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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

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カーレースの向こう側

作者: マーたん
掲載日:2026/05/04

この物語『カーレースの向こう側』は、速さだけを追い続けた一人の男が、敗北や怪我、別れ、そして出会いを経て、本当の意味で人生を走り出すまでを描いた作品です。


 レースの世界は華やかに見えて、その裏には努力、挫折、恐怖、孤独、そして支えてくれる人々の存在があります。勝者だけが語られがちな世界で、負けた者や傷ついた者にもまた、別のドラマがある――そんな想いからこの物語は生まれました。


 主人公・黒瀬蒼真は、何度も転びながら、それでも前へ進みました。若さを失い、身体を傷つけ、それでも挑戦をやめなかった男です。そんな彼の姿に、少しでも何かを感じてもらえたなら嬉しく思います。


 また、彼を取り巻く女性たち――環、レイナ、結衣、詩乃――それぞれもただの脇役ではなく、彼の人生に必要な存在として描きました。人は一人では前へ進めず、誰かに支えられ、時にぶつかりながら進んでいくものです。


 タイトルにある“向こう側”とは、ゴールの先にある景色だけではありません。勝敗を超えた先にある人生、家族、未来、受け継がれていく想い――その全てを意味しています。


 物語は完結しました。けれど人生もレースも、終わったように見えてまた次のスタートがあります。読んでくださった皆さまの毎日の中にも、それぞれの“向こう側”があるはずです。


 どうか焦らず、時に休みながらでも、自分の速度で走り続けてください。

 雨の匂いが、サーキット全体を包んでいた。


 午前六時。観客席にはまだ誰もいない。濡れたスタンドに風が吹きつけ、旗だけがぱたぱたと音を立てている。


 だがピットロードでは、すでに戦いが始まっていた。


 エアジャッキの作動音。タイヤを転がす音。無線チェックの声。工具が金属に当たる乾いた響き。


 そして、その喧騒の中央で、一人の男がヘルメットを磨いていた。


 名を――黒瀬蒼真くろせ そうま


 三十一歳。


 かつて天才と呼ばれ、そして消えたドライバーだった。


 十代でカート界を席巻し、二十代前半で国内最高峰カテゴリーへ昇格。新人王、最年少優勝、海外挑戦目前。


 誰もが言った。


 こいつは世界へ行く。


 だが、行かなかった。


 いや――行けなかった。


 三年前、雨の決勝レース。


 最終ラップでの大クラッシュ。


 黒瀬のマシンは宙を舞い、炎に包まれた。


 命は助かった。


 だが同時に、何かが壊れた。


 スポンサーは離れ、契約は白紙。世間は次のスターへ移り変わり、黒瀬蒼真という名は「終わった才能」として語られるだけになった。


 それでも今日、彼はここにいた。


 地方シリーズの小さなチーム。


 名門でもなければ資金力もない。


 だが――再出発には十分だった。



「まだそんな丁寧に磨くんですか、そのヘルメット」


 後ろから声が飛んだ。


 振り返ると、工具箱を抱えた女が立っている。


 短く切った髪。油で汚れたつなぎ。鋭い目つき。


 名を――鷺宮環さぎみや たまき


 二十八歳。


 この弱小チーム《オービット・モータース》のチーフエンジニアだった。


「験担ぎだ」


「古いですね」


「じゃあやめるか?」


「別に。どうせ今日も使うんですし」


 環は工具箱を床に置くと、タブレットを開いた。


「車高二ミリ下げました。リアの減衰も変更。雨が来たら前荷重に寄せます」


「攻めるな」


「あなたが守りの人ならそうします」


「俺は?」


「無駄に突っ込む人」


「ひどい評価だ」


「正確な評価です」


 黒瀬は笑った。


 三年間、彼にまともに接した人間は少ない。


 同情か、軽蔑か、遠巻きの視線ばかりだった。


 そんな中で環だけは違った。


『遅くなった人には見えない』


 初めて会った日にそう言った女だ。



 午前九時。


 予選開始。


 路面はハーフウェット。


 乾き始めたラインの外側にはまだ水が残る、最悪に難しい状況だった。


「全員慎重になる」


 コクピットで黒瀬が呟く。


『だから、あなた向きです』


 環の無線が返る。


「褒めてるか?」


『一応』


 シグナルグリーン。


 黒瀬はアクセルを踏み抜いた。


 濡れた一コーナーへ飛び込む。


 他車が早めにブレーキを踏む中、黒瀬だけが一瞬遅らせる。


 荷重を前へ移し、リアを流しながら向きを変える。


 危険な走り。


 だが速い。


 二周目。


 三周目。


 タイムボードに名前が上がる。


 P7。


 P5。


 P3。


 ピット内がざわめいた。


「黒瀬だ!」


「まだこんな走りできるのか!」


 最後のアタック。


 セクター1最速。


 セクター2最速。


 最終コーナー。


 縁石ぎりぎりを舐め、立ち上がり全開。


 結果――2番手。


 ポールポジションとの差、0.081秒。



 記者席は騒然となった。


『消えた天才、最前列復帰』


『過去の男、まさかのフロントロー』


『話題作りではなかった』


 黒瀬はその記事を見ない。


 ピットで黙って車載映像を確認していた。


「最終コーナー、三センチ外してます」


 環が言う。


「三センチで〇・〇八秒?」


「世界はそういう場所です」


「嫌な世界だな」


「好きなくせに」


 否定できなかった。



 決勝日。


 空は曇天。


 スタンドは満席だった。


 皆、ドラマが好きだ。


 落ちた男が戻ってくる物語は特に。


 だが黒瀬にとってこれは物語ではない。


 生活であり、執念であり、人生そのものだった。


 グリッドへ向かう。


 ポールポジションには若き絶対王者――白峰迅しらみね じん


 二十四歳。二連覇中。


 現代的で無駄のない走り、華やかな容姿、スポンサー人気も高い。


 白峰がヘルメット越しに笑う。


「戻ってきたんですね、先輩」


「見れば分かる」


「昔、あなたの動画見て育ちました」


「ならもっと礼儀正しくなれ」


「でも今日は勝たせません」


「譲る気もない」


 白峰は楽しそうに笑った。


 若さだった。


 かつて自分にもあったものだと黒瀬は思う。



『蒼真、聞こえる?』


「クリア」


『緊張してる?』


「少し」


『嘘。かなりしてる』


「なんで分かる」


『あなた、緊張すると口数減る』


「よく見てるな」


『仕事です』


 一拍置いて、環は続けた。


『でも大丈夫。車は速い』


「ドライバーは?」


『知らない』


「冷たいな」


『自分で証明してください』


 通信が切れた。


 黒瀬は笑い、深く息を吐いた。



 赤信号点灯。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 五つ。


 ブラックアウト。


 全車一斉スタート。


 黒瀬は完璧な蹴り出しを決めた。


 白峰と並ぶ。


 一コーナーまでの短い直線。


 外から被せられる。


 だが引かない。


 二台並んだまま進入。


 タイヤスモーク。


 接触寸前。


 白峰がわずかに譲る。


 トップ浮上。


 スタンドが揺れた。



 序盤十周。


 黒瀬は先頭を走った。


 だが白峰は離れない。


 ミラーの中に白いマシンが貼り付く。


『後ろ〇・四秒』


『了解』


『焦らないで』


「焦ってない」


『声が低い』


「元からだ」


 五周耐え、六周耐え、七周耐え。


 だが十周目の高速シケイン。


 白峰がアウトから被せてきた。


 常識外れの進入速度。


「若いな……!」


 黒瀬は接触回避のためラインを開ける。


 首位陥落。



 そこからレースは追う展開になった。


 白峰は速い。


 タイヤも守る。


 隙がない。


 さらに後方から三位集団も迫る。


『ピット早めます』


 環が言う。


「アンダーカットか」


『はい。二周後ボックス』


 黒瀬は了解し、全開でプッシュする。


 限界のブレーキング。


 縁石を使い切る旋回。


 タイヤを削りながらタイムを出す。


 二周後ピットイン。


 作業三・二秒。


 完璧だった。


 そして白峰の前でコース復帰。


「よし!」


『まだ温度入ってません、慎重に!』


 直後、一コーナーでリアが暴れた。


 カウンターで抑える。


 ぎりぎりだった。


「……危ない」


『言いましたよ』



 中盤。


 再びトップ争い。


 二台は並みいる後続を置き去りにした。


 差は一秒以内。


 十周以上続く一騎打ち。


 実況は叫び続ける。


『新王者か、復活の旧王者か!』


 だが当人たちは静かだった。


 エンジン音の中、自分の鼓動だけを聞いている。



 残り五周。


 空から雨粒が落ちた。


 一つ、二つ。


 そして一気に強くなる。


『雨! 雨来ます!』


「タイヤは?」


『持たせるしかない!』


 スリックタイヤのまま濡れ始めた路面を走る。


 地獄だった。


 マシンは滑り、ブレーキは伸び、アクセルひとつで終わる。


 白峰が慎重になる。


 だが黒瀬は違った。


 三年前、雨で全てを失った男。


 その雨の中で、アクセルを踏んだ。



「行くぞ」


 最終ヘアピン。


 誰も使わない外の濡れたラインへ。


 タイヤが水を切り、車体が横を向く。


 だが向きが変わる。


 立ち上がり速度が乗る。


 白峰の横へ並ぶ。


『並んだ! 黒瀬並んだ!』


 次のストレート。


 スプレーで視界ゼロ。


 それでも踏む。


 一コーナーで前へ出た。


 トップ奪還。



 残り三周。


 残り二周。


 雨はさらに強まる。


 白峰も諦めない。


 ミラーの中で何度も仕掛ける。


 だが黒瀬は抑えた。


 冷静に。


 無理せず。


 昔のように感情で走らず。


 積み重ねた後悔ごと操るように。



 ファイナルラップ。


 最終コーナー。


 リアが大きく滑る。


「くっ……!」


 白峰が迫る。


 二台並んでホームストレート。


 チェッカー。


 差は――0.017秒。


 勝者、黒瀬蒼真。



 歓声が爆発した。


 黒瀬はしばらく動けなかった。


 手が震えていた。


 三年前の雨。


 炎。


 病院の天井。


 世間の沈黙。


 失った時間。


 その全部が、今この一瞬に押し寄せた。


 そして流れていった。



 パルクフェルメ。


 白峰が歩いてくる。


 悔しさを隠さない顔だった。


「最後、あの雨で外行きます?」


「昔の俺ならもっと無茶した」


「今のあなた、厄介ですね」


「褒め言葉か?」


「最大級です」


 二人は握手した。


 世代交代ではなく、世代継承。


 そんな握手だった。



 表彰台。


 中央に立つ。


 シャンパンが弾ける。


 観客が叫ぶ。


 空はまだ雨だった。


 下を見ると、環が腕組みして立っている。


 無表情。


 だが目だけ少し赤い。


 黒瀬は笑った。


 環は口だけ動かす。


『遅い』


 何が、と黒瀬は思った。


 復活がか。


 勝つまでがか。


 気づくのがか。



 夜。


 撤収後のピット。


 誰もいないガレージで、環が工具を片付けていた。


「祝勝会行かないのか」


「騒がしいの嫌いです」


「嘘だな」


「あなたほどじゃない」


 黒瀬は近くの椅子に座る。


「なあ」


「なんです」


「今日勝てたの、お前のおかげだ」


「知ってます」


「……否定しろよ」


「事実なので」


 相変わらずだった。


 だがそのぶっきらぼうさが、心地よかった。


「もう一つある」


「まだ何か?」


「三年間、戻れた理由も多分お前だ」


 環の手が止まった。


「そういうの、レース後に言います?」


「タイミング大事だろ」


「最低ですね」


 そう言いながら、彼女は少し笑った。



 数週間後。


 次戦エントリーリスト。


 黒瀬蒼真、継続参戦。


 世間はまた騒いだ。


『奇跡は続くか』


『伝説再始動』


『王者白峰との再戦決定』


 だが黒瀬は記事を見ない。


 新しいマシンのコクピットで、シート位置を調整していた。


「一ミリ前です」


 環が言う。


「違う、半ミリだ」


「面倒ですね」


「褒め言葉だろ」


「違います」


 若いメカニックたちが笑う。


 新しいチームだった。


 新しい時間だった。



 スタート進行。


 信号が赤く灯る。


 黒瀬は深く息を吸った。


 もう過去から逃げるためには走らない。


 証明のためでもない。


 ただ、自分が進みたい先へ行くために走る。


 五つの赤が消える。


 マシンが飛び出す。


 カーレースの向こう側には、勝敗だけではない景色がある。


 黒瀬蒼真は、ようやくそれを知った。





追われる者たち


 優勝から二週間。


 世界は驚くほど簡単に変わった。


 地方シリーズの片隅で細々と戦っていた《オービット・モータース》のガレージ前には、朝から人だかりができていた。


 取材班。


 スポンサー候補。


 ファン。


 サイン色紙を持った子どもたち。


 そして、騒ぎを面白がって集まった野次馬。


「黒瀬選手! 一言お願いします!」


「復活優勝は偶然ではないと?」


「次戦の目標はシリーズ制覇ですか!」


「白峰選手との関係は!」


 マイクが伸びる。


 カメラが向けられる。


 黒瀬蒼真はその全てを無視して、コーヒー片手にガレージへ入った。


「人気者ですね」


 工具箱の上に座っていた鷺宮環が、興味なさそうに言った。


「面倒なだけだ」


「贅沢な悩みです」


「前の静かな方が好きだった」


「その前は誰にも相手されてませんでしたけど」


「……言うな」


 環はタブレットを閉じ、立ち上がった。


「現実逃避してる暇ありません。今日、新型シャシー届きます」


「もう?」


「スポンサーが増えましたから」


 その言葉に黒瀬は天井を見た。


 金が入る。


 設備が良くなる。


 人が増える。


 そして期待も増える。


 勝った瞬間から、彼らは挑戦者ではなくなった。


 追われる側になったのだ。



 昼前、一台の大型トラックがピット裏に入ってきた。


 新しいマシンが到着した。


 これまで使っていた旧型とは違い、空力も軽量化も大幅に改善された最新仕様。


 チームスタッフたちは歓声を上げる。


「すげえ……!」


「本当に来た!」


「これで戦える!」


 黒瀬は黙ってマシンを見つめた。


 艶のある白いボディ。


 無駄のないライン。


 明らかに速そうだった。


「どうです」


 環が横に立つ。


「綺麗すぎて信用できない」


「古い人間ですね」


「見た目だけ速い車もある」


「じゃあ走って確かめてください」



 テスト走行の日。


 快晴。


 気温二十七度。


 絶好のコンディションだった。


 黒瀬は新型マシンに乗り込み、コースインする。


 一周目。


 二周目。


 三周目。


 タイムは確かに速い。


 旧型よりコンマ七秒近く上回る。


 だが――


 四周目の高速コーナーで、突然リアが抜けた。


「っ!」


 カウンターを当てて立て直す。


 だが次のブレーキングでフロントが逃げる。


 挙動がちぐはぐだった。


『戻ってください』


 環の声が飛ぶ。


 黒瀬は無言でピットへ戻る。



「速いけど乗れない」


 ヘルメットを脱ぎながら言った。


「数値上は完璧です」


「数値はハンドル握らない」


「感覚論ですか」


「現場はそういうもんだ」


 環はむっとした顔でモニターを見る。


「空力バランスは理論値通り……」


「理論値で優勝旗振るのか?」


「……あなた、勝った途端うるさいですね」


「元からだ」


 スタッフが苦笑する。


 だが空気は重かった。


 新車は速い。


 しかし黒瀬が乗れない。


 ドライバーに合わないマシンは、ただの危険物だ。



 その夜。


 誰もいなくなったガレージで、環は一人モニターを見ていた。


 サスペンションデータ、荷重変化、タイヤ温度、舵角ログ。


 何度見ても理屈は合っている。


 なのに、黒瀬は嫌がる。


「……意味わからない」


「あるぞ」


 後ろから声がした。


 振り返ると、黒瀬が缶コーヒーを二本持って立っていた。


「帰ってなかったのか」


「お前もな」


 一本を差し出す。


 環は受け取った。


「理屈で正しいのと、速く走れるのは別だ」


「感覚の話は嫌いです」


「俺も昔はそうだった」


 黒瀬は隣に座る。


「でも、車って生き物みたいなもんだ。数字通り動かない日もある」


「曖昧です」


「人間が乗るんだから当然だろ」


 環は黙った。


 彼女は優秀だ。


 頭も回る。


 だが優秀すぎるがゆえに、理屈に寄りかかりすぎる時がある。


「怖いんですか」


 ぽつりと環が言った。


「何が」


「新しい車」


 黒瀬は少し笑った。


「違うな」


「じゃあ何です」


「勝った次のレースだ」


 環は顔を上げた。


「一回勝つと、皆また勝てると思う」


「勝てるでしょ」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないから言ってます」


 彼女の声は真っ直ぐだった。


「あなたは、負ける前提で走る人じゃない」


 黒瀬は何も言えなかった。



 次戦当日。


 舞台は山間の高速サーキット。


 ロングストレートと高速コーナーが連続する、度胸のコースだった。


 観客席は満員。


 前回優勝の影響は大きい。


 黒瀬の名前入りタオルまで売られている。


「気持ち悪いな」


「人気者です」


「誰が買うんだ」


「子どもが買ってました」


「返金したい」


「最低ですね」



 予選開始。


 新型マシンでの本番アタック。


 一周目から黒瀬は攻めた。


 高速左コーナー全開。


 縁石を跨ぎ、次の右へ飛び込む。


 旧型では届かなかった速度域。


 だがまだ不安定だ。


 リアが軽い。


 神経質すぎる。


 それでもまとめる。


 結果――三番手。


 ポールは白峰迅。


 二番手は海外帰りの新参戦ドライバー、御堂玲司。


「悪くない」


 黒瀬が言うと、環は腕組みした。


「悪いです」


「厳しいな」


「一コーナー進入で二キロ落ちてる」


「細かい」


「仕事です」



 決勝。


 スタートで黒瀬は二番手へ上がった。


 御堂をかわし、白峰を追う。


 だが十周目。


 高速区間でリアが暴れ、コースアウト寸前になる。


「くそっ」


『落ち着いて。燃料軽くなれば改善します』


「それまで待てる差か?」


 白峰との差は広がる。


 御堂も迫る。


 三つ巴の戦いになった。



 中盤。


 御堂が仕掛けてくる。


 鋭いブレーキング。


 海外仕込みの容赦ない飛び込み。


 二台並んでシケインへ。


 接触寸前。


 黒瀬は引かず、最低限のスペースだけ残す。


 御堂が笑った。


 ヘルメット越しでも分かる、不敵な笑みだった。


「面白いやつだな」



 終盤。


 路面温度が下がり、マシンバランスが急に良くなる。


 環の読み通りだった。


『今です。行けます』


「了解」


 黒瀬は一気にペースアップ。


 御堂を引き離し、白峰との差を詰める。


 残り三周。


 差一秒二。


 残り二周。


 差〇・六。


 ファイナルラップ。


 真後ろに付いた。



 最終コーナー。


 白峰は守るためインへ寄る。


 黒瀬は外へ回る。


 誰もが不利と思うライン。


 だが新型マシンの高速安定性は、ここで真価を見せた。


 外から速度を乗せ、立ち上がりで並ぶ。


 ホームストレート。


 二台横並び。


 チェッカー。


 結果――


 白峰迅、0.004秒差で勝利。



 スタンドがどよめいた。


 黒瀬は二位。


 わずか四千分の四秒。


 負けた。


 だが悔しさより先に、笑いが込み上げた。


「……最高だな」



 パルクフェルメ。


 白峰がヘルメットを脱ぎながら近づく。


「危なかったです」


「勝ったやつの顔じゃないな」


「あなたがしつこすぎるんです」


「褒め言葉として受け取る」


「違います」


 二人は笑った。



 ガレージへ戻ると、環が立っていた。


「すみません」


 珍しく、彼女が頭を下げた。


「何が」


「もっと早く合わせられた」


 黒瀬は首を振る。


「違う」


「え?」


「今日負けたのは、相手が速かっただけだ」


 環は目を見開く。


「それに」


 黒瀬は新型マシンを軽く叩いた。


「この車、好きになれそうだ」


 環はしばらく黙り、やがて小さく笑った。


「面倒ですね、あなた」


「褒め言葉だろ」


「……今日はそうしておきます」



 次戦ポイントランキング。


 一位、白峰迅。


 二位、黒瀬蒼真。


 三位、御堂玲司。


 戦いはまだ始まったばかりだった。


 追う者と、追われる者。


 その境界線は、毎週のように入れ替わる。


 黒瀬は空を見上げた。


 勝つだけがレースではない。


 負けてもなお、次へ向かわせるものがある。


「行くか」


 新たな戦場へ向けて、彼は歩き出した。











壊れる境界線


 シリーズ第六戦。


 舞台は海沿いの市街地コースだった。


 港湾道路を封鎖して造られた特設サーキット。左右をコンクリートウォールに囲まれ、逃げ場はない。ミス一つで即クラッシュ。路面は継ぎ接ぎだらけで跳ね、潮風で砂も浮く。


 ドライバーたちからは嫌われる。


 観客からは愛される。


 そんなコースだった。


「最悪の場所ですね」


 ピットウォールからコースを眺め、鷺宮環が言った。


「好きなくせに」


「嫌いです」


「嘘つけ。目が輝いてる」


「気のせいです」


 黒瀬蒼真は笑った。


 ランキングは現在二位。


 一位・白峰迅との差は十二ポイント。


 三位・御堂玲司との差は八ポイント。


 一戦でひっくり返る数字だった。


 誰もミスできない。


 だからこそ、このコースは残酷だった。



 木曜の搬入日。


 ピットには張り詰めた空気が流れていた。


 大手チームは最新設備を並べ、スポンサー旗を何本も立てる。


 《オービット・モータース》はその隣で、相変わらず必要最低限の機材を手際よく並べていた。


 だが以前と違うのは、周囲の視線だった。


 弱小チームを見る目ではない。


 優勝候補を見る目だ。


「落ち着かないな」


 黒瀬が呟く。


「見られる側に慣れてください」


 環が即答する。


「昔は平気だった」


「今は?」


「年取った」


「三十一で何言ってるんですか」


「心は五十だ」


「運転だけ若いのやめてください」



 フリー走行一本目。


 市街地コース特有の低いグリップに各車苦しむ中、黒瀬は早々にトップタイムを出した。


 壁すれすれをかすめるライン。


 荒れた路面での細かな修正舵。


 経験値がものを言う。


『いいですね』


 環の声が無線で届く。


「車も悪くない」


『珍しく素直』


「気味が悪いか?」


『少し』


 その直後だった。


 高速左コーナー進入で、フロントから異音が走る。


 ガツン、と嫌な衝撃。


 ステアリングが一瞬抜けた。


「っ!」


 黒瀬は反射でカウンターを当て、壁を数センチ差で避ける。


『戻って! 今すぐ戻って!』


 ピットへ戻ると、環とメカニックたちがすぐ車体に群がった。


 数分後、環の顔色が変わる。


「……サスペンションアームにクラック入ってます」


「接触はしてないぞ」


「してなくても入る場所じゃない」


 黒瀬は黙った。


 環も黙る。


 二人とも同じことを考えていた。


 壊れたのではなく、壊された可能性。



 ピット裏の空気が急に冷たく感じた。


「言うなよ」


 黒瀬が小声で言う。


「証拠ないですから」


 環は低く返した。


「でも点検記録は私が見ます」


「任せる」


 市街地戦は接触も多い。事故で片づけられる。


 だがもし意図的な細工なら話は別だ。


 レースは綺麗事だけではない。


 勝利の価値が上がるほど、人間は濁る。



 予選当日。


 マシンは徹夜で修復された。


 環の目の下には薄い隈がある。


「寝てないだろ」


「二時間」


「それ寝たうちに入らない」


「あなたが壊しかけたので」


「俺じゃない」


「まだ断定してません」


「ひどいチームだな」


 環は少し笑った。


 それで黒瀬も救われた。



 予選Q1。


 トップ通過。


 Q2。


 二番手通過。


 そしてQ3、最後のアタック。


 白峰が暫定ポール。


 御堂が二番手。


 黒瀬は残り一周に賭ける。


「行くぞ」


 最終セクター。


 壁と壁の間を縫う。


 縁石を跨ぎ、リアを滑らせながら姿勢を作る。


 ホームストレート。


 チェッカー。


 電光掲示板に表示された順位は――


 P1 黒瀬蒼真


 コンマ〇二一秒差。


 ピットが沸いた。


 環は拳を小さく握っただけだったが、その目だけは誰より熱かった。



 決勝日。


 港には重い雲が垂れ込めていた。


 風も強い。


 レース終盤に雨が来る予報だった。


「嫌な予感しかしません」


 グリッドで環が言う。


「いつもだろ」


「今日は特別です」


「じゃあ勝つな」


「そういう問題じゃないです」



 スタート。


 黒瀬は完璧に蹴り出した。


 白峰を抑え、一コーナー先頭進入。


 だが三周目、セーフティカー。


 後方で多重接触が起きた。


 隊列が整う。


 ミラー越しに白峰のマシンが近い。


 さらにその後ろ、御堂が不気味に静かだった。



 再スタート。


 黒瀬は加速ポイントをずらして白峰を牽制する。


 白峰も離れない。


 十周近く、三台が数珠つなぎ。


 少しでもミスすれば終わる距離だった。


『タイヤ厳しいです』


 環が言う。


「白峰も同じだろ」


『御堂だけ残してます』


「……やるな」


 御堂は序盤から無理せず、終盤勝負に絞っていた。



 中盤、ピット戦略が始まる。


 白峰が先に入る。


 アンダーカット狙い。


『こちらは一周伸ばします』


「了解」


 黒瀬は全開で走る。


 壁に近づけるたび、観客席がどよめく。


 そしてピットイン。


 完璧な作業でコース復帰。


 白峰の前に出る。


「ナイス」


『まだです。御堂が未停止』


 モニターには、首位表示の御堂。


 ロングスティントで雨待ちだった。



 残り十五周。


 空から大粒の雨。


 歓声が上がる。


「来たか」


『最悪です』


「最高だろ」


『あなたにとってだけです』


 御堂はその周にピットへ飛び込み、ウェットタイヤへ交換。


 大博打だった。


 他車はステイアウト。


 だが雨脚は急激に強まる。


「こっちも入る!」


『了解!』


 黒瀬もピットへ。


 だが停止位置が数十センチずれ、ジャッキアップが一瞬遅れた。


 二秒のロス。


 コースへ戻ると、御堂が前にいた。



 残り十周。


 一位御堂。


 二位黒瀬。


 三位白峰。


 濡れた市街地コース。


 視界ゼロに近いスプレー。


 ウォールは容赦なく迫る。


 御堂は巧かった。


 雨のライン取りに無駄がない。


 海外経験の強みだった。


『白峰も来てます』


「見えてる」


 三台の決戦。



 残り五周。


 黒瀬は一か八かで一コーナーへ飛び込む。


 御堂のインへノーズを差し込む。


 御堂は引かない。


 接触寸前。


 二台が並んだまま出口へ向く。


 その時、御堂の車体が不自然に寄ってきた。


「……!」


 黒瀬は壁側へ逃げる。


 タイヤが濡れたペイントに乗り、リアが跳ねる。


 スピン寸前で立て直す。


 白峰に抜かれ三位転落。


『大丈夫!?』


「生きてる!」


 だが怒りが湧いた。


 さっきの動きはミスではない。


 押し出しだった。



 残り三周。


 白峰が御堂を追う。


 黒瀬もその後ろ。


 三台は連なる。


 白峰はクリーンに仕掛け、御堂は際どく閉める。


 何度も接触寸前。


「危ない走りだな」


 黒瀬が吐き捨てる。


『証明してください』


 環の声は静かだった。


「何を」


『速さで、です』



 ファイナルラップ。


 港のヘアピン。


 白峰がインへ飛び込む。


 御堂が強引に閉める。


 接触。


 二台が膨らむ。


 その一瞬、外側に一台分の空間が生まれた。


 黒瀬は迷わない。


 水たまりの外ラインへ飛び込む。


 車体が横を向く。


 アクセル全開。


 三台並んで立ち上がる。


 観客総立ち。


 ホームストレート。


 チェッカー。


 結果――


 一位 黒瀬蒼真


 二位 白峰迅


 三位 御堂玲司



 ピットが爆発した。


 環は珍しくガッツポーズを見せ、その直後に我に返って腕を組み直した。



 パルクフェルメ。


 白峰がヘルメットを脱いで笑う。


「外、行きます?」


「行けそうだったからな」


「あなた本当に嫌いです」


「褒め言葉だな」


「違います」


 その横で御堂が無言で立っていた。


 やがて黒瀬へ近づく。


「次は譲らない」


「今日も譲ってないだろ」


「……そうだな」


 笑って去っていった。


 だがその目は笑っていなかった。



 夜。


 人気の消えたガレージで、環が部品箱を整理していた。


「例のクラック、どうだった」


「工具痕がありました」


 黒瀬の顔が変わる。


「やっぱりか」


「ただし犯人は不明です。証拠としては弱い」


「……そうか」


 環は箱を閉じる。


「でも覚えておいてください」


「何を」


「あなたは、ただ速い相手と戦ってるわけじゃない」


 静かな声だった。


「勝ちたい人間たちと戦ってるんです」


 黒瀬はしばらく黙り、やがて頷いた。


「知ってる」


 そして少し笑う。


「だから面白い」


「本当に性格悪いですね」


「今さらだ」



 ランキング首位に浮上。


 二位白峰、三位御堂。


 残り三戦。


 だがポイント差以上に、空気は張り詰めていた。


 レースの境界線。


 勝負と執着。


 駆け引きと卑劣。


 才能と狂気。


 その線が、少しずつ壊れ始めていた。




















風の中の来訪者


 シリーズ第七戦。


 舞台は内陸の高速サーキット《霧ヶ峰スピードウェイ》。


 長いバックストレートと、高低差の激しい複合コーナー。マシン性能とドライバー技量、その両方が問われる王道コースだった。


 ランキング首位――黒瀬蒼真。


 二位――白峰迅。


 三位――御堂玲司。


 ポイント差はわずか。


 一戦でひっくり返る。


 誰も余裕など持てなかった。



 木曜搬入日。


 《オービット・モータース》のピットには、いつになく慌ただしい空気が流れていた。


「なんでそんなに騒いでる」


 黒瀬がコーヒー片手に入ってくると、若いメカニックたちが一斉に振り向いた。


「監督から聞いてませんか!?」


「何を」


「新しい広報担当、今日から来るんです!」


「……広報?」


 黒瀬は眉をひそめた。


「うちはそんな金あったか?」


「スポンサー増えたので!」


「嫌な現実だな」


 その時だった。


 ピット入口の自動ドアが開いた。


 風が吹き込み、紙資料が舞う。


 そして一人の女が、大きなキャリーケースを引いて立っていた。


 長い黒髪を後ろで束ね、白シャツにジャケット。ヒールの音を響かせながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。


 整った顔立ち。


 だが柔らかさより、鋭さを感じさせる目。


「本日付で《オービット・モータース》広報兼マネジメント担当になりました」


 彼女は一礼した。


「**榊原詩乃さかきばら しの**です。よろしくお願いします」


 ガレージが静まり返る。


 そして黒瀬は、持っていた缶コーヒーを危うく落としかけた。


「……なんでお前がここにいる」


 詩乃は微笑む。


「久しぶりね、蒼真」



 空気が凍った。


 若手メカニックたちは目を丸くし、鷺宮環だけが腕を組んで無言で立っていた。


「知り合いですか?」


 環が冷たく聞く。


「……昔の」


「元婚約者です」


 詩乃が即答した。


 工具が床に落ちる音がした。


「は?」


 環の声が低くなる。


 黒瀬は額を押さえた。


「誤解を招く言い方するな」


「事実でしょ。婚約寸前まで行ったんだから」


「寸前だ」


「ほぼ同じよ」


「全然違う」


 若手スタッフたちがざわつく。


「黒瀬さんそんな過去あったの!?」


「え、ドラマじゃん」


「黙って仕事しろ!」


 黒瀬の怒声が飛ぶ。



 榊原詩乃。


 三十二歳。


 かつて大手スポンサー企業の広報部に所属し、若手スターだった黒瀬のマネジメントも担当していた女だった。


 交際もしていた。


 結婚話も出た。


 だが三年前、あの事故の後――


 彼女は黒瀬の前から姿を消した。


 何も言わずに。


 何も残さずに。



 昼休憩。


 ピット裏の喫煙スペース(誰も吸っていない)で、黒瀬は詩乃と向き合っていた。


「説明しろ」


「相変わらず挨拶が雑ね」


「なんで今さら戻ってきた」


 詩乃は少しだけ表情を崩した。


「仕事よ」


「嘘だな」


「半分本当」


「残り半分は」


「……あなたが、まだ走ってたから」


 黒瀬は黙る。


「事故のあと、私は逃げた」


 詩乃は真っ直ぐ言った。


「あなたが壊れていく姿を見るのが怖かった」


「そうか」


「責めないの?」


「今さら責めても遅い」


「優しくなったのね」


「年取っただけだ」


 詩乃は小さく笑った。



 一方その頃、ピット内。


 環はタブレットを睨みながら、必要以上にキーボードを強く叩いていた。


「壊れますよ」


 若手メカニックが恐る恐る言う。


「壊れて困るものですか」


「パソコンです」


「そう」


 怖かった。


 誰も近づけない空気だった。



 午後の走行前。


 黒瀬が戻ると、環が無表情で待っていた。


「話終わりました?」


「ああ」


「懐かしい再会ですね」


「そうでもない」


「そうですか」


「……なんで怒ってる」


「怒ってません」


「怒ってる時の声だぞ」


「知りません」


 黒瀬はため息をついた。


「面倒だな」


「誰のせいですか」


「俺か」


「他にいます?」



 フリー走行開始。


 黒瀬はコースインする。


 だが集中できない。


 詩乃のこと。


 環の空気。


 ランキング争い。


 頭の中が散らかっていた。


 一コーナー進入でブレーキを遅らせすぎ、はらむ。


 高速S字でクリップを外す。


 タイムは七番手止まり。


『戻ってください』


 環の声が無機質に響いた。



 ピットへ戻る。


 ヘルメットを脱いだ黒瀬に、環がデータを突きつける。


「視線移動が遅い。ブレーキ入力も雑。何してるんですか」


「……悪い」


「謝罪いりません。速くしてください」


「機嫌悪いな」


「元からです」


「嘘つけ」


 環は初めて黒瀬を正面から睨んだ。


「あなたが乱れると、チーム全部が乱れるんです」


 黒瀬は言葉を失う。


「過去の女が来ようが誰が来ようが知りません」


 声は震えていなかった。


「でも、今ここで戦ってるのは私たちです」


 それだけ言って、環は背を向けた。



 その夜。


 宿泊ホテルの駐車場。


 黒瀬が自販機で缶コーヒーを買うと、隣に詩乃が現れた。


「昔と同じね」


「何が」


「悩むとブラック買うところ」


「よく覚えてるな」


「忘れたくても忘れられなかった」


 沈黙。


 夜風だけが通り過ぎる。


「蒼真」


「なんだ」


「あなた、あの子のこと好きなの?」


 黒瀬はむせた。


「誰だよ」


「鷺宮さん」


「なんでそうなる」


「見てれば分かる」


「分からん」


「鈍いのも昔のままね」


 詩乃は笑う。


「私、あなたを失ってから気づいたの。支えるって、隣にいるだけじゃないって」


 黒瀬は何も言えなかった。


「今度は逃げない。仕事でも、人としても」


 そう言って彼女は去っていった。



 予選日。


 環は朝から必要最低限しか話さない。


 詩乃はスポンサー対応と取材調整を完璧にこなす。


 チーム内の空気は奇妙だった。


 黒瀬だけが落ち着かない。


「集中してください」


 環がヘルメットを渡す。


「お、おう」


「勝てば雑念も減ります」


「乱暴だな」


「合理的です」



 予選Q3。


 最後のアタック。


 白峰暫定ポール。


 御堂二番手。


 黒瀬三番手。


 残り一周。


 黒瀬は深く息を吸った。


 余計なことは全部置く。


 レースだけを見る。


 高速一コーナー全開進入。


 複合右左で縁石を使い切る。


 最終ヘアピン、立ち上がり全開。


 チェッカー。


 順位表示――


 P1 黒瀬蒼真


 コンマ〇一七秒差。


 ピットが沸く。


 環は小さく息を吐き、詩乃は拍手した。



 ピットへ戻ると、黒瀬はヘルメットを脱いで笑った。


「どうだ」


 環はそっけなく言う。


「最初からやればいいんです」


「褒めろよ」


「調子に乗るので嫌です」


 その横で詩乃がくすっと笑う。


「いいチームね」


 環は視線だけ向けた。


「まだ途中です」


「そうね」


 二人の女の間に、静かな火花が散った。



 決勝を前にして、黒瀬はようやく理解した。


 タイトル争いだけではない。


 このチームは今、大きく変わろうとしている。


 過去の清算。


 現在の衝突。


 未来への選択。


 その全てが、次のレースに乗っていた。




















熱狂と泥沼


 決勝日。


 霧ヶ峰スピードウェイには、朝から異様な熱気が渦巻いていた。


 ランキング首位の黒瀬蒼真。


 復活した元天才。


 王者・白峰迅との頂上決戦。


 さらに、突如チームへ現れた美貌の広報担当・榊原詩乃。


 そして無愛想な敏腕エンジニア・鷺宮環。


 メディアにとって、これ以上ない題材だった。


「今日はレース番組じゃなくワイドショーですね」


 環がピットモニターを見ながら吐き捨てる。


 画面には、黒瀬と詩乃が昨夜ホテル前で話していた写真が大きく映っていた。


『復縁か!?』


『元恋人再会で黒瀬選手の心境は!』


『現場で火花!? 美女二人の関係は!』


「……くだらん」


 黒瀬は頭を抱えた。


「有名税です」


 詩乃は平然と書類をめくっている。


「お前が言うな。誰が撮らせた」


「撮らせてないわよ」


「本当か?」


「半分くらい」


「半分は何だ」


「見つかりやすい場所で話しただけ」


「策士か」



 さらに火に油を注いだのは、今回から導入されたイベント企画だった。


 スポンサー主導で、各チームに専属レースアンバサダー――いわゆるレースクイーンが配置されることになったのだ。


 《オービット・モータース》の控室に現れたのは、鮮やかな青のコスチュームに身を包んだ一人の女だった。


「本日より担当します! 水無月レイナです!」


 明るい茶髪。


 抜群のスタイル。


 人懐っこい笑顔。


 そして、声が大きい。


「黒瀬さん! ファンでした! 一緒に写真いいですか!?」


「朝から元気だな……」


「元気しか取り柄ないです!」


 黒瀬は圧倒された。


 環は無表情で見ていた。


 詩乃はにこやかに名刺交換していた。


 だがその目は笑っていない。



 一時間後。


 ピット前は人だかりになっていた。


 レイナがファンサービスで盛り上げ、黒瀬が半ば強制的に並ばされている。


「黒瀬さん笑ってください!」


「無茶言うな」


「もっと近づいて!」


「近い近い」


 肩に腕を回され、フラッシュが焚かれる。


 その様子を少し離れた場所から、環が無言で見ていた。


「鷺宮さん、顔怖いです」


 若手メカニックが震え声で言う。


「普通です」


「普通じゃないです」



 その直後、詩乃が現れた。


「黒瀬、次の取材三分後」


「今!?」


「今」


 レイナが笑う。


「えー、もっと撮りたかったのに!」


「仕事が優先です」


 詩乃の声は柔らかい。


 だが冷気があった。


「あと、選手に必要以上に触れないで」


 空気が止まる。


 レイナも笑顔のまま固まった。


「え?」


「集中力を乱すので」


「……はぁ」


 そこへ環が通りかかる。


「それ以前に、作業導線塞いでます」


 レイナが振り向く。


「え、私なんか悪いことしました?」


「かなり」


 詩乃と環、別方向からの同時攻撃だった。


 黒瀬は天を仰いだ。


「なんで俺の周りだけ戦場なんだ」



 予選前ミーティング。


 環が真面目にセットアップ説明をしている横で、詩乃はスポンサー資料を整理し、レイナは黒瀬にタオルを渡していた。


「黒瀬さん汗かいてる!」


「まだ何もしてない」


「将来の汗です!」


「意味わからん」


 環のこめかみに青筋が浮く。


「……集中してください」


「してる」


「してません」


「してる」


「してないです」


「夫婦みたい」


 レイナがぽつりと言った。


 会議室が静まり返る。


 黒瀬はむせた。


 詩乃は資料を閉じた。


 環は無表情のままペンを折った。



 予選。


 黒瀬は集中を取り戻せず、細かなミスを連発した。


 最終アタックで白峰にコンマ一秒届かず、二番手。


 御堂三番手。


 戻ってくるなり環が言う。


「雑です」


「すまん」


「雑念だらけです」


「……すまん」


「謝って直るなら苦労しません」


 その横で詩乃が静かに水を差し出す。


「飲みなさい」


 さらにレイナがタオルを持って飛んでくる。


「汗拭いてください!」


「一人で足りる!」


 黒瀬の叫びがピットに響いた。



 夜。


 ホテルラウンジ。


 黒瀬は一人でコーヒーを飲んでいた。


 そこへ環が現れる。


「逃げてきたんですか」


「少しな」


「情けない」


「否定できん」


 環は向かいに座る。


「……あの人、綺麗ですね」


「誰だ」


「全員です」


 黒瀬は吹き出した。


「なんだそれ」


「事実です」


「お前も十分綺麗だろ」


 言った瞬間、空気が止まった。


 環の耳が赤くなる。


「……酔ってます?」


「コーヒーだ」


「最低ですね」


「なんでだ」


「自覚なく言うからです」


 立ち上がって去ろうとする。


 黒瀬が慌てて呼ぶ。


「待て」


「待ちません」


「明日勝つぞ」


 環は振り返らずに答えた。


「その言葉だけは、信じます」



 決勝当日。


 グリッドにはレイナが笑顔で立ち、観客席を盛り上げていた。


 詩乃は取材陣をさばき、環は最後のタイヤ確認をしている。


 三人三様。


 だが黒瀬の周囲だけ空気密度が濃い。


「蒼真」


 詩乃がネクタイを直すようにレーシングスーツの襟を整える。


「勝って」


「広報っぽいな」


「女として言ってる」


 その直後、環がヘルメットを押しつける。


「余計な会話しないでください」


「お、おう」


「勝てば全部黙ります」


「お前もな」


「私は黙りません」


 レイナが最後に両手を振る。


「黒瀬さん優勝したらツーショット百枚撮りましょう!」


「多い!」



 スタート進行。


 黒瀬はようやく理解した。


 ライバルは白峰でも御堂でもない。


 今日最大の敵は――


 自分の周囲の泥沼だった。


 五つの赤信号が灯る。


 消える。


 マシンが飛び出した。


 そしてレースの幕が開く。



 第一コーナー。


 白峰と並ぶ。


 背後から御堂。


 そしてピットウォールでは、三人の女がそれぞれ違う表情で見つめていた。


 環は真剣に。


 詩乃は静かに。


 レイナは全力で旗を振りながら。


 黒瀬蒼真の戦いは、ますます加速していく。




















初負け、そして別れ


 決勝レース、残り五周。


 霧ヶ峰スピードウェイの空気は張り裂けそうだった。


 一位――白峰迅。


 二位――黒瀬蒼真。


 三位――御堂玲司。


 トップ三台が数珠つなぎ。


 コンマ数秒の差で走り続けている。


『タイヤ温度限界です』


 環の声が無線で飛ぶ。


「まだ行ける」


『行けても保ちません』


「保たせる」


『そういう根性論嫌いです』


「知ってる」


 黒瀬は笑った。


 だがステアリング越しに伝わる感触は重い。


 フロントタイヤが悲鳴を上げている。


 序盤の無理が、ここへ来て返ってきていた。



 残り四周。


 白峰は一切ミスをしない。


 最短距離を走り、タイヤも守り、隙を作らない。


 若き王者の完成度だった。


「本当に上手くなったな……」


 黒瀬は呟く。


 その背後で御堂が迫る。


 バックミラーいっぱいに映る赤いマシン。


 ブレーキングで突っ込み、立ち上がりで押してくる。


 三台の圧力で息が詰まる。



 残り三周。


 高速S字進入。


 黒瀬は白峰の内を狙ってフェイントを入れる。


 白峰は反応しない。


 読まれていた。


 その一瞬の躊躇。


 御堂が外から並んできた。


「ちっ!」


 二台横並びのままS字へ。


 普通なら共倒れ。


 だが御堂は引かなかった。


 黒瀬も引けない。


 結果、わずかに接触。


 黒瀬の車体が跳ね、ラインを外す。


 御堂が二位へ浮上した。


『落ち着いて!』


 環の声が鋭く飛ぶ。


「落ち着いてる!」


 本当は、少しだけ熱くなっていた。



 残り二周。


 白峰、御堂、黒瀬。


 三位転落。


 観客席がどよめく。


 ここまで連勝と表彰台を重ねてきた黒瀬だったが、優勝争いから一歩後退した。


 それでも諦めない。


 最終ヘアピンで御堂のインへ飛び込む。


 並ぶ。


 だが立ち上がりでホイールスピン。


 トラクションが抜ける。


 白峰との差が広がる。


「くそっ……!」



 ファイナルラップ。


 御堂は巧みにラインを塞ぎ、白峰は逃げる。


 黒瀬は何度も揺さぶるが、届かない。


 最後の最終コーナー。


 外から仕掛ける。


 だがタイヤはもう終わっていた。


 車体が膨らむ。


 御堂が守り切る。


 チェッカー。


 結果――


 一位 白峰迅

 二位 御堂玲司

 三位 黒瀬蒼真



 ピットは静かだった。


 誰も責めない。


 だが誰も喜ばない。


 初めての、明確な敗北だった。


 黒瀬はマシンを降り、ヘルメットを置く。


「悪い」


 最初に出た言葉がそれだった。


 環は首を振る。


「謝罪いりません」


「でも勝てたレースだった」


「勝てなかったレースです」


「冷たいな」


「事実です」


 その声はいつも通りだった。


 だからこそ、黒瀬には刺さった。



 記者会見では質問が飛ぶ。


「復活劇に陰りですか?」


「連勝止まりましたね」


「年齢的限界では?」


 黒瀬は笑って答えた。


「負けただけです」


 それ以上でも、それ以下でもない。



 夜。


 チームホテルの屋上。


 風が強かった。


 黒瀬が一人で缶コーヒーを飲んでいると、詩乃がやって来た。


「珍しく落ち込んでる」


「そう見えるか」


「昔から、負けた日は静かになる」


 隣に立つ。


「今日のあなた、少し焦ってた」


「……かもな」


「周りが騒がしすぎる?」


「それもある」


 詩乃はしばらく黙り、やがて言った。


「私、チームを離れるわ」


 黒瀬は振り向いた。


「は?」


「次戦までで契約終了。もう話はつけた」


「急すぎるだろ」


「最初から短期契約だった」


「聞いてない」


「言ってないもの」


「なんでだ」


 詩乃は風に髪を揺らしながら笑った。


「あなた、私がいると過去を見る」


 黒瀬は言葉を失う。


「私はそれでもよかった。でもね」


 少しだけ寂しそうに続ける。


「あなたが見るべきは前でしょう?」



「逃げるのか」


 黒瀬が低く言う。


 詩乃は首を振った。


「今度は違う」


「じゃあ何だ」


「譲るの」


「誰に」


 詩乃は即答した。


「鷺宮さんに」


 黒瀬はむせた。


「なんでそうなる」


「分からないなら重症ね」


「いや待て」


「あなたが負けて一番悔しそうだったの、彼女だった」


 黒瀬は思い返す。


 ピットで無表情だった環。


 だが、モニターを見る目だけは燃えていた。


「私は過去の人」


 詩乃は微笑む。


「でも、あの子は今の人よ」



 翌朝。


 ピットに入ると、詩乃はスタッフ全員へ挨拶していた。


「短い間でしたが、お世話になりました」


 若手たちが騒ぐ。


「え!? 辞めるんですか!?」


「なんで!」


「もっといてください!」


 詩乃は笑って手を振る。


「またどこかで」


 環は少し離れた場所で腕を組んでいた。


「知ってたのか」


 黒瀬が聞く。


「昨日聞きました」


「止めなかったのか」


「止める理由あります?」


「……ないか」


「ありますけど」


「どっちだ」


「面倒です」



 詩乃は最後に黒瀬の前へ来た。


「じゃあね、蒼真」


「また急だな」


「私らしいでしょ」


「そうだな」


 少し沈黙。


「ありがとう」


 黒瀬が言う。


「何に対して?」


「戻ってきてくれて」


 詩乃の目が少し揺れた。


「こちらこそ」


 彼女は一歩下がる。


「次に会う時は、もっとちゃんと幸せそうな顔してて」


 そう言って去っていった。


 振り返らずに。



 しばらく誰も喋らなかった。


 やがて環が資料を黒瀬の胸に押しつける。


「感傷終わりました?」


「……早いな」


「次戦のデータです」


「今か?」


「今です」


「冷たい」


「優しいですよ」


「どこが」


 環は少しだけ視線を逸らした。


「落ち込んでる暇、なくなるようにしてるので」


 黒瀬は笑った。


 初めて素直に思った。


 救われている、と。



 ランキングは白峰が再び首位。


 二位黒瀬、三位御堂。


 残り二戦。


 負けた。


 そして一つの関係は終わった。


 だがその別れは、失うためではなく――


 次へ進むための別れだった。




















砕けた速度、現れた影


 シリーズ第八戦。


 舞台は国内屈指の高速サーキット、《蒼岳インターナショナル・レースウェイ》。


 長いメインストレート。


 全開区間の連続。


 一歩間違えれば、大事故につながる超高速コースだった。


 ランキング首位――白峰迅。


 二位――黒瀬蒼真。


 三位――御堂玲司。


 残り二戦。


 タイトル争いは、ここで決着に近づく。


「嫌なコースですね」


 ピットウォールからコースを見下ろし、環が言った。


「速い車には最高だろ」


「壊れた時が最悪です」


「縁起でもない」


「現実的です」


 黒瀬は苦笑した。


 いつものやり取り。


 いつもの朝。


 だが、この日を境に何もかも変わるとは、まだ誰も知らなかった。



 予選。


 白峰が暫定ポール。


 御堂二番手。


 黒瀬三番手。


 最後のアタック。


「行けるか」


『行けます』


 環の声が返る。


『あなたが普通なら』


「条件厳しいな」


 黒瀬は笑い、アクセルを踏み抜いた。


 第一セクター最速。


 第二セクター最速。


 最終高速コーナーへ進入する。


 時速二百六十キロ。


 その瞬間だった。


 リアが突然抜けた。


「っ!?」


 風に煽られたのか。


 縁石に乗りすぎたのか。


 原因を考える暇もない。


 マシンは横を向き、スピンしながらバリアへ激突した。


 凄まじい衝撃音。


 車体が跳ね、破片が舞う。


 スタンドから悲鳴が上がった。



『黒瀬! 黒瀬! 応答して!』


 環の声が無線で叫ぶ。


 返事はない。


 赤旗中断。


 マーシャルが駆け寄る。


 煙の向こうで、潰れたマシンが止まっていた。



 病院。


 白い天井。


 消毒液の匂い。


 黒瀬蒼真が目を覚ましたのは、事故から半日後だった。


 身体中が重い。


 腕に点滴。


 左肩には固定具。


 肋骨数本骨折。


 左脚にヒビ。


 全身打撲。


 医師の説明は淡々としていた。


「命に別状はありません。ただし、しばらく安静です」


 黒瀬は天井を見た。


「……またか」


 三年前の事故が脳裏をよぎる。


 積み上げたものが、また壊れる。


 そんな感覚だった。



 翌日。


 病室の扉が勢いよく開いた。


「生きてます!?」


 飛び込んできたのは、青いコート姿の女だった。


 水無月レイナ。


 チームのレースアンバサダー。


 明るく騒がしく、空気をかき回す女。


「うるさい……」


「よかったぁぁ!」


 ベッド脇で泣きそうな顔をする。


「骨折したって聞いて、内臓飛び出たのかと!」


「情報雑すぎるだろ」


「でも顔ある!」


「あるわ」


 黒瀬は思わず笑った。


 事故以来、初めてだった。



「環さんは?」


「チームで後始末です」


「……そうか」


「詩乃さんも連絡くれましたよ。“あの人しぶといから大丈夫”って」


「ひどいな」


「愛です」


「違うだろ」


 レイナは椅子に座り、急に静かになった。


「怖かったです」


「ん?」


「テレビでクラッシュ見て……また誰かいなくなるのかと思った」


 黒瀬は少し驚いた。


 いつも明るい彼女の、初めて見る顔だった。



 三日後。


 病室には花が増えていた。


 スポンサー。


 ファン。


 ライバルたち。


 白峰からは『次は勝った状態で倒します』とカードが届いた。


 御堂からは『つまらん終わり方するな』とだけ書かれていた。


 そして、この日もレイナが来た。


 大量のプリンを抱えて。


「病人に糖分!」


「医者に怒られるぞ」


「一個だけなら薬です」


「理屈が雑だな」


 だが彼女が来ると、病室は妙に明るくなった。



 その夕方。


 環がようやく現れた。


 疲れ切った顔だった。


「遅いな」


「事故車の解析、スポンサー対応、次戦登録、山ほどあります」


「……悪い」


「本当です」


 環はベッド脇に立つ。


 だが何も言わない。


 怒っているようにも、泣きそうにも見えた。


「なんだ」


「……なんでもないです」


「嘘つけ」


「あなた、本当に」


 そこで声が詰まる。


「本当に、無茶しかしませんね」


 黒瀬は黙った。


 それが彼女なりの心配だと分かったからだ。



 そこへ扉が開く。


「こんばんはー!」


 レイナだった。


 紙袋を抱え、元気いっぱいに入ってくる。


 そして環と目が合う。


 空気が止まる。


「……どうも」


 環が低く言う。


「どうも!」


 レイナは笑顔。


「毎日来てます!」


「そうですか」


「はい!」


 黒瀬は天井を見た。


 嫌な予感しかしない。



 数日後。


 レイナは当然のように毎日来た。


 果物。


 雑誌。


 差し入れ。


 意味不明な健康グッズ。


 病室は彼女の私物置き場になりつつあった。


「お前暇なのか」


「失礼ですね。仕事あります」


「あるのか」


「あります!」


「説得力ない」


 彼女は笑いながらリンゴを剥く。


 意外に手際がいい。


「……何者なんだ、お前」


「え?」


「ただのレースクイーンにしては妙に顔が利くし、病院の個室も簡単に入るし」


 レイナの手が止まった。


「あー……言ってませんでしたっけ」


「何を」


 彼女は照れくさそうに笑った。


「この病院も、《オービット・モータース》の親会社グループなんです」


「は?」


「私、そのグループ代表……つまりチームオーナーの娘です」


 黒瀬は固まった。


「……は?」


「正確には次女です!」


「そこじゃない!」



 その瞬間、扉が開いた。


 環だった。


「今日のリハビリ予定――」


 言葉が止まる。


 黒瀬、呆然。


 レイナ、笑顔。


 沈黙。


「……言ったんですか」


 環が低く聞く。


「今、ちょうど!」


 レイナが元気に答える。


「遅すぎます」


「てへ」


「誤魔化せません」


 環の額に青筋が浮く。



「つまり」


 黒瀬がゆっくり言う。


「お前、ずっとオーナー令嬢の身分隠して、レースクイーンして、俺にタオル渡してたのか」


「はい!」


「なんで!」


「楽しそうだったので!」


「理由が軽い!」


「あと、現場見たかったんです」


 レイナは真面目な顔になる。


「お父さん、数字でしかチーム見ないから」


 環が黙る。


「私は、ここにいる人たちがどれだけ本気か知りたかった」


 病室の空気が少し変わった。



「で、結果は」


 黒瀬が聞く。


 レイナは笑った。


「思った以上に、みんな不器用で、熱くて、面白いです」


 そして少し視線を逸らす。


「特に黒瀬さんは」


「なんだよ」


「放っておくとすぐ壊れるので」


 環が即座に頷いた。


「そこは同意です」


「おい」



 黒瀬はベッドにもたれた。


 身体は痛い。


 タイトル争いも厳しくなった。


 次戦に間に合う保証もない。


 だが、なぜか少しだけ笑えた。


 病室には騒がしい女が二人いる。


 一人は無愛想で。


 一人は明るすぎる。


 そしてどちらも、なぜか自分を見ている。


 面倒だ。


 だが、悪くなかった。



 残り一戦。


 王者争い。


 復帰できるかも分からない。


 それでも黒瀬蒼真は、再び立ち上がろうとしていた。


 その向こう側へ行くために。




















歩き出す痛み


 朝六時。


 病院の窓から、薄い光が差し込んでいた。


 黒瀬蒼真はベッドの上で目を覚ます。


 左肩の固定具。


 肋骨の鈍い痛み。


 脚を少し動かすだけで走る違和感。


 身体中が、自分のものではないようだった。


「……最悪だな」


 呟く。


 三年前の事故でも味わった感覚だった。


 走れない身体。


 置いていかれる時間。


 コースから切り離される恐怖。


 今回は、それをもう一度味わうことになる。



 午前八時。


 担当医と理学療法士が現れる。


「今日から本格的にリハビリ始めます」


「今日から?」


「今日からです」


 即答だった。


「肋骨は無理できませんが、脚は止めると戻りません」


 理学療法士の男は笑顔だった。


 だがその笑顔の奥に、容赦のなさが見えた。


「立ちましょう」


「早くないか」


「遅いです」


 黒瀬はため息をついた。



 ベッド脇に足を下ろす。


 床に着ける。


 それだけで脚が震える。


「冗談だろ……」


「冗談ではありません」


 支えられながら立ち上がる。


 世界が揺れる。


 額に汗が滲む。


 たった数秒で息が上がった。


「こんなに弱るのか」


「人間ですから」


 理学療法士は淡々としていた。


「レーシングマシンじゃありません」



 午前の訓練が終わる頃には、黒瀬は疲れ切っていた。


 病室へ戻ると、テーブルの上に水筒と弁当箱が置かれている。


「……なんだこれ」


 開ける。


 彩りのいいサンドイッチ。


 卵焼き。


 果物まで入っていた。


 メモが添えられている。


『栄養も仕事です! 食べてください!』


「……あいつか」


 水無月レイナしかいない。



 だが昼になっても本人は来なかった。


 代わりに、ナースステーションから一人の看護師が現れた。


 二十代半ばほどの女性。


 柔らかい笑顔に、落ち着いた声。


「黒瀬さん、検温しますね」


「お願いします」


 名札には**春日井結衣かすがい ゆい**とあった。


 彼女は手際よく体温計を差し込み、点滴を確認する。


「朝のリハビリ、大変だったみたいですね」


「見てたんですか」


「叫び声が廊下まで」


「言うな」


 結衣はくすっと笑った。


「でも、頑張れる人は戻るの早いですよ」


「そういうもんですか」


「ええ。諦める人は、目を見れば分かります」


 彼女は黒瀬の目を見る。


「黒瀬さんは、まだ全然諦めてません」



 午後。


 歩行器を使った訓練。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 脚に重さが乗るたび、骨の奥が疼く。


「くっ……」


「呼吸止めない」


「簡単に言うな」


「簡単です」


 理学療法士は容赦ない。


 だが十メートル進んだところで、ふと拍手が聞こえた。


「すごーい!」


 廊下の角から、帽子とマスク姿の女が顔を出している。


「……お前何してる」


「通りすがりの一般人です!」


 レイナだった。


「全然隠れてない」


「シーッ!」



 その日から、妙なことが起き始めた。


 リハビリ室へ行くと、タオルが準備されている。


 水分補給用のスポーツドリンクが冷えている。


 階段訓練の前には、なぜか手すりが綺麗に拭かれている。


 スタッフが首を傾げる。


「誰がやったんだろう」


 黒瀬には分かっていた。



 夕方。


 人気のない非常階段。


 レイナがモップを持っていた。


「何してる」


「ボランティアです!」


「オーナーの娘が?」


「娘だからって暇じゃないんですよ」


「そこじゃない」


 レイナは笑ってモップを立てる。


「黒瀬さん、見られるの嫌いでしょ」


「……何が」


「弱ってるとこ」


 黒瀬は黙る。


 図星だった。


「だから、少しでもやりやすいようにと思って」


 いつもの軽さではない声だった。


「余計なお世話かもですけど」


「……かなりな」


「ひどい!」


 だが黒瀬は少し笑った。


「でも助かる」


 レイナは目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。



 夜。


 病室に春日井結衣が点滴交換に来る。


「今日はよく歩けてましたね」


「見てたんですか」


「たまたまです」


 絶対嘘だと思った。


 彼女は器具を片付けながら言う。


「黒瀬さんって、怖そうに見えて素直ですよね」


「初めて言われた」


「痛い時、ちゃんと顔に出るし」


「隠してるつもりなんだが」


「全然です」


 また笑う。


 その笑顔には、不思議と人を安心させる力があった。



「看護師さんって、みんなそうやって患者励ますんですか」


 黒瀬が聞く。


「どういう意味です?」


「優しい言葉とか」


 結衣は少し考えた。


「人によります」


「じゃあ俺には」


「少し特別かもしれません」


 黒瀬は固まる。


「……それ、患者全員に言ってる?」


「秘密です」


 彼女は人差し指を唇に当てた。


 甘い声だった。


 黒瀬はなぜか心拍数が上がるのを感じた。



 翌朝。


 環が病室へ来るなり資料を置いた。


「心拍数高いですね」


「え?」


「モニター見えます」


「偶然だ」


「看護師さん帰った直後ですけど」


「偶然だ」


 環の目が細くなる。


「……元気そうで何よりです」


「なんで怒ってる」


「怒ってません」


「最近その台詞多いな」



 そこへレイナが朝食を持って乱入する。


「黒瀬さん! たんぱく質!」


 さらに結衣が検温に入ってくる。


「失礼します」


 環は腕を組む。


 病室の空気がまた重くなった。


「……狭いですね」


 環が言う。


「個室ですけど」


 結衣が穏やかに返す。


「人数の話です」


 レイナが元気に手を挙げる。


「私帰りません!」


「帰ってください」


 即答だった。



 黒瀬は天井を見上げた。


 身体は痛い。


 先は見えない。


 タイトル争いも遠のいた。


 それでも、こんなにも騒がしい。


「……静養って何だ」


 誰にも聞こえない声で呟く。



 リハビリは続く。


 一歩ずつ。


 遅くても。


 痛くても。


 そしてその傍らには、なぜか三人の女たちがいた。


 無愛想な女。


 騒がしい令嬢。


 甘い言葉の看護師。


 黒瀬蒼真の回復は、別の意味でも前途多難だった。




















再出発、その向こう側へ


 退院の日。


 空は雲ひとつない青だった。


 病院玄関の自動ドアが開き、黒瀬蒼真はゆっくり外へ出る。


 まだ左脚には違和感がある。


 肩も完全ではない。


 深く息を吸うだけで、肋骨の古傷が鈍く疼いた。


 だが――外の空気はうまかった。


「出所おめでとうございます!」


 真っ先に飛びついてきたのは、水無月レイナだった。


「刑務所じゃない」


「似たようなものです!」


「全然違う」


 その後ろで鷺宮環が腕を組んでいる。


「騒ぐとまた入院しますよ」


「縁起でもないこと言うな」


「現実的な忠告です」


 さらに少し離れて、春日井結衣が柔らかく笑っていた。


「おめでとうございます、黒瀬さん」


 その声を聞くだけで、不思議と肩の力が抜けた。



 チームへ戻った初日。


 《オービット・モータース》のガレージは、以前と少し違って見えた。


 工具の音。


 オイルの匂い。


 スタッフの怒鳴り声。


 どれも懐かしく、愛おしい。


 若手メカニックたちが拍手で迎える。


「黒瀬さん、おかえり!」


「待ってました!」


「無茶はしないでください!」


「それは無理だな」


 黒瀬が笑うと、環が即座に言う。


「無茶したら私が止めます」


「止められたことないだろ」


「今後は止めます」


 妙に本気の声だった。



 だが、空気が変わったのはその直後だった。


 ガレージ奥の扉が開く。


 現れたのは、グループ代表――《オービット・ホールディングス》会長、水無月剛三だった。


 七十近い年齢とは思えぬ威圧感。


 鋭い眼光。


 現場の誰もが背筋を伸ばす。


「……父です」


 レイナが小声で言った。


「知ってる」


 剛三は黒瀬を一瞥し、次に娘を見る。


「お前」


「はい!」


「レースクイーンごっこは終わったか」


「ごっこじゃありません!」


「病院通いまでして、好き勝手やったそうだな」


 レイナが固まる。


 環は視線を逸らし、若手たちは見て見ぬふりをした。



「今日限りで現場から外す」


 剛三の一言だった。


「え……」


「広報研修も終了。来月から本社へ戻れ」


「待って!」


 レイナの声が震える。


「私、まだ――」


「遊びではない」


「遊んでない!」


 ガレージが静まり返る。


 黒瀬は前へ出た。


「会長」


「なんだ」


「彼女は現場で本気でした」


 剛三の目が向く。


「庇う義理でもあるのか」


「あります」


 黒瀬は迷わず答えた。


「俺は、何度も助けられた」


 レイナが目を見開いた。



 剛三はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「ならなおさらだ」


「……?」


「情が入る場所に置いておけん」


 レイナは俯いた。


 彼女も分かっていた。


 オーナーの娘という立場。


 現場に居続ければ、周囲は気を遣う。


 公平ではいられない。


 いつか歪みになる。


「……分かりました」


 レイナは小さく答えた。


「帰ります」



 その夜。


 ガレージ裏の駐車場。


 レイナは私服姿で、小さなバッグを持っていた。


「急ですね」


 黒瀬が言う。


「私らしいでしょ」


 笑おうとして、少し失敗した顔だった。


「悪かったな」


「なんで黒瀬さんが謝るんですか」


「巻き込んだ気がする」


「巻き込まれたのは私です」


「ひどいな」


「本当です」


 レイナは少し近づいた。


「でも、楽しかった」


 夜風が吹く。


「現場で汗かいて、怒られて、応援して……初めて生きてる感じしました」


「……そうか」


「だから」


 彼女は笑った。


「黒瀬さんとは、ここでお別れです」


「別れるって、付き合ってたか?」


「気持ち的には少し!」


「知らん」


「ひどい!」


 二人で笑った。


 それが、きれいな別れだった。



 数日後。


 黒瀬は本格的な復帰テストに入った。


 身体はまだ重い。


 反応も鈍い。


 以前なら簡単に踏めたブレーキポイントが怖い。


 高速コーナーで、事故の映像が脳裏をよぎる。


 アクセルが、ほんの少し戻る。


 タイムは出ない。


 苛立ちが募る。


「遅い」


 黒瀬が吐き捨てる。


「当然です」


 環は冷静だった。


「怪我明け初日で以前と同じなら、逆に気持ち悪いです」


「慰めになってない」


「慰めてません」



 その夜。


 病院帰りの結衣が、ガレージへ顔を出した。


「差し入れです」


 紙袋には手作りのサンドイッチ。


「看護師がこんな時間まで来るのか」


「患者が言うこと聞かないので」


 環が小さく頷く。


「それは事実です」


「お前どっちの味方だ」


 結衣は笑い、黒瀬の前に立った。


「怖いんですね」


「……何が」


「また壊れるのが」


 黒瀬は否定できなかった。


「でも」


 結衣は真っ直ぐ見つめる。


「怖いのに進む人、私は好きです」


 その言葉は、どんな薬より効いた。



 それから彼女は時々ガレージへ来るようになった。


 食事管理。


 ストレッチ指導。


 睡眠の説教。


 そして時々、甘い言葉。


「黒瀬さん、今日ちょっとかっこよかったです」


「ちょっと?」


「全部だと調子乗るので」


「環と似てきたな」


「光栄です」


「全然光栄じゃないです」


 環が即答した。



 最終戦前夜。


 黒瀬は人気のないパドックを歩いていた。


 そこへ結衣が現れる。


「眠れませんか」


「少しな」


「私もです」


 二人で観客席へ座る。


 無人のコースが月明かりに照らされていた。


「もし明日、勝てなくても」


 結衣が言う。


「私は、あなたがここまで戻ってきたことの方がすごいと思います」


「……優しいな」


「仕事です」


「看護師の?」


「いえ」


 少し照れながら続ける。


「婚約者候補の」


 黒瀬は固まった。


「待て」


「冗談です」


「今の間は本気だろ」


「半分です」


「またその言い方か」


 彼女は笑い、そっと手を差し出した。


「明日、終わったらちゃんと答えてください」


 黒瀬はその手を握った。


「逃げ道ないな」


「ありません」



 最終戦決勝。


 スタンド満員。


 白峰がランキング首位。


 黒瀬は逆転には優勝しかない。


 御堂もまだ可能性を残す。


 運命の一戦だった。


 グリッド上。


 環がヘルメットを渡す。


「勝ってください」


「珍しく素直だな」


「今日だけです」


 結衣は少し離れた場所で微笑む。


 レイナからもメッセージが届いていた。


『勝ってこい! 元気しか取り柄ない応援送ります!』


 黒瀬は笑った。


 たくさんの人に支えられてここにいる。


 昔は知らなかったことだった。



 赤信号が灯る。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 五つ。


 消える。


 全車スタート。


 黒瀬は完璧な蹴り出しで一コーナーへ飛び込んだ。


 二位浮上。


 白峰を追う。


 御堂も迫る。


 激しい攻防。


 雨雲も近づいている。


 何が起きてもおかしくない。



 残り三周。


 黒瀬は白峰の真後ろにつける。


 最終コーナー。


 アクセルを踏む。


 事故の記憶がよぎる。


 それでも踏む。


 マシンが前へ出る。


 並ぶ。


 観客が総立ちになる。


 ホームストレート。


 二台横並び。


 チェッカーが振られる。



 勝ったのか。


 負けたのか。


 黒瀬自身にも分からなかった。


 ただ一つ分かったことがある。


 カーレースの向こう側にあったのは、勝敗だけではない。


 失って、支えられて、また走り出す人生そのものだった。



 数分後。


 正式結果が表示される。


 その瞬間、環が珍しく叫び、結衣が泣き、白峰が笑い、御堂が舌打ちした。


 黒瀬蒼真は空を見上げる。


 そして、静かに笑った。


 ――その答えは、彼だけが知っていた。




















その後、そしてまだ向こう側へ


 最終戦から三か月後。


 《オービット・モータース》本社大会議室。


 黒瀬蒼真は、重苦しい空気の中で椅子に座っていた。


 長机の向こうには役員たち。


 中央には会長・水無月剛三。


 結果は出した。


 最終戦では劇的な走りを見せ、シリーズ全体でも大きくチームへ貢献した。


 それでも、企業の論理は別にあった。


「黒瀬蒼真」


 剛三が低く告げる。


「君との来季契約は更新しない」


 部屋が静まり返る。


 理由は明確だった。


 年齢。


 怪我のリスク。


 高額年俸。


 若手育成への切り替え。


 会社としては当然の判断。


 だが現場の誰も納得していなかった。



「……そうですか」


 黒瀬は静かに立ち上がる。


 怒りもなかった。


 悔しさはあった。


 だが、それ以上に不思議なほど落ち着いていた。


「世話になりました」


 頭を下げ、部屋を出る。


 廊下には鷺宮環が待っていた。


「聞きました」


「早いな」


「壁薄いので」


「嘘つけ」


 環は真顔だった。


「行くんですか」


「どこへ」


「まだ走る場所へ」


 黒瀬は少し笑う。


「当たり前だろ」



 その夜。


 結衣の部屋。


 テーブルには手料理が並び、窓の外には街の灯り。


 黒瀬はクビになった話をあっさり伝えた。


 結衣は少し黙り、やがて言った。


「で、次はどこの国ですか」


「驚かないんだな」


「あなたが止まる人なら、好きになってません」


 黒瀬は吹き出した。


「欧州から話がある」


「行きましょう」


「俺一人でだぞ」


「何言ってるんですか」


 結衣は小箱を取り出した。


 中には指輪。


「私も行きます。婚約者なので」


「……いつ決まった」


「今決めました」


「強引すぎるだろ」


「嫌ですか?」


 黒瀬は答える代わりに、その指輪を受け取った。



 一年後。


 イタリア北部。


 歴史あるGTチーム《スコルピオ・コルサ》。


 黒瀬蒼真は異国の地で再出発していた。


 言葉も違う。


 文化も違う。


 コースも荒々しい。


 若手ドライバーたちは容赦なくぶつけてくる。


 だが、それが楽しかった。


「まだやれるな」


 ヘルメットを脱ぎながら呟く。


 ピット奥では、結衣が通訳スタッフと笑っていた。


 もう妻だった。



 二年後。


 黒瀬夫妻に第一子が生まれた。


 男の子だった。


 小さな手で、父の指を握る。


 黒瀬は初めてレースのスタート前より緊張した。


「泣いてます?」


 結衣が笑う。


「汗だ」


「病院で?」


「汗だ」


 名前は――迅人はやと


 速く、人に恵まれるように。


 そんな願いを込めた。



 三年後。


 黒瀬は欧州GT王者となった。


 怪我で終わったと言われた男が、海外で頂点へ立った。


 そのニュースは日本でも大きく報じられた。


 そしてある日、一通の連絡が来る。


 送り主は、水無月剛三。



 帰国後。


 会長室。


 剛三は以前より少し小さく見えた。


「老いたな」


 黒瀬が言う。


「失礼な男だ」


 剛三は鼻で笑う。


「単刀直入に言う。《オービット・モータース》を立て直せ」


「断る」


「即答か」


「一度クビにしただろ」


「だからこそだ」


 剛三は静かに言った。


「会社には数字しか見ぬ者が多い。現場を知る者が必要だ」


「娘はどうした」


「レイナは海外事業部で好き勝手やっておる」


 想像できた。



 数か月後。


 黒瀬蒼真は《オービット・モータース》新代表に就任した。


 元ドライバー。


 元クビ社員。


 異例のオーナー誕生だった。


 環はテクニカルディレクターに昇格。


「あなたが社長とか不安しかありません」


「初日から失礼だな」


「事実です」


 レイナは広報本部長として復帰。


「やっと戻れましたー!」


「肩書き重くなってるな」


「元気も重いです!」


 結衣は社内メディカル部門顧問となり、社員たちの健康管理を一手に引き受けた。


「無茶する人多すぎます」


「トップが俺だからな」


「原因分かってるなら直してください」



 そして十年後。


 新生オービット・モータースは世界選手権へ参戦。


 そのグリッドに、一台のマシンが並ぶ。


 ドライバー名は――黒瀬迅人。


 父譲りの眼差し。


 母譲りの冷静さ。


 祖父譲りの負けず嫌い。


 ピットウォールで黒瀬蒼真は腕を組む。


「行ってこい」


「親父、うるさい」


「誰に似た」


「たぶん全員」


 周囲が笑う。



 スタートシグナルが灯る。


 若き世代が走り出す。


 黒瀬は空を見上げた。


 かつて、自分は勝つことだけを見ていた。


 だが今は違う。


 走る者。


 支える者。


 去る者。


 戻る者。


 受け継ぐ者。


 その全てがレースだった。



 カーレースの向こう側。


 そこにあったのは、栄光だけではない。


 敗北。


 別れ。


 怪我。


 再出発。


 愛。


 家族。


 未来。


 そして、その先へ続く新しい挑戦。


 人生そのものだった。



 エンジン音が遠くで響く。


 物語は完結する。


 だがレースは、まだ終わらない。


登場人物紹介『カーレースの向こう側』


主人公


黒瀬蒼真


かつて天才ドライバーと呼ばれた男。大事故により一度レース界から姿を消すが、《オービット・モータース》で現役復帰する。無口で不器用だが情に厚く、何度倒れても立ち上がる強さを持つ。本作の中心人物。



ヒロイン・主要女性キャラクター


鷺宮環


冷静沈着で毒舌な敏腕エンジニア。黒瀬の走りを誰より理解し、時に厳しく支える存在。感情を表に出すのが苦手だが、内面では黒瀬を強く想っている。


水無月レイナ


明るく元気で騒がしいレースアンバサダー。実はチームオーナーの娘という秘密を持つ。天真爛漫だが芯は強く、現場の熱さを誰より愛している。


春日井結衣


黒瀬が入院した病院で出会った看護師。優しく包容力があり、時に甘い言葉で黒瀬を励ます。後に黒瀬の妻となり、人生の伴走者となる。


榊原詩乃


黒瀬の過去を知る女性。仕事のできる大人の女性で、復帰後の黒瀬の前に再び現れる。過去との決別を象徴する存在。



ライバルたち


白峰迅


現役最強クラスの若手王者。冷静かつ完成度の高い走りで黒瀬の前に立ちはだかる最大のライバル。実力で敬意を示す好敵手。


御堂玲司


勝負師気質のドライバー。荒々しく強引なレーススタイルで、黒瀬や白峰に食らいつく。口は悪いが実力は本物。



チーム・企業関係者


水無月剛三


《オービット・モータース》親会社の会長。厳格で数字を重視する経営者。黒瀬を一度解雇するが、後に再び呼び戻す。



次世代キャラクター


黒瀬迅人


黒瀬と結衣の子ども。父の才能と母の冷静さを受け継ぎ、後に新世代ドライバーとしてレース界へ挑む。



物語の魅力となる人間関係


* 黒瀬 × 環:信頼と衝突を繰り返す名コンビ

* 黒瀬 × レイナ:騒がしく明るい癒やし関係

* 黒瀬 × 結衣:人生を支え合う夫婦関係

* 黒瀬 × 白峰:世代を超えた宿命のライバル

* 黒瀬 × 詩乃:過去との決別を描く関係



ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


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