過去編39-1
「アーク・ルーン軍が進軍を停止している今、我が軍は戦力を結集し、連中を叩くべきです。先の一戦の屈辱をすすぎ、ワイズの武威を回復するには、これより他に手立てはありません」
アーシェアの主張に自分以外の者が賛同する光景に、イライセンは苦り切った表情となる。
アーク・ルーン軍を阻んでいた、国境のにわか造りの砦と陣地が燃えカスとなって十日目。三日ほどで敗軍をまとめたアーシェアは、敗戦の事後処理と善後策のためにイライセンの元、つまりはワイズの王宮に戻ったのが五日前のことである。
王宮に戻ったアーシェアは父王に敗戦のついて謝罪し、軽い叱責のみで許されると、すぐに叔父の元に足を運び、可能な限りの兵を集結させることを提案し、イライセンもそれを了承したが、戦力を集める両者の意図は大きく異なる。
イライセンは十年前と同じ手法、すなわちクメル山に戦力の一部を置き、アーク・ルーン軍に撤退を促すことを考えている。
クメル山をアーシェアに守らせ、残る兵は王都に結集させる。戦略上の要所であるクメル山を確保させしておけば、最悪の事態、ワイズの滅亡は確実に回避できる。加えて、クメル山の手前でアーク・ルーン軍が立ち往生すれば、その東にある王都に集めた兵は侵略者と戦わずにすみ、戦力をこれ以上、失わずにすむ。
これに対してアーシェアは、集結させた戦力で決戦を挑み、損害を出してでもアーク・ルーン軍に撤退するほどの打撃を与えることを目的としている。
彼女からすれば、叔父の戦法には二つの欠点がある。
一つは、クメル山と王都タランドの距離は三日ぐらいしかない点だ。
王都の近くまで敵の侵入を許すまで、味方が静かにしていられるわけがない。いくら作戦内容を説明しても、国王を筆頭に軍事知識の浅い重臣らがわめき立て、何やかんやで作戦を変更せざる得ないのは目に見えている。
さらにイライセンの専守防衛の構想を困難するのは、連合軍の存在だ。他国からわざわざ来る彼らが守っているだけの方針にうなずくわけがない。
一応、アーシェアよりも先に王宮に戻ったイリアッシュは父親の指示でゲオルグに手紙を書き、連合軍の到着を遅らそうとしている。
さすがに「迷惑だから来るな」というストレートな文面など書きようもないので、ゲオルグがゆっくりと進もうという気になる内容にはしているものの、愛しい女性の危機に馳せ参じようとしている王子にどれだけ効果があることやら。
イライセン自身、自分の方針に絶対の自信があるわけではない。姪の懸念するとおり、敵が迫れば迫るほど、主君や同僚は恐慌を来していくだろうし、連合軍が到着すれば、敵よりもそちらに多くの手数を割かなければならなくなるだろう。
連合軍の到着前に、一戦してアーク・ルーン軍を退ける。そして、敵を退けてから、連合軍の編成と諸問題に対処する。アーシェアの方針は、イライセンの構想よりも有効ではある。ただし、前提として、アーク・ルーン軍と真っ向から戦って勝つ、あるいは打撃を与える点がクリアできれば、だ。
国境での勝利してから十日もアーク・ルーン軍が動かずにいてくれるのは、イライセンにとって二重の意味でありがたく、何よりも恐ろしくあった。
ワイズ兵らを死兵とするため、イライセンは民衆にアーク・ルーン帝国の悪評を吹き込んで回ったが、国境の守りを破られた今、それが悪い方に働いていた。
もし、アーク・ルーン軍が国境を突破してすぐに進撃していれば、アーク・ルーン帝国への偏見を抱かされた民衆が過激な反応を示し、アーク・ルーン軍の進軍路がワイズの民の屍で舗装されていたかも知れない。
無論、民衆を煽動すれば、アーク・ルーン軍の前に肉の壁をいくらでも築けるが、民を犠牲にする戦い方など、イライセンは絶対に容認できるものではない。仮に、ワイズ王から民の煽動を命じられようが、いかなる手段を用いても、民の血が流れぬように努めるのが、イライセンという人物だ。
だから、アーク・ルーン軍が進撃を止めているのは、イライセンにとってこの上もなくありがたい。その間、ワイズの民に流れるアーク・ルーン帝国の悪評を和らげ、過剰な反応をしないように処置できるからだ。
当然、それはアーク・ルーン軍がワイズの民に襲われぬようにしていることでもあり、ある意味で利敵行為とも言える。味方から非難される恐れもあるが、それよりもイライセンが恐れるのはアーク・ルーン軍の真意だ。
敵の手で敵国の民衆を抑えてもらうため、あえて進軍を遅らせたのなら、アーク・ルーン軍というより、その実質的な将たるヅガートに、自分という人間が完全に見抜かれているということになる。
さらには、ヅガートという人物が、自分の洞察や読みに対して、己の命運を委ねられる器量があるということも意味する。
当然、進軍を遅らせている間にワイズ側は兵を集めているが、そんなリスクよりも民を敵に回す方がはるかに厄介であるという道理もわきまえてもいるからこそ、ヅガートとの間に無言の交渉が成立したと言えよう。
互いに使者も密使も走らせたわけでもない。が、イライセンはヅガートが、
「二十日ばかり動かずにいるから、その間に何とかしろ」
と言っているのがわかり、実際にワイズの民を抑えるのに最低限、それだけの時がいる。
唯一、頼りとなる味方のアーシェアの力量を、イライセンは高く評価はしている。が、敵の信念、手腕、立場を正確に洞察し、それを何ひとつ確認しないまま、自己の判断を実行できるヅガートという人物は、姪の及ぶ相手とは思えない。
勝ち目のない無謀な戦いを避けるべきだ。後々、状況がいっそう苦しくなるのがわかっていても、勝算のないまま打って出るべきではない。
戦わねば犠牲が出ず、それは戦力を残せるということであり、兵を一人でも多く生き残らせることとなるのだ。
また、この後に何らかの好機が巡ってきた場合、戦力を残していなければ、それを指をくわえて見過ごすことになる。
それに最悪、ワイズ王国が滅びた際、余力を残して降った方がいいのだ。力を使い果たして降伏しても、アーク・ルーンは力のない者としてしか遇さない。残した余力が大きいほど、アーク・ルーンに従属した後の立場や発言力が大きく扱われるだろう。
だが、当てのない後の好機や、何より降伏する時のことを理由に反対しても主張が通らないのは明白なので、
「バディンなど、同盟国からの援軍はこれより続々と到着していくのです。それらを待ち、大兵力となってからとすべきです、戦うのは」
無論、援軍が来て大兵力になるほど、軍として統一された行動が取れなくなるのは目に見えている。
せっかくの数が仇となるのを承知で、イライセンは味方の無謀な決戦を止めさせるための方便として用いるが、
「アーク・ルーン軍は今はなぜか進軍を停止していますが、いつ進軍を再開するかわかりません。連合軍が結成されるまで、敵が動かぬという保証がない以上、我が軍だけで敵に対抗できる兵を集結させるべきです」
「兵を集結させるのに反対しているわけではない。連合軍が結成されるまで、アーク・ルーン軍との交戦は避けるべきと言っているのだ」
「では、連合軍が集う前にアーク・ルーン軍が進撃して来た場合、我が軍は戦わずに退くべきと仰せられるか、叔父上は」
「そのとおりだ。一時的に、アーク・ルーン軍に国土を奪われたとしても、援軍を得てから奪い返せばいい」
もちろん、叔父が戦いを避ける理由は、アーシェアとて理解できないわけではない。
だが、それはヘタすれば、マトモに戦えぬまま、敗北するかも知れず、まだ若い第一王女には納得できるものではなかった。
「イライセンよ、それは弱腰すぎるというものではないか」
長女と義弟の議論を眺めていたワイズ王が、遠回しに娘の主張を是とすると、
「まことでございます。敵を前に戦わずに退くなど、我がワイズの、竜騎士の勇名が泣きますぞ」
「そもそも、竜騎士の真価は野戦でこそ発揮されるもの。無理に築いた砦や陣地を守らせたのが、先の敗戦の原因でありましょう」
「アーク・ルーンを敵視する点は、イライセン卿のご判断は正しいでしょう。しかし、アーク・ルーンを恐れる点は、度を過ぎているように思われます」
西の国境の近くに領地がある三人の貴族が、一時的にでも先祖伝来の土地を奪われぬよう、口々にイライセンの案を否定する。
連合軍の結成に反対した際、アーシェアと二人で論陣を張ったところで無駄だったのだ。イライセン一人がどれだけ熱弁を振るおうが、結局は決定をほんの少しだけ先に延ばすことしかできなかった。
アーシェア率いる約八万のワイズ軍で、アーク・ルーン軍に決戦を挑むという決定に。