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前世でちょっと美容動画見てただけなのに

 その日、昼下がりの光を浴びた花々がきらめく宮廷自慢の温室サロンには、2人の姿があった。


 ひとりは若干18歳にして王宮の至宝と呼ばれる容姿を持ち、多くの女性達を虜にするこの国の王子グラジオラス・レイ。

 長いまつげを物憂げに伏せて、夏の息吹に満ちる花々に視線を落とす姿はまさに至宝の名にふさわしい美しさだ。



 そしてもう1人、ゆったりと肘掛椅子に腰かけるグラジオラスを押し倒すような大胆な姿勢をとりながらも、何故か小刻みに震える女……名をアリシアという。

 アリシアは子爵令嬢という肩書きではあるが、本来一国の王子であるグラジオラスとこんなところで2人きりになることを許されるような立場の人間ではない。



(やばいやばいやばいやばいやばい……!なんでこんなことになっちゃったの?緊張する、逃げたい逃げたい!……いや、そんなこと出来る訳ないけども!!!)


─────


 なぜこんなことになってしまったのか、時間は1か月前にさかのぼる。



「アリシア、聞いたわよ!いよいよ王宮からお呼びがかかったそうね!」

「私も聞きましたわ!なんでも王女様の美容係として王宮に呼ばれているのだとか?」

「食客になられるという話も聞いたわよ」

「さすがアリシア。羨ましすぎるわ」

「ま、待って待って!みんななんでその話を知ってるの?」



 いつも通り、休日のアリシアの屋敷のガゼボには友人たちが集まっていたが、集まった彼女たちの表情はいつも以上に興奮気味だった。


 王妃様名義の手紙が王宮から来たのは2日前。内容は彼女たちの言う通り、休暇期間の間、王女ミーア様の美容指導のため食客としてアリシアを招きたいというものだった。


 しかしアリシアはこの話を引き受けるべきか正直迷っていた。なので、彼女たちがこうして周知の事実としてこの件を話題に出して来たことにアリシアは驚いたと同時に「やられたな」と思った。


 周囲が知らない話であれば丁重に断ることも出来た。しかし、こう外堀を埋められてしまってはそう簡単に断ることも出来ない。

 アリシアは皆にバレないようこっそりとため息をつきながら、ことの次第を自分から皆に説明した。



「……でも、不思議だわ。どうして私なんかにお声がかかったんだか。王宮にはもっと腕の良い専属の美容メイドが居ると思うのに」

「不思議なことなんてないわ!なんと言ったってアリシアは美の伝道師なんだもの!!」

「なによ伝道師って!私そんなに大したことしてないんだから変なあだ名付けないでよ!!」



 この絶妙にダサいあだ名をなんとかやめてもらおうと声を上げたが、友人達たちは結託してこの異名ごとアリシアの評判をさらに轟かせるつもりでいるらしい。



「謙遜することないよ。私、アリシアのおかげで憧れの伯爵様と恋仲になれたんだから!」

「私も!恋人なんて一生出来ないと思ってあきらめてたのに、今月だけで5人も求婚を受けたんだから!」

「私なんて以前はメイクをしても全然綺麗になれなかったのに、アリシアのアドバイスのおかげで婚約者から毎日のように恋文が届くようになったのよ!」

「そんなの全部皆みんなの努力と素質の賜物だわ」

「ううん、アリシアのおかげに違いないって!私たち、アリシアの友達になれてどれだけ嬉しかったことか」

「他の令嬢たちがいつもアリシアの友人である私たちのことを羨ましそうにしてる視線を日々ビシビシ感じてるもの、王宮が囲い込みたがるのも無理ないって」

「うーん……」



 友人たちは力強くそう語っているけれど、アリシアには美容の事を自分の手柄として語りたくない理由があった。


(だって、私が美容法を発明したわけでもなんでもないし……)


 アリシアには前世の記憶がある。それは彼女が日本という国で17歳まで暮らした記憶である。


 アリシアはごくありふれた高校生だった。

 朝シャンしてメイクして電車に乗って、学校に着いたらすぐメイクと髪を整えて、授業が始まれば教師に見えないようにスマホで美容動画をこっそり見る。放課後には友人達とオススメの美容動画を教えあったり、新作コスメを買いに走ったり。そんなありふれた高校生活を送っていた。


 着飾ることが仕事とも言える貴族令嬢に生まれ変わっても、することは前世とさして変わらなかった。なにより、今も昔も友人とメイクやファッションの話をして過ごすことが大好きだった。


 前世の記憶を持っているというのは富も名誉も手に入るようなアドバンテージだということは理解している。

 しかし、前世で培ったモラルを捨て去ることが、アリシアにはどうしても出来なかった。



 だから、前世の知識を誰も知らないからといって自分の手柄のように吹聴する気には到底なれなかったし、友人達に「こんなメイク方法があるらしい」と伝聞調で話題を提供する事はあっても、メイクを施して対価を得て荒稼ぎする気にもなれなかった。


(だから伝道師だなんて呼び名は絶対に違うと思うんだよね)


 動画で見知った情報はあくまでも、友人と楽しむためのものであるべきだというのがアリシアのポリシーでもあった。


 だから王宮に食客に招かれても断るつもりでいたのに、こうも騒がれてはそいうわけにはいかなくなってしまった。 ここで断れば、うちは他の貴族から王家の頼みを無碍にしたと噂され、顰蹙を買ってしまうことだろう。



「はぁ……食客を承諾する手紙を今日にでも王宮に届けさせるよ」

「さっすがー!それでこそあたしたちの美の伝道師だわ!!」

「もう……それやめてってばぁ……」



 アリシアの反論もむなしく、その日の集まりはアリシアの出世祝いパーティーに早変わりし、大いに盛り上がった。しかし、少し盛り上がり過ぎてしまったらしい。



「おい、姉さん。ちょっと静かにしてくれないか?勉強の邪魔なんだが」

「ご、ごめんリベリオ!」

「まぁ、リベリオくんだわ!今日も本当に可愛いわね!」

「本当だわ、リベリオくーんこっちへいらっしゃい!女の子みたいに綺麗なお肌ね、お姉さんたちがお化粧してあげるわ」

「試したいマスカラがあるの、その綺麗なまつ毛に塗らせて頂戴」

「ひ、ひぃい……」


 迷惑そうに苦情を言いに来たリベリオを呑み込む勢いで、良いおもちゃを見つけたとばかりに友人たちが飛びかかった。



「け、結構です!それより、手紙を出すなら夕方の便がもうすぐ出るぞ!はやく出した方がいいんじゃないのか?」

「ありがとう、教えに来てくれたのね!」

「あら、残念だけどそういうことなら今日はお開きにしましょうか」



 年上の令嬢たちに囲まれてタジタジの様子のリベリオは、助かったとでも言いたげに大きくため息を吐いた。



─────



 1週間後、大きなトランクを抱えたアリシアは王宮にいた。


 王宮には様々な施設が内設されているため何度か足を運んだことはあったが、南側の王族の居住区エリアに足を踏み入れるのは初めてだった。


 アリシアが案内されたのは南東の広い一室だった。部屋には専用の風呂も衣裳部屋も付いていて、専属メイドまで付けてもらった。


 貴族の令嬢とはいえ使用人レベルの部屋に通されるものと思っていたので、これだけの好待遇にアリシアは足がすくんだ。


 この後はこの王宮にアリシアを招待した張本人でもある王妃様と指導相手となる王女様との対面が控えている。



(ただの美容指導でこんなに好待遇なんてあり得る?なにか裏があったりしない?)



 裏があろうとなかろうと、ここまで来てしまった以上引き返すわけにはいかない。この人に頼んで良かったと思われるよう最善を尽くす以外方法はもうない。


 アリシアは荷物を簡単に整え、専用に設えられた鏡台で念入りにメイクを直すと、約束の時間より早く部屋を出て王妃とお茶の約束をしているサロンへ向かった。



─────



 サロンで待つこと15分、時間通り現れた王妃と王女は2人とも目を疑うほどの美しさだった。アリシアは自分に出来ることなど本当にあるのかと遠い目になりながらも、王族である2人に丁寧に礼をした。



「そんなにかしこまらないで下さいアリシアさん、食客の話を引き受けて下さって本当にありがとう」

「いえ、私のようなものでお力になれるのであればなんなりと……」

「まぁ、心強いわ。ね、ミーア」

「はい、アリシア様、よろしくお願いいたしますわ」



 ミーア姫はアリシアより4つ年下の14歳であったと記憶している。王侯貴族の令息と令嬢は13歳から18歳まで貴族学園に通う決まりになっているので顔は知っていたが、こうして間近で話すのは初めてだ。


 ふわふわとした白金の髪をくるくるとなびかせたツインテールは王族らしい威厳と可愛いらしさを両立して神々しいほどだし、目鼻立ちは非の打ちどころのないほど整っている。


 だが、近くでよく見てみると、成長期らしくぷつぷつとしたニキビが化粧では隠しきれずに赤く顔をのぞかせていた。



「アリシアさんもお気づきの通り、この子吹き出物が酷くて学校へ行きたくないと言うの」

「だって……こんな顔じゃ恥ずかしいんだもの」

「メイドたちも手を尽くしてくれたんだけど上手く隠し切れなくて。美の伝道師の貴女の力でなんとかならないかしら?」

「び……!?いえ、私は美の伝道師などと言うような大層なものではないのですが……」

「伝道師アリシア様、お願いします!長期休暇が終わる前に吹き出物を治す方法をこのミーアにどうか教えて下さい。高級美容液でも海外コスメでもなんでも買って良いっていう言質はパパからしっかり取ってあるんです!」



 王族に2人して頭を下げられてしまってはアリシアは恐縮するほかない。しかも、国王の後押しもあると言われてしまえば尚更だ。



(これ、もし期日までに治せませんでしたー!なんてことになったら、私のクビ飛ぶんじゃない?絶対そうじゃん!)



 アリシアはこの任の重さにようやく気付き、冷や汗が止まらなくなっていた。



「おいおい、2人ともそんなに必死に縋りついたりして、アリシアが困っているだろう」

「あら、グラジオお兄様!」


 グラジオお兄様というのはもちろん、この国の王子であるグラジオラス・レイその人である。学年こそ同じではあるものの、別格の気品とオーラを持つこの人と話したことなど当然なかった。


 「学園中の女子の心の恋人」と言っても過言でない彼は高嶺の花であり、実際に彼とどうこうなろうという女子など存在しない。なぜなら彼の隣に並べばどんな美しい令嬢も霞んでしまうからだ。



「あら、グラジオラスはアリシアさんを知っていたんだったわね」

「あぁ、もちろん。でもアリシアは高嶺の花なんだ。こうして目の前にして話すのは初めてだから緊張してしまうな」

「いえ私はそんな……グラジオラス様こそ学園中の女性たちの憧れです。名前を知っていていただけただけで身に余る光栄でございます」

「そんなにかしこまらないでくれ。と言っても難しいよな。これまで縁の遠かった我々にこんな形で急に頼み事をされて君に迷惑をかけることを申し訳なく思っている。だが、妹の悩みも深刻なのだ。どうかミーアの力になってもらえないだろうか」

「は、はい。尽力いたします!」



 アリシアの返答を聞いたグラジオラスの美しいアーモンド形の瞳が緩やかに歪められ、完璧な微笑みを作り出す。まるで静謐な花でも咲いたかのようだ。

 それをこの至近距離で直視したアリシアの心拍数は急激に上昇していた。



(あのグラジオラス様に認知されてるとは思わなかった。それに、私が高嶺の花だなんて、褒め上手すぎない?冗談の才能まで天下一品なの?) 



「ねぇアリシア様、もう学校の再開まで3週間しかないの。それまでになんとかなるかしら」

「おいミーア、焦る気持ちは分かるが、その言い方ではアリシアをひどく困らせてしまうぞ」

「でも……」

「ミーア、グラジオも言ったとおり無理を言ってはいけないわ。アリシアさんと親交もないままに王族である私たちがお願いを押し通してしまったら、それはお願いではなく命令になってしまう。そうでしょう?」

「あっ!そうよね……ごめんなさいアリシア様」

「いえ、そんな……お気になさらないで下さいミーア様」



 ミーアの表情が見るからに萎れ、落ち込んでしまったのが分かった。そんな表情も年相応で可愛らしいが、出来物が治らず焦ってしまうミーアの気持ちもアリシアには痛いほどよく分かった。


 しかし、失敗すれば首が飛んでしまうかも?なんてことも本気で思っていたので、これが「命令」ではなくあくまで「お願い」であるというスタンスを表明してもらえたことは正直かなりありがたかった。


 王族の方たちとはまだ会って数分の仲ではあるけれども、3人とも王族として噂にたがわぬ素晴らしい人格の持ち主のようだ。

 そんな誠実な王族の方々に頼ってもらえたことを、アリシアは誇らしく感じていた。



「それなら、今日のところは美容指導ではなくて、アリシアと友人になるための茶会にするのはどうだろうか」

「名案だわグラジオ!そういたしましょう」

「そうね!私、アリシア様と仲良くなりたいわ!どうかしら?」

「はい、ミーア様にそう言っていただけてとても嬉しいですわ!」

「グラジオも、剣の稽古の時間までまだあるでしょう?あなたも一緒にどう?」

「はい。俺もご一緒させてもらいましょう」



 こうして王族3人とアリシアのお茶会が始まった。アリシアは最初、この状況に緊張しすぎて用意された氷菓子を上手く飲み込むことすら出来なかったが、そこはさすが、気遣い上手の王妃様とグラジオラスのおかげで徐々にこのお茶会を楽しむことができた。


 特にグラジオラスは、どこでその情報仕入れて来たの?と思うほどの学園にまつわる興味深い話題や私の友人達にまつわる話題を無理なく振ってくれた。おかげで会話に苦労することもなく、あっという間にお茶会の時間は過ぎていった。



「今日はありがとう。明日からどうかよろしくね」

「はい、こちらこそよろしくお願いいたします!」



 こうしてアリシアはなんとか初日のお勤めを終えた。



「部屋まで送ろう」

「え?いえ、すぐそこですから」



 解散してサロンを出てすぐのところで、グラジオラスに後ろから声をかけられた。


 広大な王宮とはいえ、同じ建物内の移動なのに送ってもらうという発想がなかったアリシアは少し面食らってしまったが、グラジオラスは建前としてではなく本気でアリシアを送っていくつもりのようだ。



「遠慮はいらない。この王宮は古くて迷いやすいんだ。俺も剣技の練習場へ向かう途中だから、ぜひ送らせてくれ」

「ありがとうございます。そういうことでしたらお願いいたします」



 2人は王宮の庭園にあるサロンからアリシアに用意された客間への道を歩き始めた。いつの間にか日も傾き始め、大きく影の落ちる時間になっていた。



「アリシア、今日は来てくれて本当にありがとう。改めてお礼を言わせてくれ」

「いえ、こうして皆さまとお話しする機会までいただいて、頼りにしていただけたことを嬉しく思っておりますわ」

「あまり気負わなくて大丈夫だよ。食客と言ってもこうして茶会に顔を出してもらうだけで大丈夫だし、何か嫌な事や不満な点があれば俺にこっそり言ってもらえれば可能な限り改善するつもりでいるから」


 

 グラジオラスの口ぶりから、なにか不満な点が無いかを聞きたくてアリシアを部屋まで送ると言い出したことは明白だった。


 アリシアは内心「宝物庫を漁らないように見張りに付いて来たのかな?」なんて考えていたので、グラジオラスの誠意に平身低頭謝りたい気分になった。



「いえ、不満だなんてそんなことは決して……」

「はは、アリシアは謙虚だからそんなことを急に俺に聞かれても言えないよな。よし、それなら折角友人になれたのだから、俺に対しては敬語をやめてみるのはどうだろうか?」

「えええ!そんな、恐れ多いですわ!」



 こうして王子と2人で歩いていることが学園に知れるだけでも大事件になってしまうだろうに、その上王子と砕けた話し方をするだなんてこと、他の令嬢たちが許すはずがない。バレたらイジメ確定だ。



 しかし、上目遣いで「だめかな?」とでも言いたげな至宝の瞳に見つめられると、アリシアとしても「バレなければ大丈夫かな?」とつい都合よく考えてしまう。



「わ、わかったわ。グラジオラス様」

「グラジオでいいよ」

「グラジオ……様?」

「あはは、様も必要ないよ。なにかと不便をかけるが、友人としてなんでも頼ってくれ」

「……ありがとうグラジオ」



 どうにかグラジオラスの機嫌を損ねずに済んだようだが、アリシアはドッと疲れたような気分になった。そして、学園の誰にもタメ口を利いていることがバレないよう心から祈った。



─────



「ではアリシア様、よろしくお願いいたします!」

「はい、さっそく始めていきましょうか」



 翌日、昨日の茶会と同じ時間、同じ場所でミーア姫への美容指導が始まった。しかし……



「あの、私てっきりミーア姫と2人で美容の話をするのかと思っていたのですが……」

「あぁ、俺の事は気にしなくていい。思う存分指導してやってくれ」

「そうよ、私もちょっと女性として美の伝道師の話を聞いてみたいだけだから、私達の事は気にせずミーアに指導してあげて頂戴」

「わ、分かりました」


(や、やりづらいよ~!!!)



 王族3人に囲まれて素直に気にせず過ごせるほどアリシアは図太くなかったが、2人とも引くつもりは無いらしい。アリシアは無駄な抵抗を諦めて、メモの準備をさせているミーア姫への美容指導を始めた。



「アリシア様、これが今私の使っている化粧品ですわ。こっちが基礎化粧で、こっちがコスメ用品。全部持って来たのだけれど、どれか評判の悪いものでもあるのでしょうか。それとも、なにか他にも買い足すべきなのかしら?」

「いいえ、どれも一級品ですし、過不足なく素晴らしい品ぞろえだと思いますわ」

「それなら何が原因なのかしら?」

「ええと……」



 アリシアは言い淀んだ。原因と思われることに見当はついていたし、昨日のやりとりからも発言の如何によって処分を言い渡されるようなことはないとは分かってはいたが、それを正直に言い渡す自信がアリシアにはなかった。


 そんな空気を察して助け船を出してくれたのもまた、昨日に引き続きグラジオラスだった。



「ミーア、ここらで君が美容に力を入れたい本当の理由をアリシアに話したらどうだい?」

「え?でも、そんなこと急に話されてもアリシア様も困ってしまうんじゃないかしら?」

「いいや、今はミーアの本気さをアリシアに知ってもらう時だよ。それに、いずれはアリシアも知ることになるかもしれないんだし、より親身になって指導してもらうためにも事情を話しておくべきだと思わないかい?」

「それもそうね。あのね、アリシア様、実は……」



 実は、と言ってものの3秒ほどで、ミーアの頬は真っ赤に染まり上がった。

 年下の可憐なお姫様の照れ顔を正面から向けられる機会を得られる者などそうそういない。同性のアリシアもつられて赤面してしまいそうなほど可愛い姿だ。


 こんな表情になるなんて、きっと恋の悩みに違いない。まだ事情を聞く前なのに、アリシアはこの様子を見ただけで、俄然協力したい気持ちがみなぎってきていた。


 しかし、彼女の口からは思いもよらない言葉が飛び出した。



「私、リベリオ様のことが好きなんです!!!」

「えええええ!」



 ガチャン


 やってしまった。驚きすぎてテーブルに腕を打ち付けてしまったのだ。即退席を言い渡されてもおかしくない失態だが、ミーアの言葉があまりにも衝撃的すぎてそれすらも小事に思えた。



(落ち着け落ち着け私……)



「ええっと……どちらの令息のリベリオ様でしょうか?」

「もちろん、アリシア様の弟君であられるリベリオ様ですわ」



 ガチャン!


 再びの失態を冒してしまったアリシアだったが、その脳内はもはや真っ白であり、テーブルに強かに腕を打ち付けてしまった痛みすら感じることが出来ていなかった。


 それほどまでに、弟のリベリオの名がミーアから挙がったことが意外だった。


 リベリオは決してイケメンではない。背もかなり低いし、剣技もイマイチだ。勉強だけはそこそこ出来るようではあるが、家族として贔屓目に見ても一刻の王女様に見初めてもらえるような美点があるようには思えなかった。


 なによりアリシアにとって弟のリベリオは4つも年下ながら小うるさい姑のような男であった。


 先日のようにアリシアの友人達に可愛がられるような機会があったとしても、四面四角なあの性格で受け流している様を見ていただけに、女性と恋愛関係を築くことは難しいだろうとアリシアは考えていたのだ。



「あの……なにかの気の迷いということではないのですよね?」

「はい、片思いだけで4年ほどかけておりますから、本気すぎるほど本気ですわ」

「ひ、ひえぇ」



 ミーアの母親である王妃も、兄であるグラジオラスも周知の事実らしく、2人ともはにかむミーアを微笑まし気に見つめていた。


 それでも到底信じられないと言いたげなアリシアの表情を汲んでか、まだ赤い顔のままのミーアはポツリポツリとリベリオとの出会いを語り始めた。



「リベリオ様とは就学前のサマースクールでご一緒いたしましたの。私、王族として恥ずかしくないよう、事前にしっかり勉強していったつもりだったのですが、すっかり内容が飛んでしまって、先生に答えを求められて困っていた私を隣の席のリベリオ様がこっそり助けて下さったんです……それから、一緒に勉強したりすることも増えて、それで……」



 正直、弟の恋愛話をあまり聞きたくはなかったが、ミーアの話すリベリオがあまりに理想的に塗り替えられているように思えて、アリシアは頭痛を起こしそうだった。


 彼女が乙女フィルター全開でリベリオを見ているのか、それともアリシアが弟の事を昔のままの子どもだと思いこんでいただけなのかは分からない。

 けれど、この状況をなんとかして受け入れなければ話が進みそうになかった。

 


「ですから、リベリオ様と再会する始業の日までに可愛いと思ってもらえるかもしれない私になりたいのです。弟さんのことをお話ししてしてしまって驚かせてしまったかもしれませんが、ご協力いただけないでしょうか」

「弟がミーア様に釣り合う人間かどうかはひとまず脇に置いておきまして、ミーア様が本気だということはよくわかりました。私もいらぬ遠慮などせず、全力をもって美容指導させていただきましょう」



 私は腕まくりをして、手元に隠していた資料を出した。



「その様子では、ミーアの肌の不調に心当たりがありそうだな?正直に言ってみてくれ」

「ミーア様の不調の原因は……」



 そこでアリシアは言葉を切った。そして、ミーア姫の瞳を見つめ、その目が本気であることを再び確認すると、覚悟を決めて言葉を口にした。



「ミーア様の不調の7割は、その氷菓だと思われます」

「えええええ!このアイスクリームが!?」



 ミーアはアリシアの返答が本当に意外だったようで、今まさに一口食べようと口元に運んでいたアイスを床に零してしまった。


 王妃もグラジオラスも同じく意外だったようで、その根拠を聞こうと身を乗り出してアリシアの話に耳を傾けた。



「昨日のお茶会でアイスクリームや氷の沢山入った果実水が出ているのを見て、ニキビの位置などからもそうである可能性が非常に高いと判断いたしました」

「ニキビの位置だと?そんなものに意味があると言うのか?」

「はい、昨日の茶会の後、料理番やメイドたちにも確認をとらせてもらいましたが、ミーア姫は夏の間冷たい飲み物や氷菓子を毎日のように楽しんでいらっしゃると伺いました」

「それはもちろんよ。氷菓子を食べられるのは氷室を持つ王家の特権だもの、こんな暑い日が続いては食べずにいられないわ」

「俺も母さんもミーア同様、毎日のように食べてるが、ニキビが出来たのはミーアだけだ。本当にそれが原因なのか?」

「はい、間違いありません」



 そう言い切るのにはある程度根拠があった。しかし、ここは動画で誰もが医学知識を簡単に得ることが出来る世界ではない。専門用語や前提知識のない相手に上手く説明しきれるだろうか。


 納得できる説明が出来なければ、ミーアの大好きなアイスクリームを取り上げて嫌がらせをしようとしていると思われてしまうかもしれない。

 とはいえアリシアとしても覚悟を決めて話し始めた以上、途中で引くわけにもいかなかった。



「まず先に、残りの3割の原因の話をしておきましょう。ミーア様は14歳であられます。14歳というのは、どんなに条件を揃えて気を使っても、ニキビが出来てしまう、そういう年齢であるとお考え下さい」

「どんなに気を使ってもですか!?ではこの状況はもうどうにもならないのですか!?」

「いいえ、手を尽くすことはできます。まずは体を、特に胃を冷やさないこと。暴食をしないこと。手を頻繁に洗い、顔を極力触らないこと。まずはこれが基本です」

「でも、そこまでしても出来てしまうことがあるのでしょう?」

「はい。しかし、どう対処するかも非常に重要です。自分に合ったケア方法を事前に知り、迅速に対処することは、ニキビ跡を防止することにもつながります」

「な、なるほど」

「まずは今あるニキビの対処法を考えて、そのあと食事や体質の改善をしていきましょう」

「はい!」



 今日のところはミーア姫のニキビひとつひとつに違う処方の薬を塗って、翌日の効果を試す運びとなった。


 食事改善の話になると、大好きなアイスクリームが食べられなくなってしまうことを心底悲しそうにしながらも、しぶしぶ承諾してくれた。



「なにも、すべてを諦める必要はないのですよ。例えば、アイスクリームはではなく冷たすぎないソフトクリームであれば、胃への負担を減らすことが出来ます。どうしても毎日食べたいのであれば、温かい白湯と一緒に摂取するのも手ですし、週に1日だけでも胃を休ませる休肝日ならぬ休胃日をつくることも非常に有効です」

「いいえ、絶対に治したいのですもの。始業の日までアイスは禁止にするわ!」

「偉いですわ、ミーア様!一緒にがんばりましょう!」



 アリシアはミーアの決意を聞くと、取り分けていたアイスクリームをテーブルから遠ざけた。


 アイスクリームなど、貴族の令嬢と言えどもよほどのことがなければ食べられない贅沢品だ。こうして王宮に来たことで毎日のようにアイスを食べられることは誰もが羨む特権であったが、指導対象がアイス断ちを決断した以上、アリシアとしても自分だけ食べる気には当然なれなかった。



「では俺もアイスクリーム断ちするとしよう」

「そういうことなら私も」

「お兄様、お母様……!」



 こうして茶会の目玉とも言える氷菓子が食べられなくなってしまったため、今日のお茶会は早めに終了することとなった。



「おや、今日は氷菓子が沢山余っているではないか!」

「パパ!」

(えええ!国王様!?!?)



 お茶会の解散目前というところで供も引きつれず悠然と現れた人物に、アリシアは慌てて席を立って片膝をついた。


 国王と直に顔を合わせる機会など、貴族と言えどもそうあるものではない。アリシアも、遠目に拝謁したことがある程度で、こんな私的な場に居合わせてしまったことに心臓が縮み上がるほど恐縮していた。



「ふむ、そなたがミーアの美の指導役となった令嬢じゃな。名をなんと申す?」

「はい、アリシア・メトロプレジアと申します」

「ほほう、トポリとメーレンの子じゃな。顔を見せよ」

「はい」

「…………」


(うわぁ、めちゃめちゃ見られてる……)



「……そなた、あの2人に全然似ておらんのう。本当にあやつらの子どもか?」

「父さん!そんな言い方はないだろう!!」

「いや、すまぬ。こんなにべっぴんなお嬢さんがおったとは知らんかったもんで驚いたという意味で、けなすつもりは……」

「そんなの関係ないよ。アリシアにものすごく失礼なことを言ったんだからちゃんと謝って!」

「えええ、ワシ、そんなにひどいことを言っておったか?」

「いえ、国王様に謝っていただくなど……」

「アナタ、アリシアさんに誠心誠意謝って頂戴!」

「そうよパパ!せっかく来ていただいた私の大事な先生なんですからね!」

「ううぅ……アリシア嬢、失礼な物言いをしてしまい誠にすまんかった」

「そんな!お願いですから頭を上げてください国王様!!!」



 国王に頭を下げさせているというありえない状況をなんとかやめてもらおうとしたが、アリシアはあたふたすることしか出来ず、結局なぜか一番怒っていたグラジオラスが「よし」と言うまで国王様による謝罪を受ける羽目になってしまった。



「それで、このたっぷり余っているアイスはワシが食べてもいいのかの?」

「ぜったいに食べちゃだめ―――!!」

「ええぇ、そんなぁ……」


─────



(あぁ、今日は昨日以上に疲れた……)


「どうかしたか?アリシア」



 疲れた原因の何割かはグラジオラスにあったが、彼を攻めるわけにもいかず、アリシアは大丈夫だと告げながら、今日も部屋まで送ってくれるグラジオラスと一緒に王宮内を歩いていた。



「でも驚いた。国王様が私の両親を知っていただなんて」

「さっきは本当に申し訳なかった。普段はあんなことを言う人ではないんだが、温室内ということで、少し気を抜いていたようだ」

「本当に気にしてないから大丈夫だよ」



 暗に「化粧で化けたな」と言われているのはさすがのアリシアでも分かっていたが、何を言われてもやめることなどできないのが化粧というものだ。


 グラジオラスは国王に怒ってくれたが、アリシアとしてもある程度自分を偽っている自覚があっただけに、申し訳なさもひとしおだった。


 アリシアはもう何年も家族にすら素顔を見せていない。次にアリシアが素顔を見せる時は、未来の夫となる人物に土下座とともに詐欺具合を白状する時だと決めていた。


 けれど、相手が王族とあってはこの顔面も立派な偽証罪に該当してしまう可能性がある。そのことにグラジオラスが思い至る前にと、アリシアは慌てて別の話題を探した。

 


「えっと……王族の皆さんは温室だと、気を抜いてしまうって、どういう意味?」

「あぁ、あの温室は俺達王族にとって特別な場所なんだ」



 そう言いながら廊下を歩くグラジオラスの視線は、階下の温室に向けられていた。



「俺達王族は立場上、家族と言えどもわきまえた振舞いが求められるのが日常だろう?でもそれでは息が詰まってしまうから、あの温室内でだけは平民の家族のように親しく過ごすと決めているんだ」

「えええ!そんな大事な場所だったの!?そんな所に私も入ってしまって良かったの?」

「あぁ。むしろ、あれぐらいフランクな場でなければ君は恐縮しすぎてしまうだろう?」

「そうかもしれないけど……」

「王宮に呼び出されたりして、随分気を揉んだだろう?でも、そういうわけだから、友人の家に遊びに来たぐらいのつもりでいてくれたら嬉しいよ」

「う、うん。分かったわ」



 アリシアは「そんな風に思えるか!」とツッコミたい気持ちをグッと抑え、グラジオラスと別れた。



─────



1週間後……



「な、治ってる!治っているわ!!!」

「はい、本当に良かったです」

「ここもここも!もう一ヶ月以上ずっと治らなくてどうしようかと思っていたのに跡形もなくなっているわ!!」

「最初に試した方法の中に合う治療法があって良かったですわ」

「ところでアリシア様、これは一体何を塗ったのですか?」

「ふふふ、これはごくありふれた火傷治しの軟膏ですわ」

「えええ!そんなもので治るのですか?」

「合う合わないはありますが、結構ニキビにも効果があるお薬なんですよ」

「でもこっちのはまだ治っていないみたいね。これぐらいならもう潰してしまっていいかしら?」

「ぜっっったいにダメです!!!」

「えー」



 ミーアの努力の甲斐もあり、8割ほどのニキビを撃退することに成功していた。しかし、一番昔からあるというニキビの治りがなかなか良くならず、何度薬を塗っても最初と変わらない様子のニキビにミーアは気を揉んでいるようだった。


 しかし、まだ付き合いの浅いアリシアから見ても分かるほどミーアの表情は明るくなってきていた。



「最近はニキビを隠すばかりじゃなくてどうお化粧するかが楽しみで楽しみで、夜も眠れないんです」

「あら、ミーア様。夜更かしはお肌の天敵というのは本当のことですのよ」

「大丈夫ですわ!寝れないとは言っても、お気に入りのクマちゃんを抱っこすれば一瞬で眠りにつけますもの!」

「あら、でしたらクマちゃんのケアはされていますか?」

「え?」


 一瞬でミーアの表情が曇った。



「私が赤ちゃんの頃から大切にしているクマちゃんよ?ブラッシングをすることはあるけど、クマちゃんのケアが肌に影響を与えると言うのですか?」

「はい。大変申し上げにくいのですが、古い繊維は脂分を多く含んでいてその……あまり衛生的とはいいがたいのです……」

「そんな……」



 さすがにこの世界でダニだ油脂だと言っても通じないので言葉を選んだつもりだったが、アリシアの言葉はクマちゃんを大切にしているミーアをひどく傷つけてしまったようだった。



「少し可哀想ではありますが、一度綿を抜いて洗濯をするというのはどうでしょうか。きちんと丁寧に手洗いをして日陰にしっかり干せばきっと大丈夫ですわ」

「分かりましたわ、その方がクマちゃんも喜ぶはずですもの……」



 最初は難色を示していたミーア姫だったが、なんとか納得してもらえたようだ。



「……クマちゃん?美容の話ではなかったのか?」

「あら、お兄様。やっと起きたのですか?」

「すまない、ここは居心地が良くて眠ってしまったようだ」

「もう、仕方ないお兄様ですこと。今日はもうお開きですから、アリシア様をお部屋までお送りしてくださいませ」

「ふぁあ、そうだな。アリシア、ちょうど話そうと思ってたこともあったし、行こうか」

「えぇ、分かったわ」



 アリシアはミーア姫に退室の礼をすると、グラジオラスと共に南東の自室へと向かった。



「それで、話そうと思ってた事って?」

「あぁ、そうそう。君が休暇の課題を滞りなく進められているか、確認しておく必要があると思ってね」



 当たり前のような顔をしてアリシアの課題の進捗を尋ねてくるが、なぜ彼がそんなものを確認しておく必要があるのか、アリシアには皆目見当もつかない。


 そしてそれはアリシアにとって正直あまり触れられたくない話題でもあったため、なんてことはないという顔を作って素直に理由を尋ねた。



「いや、君に問題が無いならいいんだ。ただ、君をこの家に拘束してしまっているせいで、学業に支障をきたしてしまっていないか、ずっと気になっていたんだ」

「そ、そういうことね。それなら問題ないよ。課題も期日内に終わる見込みだし、分からないところも今のところ特に無いから」

「そうか、さすがだな」



 正直なところ、あまりに難しすぎる課題に手すら出せていなかったので、分からないところが今のところは無いというのはギリギリ嘘ではないのだが、心配させないためにも自信たっぷりにこう答えるべきだと直感していた。


 しかし、こう言えばグラジオラスがこの話を終わらせてくれるだろうというアリシアの見立ては大きく外れてしまった。



「実は、世界史の課題で少し自信がないところがあるんだ。剣の稽古の前に少し教えてもらうわけにはいかないだろうか」

「へ?」



─────



  数分後。

 グラジオラスの頼みを聞く形で、アリシアの部屋のデスクには肩を並べるように2人が座っていた。



「アリシア……君はさっき、課題は期日までに終わる見込みだと言わなかったかい?」

「あはは、終わらせる気は一応ちゃーんとあるよ?気だけだけど……」

「……俺には終わる算段がついているようには見えないが?」

「もう、グラジオだって分からないところがあって終わっていないんでしょ?だったら私と一緒じゃない!」

「いや、俺は単に世界史の担当教諭の金切り声を正しく聞き取るのに日々苦労しているだけで、あとの教科はもうすでに終えているんだ」

「えええええ!あんなに難しいのにもう出来たの!?」



 まだ2週間も休暇を残しているのに1教科以外全ての課題を終わらせている事におどろきすぎてうっかり本音を漏らしてしまったが、グラジオラスは呆れたりせずに課題が殺人的な量であった事に同情を示してくれた。



「もしアリシアが迷惑でないのであれば、ここにいる間にこれまでの世界史のノートを写させてもらえないか?代わりに俺にできる範囲で君の課題を少し支援しよう」

「うぅ、ほんとに!?本当に助けてくれるの?神様仏様グラジオラス様って感じだよ……」

「なんだよカミサマホトケサマグラジオラスサマって。どういう意味だ?」

「あぁ、気にしないで!めちゃめちゃ感謝してるって意味だから」

「それならいいんだが……」



 こうして、時間を見計らって勉強をしあう日々が始まった。


  グラジオラスは学年上位の成績だという噂は本当だったようで、アリシアの課題は無事に加速度的に進んでいったのだった。



―――――



「グラジオラス様、今日はいらっしゃらないのですね」



 指導開始から2週間が経ったある日。

 その日の美容指導が一段落したところで、アリシアはミーアに疑問をぶつけてみた。王妃は多忙で同席しないことも多かったが、グラジオラスは遅れて来たりすることはあってもなんだかんだ毎日この温室のお茶会に顔を出してくれていたのだ。



「あら、アリシア様はグラジオお兄様が気になるのですか?」

「え?いえ、そういうわけでは……」



 即座に否定したものの、ほんのりと頬が熱くなったのはアリシアの気のせいだと思いたい。



「ふふふ、アリシア様がお兄様を気にしてくださって、ミーアは嬉しいですわ。今日はお兄様の剣の稽古相手が試合に来ているんです」

「そういえば、このお茶会の後はいつも剣の稽古をしているとおっしゃっていましたね」

「アリシア様、よかったら一緒に見に行ってみませんか?」

「え!?」



 ミーアの予想外の提案に、アリシアは反射的に「見たい」と思ってしまった。


 普段なら身の程をわきまえて固辞するところだが、年下のミーア姫とも随分仲良くなっていたし、2人きりだったこともあって、すこし気が緩んでしまっていたようだ。


 ミーアの方もアリシアの瞳の一瞬の輝きを見逃さず、彼女の返答が是であることを鋭く察知したらしい。


 トントン拍子に話は進み、お茶会を終えた2人は川沿いにそびえる王宮の東館まで来ていた。


「アリシア様、そこではよく見えませんでしょう?もう少し近くで見ませんこと?」

「いいえ!私はここで大丈夫ですわ!」



 グラジオラスの試合を見に剣技の修練場まで来たものの、がらんどうの客席から堂々と試合を見る勇気が出ず、出入口に立ちすくむアリシアをミーアが窘めたが、アリシアとしても折れるわけにはいかなかった。



(だって、下にこんなに観客が居るだなんて思わなかったんだもん!!!)



 今日は別の学校の生徒が試合に来ているようで、どこからその噂をききつけたのか、たくさんの応援客が詰め掛けていた。

 応援客の中には父兄もいたが、そのほとんどがグラジオラス目当てのようで、キャーキャーと黄色い声援が修練場にこだましていた。


 アリシアとミーアは温室のある南館の渡り廊下から直接東館の修練場へ向かったため2階の観客席に出たが、今日は単なる練習試合であるためか、東館の1階から2階へ向かう扉は施錠されており、観客席は一般には開放されていないようだった。


 そのため、アリシアたちがこのガラガラの観客席でこのまま観戦でもしようものならば、試合中のグラジオラス達以上に観客たちの視線を集めてしまうことは必至であり、それは今回の食客の件を伏せておきたいアリシアの思惑とはかけ離れていた。

 そういうわけで、アリシアは2階の出入り口からこっそりと観戦していたのだった。



「ミーア姫様、ここは面倒ですが、一度南館に戻って他の観客と一緒に1階から観戦いたしませんか?」

「それではお兄様の雄姿がよくみえないではありませんか」

「それなら東館の鍵を取りに北館まで戻りましょう?」

「……アリシア様って、意外と頑固なのですね」

「ミーア姫様に私の事をご理解いただけて嬉しい限りですわ」



 ニッコリと微笑みかけてみたものの、ミーアにはすっかり呆れられてしまった。しかし、なんと言われようとこんな目立つ席で堂々と観戦する度量はアリシアにはない。



「はぁ……ここからなら距離もそこそこありますから、誰もアリシア様だとは気づかないはずですわ。それに、こんなところに来られるのは王族だけですから、アリシア様のことも侍従だと思われるだけだと思いますわよ?」

「た、確かに!それはそうかもしれませんわね!」

「さぁ、そういうわけですから早く見やすい席に座りましょう。ちょうどお兄様の試合が始まりますわ」



 グラジオラスの出番になったことは声援だけでもすぐに分かったが、彼自身を探すことも容易だった。


 試合は5対5のチーム戦の大将戦。大柄で怒気を纏ったようなオーラを放つ相手大将とは対照的に、木剣を構えたグラジオラスの周りだけが緊張の糸をしんと張ったように凪いでいた。



(か、かかかかっこいいい……!!!!)



 世界一月並みでミーハーな感想であることはアリシア自身もよく分かっていたが、そう思わずにはいられなかった。


 一心に集中を高めた表情のグラジオラスは、いつもの理知的な印象とはずいぶんと違っていた。その甘い仮面の奥からチラリと彼の獰猛さが顔を出しているように思えて、アリシアの背はぞくりと泡立った。



「はじめッ!」



 審判の合図があったと思った刹那、相手総大将が横転していた。


 グラジオラスの雄姿を見逃すまいと真剣に試合を見つめていたはずだったのに、アリシアの愚鈍な動体視力では何が起こったのか理解することすらできなかったが、それが彼らの圧倒的力量差によるものであることは一目瞭然だった。



「キャーーーーー!」



 グラジオラスが勝利したことで、修練場はその日一番の盛り上がりを見せ、観客は大いに沸いていた。



「すごいすごいすごい!すごいよグラジオ!!」

「さっすがお兄様ですわ!」



 ミーアとアリシアも、グラジオラスに賛辞を送るべく、立ち上がって大きな歓声を送った。



(……あ、目が合った)


 先ほどの険しい表情から一転して笑顔を見せるグラジオラスの視線がまるでアリシアが2階に居ることをあらかじめ知っていたかのようにまっすぐに向けられ、アリシアの胸は否応なく高鳴った。



(え?……なに?)



 グラジオラスの口がパクパクと動いてこちらに何か言っているようだが、この距離ではよく分からない。


「タ・オ・ル・忘・れ・た・投・げ・て・く・れ……ですって。私のはさっきお茶の席で使ってしまいましたの。アリシア様が渡して下さいますか?」

「ええ、そういうことでしたら」



 アリシアは試合の興奮のまま、いつもお世話になっているグラジオラスのためならと1階の彼めがけて持参していたハンドタオルを投げ込んだ。



(あ、やばい……観客にバレた)



 1階の人々の視線が一斉にこちらに向いたのが分かって、一気に鳥肌が立つのを感じた。けれど、照れも建前も吹き飛んでしまったかのように、彼から目を離すことがどうしてか出来なかった。



(だって、グラジオがこんな顔で笑うから……)



 今までの茶会での親し気な笑みも魅力的だった。けれど、今日のグラジオラスの笑顔はとろけるような甘さがあった。


 まるで、アリシアが試合を見に来てくれたことを心底喜んでくれているかのような、そんな勘違いをしてしまうほどの笑みだった。



(私、グラジオのこと好きだ……)



 アリシア自身、この感情が非常に安直だということは理解していた。それでも胸を渦巻くこの気持ちはまっすぐにグラジオラスを向いていた。



 こうして親しくなるまでは、美しすぎて近寄りがたい存在だとずっと思っていた。


 けれど、2週間毎日お茶を共にして、毎日部屋まで送ってもらって、勉強をして、そしてこんなふうに親しげな笑みを向けられては陥落もやむなしだった。


 ここにいるグラジオラスのファンはきっと彼がこんなに温かい人間だということを知らない。


 家族を心から大切にしていることも、温室の椅子で昼寝をするのが何より好きなことも、実はミーアと同様に木苺のアイスクリームが好きなことも、世界史のピグ先生の風変わりな声だけでなく特有のミミズのような文字を読み取るのも苦手だということも、勉強を教える時はちょっと擬音が多くなることも、王子らしく振る舞う努力を欠かさない彼がこんなふうに優しく笑うことも。


 知っているのは自分だけだという優越感は、蜜のように甘く、判断力を鈍らせていた。



─────



  やってしまった。


 修練場から自室に帰ったアリシアは、ひとり猛省中だった。

 あんな場所で大勢の前で王子と関わるなんて、どうかしていたとしか思えない。



 コンコン……


 19時を回ったあたりで部屋の戸を叩く音がした。時間的にメイドさんが食事を持ってきてくれたのだろうと思って扉を開いたが、そこには思いがけない人物が立っていた。



(うそ……グラジオ!?)



 そこには食事のワゴンを脇に携えたグラジオラスが立っていた。


「やぁ、今日はお茶も勉強もご一緒出来なかったから晩飯ぐらい一緒にと思って来てみたんだけど、どうかな?」

「う、うん。ぜひ一緒に」



(そりゃあ好きにはなったけど、相手は王子じゃん?さすがに進展があるなんて身の程知らずなことは考えてないよ?好きって気づいたばっかりで2人きりとか緊張しすぎてヤバいけど、とはいえ断る理由も違うじゃん?それぐらいは友人として普通だよね?)


 アリシアは脳内で熱心に御託を並べているが、わざわざ訪ねて来てくれたことが嬉しくてふわふわと浮かれてしまいそうな気持ちを落ち着けたいだけである。



「さっきはタオルをありがとう。明日には洗って返すよ」

「お役に立てたならよかった。私、剣の試合って初めて見たけど、凄い迫力なんだね」

「ありがとう。ちょっとは惚れてくれた?」

「惚れた惚れた!もうメロメロだよ」

「あはは、それは嬉しいな」



 惚れた?なんて聞かれたら全力で冗談らしく答えるぐらいしか、好意を隠す方法をアリシアは知らない。

 それでも鼓膜に焼き付けたいと思うほど、彼とのこんな他愛ないやりとりを愛しく思っていた。



「ミーアへの美容指導はどうだ?上手く進んでいるか?」

「うん、かなり順調だよ。この二週間で肌の炎症は相当改善したし、今はミーア姫の希望でウォーキングの練習をしたり、歯のホワイトニングをしたり、他の美容にも手を出しているところかな」

「そうか、日増しにミーアの笑顔が増えてるとは思っていたんだ。全部君のおかげだよ。そんな頑張っている君とミーアに俺からご褒美を渡したいんだが、何か欲しいものはあるかい?」

「ええー、そんなのいいよ。全部ミーア姫の努力のおかげだし、私はなあんにも!」

「ふっ、君は本当に謙虚だな。王宮の宝を強請ったっていいほどの成果だと思うんだが」

「いやいや、さすがにそれは言いすぎだよ!」



 グラジオラスは謙虚だと褒めるけれど、アリシアにとってはやはり動画で得ただけの知識を自分の手柄にするのは抵抗があった。


「とは言ってもミーアへのご褒美は決めてあるんだ。それを君にも協力してもらおうと思ってね」

「ミーア姫頑張ってるもん、ご褒美ならもちろん協力するよ!」

「ありがとう。少し話は飛ぶが、君は今月末に国王が主催する小規模なパーティを知っているか?」

「う、うん。うちの両親が毎年欠かさず出席してるやつだよね……?」



 アリシアの両親は毎年、かなり気合を入れてこのパーティに参加していた。というのも、このパーティに呼ばれる者はあまり多くないようで、毎年参加し続けているというだけで他の貴族から一目置かれるステータスになるような、そんな価値のある集まりのようだった。



「あれ、小規模開催だから色々噂を呼んでしまっているけど、実はただの友人同士の集まりなんだ」

「えええ!ってことは、国王様とうちの両親は友人だったの!?」

「学生時代に可愛がっていた後輩だと聞いたことがあるよ」

「ぜ……全然知らなかった」



 道理で国王がアリシアの両親の顔をパッと思い出せたはずである。



「そのパーティに今年は君と君の弟も招待したいと思っているんだ」

「……つまり、弟と休暇中に会えることが、ミーア姫へのご褒美?」

「そういうこと!」

「いい考えだと思う!!」

「だろ?」



 リベリオが本当にご褒美になるほどの人物かはさておき、アリシアとグラジオラスはさっそく弟に手紙を出した。

 噂のパーティに家族総出で参加したとなれば、アリシアの家の評判が鰻登りに上昇することは火を見るより明らかだ。貴族としても、こんなにありがたい誘いに乗らない手はない。



「……と、いうわけだから、父さん母さんと一緒に、ちゃんとおしゃれして来て、ね……っと!よし書けた!」

「ははは、リベリオ君ビックリするだろうな」



 翌日、手紙を読んだリベリオが椅子から転げ落ちるほど驚いたことは言うまでもなかった。



─────



 パーティー当日。

 開始3時間前の王宮を、リベリオは早々に訪ねていた。両親たちとは別の馬車に乗って早めに到着した理由はもちろん、あの手紙だけでは自分が本当に正式な招待を受けているのか確信が持てなかったからである。



「姉さん、本当なのか?俺も噂のパーティに行って大丈夫なんだろうな?」

「もちろんだよ、ね!グラジオ?」

「あぁ、ぜひ参加してくれると嬉しい」

「そうですか、グラジオラスさんがおっしゃるなら本当なんですね」

「ちょっとぉ、なんでお姉ちゃんの言葉じゃ信用できないのにグラジオの言葉なら信用できるの?」

「それは日ごろの行いによるものとしか言いようがない」

「むうぅ……」



 完膚なきまでに言い伏せられてしまったが、グラジオラスと比べられてしまっているのだから勝てるはずもない。

 とはいえ、グラジオラスの前なのだからもう少しオブラートに包んだ言い方をしてくれとアリシアは弟を睨んだが、全く効いていない。まったく可愛くない弟である。



「グラジオラスさん、ご無沙汰しております。この度は姉がご迷惑をおかけしました」

「いやいや、迷惑をかけているのはこちらだよ」

「え?知り合いだったの!?」

「あぁ、ちょっとな。そんな知り合いの彼と少し向こうで内緒話をして来たいんだが、構わないかな?」

「え?うん、そりゃあ構わないけど……」



 そう言って温室の大きな植物の葉の陰にリベリオを引っ張っていくグラジオラスの顔がいたずらっ子のように何かを企んでいる顔に見えて、アリシアは驚きのあまり二度見してしまった。


(そ、そんな顔もカッコイイ~!!!けど、何話してるか全然聞こえない。めっちゃ気になるんだが……???)



 しかし、内緒話を終えて帰って来たリベリオが、覚悟を決めた大人の男の顔をしていることに気づいてアリシアは再び驚かされた。



「姉さん。俺に化粧をしてくれないか」

「はい!?!?なんで女装なんて話になってるの!?」

「違う違う。男性用のフォーマルなやつだよ。学園の入学の時もしてくれただろう?それのもっとしっかり手の込んだやつを頼む」



 確かに入学式の際、彼に化粧を施した。けれど、その時は弟の晴れ舞台を着飾らせてあげたい一心でアリシアが無理やりやっただけで、リベリオ自身はかなり嫌々受け入れていたはずだ。

 少しシミやクマを消す以上の事はさせてもらえなかったので、それ以上を望まれる日が来るとは思ってもみなかった。



「そりゃぁいいけど……どういう心境の変化?」

「姉さん、前に庭のガゼボで友達に言ってただろ?化粧は心の武装だって」

「き、聞いてたの!?」



 それは、友人の1人が片思いの相手に告白をしに行くために、アリシアがメイクを施していた時にかけた言葉だったはずだ。


 アリシアは動画で見知ったことを友人に伝えることはあっても、他人にメイクを直接施すことは控えていた。けれど、大一番の舞台に向かう友人を応援するため、その日だけはメイクを引き受けていたのだった。



「今から俺は、心も体もしっかりした武装が必要になるんだ。姉ちゃんの主義は理解してるつもりだが、どうか引き受けてもらえないだろうか」



 アリシアは弟から「引き受けてもらえないだろうか」だなんて丁寧な物言いでお願いをされたことは今まで一度もない。


 多くは語らなくても、グラジオラスと視線を合わせて頷き合う様を見ていれば、彼がこれから何をするつもりなのかは鈍いアリシアにも察することが出来た。



(リベリオは今から、ミーア姫をエスコートするつもりなんだ……)



 貴族のパーティは男女同伴が基本だ。今日のパーティでは、グラジオラスはミーアと、アリシアはリベリオと出席するつもりでいたのだが、たった今、ミーア姫様をエスコートするその席をグラジオラスが彼に譲ったのだろう。


 動揺の隠せないアリシアとは対照的にキリリと背筋を伸ばしたリベリオは、武装などせずとも勝負の場に出る覚悟が決まっているように見えた。



(逞しくなったな)



「分かった。いい男になったね、リベリオ。お姉ちゃんが精一杯武装してあげるから自信を持って行っておいで」

「ありがとう」



 グラジオラスにこの場で化粧をする許可を得たアリシアは、常に持ち歩いている化粧道具を開いて丹念にメイクを施すと、準備を終えて談話室でグラジオラスを待っているはずのミーア姫のもとへとリベリオを送り出した。


─────



「ふう……」

「お疲れ様、アリシア」

「いやあ、弟のためにひと肌脱ぐってのも悪くない気分だったけど、ちょっと寂しいものだね、あははは」

「自分からミーアを頼むと言っておいてなんだけど、俺も今似たような心理だよ」

「あ、やっぱり?」



 グラジオラスと2人きりになった温室は、あまりにも静かで、その静けさが寂しさを増長させていた。



「さて、じゃあ俺もアリシアに武装してもらうとしようかな」

「はい?まさかグラジオ、女装に興味が……?」

「あはは、この流れでなんでそう思うかなぁ」



 冗談っぽく笑っていたはずのグラジオラスの目がふっと真剣なものに変わった。まっすぐにアリシアの瞳を見つめるその視線は、どこか試合の時の彼を思わせる熱を帯びていた。



(しっぽり弟の門出を見送っていたはずが、なんでこんな流れになった???)



 数秒待ってみても、グラジオラスは視線を外してはくれない。彼の目線がアリシアの肌を撫でるたびに、身悶えしそうなほどの羞恥心がアリシアを襲い、めまいまでしてきた。



「短い付き合いだけど、俺も君の信条は理解しているつもりだよ。膨大な知識を持っていながら、それを決してひけらかしたりしない。ごくごく親しい友人に知識をお裾分けすることはあっても、メイクを施すのは大事な時だけ。実際メイクの腕もかなりのものだけど、それで大儲けを企んだりも決してしない」



 グラジオラスの言っていることは事実だったが、アリシアの信条を彼が知っているとは思いもしなかった。



「今から俺は大一番の勝負に出る。君の武装の力を借りたいんだ」

「でも……」

「友人の一大事にしかその力を使わないんだろう?俺はこの2週間で君と友人になれたつもりでいたんだが、俺の思い違いだったか?」



(友人、か……)



 友人になれたことは嬉しいはずなのに、友人だと断言されて素直に喜ぶことができない。

 そればかりか、彼が友人と呼ぶたびに、アリシアの心臓をナイフで切りつけられたかのような痛みが貫いた。


 グラジオラスの目線は未だにアリシアに注がれたままだ。まっすぐに注がれたその視線に照れのひとかけらでも潜んでいれば、アリシアは幸せな勘違いに身をゆだねてしまっていたことだろう。


 けれど、その強く凪いだ視線は、グラジオラスが武装をして想いを伝えたい相手が自分ではないことを物語っていた。


(分かってた。グラジオが私の事を調べていたのも、友人になろうとしてくれたのも、私と親しくなりたいからなんかじゃない。私が友人にしかメイクをしないと知っていたから、彼は仕方なく私と友人になったんだ……)



 彼は王族だ。だから、こんな面倒な手順を踏んだりせずに私に命令することも出来たはずだ。

 けれど、それをせずに、アリシアときちんと友好関係を築いたことは、彼の誠意に他ならない。そして、そんな面倒くさいことするグラジオラスの誠実さにこそ、アリシアは惹かれたのだ。



 アリシアは意を決してグラジオラスの視線にまっすぐに向き合った。好きな女性を想っているであろうグラジオラスと視線を合わせ続けるのは辛かった。

 自分を見ているように思えても、その視線の熱はアリシアを通り越して、ずっと遠くを見ているからだ。目線を合わせ続けるほどに、顔だけでなく体中が強張っていってしまう。


 表情だけは彼を真似て凪のように穏やかなものを作ったが、彼にもきちんとそう見えているだろうか。



(辛いな。でも、これは好きになってはいけない人を好きになった罰だ。こうなるって分かってたのに惚れた自分が悪いんだから、キチンと隠して向き合わなきゃ)



 アリシアは自分を叱咤して、グラジオラスがこの告白に本気かどうかを探った。彼が本気だというのなら、背を押すのが友としてアリシアに出来るすべてだ。覚悟は決まった。



「分かった。頼ってくれてありがとう。全力でメイクさせていただきます」

「よろしく頼む」



 こうして、グラジオラスへのメイクが始まった。


 そして、冒頭の状況となったのである。



「視線はこの下に……うん、この草でも眺めてて、あ、目は閉じないように、半目な感じで」

「結構難しいんだな……分かった」



 視線がようやく逸れたことで、少し冷静になることが出来たアリシアだったが、メイクをするためには至近距離で彼の顔に近づかなければならない。彼に覆いかぶさるような今の姿勢は、自分の首を絞めるも同然の行為だった。



(あぁ、もう意味わかんない。まつげ長いなぁ。逃げたい、帰りたい。肌艶良すぎない?いや、グラジオのために頑張るって決めたけど。うわ、良い匂いするし、ひーん、帰りたいよう……)


 アリシアの脳内はもはやパンク寸前だった。それでも震える手が王家の至宝を汚してしまうことがないよう、細心の注意を払ってメイクを施していく。



(か、かっこよすぎるわ……)



 アリシアのメイクは完璧だった。美しい珠を磨けばより美しくなるのは当然だが、思っていた以上の出来になっていた。



「アリシア、終わったのか?もう目を開けてもいいか?」

「う~ん……まだみたい」



 本当はもうすべての行程を終えていたのだが、目を開けたグラジオラスと対峙する勇気はアリシアには無かった。そして、想いの人のもとへ送り出す勇気はもっと無かった。


 アリシアは足音を立てないように温室の扉の前まで来ると、グラジオラスめがけて大声で叫んだ。



「グラジオー!いつも格好いいけど、今日はいつも以上に格好いいよ!美の伝道師様が絶対に上手くいくって保障するんだから!頑張ってね、お幸せに!!」



 そう言うとアリシアは踵を返して一目散に逃げだした。その目には大粒の涙が浮かんでいた。



「は?アリシア……?どこ行った?」



─────



 数分後、アリシアは弟の乗って来た馬車に乗って自宅である子爵邸に向かっていた。その目からは先ほど以上に大粒の涙がとめどなく流れ落ちていた。


 王室主催のパーティに招待されたのに勝手に帰るなんて許されることではないが、弟がミーア姫様を伴って出席することになるのだから、彼女の不在を気に留める者などいないだろう。


 何より、アリシアにはパーティに出席するための異性の同伴者が居なくなってしまったのだ。一人で出席するのは悪目立ちして恥ずかしすぎるし、そんな状況でグラジオラスが恋人をエスコートするのを見守る自信はアリシアには無かった。



ヒヒーン!



 馬がいななき、馬車が急停車する。王宮からまだ近いとはいえ、賊の襲撃という可能性もゼロではない。アリシアは無意識にいつも持っている化粧ポーチを盾のように構えると、馬車の外の気配に全神経を集中した。しかし―――



バンッ!



「君は大馬鹿者か!!!」



 勢いよく馬車の扉を開けて入って来たのは、折角の化粧を汗で滲ませたグラジオラス・レイその人だった。



「はい?グラジオ、なんでこんなところに居るの?」

「それはこっちのセリフだ!」

「なんで怒ってるの?もしかしてメイク気に入らなかった?普段メイクしない人からしたら少し濃く感じちゃったかな?でも……」

「違う違う違う!俺がなんで怒っているのか分からないわけじゃないだろうがッ!!!」



 グラジオラスは本気で怒っていた。いつも飄々とした彼に目力を滾らせ、声を荒げて、怒りを向けられたアリシアは完全に腰が抜けてしまっていた。

 そうまでされても彼を怒らせてしまった理由に何度考えても思い至らず、目を白黒させることしか出来ない。


 そんなアリシアの様子を見て、怯えさせてしまったと気づいたグラジオラスは、うなだれるようにして馬車の床に倒れ込み、そして彼女の手を取って跪いた。



「……泣いていたのか?」

「ううん、違うの……」

「ごめん、怖がらせたいわけじゃないんだ。怒って悪かったから怯えないで聞いて欲しい」

「……うん」

「君が好きだ」



 君が好きだ。キミガ・スキダ。黄身が酢期だ。木みガス気だ……

 その言葉は確かにアリシアの耳に届いていた。けれど、アリシアの脳はゲシュタルト崩壊でも起こしたかのように意味を理解することを拒んでいた。



「おい、なんとか行ってくれよ」

「なんとかと言われても、何でここにいるんだろうとしか……」

「俺はフラれたってことか?」

「フラれた?私が完璧に仕上げたグラジオラス・レイを振る女なんているわけないでしょう?」

「じゃあ一緒にパーティに出席してくれるよな?」

「あ、パーティ!そっか、グラジオも一人なんだった!」



 グラジオラスの想いの人が一人で王宮に来てくれる手筈が整っていたとは限らない。その令嬢も兄弟とパーティに来ることになっていて、そこで思いを打ち明けるつもりだったのかもしれない。



「ごめんごめん、その可能性は考えてなかった!一人で行かなきゃいけないかもと思って不安だったよね、ごめんねグラジオ」

「なぁ、話逸らしてるだろ。聞かなかったことにするつもりか?だったらこっちにも考えがあるんだからな!」



 再び怒ったような顔をして立ち上がったグラジオラスの整った顔面が近づいてくる。そして、目の前が真っ暗になって、唇に何かが触れた。



「俺、グラジオラス・レイは子爵令嬢アリシアのことが好きだ。なんなら入学以来、片思い歴6年だ!あんたと仲良くなる最後のチャンスだと思ってリベリオや妹達と結託して王宮の食客として招待したのは俺だ。ようやく親しくなれたと思ったのに、逃げられてものすごく悲しい。あー、もう泣きそうだ!辛すぎて心臓が痛くて苦しいし、昔師範にボコボコにされた時よりも体中が痛くてたまらない!!あんたにエスコートさせろと命令するのは簡単かもしれないが、俺はそんなことしたくない。それもこれもあんたのことが好きでたまらないからだ!どうだ、分かったか!?」


 これで言い逃れできないだろうと言わんばかりのグラジオラスは、今度こそ色よい返答をもらおうとアリシアを見た。

 しかし、アリシアの表情はグラジオラスの想像していたものとはかけ離れていた。


―――無表情で、化粧バッグを漁っている。


 一世一代の告白を無視されたのかと思ったが、どうもそういうわけでもなさそうだ。彼女は一心不乱に化粧ポーチからコットンを取り出すと、するりするりと顔を撫で落としていく。そして……



「どう?分かったでしょう?これが私。ずっと嘘ついててごめん。私は前世の記憶があって、その知識を悪用してこうして姿を偽っていました。心からお詫び申し上げます」

「……前世の記憶を持って生まれる者が偶にいるとは聞く。そうして生まれた者は皆、前世の記憶を活かして多くの富や名声を得たというのに、どうして君だけが罪になる?」

「私のITリテラシーが許さないからです」

「なんだそれは。前世のルールか?俺はそんなものに負けるのか?」

「違う!グラジオラス・レイは何にも負けたりしない!」



 はじかれるように顔を上げたアリシアは、ようやくグラジオラスの顔を見た。素顔を曝している所在の無さからずっと下を向いていたせいで、彼がこんなに切なそうに眉をゆがめているのに気づいていなかった。



「友人に化粧をするのは良くて、なんで自分に化粧をするのはダメなんだ?」

「……ガッカリしないの?」

「まさか。化粧を落としたのは誠意だろう?俺は君のそういう律儀なところに惹かれてるんだ。むしろ化粧を落とした君を見て愛おしさが込み上げてるし、なんならメチャメチャ好みだし、正直ちょっと興奮してさえいる」

「はい!?!?」

「それよりも、アリシアの俺への評価の高さに驚いてる。何なんださっきから。それなのにフラれるし……」

「……振ってないし」

「OKってこと?」

「ちーがーう!冷静になってって言ってるの。18にもなってエスコートなんかしたらどう思われるか分かるよね?私こんな顔だよ?王族にこの顔を迎え入れるの?この顔の王子や姫が生まれるのは国の損失だよ?」

「え?俺の子産んでくれるってこと?」

「ちがーーーーう!いや、違わないけどって、そうじゃなくて……あーもう!なんでこんな話になってるのよ!!」



 だんだん会話が支離滅裂になってきたせいで、盛大に墓穴を掘ってしまっている気がする。冷静に冷静にと思っているのに、押しの強いグラジオラスにじりじりと押されて逃げ場のない袋小路に追い込まれているように思えてならない。



「君は嘘をつくのが嫌いだというのは知っている。正直に答えてくれ、俺のことが好きか?」

「…………答えたくない」

「俺のことが嫌いか?」

「嫌いなわけない!」

「じゃぁ好きか?」

「…………」

「キスは嫌だったか?」

「……嫌なわけない」

「はぁ……。俺だってくどい男になるのは御免だ。聞くのはこれで最後にする」



 グラジオラスはそこで一度言葉を切って、呼吸を整え、まっすぐにアリシアを見据えて問う。



「俺のことが好きか?」

「……………………………………………………………………すき」



 蚊の鳴く声のように細く紡がれた言葉はグラジオラスの耳に無事に届き、アリシアはガバリと抱きしめられた。

 強い抱擁を受け、ためらいながらアリシアも抱きしめ返すと、一分の隙間もなくなりそうなほどさらに強く抱きしめられる。


 アリシアはメイクを落とした時、この関係が終わると思っていた。それなのにグラジオラスは側に居てくれた。落胆せずに受け止めてくれた。グラジオラスの肌が触れて温かさを感じているこの状況が奇跡のように思えてならない。



「私、グラジオが望むなら前世の記憶を駆使してどんな悪事にも手を染められると思う」

「おい……もうちょっとマシな愛の告白は出来ないのか?」

「グラジオを一番格好良くメイク出来るのは私だと思う」

「それは告白なのか?」

「だって、こんな顔の時に告白してくるんだもん」

「君が勝手に落としたんだろうが」



 完全にアリシアの八つ当たりだったが、そんなことは気にならないとばかりに愛しそうに髪を撫でるグラジオラスは、呆れた声色とは裏腹に嬉しそうに微笑んでいる。



「はっ……!どうしよう、パーティすっぽかしちゃった!」

「このままバックレるか?」

「ダメダメ!あーでも化粧直さなきゃ!」

「出来そうか?」

「やるしかない!」



 2人は大急ぎで馬車を走らせて王宮に戻った。馬車の発着所の様子からして招待客はもうほとんど集まっているようだったが、なんとか時間には間に合ったようだ。



「うわ、私たちもしかして一番最後?入るの勇気要るなぁ……」

「俺は君となら注目されても構わないけど、ミーアたちに視線が集まってるだろうから大丈夫じゃないか?」

「だといいけど……」



 いくら王家と親しいものばかりの集まりとは言っても、緊張しない方が無理だ。夏なのに今にも震えだしそうなアリシアの手をグラジオラスがとる。

 


「そう緊張せずに、気楽に行こう」

「そんな無茶な……っていうかグラジオ、なんでそんな楽しそうなの?」

「君をエスコートできてちょっと舞い上がってる。なんなら会場のど真ん中で、この子が俺の彼女ですって叫びたい気分」

「ぜっっったいにやめて!!!」



 2人は気後れしながらも、笑い合いながら会場へ入っていく。きっと2人にはこれから越えなければならない壁が沢山あることだろう。


 けれど今日、そんなお似合いの2人を王とその友人たちは温かく迎えたのだった。

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