではないが、ヅガートは抑え切れぬ苦笑をもらし、
「ケッ、敵が腰が落ち着けるほど、じっとしているとは思えんがな。たぶん、せっかく運んだ物の大半は、また山から下ろすはめになるだろうぜ。まっ、それは捕虜にでもやらせればいいだけか。どうせ、一万や二万の負け犬を拾うことになるだろうからな」




