過去編25-1
「イライセンが陣地より去ったのはたしかなようです。アーシェアの方は戻って来たようですが、これで最も分厚い障壁はなくなったも同然でしょう」
報告するクロックの表情には安堵の色が浮かび、同席するランディールや師団長たちも、それは同様であるのか、天幕に明らかにほっとした空気が流れた。
諜報能力の高さはアーク・ルーン帝国の強みの一つだ。敵の陣中の様子は、イライセンもいなくなったこともあり、正に手に取るようにわかるようになった。
当たり前だが、イライセンやアーシェアがワイズ王宮に赴いた際も、間者からその報告は届いたが、それを好機と見たクロックたちと違い、ヅガートははやる味方を抑えて様子見に徹した。
時が経つほど、ワイズ軍の砦や陣地は補強されているが、同時にイライセンが去り、何より連合軍結成の報を耳にしたワイズ兵たちの決死の覚悟は、時が経つほどにゆるんでいる。
皮肉なことに、連合軍の結成という光明が、死兵と化していたワイズ兵の弱体化を招く結果となった。
「絶望するからこそ生き残れるのだ。希望を、生き残れると考える兵が、踏み留まれるわけがない。とはいえ、まだ敵さんの希望は足りんから、もっと時日を置き、命がけで戦えぬようになるのを待つ必要がある。その間、にわか造りの砦や陣地が多少、頑丈になろうが、五万の死兵と戦わずにすむのに比べたら、大したことじゃない」
歴戦のクロックたちも、軍団長の見解を理解し、ワイズ兵の心理の変化を待つことにした。
無論、敵陣を眺めながらぼうっとしているようなマネをせず、
「こうして待つ時間を利用し、今から敵の陣地を攻める際の、作戦と段取りに取りかかるべきでしょう。それに先立ち、後方に回した魔道戦艦を再び戻すべきと考えます」
「それは相手を侮りすぎておりはせんか? たしかにイライセンはいないが、アーシェアなる女将、若年ながら、警戒を解いて良い相手ではなかろう」
眉をしかめる何人かの師団長の一人が、クロックの提案にそんな懸念を飛ばす。
それに対して、当のクロックが自分の見解を述べるより早く、
「はっ、どうせ、アーシェアって王女は、見境なく男をベッドに引っ張り込むヤリマンに決まっている。てめえの敗北と命日まで、男にケツを振り続けるだろうよ」
「あの〜、ヅガート閣下。情報によれば、アーシェアなる王女はそのような人物ではないと思われますが?」
「へっ、どうせ、貴族の女なぞ、どいつもこいつも心の中も乳首も真っ黒なんだよ。今も、能天気に男漁りでもしているに決まっている」
敵将を弁護する副官の言葉を、確固たる偏見と先入観で全否定する軍団長。
第十一軍団の副官も参謀長も師団長一同も、ヅガートのあまりに酷い言いぐさに慣れているが、
「しかし、貴族にそんだけ偏見や先入観を抱いて、何であんな柔軟かつ巧妙な用兵ができるのか」
共に戦場に立つのが初めてのフレオールは、心底、不思議そうにつぶやく。
その司令官のつぶやきを耳にしたヅガートはバカにしきった態度と口調で、
「けっ、これだから、貴族のボンボンはクソ以下なんだよ。戦場で先入観やら固定観念やらがいかに危険か、まるでわかってやがらねえ。実戦をなめるのも大概にしろや、ボケがっ」
「あんたにだけは言われたくないよ」
フレオールのみならず、かつてクロックもランディールも抱いた感想を、しかし彼らは胸の内に留めてきた。
平素の態度がどうあれ、ヅガートは偏見を大いに抱く貴族を相手に、戦場では巧妙な駆け引きや用兵で以て、全力で敵軍を叩き潰してきた実績がある。
ある意味で言動と不一致な手腕を発揮するからこそ、ネドイルに重用され、何より戦場で生き延びられてきたのだ。
だが、ここが戦いの場ではない以上、ヅガートに何を言っても、返って来るのは聞くに耐えない、アーシェアに対する誹謗中傷なのは明白なので、
「話を戻しますが、敵がこちらの補給路を狙うなら、この上なくありがたい話です。こちらはその間に、敵の本陣を料理できるのですから」
「なるほど。ワイズの将で恐るべきはイライセンとアーシェアのみ。そのイライセンがいない今、アーシェアが別動隊を指揮するということは、本陣には阿呆な竜騎士しかおらんというわけか」
「逆に言えば、アーシェアが本陣にいながら補給路を狙うというのであれば、別動隊を率いるのは阿呆な竜騎士というわけか。別動隊を叩く好機だな」
クロックのカンタンな説明で、ワイズ軍に生じた致命的な欠陥に気づく師団長らの反応を見て、フレオールはさすがに敵が哀れに思えた。
アーシェアが別動隊を指揮できたのは、本隊にイライセンがいたからだ。もはや前線に国務大臣がいない以上、別動隊を本隊に合流させ、前線のワイズ軍を彼女一人で統括するしかない。
別動隊を二分して、アーシェアがクラングナの基地を襲撃した際、分けた別動隊の片方を任せた竜騎士は、何度もアーク・ルーン軍に仕掛けず、牽制に留めるように注意したにも関わらず、アーク・ルーン軍に攻撃を仕掛けて罠に引っかかっている。
ワイズの竜騎士の中に、せめてアーク・ルーン軍の師団長くらいの手腕のある者がいれば、アーシェアも本隊か別動隊の一方を家臣に任せられるが、現実的に竜騎士らの指揮能力を思えば、どちらか一方を任せればアーク・ルーン軍の巧妙な罠や戦い方の犠牲になるだけだ。
人材的に別動隊を組織できない以上、アーシェアは陣地から動けなくなったのだから、補給路を守るのに戦力を割く必要はない。アーシェア以外が率いる別動隊など返り討ちにすればいいだけだし、アーシェアが別動隊を率いて出撃したなら、不在の陣地を攻めればいい。
そうしてアーシェアが動けずにいる間に、敵陣を攻める段取りをしていればいいのだ。
ワイズ兵の決死の覚悟が完全にゆるむまで。
別段、フレオールは祖国の敗北を願っているわけではないが、これまで不利な条件をいくつも抱えながら互角に渡り合ったイライセンとアーシェアの健闘を思うと、これより先の展開、敵と味方に悩まされ続け、地獄の淵でもがき続けた挙げ句、結局は生き地獄に真っ逆さまとなる未来図に、哀れみを覚えずにいられないというもの。
もう十年、あるいは五年でも早く、アーシェアが生まれてもっと経験を積んでいれば、ヅガートを相手に負けない戦いを何とか演じられたかも知れない。
無論、一概に年が若いから未熟となるものではなく、アーシェアと同い年のレミネイラは、ヅガートと互角以上に戦うだけの実力と経験を有している。一方で、アーシェアとレミネイラを合わせたよりも年上なリムディーヌは、ヅガートに将才で及ばない。
何より、仮定の話をすればキリがなく、十年前にイライセンがトイラックを拾っていれば、あるいはマードックらがワイズ王国で生まれていれば、アーク・ルーン帝国の侵攻に対抗できただろうが、それはあくまでも、もしの話でしかない。
現在、トイラックはアーク・ルーン帝国の内務大臣として、護民法の制定に向け、司法大臣と最終協議に入っており、マードックたちもモニカの学費の捻出に頭を痛めている。
そして、十五歳の司令官のような感傷とは無縁な、いくつもの修羅場を潜り抜けた歴戦の男たちは、頼るべき叔父がいなくなった二十歳の小娘をコテンパンにのすべく、白熱した議論へと入っていた。




