過去編29-1
「大まかな数字ではありますが、我が軍の戦死者は七百人を……越えているようです」
クロックの報告に、ヅガートは忌々しげに舌打ちする。
アーク・ルーン軍が夜襲に成功し、ワイズ軍を全面敗走に追い込んだ戦場の跡地は、一夜明け、鎮火こそしたが煙はまだくすぶっており、何より血肉の焼けるイヤな臭いは辺りにまだ漂っている。
九万九千に減じたアーク・ルーン軍は、一晩中、敵陣が燃え、砦が火に包まれる光景を眺めていたわけではない。ワイズ軍を敗走させ、追撃が不可能と見るや、ヅガートは自陣に引き上げて、兵を休ませている。
無論、ワイズ軍が逃げ去ったとはいえ、油断せずに見張りを立て、偵察隊を出して周囲への警戒は怠ることはない。寝込みを襲われれば、敵が一千か二千でも大打撃を受けるからだ。
幸い、不眠不休で逃げ散った味方を集めているアーシェアには、敗軍をまとめて戦いを挑む余裕はなく、ヅガートの懸念は杞憂でしかなかったが、その振る舞いに比して慎重な采配をするのが、大宰相ネドイルが見込んだ元傭兵である。
ヅガートもクロックも仮眠を取り、体調はいくらか整えている。そして、示し合わせたわけでもないのに、二人が兵たちがイビキをかいている場所ではなく、兵たちが永眠する場に、共に訪れたのは、本日、ここの片づけをするので、その下見という意味合いもあるが、感傷によるところが大きい。
丸三年、副官となって補佐役を務めている魔術師は、
「閣下、敵の被害はこちらの三倍に及びましょう。たしかに、この程度の陣地を落とすのに一千もの兵を失ったのは痛恨事ではありますが、仕方のない犠牲であると思います」
「ここはイライセンとかいうクソ貴族が何年も準備したもんだ。たぶん、ヤツの手札で最も強いもんだろう。それを千人かそこらで潰せたんだから、御の字と考えるべきだろうな。もっとも、あのクソ王女のミスがなければ、もっと兵を失っていたが」
自分の上司の慧眼に改めて舌を巻く。
イライセンがアーク・ルーン帝国の侵攻への防備に着手できたのは約二年前。たったそれだけの期間、しかも味方の大半が偽りの友好を信じる中で、万全の国防体制を整えられるものではない。
その限られた時間と労力を国境の守りに費やしたが、逆に言えばその強力な手札を一枚、作るのが精一杯だったということにもなる。
イライセンが二年の歳月をかけた成果を砕いたのを思えば、千人の犠牲ですんで行幸と言うべきであろう。
もちろん、アーシェアが焦って前に出て、司令官として指揮に支障が出る行動に出てくれたのも、その行幸の大きな要因だ。
「が、もうちっとうまくやってれば、五百は厳しくても、二、三百ぐらいは失わずにすんだかもな」
悔恨とまでいかずとも、自分の戦いぶりに納得のいかない口調で、ヅガートはつぶやく。
積極攻勢と派手な戦い方を好むヅガートだが、意外にも第十一軍団の生存率はアーク・ルーン軍の中でも一、二を争うほど高い。
先日までの一連の戦いで出た損害の責任の一端のあるクロックは、
「それで、これからの予定ですが、閣下はいかにお考えですか?」
死んだ戦友らに対する自責の念よりも、生きている戦友への責務に取り組む。
「てめえの考えは?」
「進軍の緩急は、状況に応じて決めていくべきでしょう。イライセンが自由に動けぬ今、急ぐべきではあります。一方で、連合軍の到着はアーシェアが自由を失うことを意味し、進軍を遅らせれば、それにも利が生じます。ただ、あまり時をかけすぎるのは基本的に良くないでしょう」
ワイズ王国の国務大臣も第一王女も、共に有能な敵だ。時間を与えると、どのような手を打って来るかわからない。
何より、時間があればあるほど、アーシェアは連合軍を有機的に動けるようにしていくのは明白だ。
「ただ、ここから先に進む上で最も気をつけるべきは、ワイズの民からの抵抗でしょう。一つ処置を誤ると、我らは進みたくとも進めなくなる恐れがあります」
「ああ、そうだな」
副官の見解と懸念に軍団長はうなずく。
名臣、名将よりもアーク・ルーン帝国が警戒するのは、民衆の反応と反抗だ。
優れた人物でも、それについての情報があれば、いくらでも対策が立てられる。イライセンやアーシェアが良い例だろう。
だが、国民感情や群衆心理というのは、乱気流よりも読み難い。加えて、たいていの為政者は民の犠牲を止む無しとし、彼らを煽動して侵略者に対する肉の壁とする。
どれほどの大軍でも、数においては民衆に遠く及ばない。彼らを物理的に排除するのは不可能であり、また武力を以て抑え込もうとして反感を買うと、際限ない抵抗運動やゲリラ活動に悩まされることになる。
だから、サムのような一部の例外を除き、アーク・ルーン軍は基本的に民間人への殺傷を禁じ、ヅガートもワイズの民を傷つけるつもりなど毛頭ない。
問題は、ワイズの民の方から突っかかって来た場合だ。
さすがに身も守るためには殺傷を回避できるものではないが、それは群衆との泥沼の争いへとつながっていく。
しかも、ワイズの民はイライセンの情報操作で、その「悪評」を信じ込んでいるからタチが悪い。
「やはり、進軍路および補給路の村や町から人質を取り、抑え込むのが妥当でしょうね」
通過する町や村で有力者の肉親を人質に取っておけば、その有力者らが同胞の反抗を抑えてくれる。
もちろん、それで抑えられるのは一時的なものだ。そうした脅迫は後々にしこりを残し、何よりずっと人質を取ったままでは、本当の統治などできないから、必ずしも上策とはいえない。
「まっ、他に方策がなければ、そうするしかないだろう。とりあえず、ガキにガキの面倒を見させればいい」
人質に取るなら大人より子供の方が管理し易い。何より、子供を押さえれた親は脅迫によく従ってくれる。
そして、その場合、ヅガートが子供の世話をフレオールに押しつけるつもりなのは言うまでもない。
大宰相の異母弟に対する、司令官を司令官と思っていない態度は今さらだが、それよりも副官が気になったのは、
「他の方策とは、ヅガート閣下には何か良い手立てがあるのですか?」
「あんっ? 別にオレにはねえよ、そんなの。ただ、十日くらいは、ここで様子を見るべきだと思うだけだ。イライセンのクソ野郎が道を作ってくれるかも知れんからな」




