石鹸泥棒現る 1
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ファビアンにプロポーズされてからというもの、どうも心臓がおかしい気がする。
「ベラ、わたしおかしいわ」
「お嬢様がおかしいのはずっと前から知っていましたよ」
ベラがブリジットの髪を結いながら言った。
今日は、我がアンブラー家の離れに、石鹸工場で働く新規従業員がやってくる。初回採用は十人でこの十人が仕事を覚えたら少しずつ増やして、最終的に離れには三十人ほどの従業員を入れる予定だった。工場が完成したらその倍は増やすつもりだ。
初回採用の十人に石鹸の作り方を教えるのは、現在クインシア商会の倉庫で石鹸を作っている従業員の五人。忙しくなればヘルプが入るとはいえ、今までよく五人で回してきたものだと感心する。
クインシア商会で石鹸を作っていた時は、石鹸を型抜きする際に出た端っこは従業員が持ち帰って使っていたそうだが、生産量が増えるとそれだけでは消化しきれないので、余った分はサンプルで配ったり、袋詰めして安価に販売してもいいだろう。
初回採用の十人の中にはベラの姉やその友人もいて、彼女たちの子供たちは離れの一室で預かることにしている。
初日ということもあり、ブリジットは離れの様子を見に行く予定だった。
いつも通りの楽な格好で構わなかったのだが、ベラが「それでは威厳もへったくれもない」というので、こうして髪を結ってもらっているのだ。
「失礼ね、わたしのどこがおかしいのよ」
ずっと前からおかしかったと言われては黙っていられない。
ブリジットが口を尖らせると、ベラはブリジットの髪に百合の髪飾りをつけながら言った。
「お言葉ですがお嬢様。金貨の山をうっとりと眺めたり、積み木のかわりにちゃりんちゃりんと金貨を積み上げたり崩したりして遊んだり、あまつさえ頬ずりするような令嬢は、普通ではありません」
「…………」
そう言葉にされると、確かに変人にしか聞こえない。
「いいですか。間違っても石鹸工場の従業員の前で素のお嬢様を出してはいけませんよ」
問題児みたいに言わないでほしい。
「それで? その様子ではお嬢様が自分の奇行に気づいた様子ではないみたいですが、何がおかしいんですか?」
「奇行……」
たまに思うが、ベラはブリジットに容赦がなさすぎやしないだろうか。
子供のころから何かを思いつくと暴走しがちだったブリジットを止めているうちにこうなったのだろうが、最近はそこまで暴走していないと思うし(たぶん)、少しはオブラートに包んでくれてもいいと思う。
「だから……なんかこう、心臓がおかしいと言うか。動悸がすると言うか。いつもじゃないんだけど……」
結婚とか、ファビアンのことを考えると心臓がきゅっとなる。ファビアンが近づいてくると鼓動が早くなるし、じゃれるように距離を縮められると息が苦しくなる。
(もしかして病気かしら……)
せっかく喘息が治ったのに、新しい病気にかかっていたらどうしよう。
「お医者様に見てもらった方がいいと思う?」
するとベラは、髪結いを終えたブリジットを椅子から立たせて、ドレスの皺を治しながら嘆息した。
「お医者様が困惑するだけですからやめてください」
「え? そんなに悪い病気なのかしら⁉」
「…………まあ、中にはそれを、不治の病と言う人もいますがね」
「不治の病⁉」
ブリジットが悲鳴を上げると、ベラは「対処不可」と首を横に振った。
「命を脅かすようなものではありませんから、大丈夫ですよ」
「で、でもそれならやっぱりお医者様……」
「ですから、そんなことを言われてもお医者様は困惑するだけで対処はできませんから、どうかやめてあげてください」
ベラによると、この病は移るものでもないし、薬も治療法もないものらしい。
ブリジットは青くなったが、ベラはそんなブリジットに面白がるような視線を向けた。
「まあ、今までお金儲けにしか興味のなかったお嬢様ですから、その病にかかったと言うことは、いい傾向ではないでしょうか」
病がいい傾向ときた! いくら何でもひどすぎやしないだろうか?
(命を脅かすものではなくても、病人にそれはあんまりじゃないの⁉)
死ななければいいという問題ではないのだ。
ブリジットはじっとりとベラを睨みつけたが、ベラは笑いながら「そのうち原因がわかりますよ」と言う。
病気の原因がわかればなんだと言うのだろう。不治の病なのだから原因がわかったところでどうしようもない。
(……これから領地を活性化させようって時に……わたしって不幸の神様に憑りつかれているのかしら……)
ベラの言うところの不治の病がなんなのか理解できないブリジットは、がっくりと肩を落とした。
石鹸工場で働く従業員への挨拶を終えて、天気がいいのでついでに庭をぐるりと一周散歩してから戻ろうと歩いていると、クインシア商会の馬車がアンブラー家にやってくるのが見えた。
今日はデイビットともドルフとも面会の約束をしていなかったが、何かあったのだろうか。デイビットが個人的に遊びに来るときは、彼はいつも一人で馬に乗ってやってくるので、馬車を使っているということは、公式な用事ということなのである。
馬車が邸の前に止まったので、ブリジットは散歩を切りやめてベラとともに玄関へ向かった。
馬車の音を聞きつけて執事のブラハムが邸の外に出てきて、馬車からはデイビットともう一人、ひょろりとした見ない顔の中年男が降りてきた。
「突然申し訳ありません、お嬢様」
デイビットがかしこまった喋り方をしているので、一緒に来た中年男は彼の身内ではなさそうだ。
「それはかまいませんけど、どうかしましたの?」
デイビットに合わせてかしこまった口調で訊ね返せば、デイビットではなく、隣の中年男が一歩前に出た。
「はじめましてアンブラー伯爵令嬢。私はジャンパーニと申します」
初対面の人間と話すときは、身分が上の人間が許可をしなければ口を開くことは許されない。にもかかわらず当然のようにブリジットに話しかけて、なおかつ不躾にブリジットの顔や体をじろじろと嘗め回すように見るこの男を、ブリジットは好きになれなさそうだと思った。
ベラもブラハムも不快感を表し、彼を連れてきたデイビットに非難するような視線を向ける。
いったいこの男は何なのか。しかしそれについても、訊いてもいないのに当の本人がべらべらと喋り出したのですぐに判明することとなった。
「私はパール商会の商会長を務めておりましてね。パール商会は当然ご存じでいらっしゃいますよね? 王家御用達の商品をいくつも扱っている由緒正しい商会でして、最近では王妃様に異国より取り寄せた若返り効果のある秘薬を献上させていただいた次第でして――」
黙っていれば延々としゃべり続けそうな男だった。
(というか、若返り効果の秘薬って……そんな怪しげなもの、よく王妃様に献上出来たわね)
立て板に水状態でべらべらとしゃべり続けるジャンパーニを、どこで止めたらいいだろう。口を挟もうにもその隙が無い。デイビットもうんざりしたような顔をしているから、彼はすでに、このジャンパーニのお喋り被害にあったあとだったのだろう。
いつまで無駄話を聞かされるのだろうかとぐったりしかけたとき、玄関からひょっこりファビアンが顔を出した。
「騒がしけれど、何事かな?」
すると、ファビアンの顔を見たジャンパーニは途端にパアッと顔を輝かせた。
「これはこれは、ファビアン様!」
「ん? ……ええっと、誰かな?」
「ジャンパーニですよ! パール商会の!」
ファビアンは怪訝そうに眉を寄せて、思い出したように「ああ」と頷いた。
「パール商会の商会長でしたか。お久しぶりですね。その節はどうも」
にこやかに微笑んでいるが。口調はどこかよそよそしい。逆にジャンパーニがまるで旧友と再会したかのようにフレンドリーなのが気になった。
「それで、パール商会の商会長殿が我が家に何の御用ですか?」
(……我が家)
ファビアンの何気ない一言に、ブリジットは過敏に反応した。ファビアンはいずれこの家を継ぐのだから、ここが「我が家」になることは間違いないけれど、結婚と言う近い将来を暗示させるようで心臓がばくばくする。
ジャンパーニは大げさに手を叩いた。
「おお! そうでした!」
そうでした、じゃない。人の家に押しかけておいて、さも今ここに来た用事を思い出したような反応をしないでいただきたい。
いつまでも玄関に立ちっぱなしで話を聞かされたくなかったので、ジャンパーニが本題に入るまでに、さっとブラハムに目配せする。
ブラハムは心得たもので、ジャンパーニが話しはじめる前に言葉をかぶせて、強引にサロンへ案内した。
サロンに案内されたジャンパーニは、装飾品の何もない殺風景なサロンを見渡して、一瞬だけ小馬鹿にしたような表情を浮かべる。……やっぱりこいつは好きになれそうもない。
ブリジットとファビアンは並んでジャンパーニの対面に座った。デイビットはジャンパーニの隣に腰を下ろす。
普通はメイドがティーセットを用意してから話しはじめるものだが、ジャンパーニは目の前にティーカップが置かれるよりも早くに話しはじめた。
「こうしてお邪魔したのはほかでもなく、クインシア商会で売られている石鹸のことでしてね。その石鹸の利権はアンブラー伯爵令嬢がお持ちだとか」
「ええ、まあ」
さすがは王都で商売している商会の商会長と言ったところか。情報収集が早い。
ベラが紅茶を煎れてくれたのでそれに口をつけつつブリジットが頷けば、ジャンパーニがずいっと身を乗り出してきた。
「そこでどうでしょう。我が社にもその石鹸の製造権利をいただけないでしょうか?」
ちらりとデイビットを見ると、口の動きだけで「ごめん」と言っている。ジャンパーニに押し切られて、彼をここへ案内する羽目になったのだろう。
それにしても――
(こいつ、わたしに用事があったんでしょ? なんでずーっとファビアンに向かって話しているのかしら)
答えたのはブリジット。彼が用があるのもブリジット。それなのに、すべての決定権はファビアンが握っていると言わんばかりに、熱心にファビアンに話しかけている。
ファビアンはにこやかな笑みを顔面に張り付けているが、それが愛想笑いであることはすぐにわかった。
「さて、私には決定権がございませんので」
ファビアンがやんわりと断ると、ようやくジャンパーニの視線がブリジットへ向く。
「いかがでしょうか? 我が社ならば、クインシア商会よりも何倍も……いえ、何十倍もの利益を上げて見せます! こう言っては何ですが、クインシア商会の価格設定は安すぎるのです! 我が社なら適正価格で、もっと多くの石鹸を売って見せますとも」
すごい自信だが、全然魅力的に感じなかった。
ブリジットはお金儲けが大好きだが、お金さえ儲かればいいと言うわけではないのだ。この石鹸の価格は、貴族もそうでない一般市民も、みんなが使えるように考えて設定した価格である。確かに一般市民には少し高いかもしれないが、無理をすれば手が届く範囲にしているのだ。それに、もうじき石鹸の型抜き時に出た端っこを袋詰めして安価で販売する予定で、それが出回るようになれば、これまで価格で足踏みしていた人も手が出せるようになる。
ブリジットは領民が豊かになってほしいのであって、高額で売り付けて利益をぼったくるようなことはしたくない。
「残念ですが、製造権はお渡しするつもりはありません。こちらはクインシア商会と我が伯爵家で製造はすべて賄うつもりです。すでに我が伯爵家とクインシア商会の共同出資で量産するための工場を作る計画を立てております。石鹸が必要なのでしたら、クインシア商会を通して仕入れてくださいませ」
クインシア商会のドルフが共同出資を申し出るわけである。こう言った輩を黙らせるためだったのだ。
ジャンパーニは鼻白んだ。
「失礼ですが、お嬢様は素人でいらっしゃる。この石鹸がどれほどの利益を生むのかご存じないのです。このままクインシア商会に任せておいては後悔なさることになりますよ」
遠回しにクインシア商会が無能だと言っているようなもので、デイビットの表情が険しくなった。ブリジットも、今までずっと親切にしてくれてきたクインシア商会を馬鹿にされるのは許せない。
「何度も申しますが、クインシア商会以外に石鹸の製造権利をお渡しするつもりはございません」
ジャンパーニは悔しそうに顔をゆがめたが、一瞬で愛想笑いに戻ると、もみ手で続けた。
「それでは、お嬢様がお持ちのほかの利権に関してはいかがでしょう? お嬢様はほかにもいろいろな利権をお持ちでしょう? 私としてはその中の、化粧品類に関する製造権利をいただきたいのですが」
「そちらも、クインシア商会と契約済みですので」
「でしたら――」
「申し訳ございませんが、わたくしが保有しているすべての利権商品は、我が伯爵領の特産として、クインシア商会主導の元、すべての製造を賄うつもりです」
きっぱりとブリジットが言いきれば、ジャンパーニの顔から愛想笑いが完全に消えた。
「このことは伯爵もご存じなのですか?」
「この件に父は関係ございません。権利はすべてわたくしのものですから」
すべてクインシア商会を通して商品を仕入れて販売するならば、パール商会に勝ち目はない。彼が価格を釣り上げようとしても、低価格で同じものが販売されていればそちらを買うだろう。そのため、彼らはクインシア商会と同等の値段で販売せざるを得なくなる。もちろん、卸価格を設定する予定だが、彼がもくろんでいる利益からすれば微々たるもので、ぼろ儲けを期待していたジャンパーニが納得いかないのも頷ける。
けれども、ブリジットだって折れるわけにはいかない。せっかくの貧乏領地脱却計画を邪魔されてなるものか。
「契約料として金貨五百枚を前金としてお支払するとしても?」
「お断りいたします」
「クインシア商会よりも多くの利権払いを約束しますよ」
「必要ありません」
「こんな田舎の商会が我が社に劣るとでも言うのか‼」
とうとう、ジャンパーニが怒鳴り声をあげた。
小娘相手だから口八丁でどうにでもなると思っていたのだろうがおあいにく様。怒鳴られたって怖くない。ブリジットは大切な領地と領民の生活を守るのだ。
ブリジットがブラハムを呼んで、この失礼な客を追い返そうとしたときだった。
「申し訳ありませんが、私の婚約者に向かってそのように声を張り上げる方とのお取引は出来かねますね。クインシア商会を通しても、ブリジットの利権の商品は、御社には融通出来かねますのでご承知おきください」
静かに、けれどもゾッとするほど冷たい声で、ファビアンが言った。
ブリジットが驚いていると、ファビアンが立ち上がってサロンの扉を開け、外にいたブラハムを呼ぶ。
「お客様のお帰りだ」
ジャンパーニは何か言いかけたが、ファビアンの冷ややかな一瞥でぐっと口を引き結んだ。
「もうお会いすることはないでしょうが、どうぞお元気で」
それは、商品を卸さないだけでなく、今後のすべての取引を拒絶する言葉だった。
ジャンパーニは茫然として、ブラハムによってサロンから追い出されて行ったのだった。