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娘が40度の高熱を出しているのに夫は電話に出なかった。不倫相手の息子にアレルギー対応食を作っていたから

作者: 熾星
掲載日:2026/09/07



 娘の結衣が四十度の熱を出した夜、私は夫の高瀬圭介に二十七回電話をかけた。


 一度も出なかった。


 どうしようもなくなって、子どもの絵画教室で知り合ったママ友の橘沙耶さんに連絡した。沙耶さんの息子の陽翔も熱を出していたのに、結衣の具合が悪いと知ると、すぐに車を出して青凪総合医療センターまで来てくれた。


 結衣が処置室で点滴を受けている間、沙耶さんは熱の下がった陽翔を寝かしつけると、疲れたように笑った。


「真帆さん、あの人ほんと変なの。陽翔が『オーロラを見たい』って言っただけで、次の連休のフィンランド行きの航空券もホテルも予約しちゃって」


「そこまで?」


「そうなの」


 沙耶さんは苦笑した。


「陽翔、甲殻類アレルギーあるでしょ?」


「うん」


「病院の栄養指導にまで一緒に来たのよ」


「え?」


「今じゃ自分でアレルギー対応食まで作ってる。私より神経質なくらい」


 一瞬、言葉を失った。


 結衣も誕生日が来るたびに、一度でいいからオーロラを見てみたいと言っていた。


 圭介の答えは、いつも同じだった。


「会社が落ち着いたらな」


 その「いつか」は、もう五年も来ていない。


 沙耶さんが突然、廊下の向こうへ手を振った。


「ほら。噂をすれば、また来た」


 保温バッグを手に、こちらへ急いでくる男がいた。


 顔が見えた瞬間、息が止まった。


 沙耶さんの息子をフィンランドへ連れていこうとし、アレルギー食まで覚え、父親のように世話を焼いている男。


 それは、私の夫だった。


 高瀬圭介。


 一時間前、秘書からは「社長は今夜、緊急の会議で会社を離れられません」と聞かされていた。


 駆け寄りもしなければ、問い詰めもしなかった。


 ただバッグの中へ手を入れ、数日前に弁護士へ相談した時にもらった離婚関係の資料に触れた。


 圭介。


 そんなに他人の子の父親になりたいなら、もう止めない。



1



 圭介は、まだ私たちに気づいていなかった。


 まっすぐ沙耶さんの前まで行くと、ベンチに保温バッグを置き、スープジャーの蓋を開けた。


 自分の手の甲で温度まで確かめている。


「陽翔、さっき熱が下がったばかりだろ。一気に食べさせない方がいい。まずはスープを少しだけにしよう」


 沙耶さんが困ったように笑った。


「甘やかしすぎよ」


 圭介は陽翔の前にしゃがみ込み、私がほとんど聞いたことのないほど優しい声で答えた。


「怖がってるんだから、これくらいしてやってもいいだろ」


 その時、腕の中の結衣が身じろぎした。


 重そうにまぶたを開き、圭介の姿を見つけると、熱い手をまっすぐ伸ばした。


「パパ……」


 圭介の体が固まった。


 振り向いた瞬間、さっきまでの穏やかな表情が消える。


「どうしてここにいるんだ?」


 一拍置いて、声に苛立ちが混じった。


「こんな時間に子どもを連れて……まさか俺を追ってきたんじゃないだろうな」


 結衣の額に手を当てる。


 二十七回も鳴らし続けた電話が、急にひどく滑稽に思えた。


「結衣は四十度の熱よ。二十七回電話したけど、一度も出なかった」


 圭介を見る。


「高瀬社長はずいぶんお忙しいと思ってたけど、別の家の子に夕食を届ける時間はあったのね」


 圭介は結衣の具合を聞かなかった。


 一瞬だけ沙耶さんを見てから、声を落とした。


「救急外来なんて感染症の患者も多いだろ。熱が出たくらいなら、前にもらった薬で少し様子を見ればよかったんじゃないのか」


「……」


「わざわざ夜中に連れ回す方が負担だろ」


 沙耶さんが戸惑ったように私と圭介を見比べた。


「圭介、知り合いなの?」


 圭介は半歩、私から離れた。


「昔の部下だよ」


 何も言わなかった。


 結婚したばかりの頃、圭介の会社はまだ社員も少ない小さな会社だった。


 経営が安定したら必ず式を挙げようと、あの頃の彼は何度も言っていた。


 七年たった今も式は挙げていないし、圭介が家へ帰る日も年々減っていった。


 結衣が生まれた日は資金調達の打ち合わせ。


 初めて「パパ」と呼んだ日は出張。


 虫垂炎の手術をした時は取締役会だった。


 ずっと、仕事が忙しいだけなのだと思っていた。


 父親になるのが苦手な人なのだと。


 今日までは。


 結衣の手は、まだ空中に伸びたままだった。


「パパ、抱っこ……」


 圭介は娘を抱かなかった。


 代わりに陽翔の耳をそっと塞いだ。


「結衣、変なことを言うな」


 胸の奥が、音もなく冷えていった。


「今、この子を混乱させるようなことは言わないでくれ」


 沙耶さんも申し訳なさそうに陽翔を抱き寄せた。


「真帆さん、圭介を責めないで」


「……」


「この子、本当に圭介のことをパパみたいに思ってるの」


 陽翔の頭を撫でる。


「今、混乱するようなことは聞かせたくなくて」


 ひどい言葉なのに、沙耶さんは心から子どもを気遣っているような顔で言った。


 圭介まで同意するようにうなずく。


 結衣の小さな手が、ゆっくり下がった。


「ママ……パパ、結衣のこと分からなくなっちゃったの?」


 胸が詰まった。


 それでも、ここでは泣きたくなかった。


「熱でぼんやりしてるのよ。人を間違えたんじゃない?」


 圭介が、明らかにほっとした顔をした。


「今日はもう騒ぐな。陽翔も具合が悪いんだ。話があるなら後にしてくれ」


「安心して。今はあなたに使う時間なんてないから」


 結衣を抱き直し、その場を離れた。


 沙耶さんとは、子どもの絵画教室で知り合ってまだ一年もたっていない。


 互いに下の名前で呼ぶ程度には親しくなったけれど、夫や交際相手の名前や写真まで見せ合うような関係ではなかった。


 だから彼女は知らなかった。


 自分を追いかけている男が、私の夫だということを。


 診察室へ向かう途中、後ろから圭介の声が聞こえた。


「昔からああなんだよ。何も言わないし、大人しいところだけは助かるけど」


 笑いそうになった。


 七年間、私が「大人しかった」のは、ただ何度も我慢してきただけだ。


 一か月前、圭介が毎月、同じ口座へ金を振り込んでいることに気づいた。


 五年間。


 旅行費や住居費、贈り物まで含めれば、総額は四千八百万円近い。


 振込先は橘沙耶。


 さらに、圭介の書斎から一枚のDNA鑑定書が見つかった。


 そこには、高瀬圭介と橘陽翔の間に生物学上の父子関係が認められる、と記載されていた。


 信じられず、鑑定書に記載されていた検査機関へ弁護士を通じて照会した。


 返ってきた回答は予想外のものだった。


 記載されている管理番号は存在せず、その検査機関が発行した書式でもないという。


 念のため、別の法医学系検査機関にも書類を確認してもらった。


 印影や記載形式にも複数の不自然な点があるとの回答が届いたのが、今日の午前中だった。


 つまり、圭介が五年間信じてきた鑑定書そのものが、偽物である可能性が高い。


 看護師に結衣の名前を呼ばれ、診察室へ向かおうとした時、圭介が後ろから声をかけた。


「医療費なら家族用のカードを使えばいい。金は入ってる」


 振り返った。


「社長さんのお金なんていらない。育てたい子に使えば?」


 圭介が目を見開いた。


 いつも黙って従っていた私が、そんな言い方をするとは思っていなかったのだろう。


 そして彼はまだ知らない。


 自分が信じている一枚の鑑定書が、すでに崩れ始めていることも。



2



 結衣は急性肺炎と診断された。


 血中酸素濃度も安定せず、医師からはそのまま入院して経過を見るよう勧められた。


 小児病棟は混み合っていたが、ちょうど一室だけ、保護者が付き添える個室が空いたという。


 ところが手続きを終えて戻ると、結衣の枕と小さな毛布が廊下の椅子に置かれていた。


 看護師が申し訳なさそうに頭を下げる。


「高瀬さん、申し訳ありません。付き添い可能な個室について調整が入りまして、結衣ちゃんには一般の小児病室をご案内することになりました。治療や観察体制に変更はありません」


 個室の中を見る。


 沙耶さんが、陽翔の好きなキャラクター柄のシーツを広げている。


 圭介はその横で、空気清浄機や必要な荷物を運ばせていた。


「陽翔、また発疹が出ただろ。音にも敏感なんだから、今夜くらい一人で休ませた方がいい」


 結衣の診断書を握りしめた。


「結衣はさっき血中酸素が下がったの。今夜は特に注意して見ないといけないって言われたばかりよ」


「一般病室にも看護師はいるだろ。本当に何かあれば医者が対応する」


 圭介は面倒そうに眉を寄せた。


「陽翔は一度起きると一晩中眠れなくなるんだ。個室一つくらいで、どうしてそこまで大騒ぎする?」


 沙耶さんが陽翔を抱いたまま、戸惑ったように言った。


「真帆さん、ごめんなさい。本当は私が結衣ちゃんの付き添いに来たのに、陽翔まで発疹が出るなんて……。やっぱり個室は結衣ちゃんに――」


「沙耶は何でも譲ろうとするな」


 圭介が遮った。


「病院の事務方に相談しただけだ。陽翔は音にも敏感だって説明したら、個室を使えることになったんだよ」


 この人は、子どものためにより良い環境を求める方法を知らなかったわけではない。


 心配の仕方が分からなかったわけでもない。


 ただ、その相手が結衣ではなかった。


 唇を乾かした結衣が、私の腕から降りた。


 ふらつきながら圭介のところまで歩き、スーツの裾を握る。


「パパ、苦しい。ちょっとだけ一緒にいて」


 圭介が、その小さな手を見下ろした。


 ほんの一瞬、迷ったように見えた。


 けれど次の瞬間には、そっと裾を引き抜いていた。


「結衣、いい子にしてろ。陽翔も具合が悪いんだ。寝る前の話をするって約束したから」


「結衣も聞きたい……」


「ママに読んでもらえ」


 圭介はもう個室へ入っていた。


 扉が閉まると、すぐに中から優しい声が聞こえた。


「陽翔、今日はペンギンの話とイルカの話、どっちがいい?」


 結衣は、自分のつま先を見つめた。


「ママ……結衣がいい子じゃないから、パパは結衣のこと嫌いなの?」


 しゃがみ込み、娘を抱きしめた。


「違うよ。結衣は何も悪くない」


 髪を撫でながら、ゆっくり続ける。


「間違ってるのは、パパの方だから」


 それ以上、病院と争うつもりはなかった。


 結衣の治療そのものが止められたわけではない。


 病室変更の記録と、さっきまでの会話の録音を保存したあと、久しぶりに相馬怜司という医師へ電話をかけた。


 白樺こども医療センターで小児救急を担当している。


 父が生前設立した医療技術財団が、彼が若い頃に受けた海外研修を支援したことがあり、父の死後はほとんど連絡を取っていなかった。


 電話はすぐにつながった。


 結衣の血中酸素、検査結果、処方されている薬を伝えると、怜司は余計なことを聞かなかった。


「こっちで受け入れの準備をする。転院の手続きをして。あとは俺が救急に話しておく」


 一時間後、結衣は救急車で白樺こども医療センターへ移った。


 救急入口には、すでに怜司が待っていた。


 検査資料に目を通しながら、すぐにスタッフへ指示を出す。


「結衣ちゃんを先に中へ。手続きは後でいいです」


 そこへ圭介が追いついてきた。


「真帆、本当にそこまでやる必要があるのか? 経過観察って言われただけだろ。大げさなんだよ」


「会社を始めた頃、最初にまとまった資金を出したのが誰だったか覚えてる?」


 圭介の表情が変わった。


 父の医療技術財団は、高瀬の会社がまだ小さかった頃から資金面で支援し、後に会社の中核事業となった二つの医療技術についても利用許諾を出していた。


 夫婦の間で、それを持ち出したことはない。


 だから圭介は、いつの間にか忘れてしまったのだろう。


 私が彼なしでは生きられない女ではないことを。


 怜司がこちらを見た。


「結衣ちゃんのお父さんは?」


「死んだ」


 圭介の顔色が変わった。


「真帆、もう一度言ってみろ」


 手首へ伸びた圭介の手を、怜司が途中で止めた。


「患者さんの治療を優先してください。個人的な話は後にしてもらえますか」


「これは俺たちの家族の問題だ」


 圭介の手を振り払った。


「少なくとも、私はもう家族だと思ってない」


 結衣を抱き直し、そのまま中へ入った。


 その日のうちに、弁護士へ連絡した。


「離婚の準備を始めてください。それから、圭介が過去五年間に沙耶さんへ送った金と、会社名義で処理されている支出も全部確認して」


 すぐに返事が来た。


「分かりました。では、準備を進めます」


 酸素マスクをつけて眠る結衣を見つめた。


「お願いします」


 圭介は、自分が娘から奪ったのは個室一つだと思っている。


 違う。


 あの夜、最後に残っていた家族としてのつながりまで、自分で切ったのだ。



3



 白樺こども医療センターで数日過ごし、結衣の肺炎はようやく落ち着いた。


 退院の日は、偶然にも五歳の誕生日だった。


 朝、圭介から三日ぶりに電話が来た。


 切ろうとした私より先に、結衣が画面の名前に気づく。


「ママ、パパがお迎えに来るの?」


 少し迷った末、通話ボタンを押した。


「今夜、結衣を家に連れて帰ってきてくれ。誕生日の準備をした。今までできなかった分も、これから埋め合わせる」


 結衣の目が輝いた。


「パパ、本当に今日は帰ってくる?」


 二秒ほど間があった。


「帰る。パパが約束する」


 その言葉を聞いた時、私まで馬鹿みたいに期待してしまった。


 家へ戻ると、リビングには風船や飾り付けが用意されていた。


 大きな城の形をしたバースデーケーキまで置かれている。


 秘書が届けてくれたピンクのドレスを見て、結衣は何度も着替えた。


 最後に選んだのは、以前、圭介が何気なく「似合う」と言ったことのある色だった。


 午後六時、結衣は玄関の近くで待っていた。


 七時を過ぎても、八時になっても圭介は来ない。


 料理はすっかり冷め、十一時を過ぎる頃には、結衣は眠そうに目を擦りながら、それでもソファから動かなかった。


「パパ、約束したもん。今日は絶対来るよ」


 電話をかけても出ない。


 秘書も「社長に急用が入りまして」と曖昧な返事しかしなかった。


 日付が変わる少し前、ようやく電話がつながった。


 出たのは沙耶さんだった。


「真帆さん? 陽翔がずっと悪い夢を見てて、圭介がそばにいるの。今はちょっと離れられないみたい。会社の話なら明日にしてくれる?」


「会社の話?」


 電話の向こうが静かになった。


「圭介は、私のことをそう説明してるの?」


 沙耶さんが言葉を失った。


「今日は結衣の誕生日なの」


「あ……ごめんなさい。本当に忘れてた。陽翔もまた熱が出て、頭がいっぱいで……明日、結衣ちゃんに何か――」


「いらない。圭介に今すぐ帰ってくるよう言って。今日は結衣と過ごすって、自分で約束したから」


 その時、電話の向こうから子どもの泣き声が聞こえた。


 続いて、圭介の声。


「大丈夫。パパはどこにも行かない。今日はずっと陽翔と一緒にいるから」


 結衣は私のすぐ横に座っていた。


 一言も聞き漏らさなかった。


 呆然としたあと、両手で耳を塞ぐ。


「違う……。今日は結衣と一緒にいるって言ったのに……」


 涙がこぼれた。


 通話はまだ切れていなかった。


 沙耶さんの声が聞こえる。


「圭介、今日、結衣ちゃんの誕生日に行くって約束してたの?」


「昔の部下の子どもだよ。誕生日だから少し気にかけただけだ。変なこと考えるな」


 そこで通話が切れた。


 結衣はしばらく動かなかった。


 突然、目の前のケーキを押した。


「嘘つき!」


 床に落ちたケーキを見ながら、激しく泣き始める。


 抱き上げようとした時、額がまた熱くなっていることに気づいた。


 まだ肺炎が治りきっていなかったのだろう。


 泣き続けるうちに再び熱が上がり、その直後、体が強くこわばった。


「結衣!」


 痙攣が始まった。


 震える手で救急へ連絡しようとして、間違えてさっきの番号を押してしまった。


 圭介が出た。


「圭介、結衣が痙攣してる!」


 数秒の沈黙。


「もう子どもを使って俺を呼び戻そうとするのはやめろ」


 救急処置室の灯りは、夜明け近くまで消えなかった。


 怜司が来た時、私は廊下の椅子に座り込んでいた。


 服には結衣が吐いた跡が残っている。


 差し出された温かい水にも手が伸びなかった。


「今は落ち着いてる。今のところ、後遺症を心配するような所見は出てない」


 黙ってうなずいた。


 今までずっと、圭介は仕事が忙しいだけだと思っていた。


 子どもの世話が苦手なだけなのだと。


 違った。


 アレルギー対応食も作れる。


 怖がっている子を寝かしつけることもできる。


 好きなものを覚え、たった一言の願いのために旅行まで計画できる。


 父親になれない人だったわけではない。


 結衣の父親になろうとしなかっただけだ。


 夜が明けると、引っ越し業者へ連絡した。


 圭介の衣類や靴、コレクションなどは勝手に処分せず、すべて箱に詰めて会社宛てに送った。


 そのあと、弁護士へメッセージを送る。


 今夜、高瀬ホールディングスは青凪グランドホテルで創立十五周年の記念パーティーを開く予定だった。


 父の財団も長年の協力団体として招待されており、私は理事の一人として短い挨拶を頼まれていた。


 圭介はそこで、投資家や取引先、報道関係者を前に陽翔を自分の息子として紹介するつもりらしい。


 これまで圭介が認知届を出さなかったのは、沙耶さんが「奥さんに知られて家庭を壊したくない」と拒んでいたからだと、弁護士の調査で分かっていた。


 けれど今回、公の場で息子として紹介する以上、その言い訳も終わる。


「本当に今日、全部出すんですか?」


 弁護士に聞かれた。


 病室で眠る結衣を見た。


「大勢の前で息子だって言いたいんでしょう。それなら、最後まで確認してもらいます」



4



 朝、目を覚ました結衣は、私の手を握りながら言った。


「ママ、もうパパいらない」


 昨夜のピンクのドレスを見て、そっとベッドの端へ押しやる。


「パパ、嫌い」


 娘を抱きしめた。


「うん。今は、それでいいよ」


 三十分もたたないうちに、圭介の秘書が二人の社員を連れて病室へ来た。


「高瀬さん、社長からこちらに署名をいただくよう言われています」


 差し出された書類を開く。


 青凪学園初等部の受験に関する書類だった。


 高瀬家は長年、学園の教育基金を支援しており、圭介は以前から理事長に結衣の受験について相談していた。


 ところが書類には、結衣について進めていた事前相談を取り下げ、代わりに橘陽翔の受験相談を進めたいと記されている。


「陽翔くんの受験について、学園側と正式に相談を進めたいとのことです」


「つまり圭介は、結衣のために進めてた話まで陽翔に回すつもりなの?」


 秘書がわずかに目を伏せた。


「社長の判断です。今夜の記念パーティーでも、陽翔くんについて正式に公表する予定ですので……」


 書類を閉じ、そのまま返した。


「持って帰って」


「ですが――」


「それなら圭介本人に来てもらって。私に署名させたいなら、自分で頼みに来ればいい」


 三十分後、青凪グランドホテルに着いた。


 入口には報道関係の車が並び、宴会場前には大きな写真パネルが設置されていた。


 写っているのは、圭介と陽翔。


 遊園地や幼稚園の行事、誕生日、旅行、入院。


 陽翔の大事な場面には、いつも圭介がいた。


 結衣が生まれた日、圭介は資金調達の会議にいた。


 初めて「パパ」と呼んだ日は出張。


 手術の日は、プロジェクトが忙しいと言った。


 彼が結衣のそばにいなかった時間は、消えていたわけではない。


 全部、別の子どもに使われていた。


 宴会場へ入ると、圭介は陽翔を抱いて壇上にいた。


 隣には淡いアイボリーのワンピースを着た沙耶さん。


 何も知らない人が見れば、本当の家族にしか見えない。


「この五年間、私はこの二人に十分な責任を果たしてきませんでした」


 会場が静まる。


「今日、改めて皆さまにご紹介します。陽翔は私の息子です。近く正式に認知する予定です。これからは父親として責任を持って育てていきます」


 圭介は陽翔を見た。


「本人が望むのであれば、将来は会社を任せることも考えています」


 拍手が起こり始めた。


 少しして、父の財団を代表する短い挨拶の時間が来た。


 私の名前が呼ばれると、圭介の顔色が変わった。


 壇上へ上がる。


 事前に会場スタッフへ渡してあった資料が、スクリーンに映し出された。


 最初に表示されたのは、二十七件の不在着信。


 次に、病室変更の記録。


 五年間にわたる沙耶さんへの送金記録。


 総額は約四千八百万円。


 そして最後に、結衣の誕生日の夜の音声が流れた。


『昔の部下の子どもだよ。誕生日だから少し気にかけただけだ』


 会場がざわついた。


 圭介が壇上へ近づいてくる。


「真帆、何のつもりだ」


「まだあるから、少し待って」


 ファイルから二通の回答書を取り出した。


「あなたが五年間信じてきたDNA鑑定書だけど、記載されていた検査機関に確認したら、その管理番号は存在しないって回答が来た。書式も、その機関が出したものじゃない」


 もう一通を見せる。


「別の専門機関にも確認してもらった。印影も記載形式も不自然だって」


 圭介の表情が固まった。


「偽物だ」


「そうかもしれないね」


「違う。お前が用意したこの書類が偽物だって言ってるんだ」


「だったら、自分で調べればいい」


 沙耶さんを見る。


「陽翔くんに罪はないよ」


 圭介へ視線を戻した。


「でも、あなたが結衣に何をしたかは、今ここに出した通り」


「……」


「そこまでして守ってきた相手が、本当に自分の子なのか。今度は自分で確認した方がいい」


 沙耶さんは唇を噛んだ。


「陽翔は圭介の子よ。再検査でも何でもすればいい。私は怖くない」


 圭介は長い間黙っていた。


「すぐに再鑑定を手配する」


 結婚指輪を外し、テーブルの上へ置いた。


「離婚の条件は弁護士に渡してある。話し合えるなら話し合う。無理なら家庭裁判所で調停する」


 圭介の目を見る。


「これからは、誰の父親になろうが私には関係ない」



5



 ホテルを出たあと、そのまま結衣のいる病院へ戻った。


 肺炎と痙攣の経過を見ながら、まずは白樺こども医療センターの小児心療部門で心理的なケアを受けることになった。


 十日ほどして体調が安定し、担当医から移動の許可も出た。


 その後、以前から父の財団と交流のあった海外の小児心理・リハビリ施設へ、しばらく滞在することにした。


 高熱が続いたことに加え、強い心理的ショックも重なり、結衣には明らかなストレス反応が出ていた。


 しばらくの間は、「パパ」という言葉を聞くだけで体が震えることもあった。


 記念パーティーのあとに起きたことは、後から弁護士に聞いた。


 圭介は沙耶さんと陽翔を連れ、第三者機関で正式なDNA鑑定を受けた。


 三日後、結果が出た。


 父子関係は否定された。


 沙耶さんは最初、以前の検査の方が正しかったのだと言い張った。


「昔の検体がおかしかっただけかもしれない。圭介、私はあの頃、本当にあなた以外とは――」


 圭介は最後まで聞かなかった。


 その後、弁護士が調べた資料も出そろい、沙耶さんはようやく認めた。


 陽翔の実父は、以前付き合っていた男だった。


 ギャンブルで多額の借金を抱え、沙耶さんが望む生活を与えられる相手ではなかった。


 妊娠が分かった頃、偶然、泥酔して記憶の曖昧だった圭介と会った。


 沙耶さんは、その夜に二人の間で何かあったように思わせた。


 さらに仲介業者を使い、偽のDNA鑑定書まで用意した。


 圭介は、自分が酒に酔って一線を越え、その結果、沙耶さんが一人で子どもを産んだのだと思い込んでいた。


 そして五年間、その罪悪感から、自分には沙耶さんと陽翔を支える責任があると信じていた。


 真実を知った日、圭介は私たちが住んでいた家へ戻った。


 そこには、もう私と結衣の物は残っていなかった。


 圭介の私物も会社へ送り、壁の写真も、冷蔵庫に貼ってあった結衣の絵も、小さなうさぎのスリッパも消えていた。


 リビングには、誕生日の夜に落ちたケーキの跡だけが少し残っていた。


 テレビ台の上には、結衣が使っていた子ども用の録音機。


 圭介が再生すると、幼い声が流れた。


「今年の誕生日のお願いは、パパが一回だけ帰ってきてくれることです」


 少し間があった。


「一回だけでいいから。そしたら、結衣は怒らない」


 録音はそこで終わった。


 弁護士によれば、圭介は誰もいない部屋で、日が暮れるまで一人で座っていたらしい。


 その頃、私と結衣はもう日本にいなかった。


 圭介からメールが届き始めた。


「陽翔が俺の子じゃないなんて知らなかった。俺も騙されてた。真帆、もう一度だけチャンスをくれ。結衣にしたことは全部埋め合わせる」


 返事をせず、そのまま弁護士へ転送した。


「鑑定書が偽物だったからって、結衣にしたことまで消えるわけじゃない。結衣が病気だったことも、待っていたことも、私が妻だったことも知っていた。それでも自分で選んだ。それだけ伝えてください」


 弁護士は家庭裁判所へ離婚調停を申し立て、財産分与、慰謝料、過去の不自然な資金移動についても整理を進めた。


 圭介は当初、離婚そのものに同意しなかった。


 けれど記念パーティーの記録、長期にわたる送金、会社資金の使途などを前に、最後には調停で離婚に応じた。


 結衣の心理状態も踏まえ、親権者は私とすることで決まった。


 調停成立の通知を見た時も、涙は出なかった。


 七年間の結婚生活は、それで終わった。


 それでも圭介は、あらゆるつてを使って私たちを探し続けた。


 私が怒って身を隠しているだけだと思っていたのだろう。


 見つけさえすれば、説明できる。


 説明できれば、元に戻せる。


 そう考えていたのかもしれない。


 違う。


 私は待っていたわけではない。


 本当に、もう圭介を必要としていなかった。



6



 三か月後、結衣を連れて青凪市へ戻った。


 心理治療も続け、状態は少しずつ落ち着いていた。


 怜司は離婚のことを根掘り葉掘り聞かなかった。


 結衣の診察が必要な時だけ現れ、それ以外では決して踏み込みすぎない。


 その距離が、今の私にはありがたかった。


 ある午後、三人で公園へ行った。


 木に引っかかった凧を取るため、怜司が結衣を肩に乗せる。


「怜司先生、すごい!」


 笑い声が響いた。


 その時、公園の入口に圭介が立っているのが見えた。


 三か月前より、ずっと痩せていた。


 スーツには皺があり、目は赤い。


 結衣を見つけた瞬間、こちらへ歩いてきて両手を広げた。


「結衣。パパ、やっと見つけた」


 娘の笑顔が消えた。


 怜司のそばから降りると、すぐに私の後ろへ隠れる。


「ママ、この人知らない」


 圭介の表情が固まった。


 ゆっくりしゃがみ込み、ポケットから小さな箱を取り出す。


 中には子ども用のネックレスが入っていた。


「結衣が生まれた時に買ったんだ。渡すタイミングがなくて……今からでも受け取ってくれないか」


「いらない」


 結衣は私の服を強く握った。


「陽翔くんにあげれば?」


 圭介が慌てて首を振る。


「陽翔はパパの子じゃなかった」


 結衣が顔を上げた。


 五歳の子どもに、大人の結婚もDNAも詐欺も分からない。


 けれど順番だけは分かった。


「じゃあ、陽翔くんがパパの子じゃなかったから、今度は結衣のところに来たの?」


 圭介は何も言えなかった。


 しばらくして、私へ向き直る。


「真帆、沙耶とは完全に切れた。家も車も株も、欲しいなら全部渡す。結衣にも、お前にも償わせてくれ」


 バッグから弁護士に渡された書類を取り出した。


 離婚調停の調停調書の写しと、一部資産についての仮差押え決定。


「あなたが過去五年間に沙耶さんへ渡した金は、弁護士が追ってる。財産分与の対象になる分は、きちんと清算してもらうから」


 圭介の顔色が落ちた。


 彼はずっと、私が高瀬の金に依存していると思っていた。


 けれど会社が一番苦しかった頃、創業当初の資金には私自身の婚前資産も入っていた。


 それだけではない。


 会社の成長を支えた二つの医療技術は、今も父の財団が権利を持っている。


 これまでは、夫婦の関係と会社の関係を切り分けてきた。


 もう、その必要はない。


 終わった以上、整理すべきものは整理するだけだ。


 突然、圭介が芝生の上に膝をついた。


 周囲の人たちがこちらを見始める。


 人前で謝ることすら嫌がるほど、体面を気にする人だった。


 そんな彼が、自分の頬を強く叩いた。


「俺が悪かった。大事にしなきゃいけなかったのは、お前たちだった」


 声が震える。


「何を言われてもいい。だから本当に俺を切り捨てないでくれ」


 結衣が怯えて目を覆った。


 怜司がすぐに娘の前へ立つ。


 圭介が伸ばした手を避けた。


「もう触らないで」


 圭介の手が止まる。


「あなたに触られるの、もう無理だから」


 近くにいた人たちが、気まずそうに視線を逸らした。


「本当に……もう少しも俺のことを愛してないのか?」


「愛してたよ」


 まっすぐ彼を見た。


「だから今、どれだけ無理になったか分かるの」


 結衣の手を取り、その場を離れた。


 公園を出た頃、圭介のスマートフォンが鳴った。


 会社の取締役からだったらしい。


 父の財団が保有する二つの医療技術について、新規案件へのライセンス供与と既存契約の更新を止めたため、複数の中核プロジェクトが進められなくなった。


 同時に、周年記念パーティーの映像がネット上で拡散され、投資家は圭介が長年、不透明な資金を沙耶さん母子へ流していた件や、経営管理そのものに疑問を持ち始めた。


 個人保証を入れていた融資についても、銀行が条件を再確認し始めた。


 高瀬ホールディングスの問題は、そこから一気に表へ出た。



7



 会社が傾くのに、それほど時間はかからなかった。


 新規プロジェクトの停止に加え、取引先は契約を見直し、出資者は財務内容の再調査を求めた。


 さらに社内調査によって、沙耶さんに使われた一部の費用が業務関連の支出として処理されていたことも分かった。


 資金繰りは急速に悪化した。


 複数の融資に圭介本人の保証が入っていたため、会社だけでなく個人資産にも影響が及んだ。


 いつも高価なスーツを着て、どこへ行っても「高瀬社長」と呼ばれていた男は、初めて自分の生活すら思い通りにできなくなった。


 沙耶さんも同じだった。


 五年間続いていた圭介からの金が止まり、以前から抱えていた借金の返済ができなくなった。


 高価な宝飾品の一部にも問題のある資金が使われており、自由に換金することも難しくなった。


 陽翔を連れ、安い短期賃貸へ移ったと聞いた。


 その後、圭介は偽造されたDNA鑑定書と金銭詐取について警察へ資料を提出した。


 その後のことは、弁護士を通じて知った。


 ある日、圭介は警察署を出たところで、借金の取り立てに追われていた沙耶さんと鉢合わせたという。


「圭介、お願い」


 沙耶さんは彼に縋った。


「陽翔が五年間もあなたをパパって呼んでたことくらい覚えてるでしょ。助けて」


 陽翔は何も分かっていなかった。


 ただ怖かったのだろう。


 五年間、自分を抱き上げてくれた男へ手を伸ばした。


「パパ……」


 以前なら、陽翔が少し泣いただけで午後の予定を全部キャンセルした。


 けれどその日の圭介は、一歩下がった。


「そう呼ぶな」


 沙耶さんは呆然としたあと、乾いた笑いを漏らした。


「今さら被害者みたいな顔しないで」


 圭介の顔が強張る。


「あなたが勝手に信じたんでしょう?」


「沙耶――」


「私は嘘をついた」


 沙耶さんは吐き捨てるように言った。


「でも、自分の娘を後回しにしたのはあなたよ」


 その言葉で、圭介は完全に冷静さを失った。


 沙耶さんを突き飛ばした。


 彼女は道路脇の段差へ倒れ、肋骨を傷めた。


 周囲の人がすぐに警察へ通報した。


 圭介は傷害事件として事情聴取を受け、最終的に賠償も負担した。


 沙耶さんは、偽造したDNA鑑定書を使って圭介に子どもを実子だと信じ込ませ、多額の金を受け取っていた件などで起訴された。


 彼女は陽翔の実父や仲介業者へ責任を押しつけようとしたが、送金記録もメッセージも、偽の鑑定書を手配した記録も残っていた。


 数か月後、有罪判決が出た。


 陽翔は遠方の親族に引き取られた。


 あの子は最後まで、大人たちが何をしていたのか知らなかった。


 財産関係の整理が終わったあと、陽翔名義になっていた少額の教育資金については、弁護士にそれ以上争わなくていいと伝えた。


 子どもは何もしていない。


 大人の罪まで背負わせる必要はない。


 会社と一連の問題が落ち着いた頃、圭介の手元に自由に使える金はほとんど残っていなかった。


 それでも彼は青凪市内の中古ホビーショップを回った。


 探していたのは、結衣が三歳の頃に欲しがっていた限定の人形。


 あの時、結衣はショーケースの前からなかなか離れなかった。


 圭介は「わがままを言うな」とベビーシッターに預けた。


 その日の夜には、陽翔へもっと高価な限定玩具のセットを買っていた。


 何年もたってから、圭介はようやくあの日の人形を思い出した。


 激しい雨の夜だった。


 圭介は人形を抱え、私たちの住むマンションの敷地前に立っていた。


 警備員に何度帰るよう言われても、動かなかったらしい。


「結衣に一度だけ会いたい。謝るだけでいい」


 翌朝まで、雨の中に立ち続けた。


 幼稚園へ向かおうとした結衣が、門の向こうに圭介の姿を見つけた。


 圭介は慌ててしゃがみ、人形を差し出す。


「結衣。昔、これが欲しかっただろ。パパ、ずっと探してたんだ」


 結衣は数秒見つめた。


 受け取らなかった。


「ママが、知らない人から物をもらっちゃ駄目って言ってた」


 圭介の顔が動かなくなった。


 誕生日のあの夜から、結衣の中で彼はもう「パパ」ではなくなっていた。


 通園バスが走り去ったあとも、圭介は雨の中に立っていた。


 しばらくして激しく咳き込み、その場で倒れたという。


 救急車へ乗せられる時まで、泥と雨で汚れた人形を手放さなかった。



8



 病院へ運ばれた圭介は、重い肺炎を起こしていた。


 体温は四十度近くまで上がり、血中酸素も下がっていた。


 本人がどうしても私へ連絡してほしいと繰り返したらしく、一度だけ病院から電話が来た。


「高瀬さんが治療に十分協力してくださらなくて……真帆さんとお子さんに会えないなら、もう何もしなくていいとおっしゃっています」


「お母さまへ連絡してください。それでも難しい場合は、病院の判断で対応をお願いします」


 一度言葉を切った。


「私たちはもう離婚しています。圭介の命は、私が決めることではありません」


 ちょうど同じ頃、弁護士からも連絡があった。


 結衣は圭介と会うと強いストレス反応が出るため、親子交流については当面見送ることでまとまったという。


 病院へ行く必要などなかった。


 それでも一度だけ、書類の写しを持って行くことにした。


 心配だったからではない。


 これで終わりだと、本人に理解させるためだった。


 怜司は病室の前まで一緒に来てくれた。


「俺も入ろうか?」


「大丈夫。自分で話す」


 圭介は病室のベッドで丸くなっていた。


 自分で点滴の針を抜いたらしく、手の甲にはテープの跡が残っている。


 私が入ると、最初は信じられないような顔をした。


 やがて、少し笑った。


「やっぱり来てくれた。真帆は俺が死ぬのを放っておけないと思ってた」


 書類をベッドへ置いた。


「治療を受けないんだって? その前に、これを読んで」


「……」


「今の結衣はあなたと会える状態じゃない。当面、親子交流も見送ることになった」


 笑みが消えた。


「俺は父親だ」


「血がつながっていることだけは事実よ」


 圭介を見る。


「だからこそ、あなたが傷つけたのは本当に自分の娘だったってこと」


 圭介はベッドから降りようとした。


 高熱で立つこともできず、床へ倒れる。


 それでも這うように近づき、私の服をつかんだ。


「会社もいらない。株も全部なくなっていい。もう一度夫婦に戻れなくてもいい」


 息を切らす。


「だから俺を完全に切らないでくれ。そばにいさせてくれ。もう一度だけ、やり直す機会をくれ」


 彼を見下ろした。


 昔は、家へ帰れば脱いだ靴すら私が片づけるのを待っていた男だった。


 私がいつまでも離れないと、本気で信じていた。


 今は床に倒れ、私の服を握っている。


 それでも、少しも痛快ではなかった。


 ただ疲れていた。


 一本ずつ指を外した。


「圭介。結衣が四十度の熱を出した夜、覚えてる?」


 圭介の目が揺れた。


「私は二十七回電話した」


「真帆……」


「一度も出なかったよね」


 ベッドの脇に立ったまま、彼を見る。


「今度はあなたが高熱を出して、一人でここにいる」


「……」


「大事な人に置いていかれるって、どんな気分?」


「真帆、俺は知らなかったんだ……」


「知ってたよ」


 圭介が黙る。


「結衣が病気だって知ってた。待ってることも、自分が帰らなければ傷つくことも分かってた」


 声を荒らげる必要はなかった。


「それでも、気にしなかっただけ」


 それが一番残酷な事実だった。


 誤解でも、騙されていたからでも、どうしようもなかったからでもない。


 圭介は、自分で何度も結衣を後回しにする方を選んだのだ。


 病室を出た。


 後ろで圭介が私の名前を呼んだが、看護師と医師がすぐに入っていった。


 長引く高熱と強い心理的ストレスで、一時的に意識が混乱することもあったらしい。


 病院には弁護士の連絡先だけ残した。


「治療について必要なことはしてください。それ以外で、もう私へ連絡する必要はありません」


 謝罪を聞くべき人は、もうそれを聞きたがっていなかった。



9



 一か月後。


 私が準備してきた子育て家庭向けの医療サポートサービスが、青凪ベイモールで初めて大きな発表イベントを開いた。


 父の医療技術財団も事業に協力しており、白樺こども医療センターからは怜司が連携協定の説明に参加していた。


 結衣の状態もかなり良くなっていたので、イベントが終わったら上の階で開催されている子ども向け絵画展へ連れていく約束をしていた。


 その日、圭介も同じ青凪ベイモール内にあるクリニックで、肺炎後の経過観察を受けていた。


 私たちは互いに、そのことを知らなかった。


 イベントの途中だった。


 上階から、突然大きな爆発音がした。


 直後に照明が落ち、エスカレーター側から黒い煙が流れ込んでくる。


 悲鳴が上がり、スタッフがすぐに非常階段へ誘導を始めた。


 結衣を抱き上げ、人の流れに従った。


 十数メートル進んだところで、天井付近の装飾フレームが落下した。


 通路が塞がれる。


 飛んできた破片で肩を切った。


 結衣を抱いたまま、太い柱の陰へ逃げ込んだ。


 煙と熱が、少しずつ近づいてくる。


「ママ、死んじゃうの?」


 上着で結衣の口元を覆った。


「大丈夫。ママが絶対に連れて出るから」


 そう言いながらも、目の前の避難路が塞がれていることは分かっていた。


 煙の向こうから消防隊員の声は聞こえる。


 けれどすぐには来られない。


 反対側のメンテナンス通路から、金属を叩く音がした。


 煙の中から姿を現したのは、圭介だった。


 肺はまだ治りきっていなかった。


 何度も激しく咳き込み、口元には血がにじんでいた。


「真帆、結衣を渡して」


 動かなかった。


 圭介も無理に近づこうとはしなかった。


 代わりに壁際の防災設備からバールを取り出し、歪んだ防火扉へ差し込んだ。


 何度も力をかけ、ようやく隙間を作る。


 扉の向こうには、倒れた金属製の展示フレームや装飾物が重なっていた。


 圭介は一つずつ動かし、人が通れるほどの隙間を作った。


 その瞬間、上から大きな音がした。


 崩れかけていた金属フレームが傾き、せっかくできた通路を塞ごうとした。


 圭介が肩を入れて支える。


「早く行け!」


 熱と煙で顔色は真っ白だった。


 結衣を抱いたまま、できた隙間をくぐる。


 圭介は苦痛に顔を歪めながら、それでも手を離さなかった。


「結衣、怖がるな」


 息を切らしながら続ける。


「今度は……パパが逃げないから」


 結衣は一度だけ振り返った。


 パパとは呼ばなかった。


 ただ私の胸へ顔を埋めた。


 やがて反対側から消防隊員が進入してきた。


 安全な区画まで出たところで、すでに救護に回っていた怜司が結衣を受け取り、すぐに煙を吸っていないか確認した。


 後ろを振り返る。


 圭介はまだ金属フレームの向こうにいる。


「まだ一人、中にいます。お願いします」


 消防隊員がすぐに戻った。


 圭介は、私が振り返るのを待っていたようにこちらを見た。


 けれど、それ以上は何も言わなかった。


 次の瞬間、支えていたフレームが大きく崩れた。


 消防隊員が手を伸ばしたが、落下した金属と瓦礫が圭介の背中を直撃した。


 その場で意識を失った。


 手術は十時間以上続いた。


 必要な手続きは、病院から連絡を受けた圭介の母親が行った。


 私は治療の判断には関わらなかった。


 あとになって、圭介は別のフロアから避難する途中、受付に出ていたイベント名を見て、私と結衣がまだ館内にいるかもしれないと思ったのだと聞いた。


 スタッフにバックヤードの通路を尋ね、あのメンテナンス通路まで回ってきたらしい。


 怜司に肩の傷を処置してもらっている間、結衣はベッドのそばに座っていた。


「ママ、あのおじさん、死んじゃう?」


「お医者さんが助けてくれるよ」


 結衣はしばらく黙った。


「じゃあ、結衣は許さないと駄目?」


 娘の髪を撫でた。


「助けてもらったことには、ありがとうって言っていい。でも、感謝することと、許すことは別だよ」


 結衣は長い間考えてから、小さくうなずいた。


「じゃあ、ありがとうは言う。でも、もうパパって呼ばない」


「うん」


 それ以上、何も言わなかった。


 圭介が目を覚ました時、脊椎には重い損傷が残っていた。


 医師から、再び自力で歩けるようになる可能性は低いと告げられたという。


 あとで看護師から聞いた話では、圭介は目を覚ますと、最初に私のことを聞いたらしい。


「真帆は来た?」


 看護師が首を横に振ると、それ以上は何も聞かなかったという。


 半年後、私の子育て家庭向け医療サポートサービスは新たな資金調達を終えた。


 父の財団と白樺こども医療センターの間でも、小児救急の連携体制が正式に立ち上がった。


 仕事へ戻った。


 以前より忙しい毎日だった。


 結衣も新しい学校へ通い始めた。


 もう「パパ」という言葉を聞いただけで震えることはない。


 夜中に悪い夢で目を覚ますことも、ずいぶん減った。


 怜司は今も、私たちの近くにいる。


 必要以上に近づかない。


 でも、必要な時にはいる。


 ある日、彼に聞かれた。


「いつか、また結婚することは考えてる?」


 少し考えた。


「今は考えてない」


 怜司は残念そうな顔もしなかった。


「分かった。じゃあ、今はこのままでいい。ゆっくりで」


 その時、ようやく分かった。


 人を大切にすることは、相手に何かを急がせることではない。


 その年の夏。


 女性の起業や働き方を扱うウェブメディアの取材を受けた。


 最後に記者が聞いた。


「『あの結婚があったから今の自分がある』と思うことはありますか?」


 首を横に振った。


「思いません」


 記者が少し驚いた顔をした。


 窓の外を見る。


「傷つけられたことまで、『あれがあったから今がある』って美化する必要はないと思うんです」


 一度言葉を切った。


「ただ、ある時から、私を傷つける人のために理由を探すのをやめただけです」


 取材を終えて外へ出ると、結衣が廊下のベンチに座って待っていた。


 私を見つけると、すぐに立ち上がって手を握る。


 その手を握り返し、一緒に帰った。


 誰がどれだけ後悔しているのか。


 もう、私たちには関係のないことだった。


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