虚数世界
放課後。担任の中原先生が運転する軽自動車に乗って、めぐみは近くの総合病院にやって来た。
駅の近くに建っているこの病院は病床数が三百以上ある、総合病院としてはわりかし普通の大きさの所だと、めぐみはここに来る途中に先生から説明された。七階建てで横に長い病院の外見は結構奇麗な建物に見えた。だが、中に入ってみると内部の方がもっと奇麗だったことにめぐみは驚かされた。フローリングの床はピカピカで、照明の光を反射してまるで輝いているように見える。それは壁も同じで汚れている箇所が全く見当たらなかった。しかしそれは病院という施設であれば、そういった衛生面に気を使うのは当たり前のことである。めぐみはついつい、ボロボロできったない校舎と比べてしまうので隅々まで掃除の行き渡ったこの病院の景観に感嘆してしまう。
入り口を入ると左右真正面と通路が別れていた。左手側は内科や小児科など基本的な診療科の受付があり、その奥にまた通路が続いているのが見えたのできっとそれぞれの診療室に続いているのだろう。右手側には総合受付があり、その更に右奥が広い待合室になっていた。待合室にあるソファーはみな同じ方向を向いており、正面に三桁の番号を表示する電光掲示板が壁に取り付けてあった。掲示板に番号が表示され、その番号を受付に渡すと診断の結果や処方箋を受け取れるしくみだった。
めぐみと先生は総合受付で面会の申請を出し、六階にある夕司の病室へと向かった。最初夕司は大部屋の方に運ばれたらしいのだが、夕司の原因不明な症状を見て、病院側の都合で個室の方に移動されたと先生から聞かされた。
ノックをして病室に入る。個室と言うだけあって部屋は広いが、置いてある物と言えば長方形の棚とその上に薄型テレビ、窓際には背もたれのあるソファーが二つ丸テーブルを挟んで置いてあるだけで少し物足りなさを感じられる。あと、どうやら壁には押し入れがあるらしく、更には入り口側の壁にはトイレもあった。
そして広い部屋の窓の近く。ポツンとベッドが一つ置いてあった。そしてそのベッドに、
「夕司!!」
瞳を閉じて微動だにしない神矢夕司がベッドで寝ていた。めぐみが名前を叫びながら夕司のもとへと駆け寄る。
四日ぶりに見る幼馴染みは、やはり四日前となにも変わってはいなかった。ただ一つ、起きないという状態を除いては。
「コラ夕司起きろッ!! いつまで寝てるのよあんたは! 寝坊助にも程があるわよ!!」
「こら雲英さん乱暴はよしなさい! 神矢君は病人なのよ」
ゆっさゆっさと激しく夕司の体を揺らしても、夕司はウンともスンとも言わず、ただ静かに眠り続けていた。
病人に対して乱暴な行為を取るめぐみを中原先生は抱えるように引き離した。めぐみの息は少し荒くなっていた。
「落ち着きなさい雲英さん」
「はい………………ったく、どうしちゃったのよ夕司……」
「私はこれから病院の先生とお話ししてくるわ。雲英さんはここで神矢君のことを看ててちょうだい」
そう言って部屋から立ち去ろうとした時、誰かが病室に入ってきた。めぐみと中原先生が扉の方を向くと、部屋に入ってきたのは男性二人であった。
一人は小太りで白髪交じりの白衣を着た日本人。
もう一人はスラッと背が高く金髪のオールバックで爽やかなグレーのスーツを着ている外国人。
中原先生は片方の人と面識があった。
「お世話になっています先生」
「ああ、神矢君の学校の先生だね。お忙しい中、ご足労いただきありがとうございます」
「いえこちらこそ。私の生徒がお世話になっています」
と中原先生と白髪交じりのおじさんが挨拶を交わす。
ふと、中原先生は面識のない外国人の方へちらっと視線を向けた。そしてめぐみは外国人のことをガン見していた。
二人のそんな視線に気づいた白髪の先生は、二人に彼のことを簡単に紹介した。
「彼はイギリスで心理学を教えているカーター教授だよ。得意な分野は〝催眠〟だそうだ。彼は、神矢君の症状を看てもらう為にわざわざイギリスから来てくださった」
「あ、どうも初めまして。担任の中原です」
と中原先生はとっさに日本語で挨拶してしまい、
「な、ないすつーみ~ちゅ~。あ、あいむメグミ」
とめぐみは片言の英語で挨拶をした。
二人から挨拶を受けたカーターという名の外国人は、ニコっと笑顔でこう挨拶を返す。
「どうも初めましてミス&ミセス。ランドルフ・カーターと申します。今日は仕事で日本に来ただけなのに、こんな美人に会えるなんて僕はラッキーですね」
流暢な日本語で返してきた。
「日本語喋れるんじゃん!」
「こらっ、失礼でしょ雲英さん」
「ひゃっ……、いった~。なによ、ミセスって言われて怒ってんの先生?」
「う、うるさいわねっ!」
未だ結婚していない中原先生からゲンコツされた頭を摩りながらめぐみはボソッと文句を言う。しかしどうやらカーターにも聞こえていたそうで、紳士な彼はすぐに謝った。
「おやこれは失礼、ミス中原。とても美しい方なのでもう結婚されているかと……」
「あ、いえいえそんなっ……お気遣いなく」
中原先生はその頬を、窓の外の夕焼け以上に真っ赤に染めていた。「あ~あ~デレちゃって」というめぐみの言葉を無視して中原先生は紳士でイケメンな彼と二人だけの世界に浸っていた。
「あ、あのっ、もしよろしければ今夜、一緒にディナーでもどうですか?」
「イギリス紳士が言いそうなことを先に言いおった! 先生っ、しっかりしてください! ここに来た目的を忘れてますよ!」
「ハッ……! そうだった、私ったらつい……」
そう。今日ここに来た理由は夕司のお見舞いと現状を病院の先生からお話を聞く為だった。あと三年で三十路になり、いよいよ己の現状に危機感を覚え、常に出会いの場を求めていた中原先生は少々自分の思いばかりが先行していたようだ。今は生徒が一番、今は生徒が一番、と呪文のように何度も心の中で言い聞かせて中原背院生は冷静さを取り戻す。
しかしそんな様子を傍観していた白髪の先生は衝撃的なことを口にした。
「ははは。話を脱線させちゃうけど、カーター君はこう見えて四五歳だ。ついでに残念ながら既婚者だ」
は? とめぐみと中原先生がぽかんとして一瞬の沈黙。そして、
「「ええええええええ~~!? 四五歳いいいいぃ――――ッ!?」」
完全にハモった。
二人が驚くのも無理はなかった。当のランドルフ・カーターの外見はどう見ても三十歳前後のように見える。シワのない奇麗な肌に、澄んだ青い瞳。ニコっとスマイルでもすれば大抵の女性は一発で堕ちそうな端正な顔立ちは年齢を全く感じさせなかった。
「四五、歳……い、いやでも、結婚に年齢差は関係ないはず……。そう問題は奥さんがいるってこと…………大丈夫、私の方が奥さんより若いはず…………」
「先生落ち着いて! 二度目だけどここに来た目的を忘れないで!!」
またしてもハッと我に帰る独身の中原先生。そう今は生徒が一番……と再度自分に言い聞かし自分を抑えることにした。
「ハハハ。まあディナーは仕事が終わってから行きましょう。もちろんミスめぐみもご一緒に」
「えっ? ホント? やったぁ!」
「は、はいっ、ありがとうございます」
「それでは早速、ミスター神矢を観てみましょうか」
「え? 午前中に見たんじゃないの?」
「今朝、急遽別の用事が入ってしまってね。ついさっきここに着いたばかりなんですよ」
と言って夕司の傍らに座り、右手を彼の額に当ててカーターは目を瞑った。そしてカーターは一言も喋らなくなる。
一体何をしているのか。めぐみは……と言うより他三人はカーターのしていることが全く分からず、ただただ見守るしかなかった。
数秒後。夕司の額から手を放し、カーターは一言「ふむ、やはり」とだけ小さく言う。たまらず中原先生が彼に話しかける。
「カーターさん……これはいわゆる昏睡状態っていうものですか?」
「いえ。確かに症状としては似ていますが、これは全く別物です。今の科学の範疇を超えた状態、とでも言いましょうか」
「ではどういう……?」
「これは『夢』です」
「はい?」
「ミスター神矢は『夢』を見ているんです」
カーター以外の三人は呆気にとられて何も言えなかった。このおっさんは何を言っているんだ? と。突っ込むところが多すぎて何を言えばいいのか、よく喋るめぐみでさえ言葉を詰まらせた。数十秒後、ようやく担任の中原先生がカーターに聞き返す。
「あのう……仰っていることが、その……よく理解できないんですが」
「おおっと失礼、私の説明不足ですね。ミスター神矢はただ寝ているだけなんですよ。しかしただの夢ではありません。深い深い眠りの底の底。そこから、今私達がいる現実の『実世界』と対をなす『虚数世界』という世界へ行くことができるのです。ミスター神矢は普段の夢の中から、その『虚数世界』へと足を踏み入れたのですよ」
「はい? 何だって?」
なんか急にマンガっぽいワードが出て、きな臭い感じになってきたなとめぐみは感じた。
「夢の深い奥底に、もう一つの世界へ入れる入り口があります。その先が『虚数世界』。現実の世界が実際に『存在』するためにある、非観測的な世界です」
「????????????????」
もう完全にカーターの言っている事が分からなくなってきためぐみ。何が分からないのかが分からない。
「あ、あのう……余計分からなくなったのですが……」
どうやら理解不能に陥っているのはめぐみだけでなく、担任の中原先生も同じようだった。
「ああ無理に理解しようとしなくていいですよ。要は、現実に生きる私達には認識できない世界がもう一つあるということです。しかし大事なことが一つ。それは、今ミスター神矢が見ている『夢』とは、普通の夢と全く別物だということです」
「ど、どういうことでしょうか?」
「普通夢とは、覚醒した脳が映し出している単なる『映像』を見ているだけなのですが、今ミスター神矢が見ている『夢』は、ここに横たわっている本体とは別の『実体』を手に入れ虚数世界の中に存在し〝生きている〟のです。ですから普段の夢特有のぼやけた感じとか浮遊感などはなく明瞭な意識の元、自由に行動しているのです」
「それって明晰夢のこと?」
今度はめぐみがカーターに質問した。カーターの返答は首を横に振る「NO」の合図。
「明晰夢は確かに意識がハッキリとし、自由に行動・創造できますが、所詮それは普段の夢の一種に過ぎません。夢と虚数世界の違いは、夢は個人個人が見る物で他人が個人の夢の中に入ることはできません。ですが虚数世界は一つの世界ですので世界中の様々な人達が夢を通してその世界に入って行ってるのですよ。それはもしかしたらあなたの友人であったり親であったり、俳優や歌手、アスリートや果ては首相なども。更には夢を見ることのできる動物でも、その世界に入ることは可能です。個人の世界か、皆の世界か……という違いです」
「え? じゃあ、わたしもそこに入れる?」
今質問をしためぐみの表情は、どこか生き生きとしていた。
「ええ。可能ですよ」
「入ってみたいなーわたし!」
「ですがミスめぐみ。実際にそこへたどり着けるのは極僅かだけです。仮に入れても気の遠くなるような長い階段があり、大抵そこでギブアップするか、目が覚めます。――と言うより、そもそもその階段を見つけること自体難しいですが」
ん? とめぐみは疑問を持った。疑問というよりか今カーターが言ったことを、どこかで体験したような既視感を覚えた。
「それにミスめぐみ。この世界には危険もあります」
めぐみの目を真っ直ぐ見据えるカーターの目は、とても真剣なものだった。
「先程も言いましたが、この世界では実体を得てそこに『存在』しているのです。つまり自分の体が実際にそこにあるのですよ。だから感覚は現実と同じように働き、傷つけば痛いですし、血も流します。心臓もあります。脳もあります。そして、もしその世界の中で死に至るような傷を負えば当然死にます」
「え? 夢で死ぬ? え? どど、どういうことぉ? 意味が分からない……?」
死……という単語にめぐみは虚を突かれたように驚いた。
「つまり。その『虚数世界』に一歩でも踏み込めば実体を得られるのですよ。自身のコピーと言ってもいい。そしてそのコピーが死ねばその人は死にます。もちろん現実世界で寝ている本体も」
「ちょっ、え? え? 待ってよ。その〝きょすうセカイ〟ってそんな危ないトコなの?」
「危険な所も、恐ろしい生物もいます」
そう断言した。カーターはいたって真面目な目で語っていたが、そろそろこんな馬鹿げた話に付き合えられなくなってきためぐみは(もちろん中原先生や病院の先生も)我慢できなくなり、あまり当たり障りのないようにこう聞いた。
「このお話は虚構です……ていうオチは?」
「現実です」
「じゃ、じゃあ……最悪、このまま夕司が目覚めなかったら、死んじゃう可能性もある……の?」
「過去その世界で何百人という人が、命を落としています……残念ながら、その中に私の友人も含まれています」
「……………………」
めぐみの質問がここで止まった。そして追い打ちをかけるように、今まで木のように黙っていた病院の先生がカーターの味方をするような発言をする。
「お嬢ちゃん。気持ちは分かるけどね、カーター君はそこの神矢君と似たような症状になった患者を何人も救っている実績がある。だからこそカーター君に、ここ日本まで来てもらっているんだよ」
どうやらマジらしい、とめぐみは感じた。だいたい、『虚数世界』ていう単語が出てきた辺りから意味が分からなくなり、『実体が存在する』という件からその不可解さに拍車をかけた。でも病院の先生のお墨付きな上、ランドルフ・カーターの語るその目はとっても真面目で冗談やふざけているといった印象を全く与えなかった。
めぐみが黙ったことにより一時の沈黙が訪れた。その時、部屋のドアをノックする音と共に看護婦が入って来て、病院の先生に二、三小声で話をすると、病院の先生は急用が出来たと言って部屋を出て行ってしまった。
病院の先生が出て行った後、沈黙を破ったのはカーターだった。
「それでは本題に入りましょう。余り時間がなさそうですしね。ドクターから聞きましたが、ミスター神矢は四日も寝たままだと」
この問に担任の中原先生が答える。
「はい。気づいたのが四日前の夕方なので正確な時間は分かりませんが……」
「そうですか。しかし四日は異常ですね」
「そうなのですか? 昏睡状態ならおかしくないと思うのですが」
「普通、虚数世界にいられる時間は健康な人の睡眠時間と同等なはずなんですよ。だいたい五~八時間くらいでしょうか。それに先程言った通り、これは昏睡状態ではありません。本体はただ寝てるだけで、時間が来れば勝手に体は目を覚ますはずです」
カーターは険しい表情を見せながら、未だ眠りにつき続ける夕司の顔を見ていた。
同じく険しい表情を見せる中原先生だが、彼女の心の中にある感情はきっとカーターのとは別のものだろう。
「それだと何故神矢君は寝たままなのですか?」
「虚数世界に入ったまま、二度と目覚めないという症状には一つだけ明確な理由があります。それは、その人があちらの住人になったからです」
「あちらの住人? 虚数世界のということですか?」
「〝虚数世界の住人〟と言うよりかは〝とある国の住人〟になった、が正しいですね」
「とある国?」
「ええ。その国は虚数世界の中に創られた巨大な国です。その国では、自分の思い描いた幻想が全て実現できる夢のような世界。空を飛ぶことも、お金持ちになることも、魔法を使うことも、更には神のような存在になることも可能な国。その国へ訪れる方法を心得ている人のことを我々は『夢見る人』と呼んでいます」
「夢見る人? …………あっ!」
めぐみは唐突に何かを思いだした。そして同時に先程の既視感の謎が解けた。
《夢見る人に、良き夢を》
それは四日前、夕司が学校に来なくなった日の授業中に居眠りしてしまった時の夢。途方もなく続く階段と、天井まで届きそうな巨大な門をめぐみは確かに見た。
《全ての幻想が、全ての存在を創造する夢の世界》
そして。その巨大な門に刻まれた文章を一文ずつめぐみは思い出していった。そう。その文章の最初の一文にはこう書かれていた。
《深い眠りの底の底、深き眠りの門はあなたを――
「カーターさんっ! もしかしてその国の名前って……!」
「……そう。その国の名は、『夢の国』」
――夢の国へと誘う》