婚約者ファビアン 2
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庭に降りたブリジットは、まず庭師のトッドを探して門の近くの花壇に向かった。
トッドが門前の花壇の手入れをすると言っていたのを覚えていたのだ。
トッドが手入れしてくれている芝の上を進んで邸の門前に向かうと、案の定、四十過ぎの日焼けした男の姿を見つけた。トッドだ。
「トッド、何をしているの?」
近寄りながら話しかけると、花壇の前にしゃがみこんで土を掘り返していたトッドが顔を上げた。
「これはお嬢様。こんなところに来たら汚れますよ。わしは今、チューリップの球根を掘り返しているところです」
チューリップは葉が枯れかけたころに掘り返して、球根を涼しいところで乾燥させるらしい。
「手伝おうか?」
「いえいえ、もうじき終わりますからお気遣いなく。それより、何か用事がおありだったんじゃないですか?」
「うん。ほら、ちょっと前に新しい花の苗がほしいって言ってたじゃない? 何が欲しいのか教えてもらおうと思って。秋の準備でいろいろ買いたすから、一緒に計算しちゃいたいのよ」
「おや、いいんですか?」
「もちろんよ。今月はとっても稼いだから、どーんと来て大丈夫よ!」
ブリジットが胸を張って答えると、トッドは声をあげて笑って、数種類の花の名前を言った。後ろでベラがその名前をメモに取ってくれている。
「来月の頭には揃えておくわね」
「助かります」
ブリジットはトッドに手を振って、今度は厩舎係のダドリーのもとへ向かった。アンブラー家には二頭の馬がいて、ダドリーは毎日つきっきりで彼らの世話をしているのだ。
厩舎小屋に向かうと、栗毛の馬たちが出迎えてくれる。二頭とも気性の穏やかな馬で、ブリジットが首のあたりを撫でてもおとなしくされるがままだ。
ダドリーは干し草の入れ替え作業中だった。
「ダドリー、仔馬がほしいって言ってたけど、一頭? 二頭? それとももっとたくさん必要かしら」
ブリジットが話しかけると、ダドリーは作業中の手を止めて答えた。
「できれば二頭購入いただけると嬉しいです」
「わかったわ。でも、そうしたらダドリーが忙しくなるんじゃない?」
ダドリーはほぼ一人で馬たちの世話をしている。厩舎係をもう一人雇った方がいいだろうかと訊ねると、ダドリーは少し考えたあとで、よかったら今年十五歳になる従弟を雇ってくれないかと言った。そろそろ働き口を探しているらしいが、なかなかいい仕事が見つからないそうだ。
「ダドリーの推薦なら構わないわよ。会ってみたいから今度連れてきてくれる?」
「ありがとうございます。連れてきますね」
ダドリーは嬉しそうに破顔して、それからふと顔をあげた。
「馬の足音がしますね」
そう言われたが、ブリジットにはよくわからなかった。
「馬の足音?」
「ええ。近づいてくるみたいですよ。お客様かもしれないですね。デイビットが使っている馬の足音とは違うみたいです。それに複数……四頭の足音がしますから、大きな馬車かもしれませんね。車輪の音のようなのも聞こえますし」
ダドリーは耳がいい。彼が言うのならそうなのだろう。デイビットでないなら、誰が来たのだろうか。
(四頭立ての馬車? そんな豪華な馬車を持っている人なんて、このあたりにはいないはずだけど……。まさかお父様でもないでしょうし)
王都の伯爵家にも二頭立ての馬車しかないはずだ。新しく購入したなら知らないけど。
(こうしてはいられないわ。早く戻って服を着替えてベッドにもぐりこまなくちゃ!)
どこの誰かは知らないが、ブリジットは「病弱令嬢」なのだ。知らない誰かに元気な姿を見られるわけにはいかない。
「ベラ! 急いで戻るわよ!」
ブリジットは大急ぎで駆け出した。
ドレスの裾をつまんで猛ダッシュで邸へ走るブリジットに、ベラが「はしたないですよ」とあきれた声をかけたけれどそれどころではない。
邸に戻ったブリジットは、目を丸くしている執事のブラハムに「お客さんらしいわ!」と叫んで、階段を駆け上がった。
追いついてきたベラに手伝ってもらって、大急ぎでパジャマに着替える。寝室に飛び込むと、ベラに寝室と続き部屋になっている私室の中は絶対に見せないでくれと念を押して、ベッドにもぐりこんだ。私室の中には試作品の化粧水が並んでいるし、金庫もたくさんあるのだ。書き途中の商品計画書もある。あんな部屋が見られたら、「病弱令嬢ブリジット」のイメージは瓦解するだろう。
ベラが「小道具」の薬セットをベッドサイドのテーブルの上に並べてくれる。
そうして待つこと三十分。
ダドリーが言ったように、本当に四頭立ての馬車がアンブラー伯爵家に到着したとメイド頭のバーサが報告に来た。ブラハムは現在、客人の身元を確かめるために玄関にいるらしい。
「どんな方だった?」
「わたくしもちらりと見ただけでございますが……金髪の背の高い男性でしたよ」
「金髪の背の高い男?」
知らないな、とブリジットは思った。いや、そもそもメイド頭のバーサが知らない相手をブリジットが知っているはずもない。いったいどこの誰だろうか。
(どうでもいいけど早く帰ってくれないかな)
もしかしたら祖母の知り合いが訪ねてきたのかもしれないが、いつまでも居座られたらブリジットはベッドから出られない。まだまだやることが山積みなのだ。
「ベラ、先日渡したリップバームの試作品、どうだった?」
ベッドに横になっているだけでは退屈なので、ベラに蜜蝋で作ったリップバームの使用感を訊ねてみる。
ベラは窓から外を眺めつつ、「よかったですよ」と答えた。
「夏はそうでもないんですが冬になると唇が乾燥するので、お嬢様の作ったリップバームがあると助かると思います。……そんなことよりお嬢様、もしかしたら、少々面倒なことになったかもしれません」
「面倒なこと?」
ベラは窓外を睨んだまま答えた。
「ええ。ここからだと、はっきりとまでは見えませんが……、あの馬車に描かれている紋章はおそらく……」
ベラがそう言いかけた時だった。コンコンと寝室の扉が叩かれて、返事をすれば、小さく開かれた扉の隙間から、困った顔のブラハムが見えた。彼は室内をさっと見渡した後で、口の動きだけでブリジットに「すみません」と伝えると、扉を大きく開け放った。
直後。
「ブリジット‼」
感極まったような叫び声とともに、金髪の男が部屋に駆け込んできた。
そのままブリジットの眠るベッド横で膝をつくと、ぐいっと顔を近づけてくる。
(誰⁉)
危うく悲鳴を上げかけたブリジットは、心の中で「病弱」と三回繰り返して、大きく深呼吸をした。そう、ブリジットは病弱令嬢。病弱令嬢は絶叫などしない。儚い微笑を浮かべて困惑したように視線を彷徨わせるのが精一杯。
(病弱演技久しぶりだから顔が引きつりそう……)
叫ばない動かないと念じつつ、ブリジットが戸惑った視線をブラハムへ向ければ、彼は額に手を当ててこう言った。
「お嬢様。この方はファビアン・ドリューウェット様でございます。……お嬢様の婚約者の」
(なんですって――――――⁉)
大声を出せないブリジットは、心の中で絶叫した。