ファビアンの猛攻 2
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(ファビアンが善人とかぬかしたのはどこのどいつよ!)
一夜明けて、父は王都へ帰って行った。
夜にブリジットがこっそりお金を渡したから、父は「シーズンがはじまったらどこかで一度王都に帰ってくるように」と念を押しながらも、ほくほく顔で嬉しそうに帰って行って、オーロラはそんな息子にやれやれと嘆息していたが、どことなくホッとした様子だった。
祖母オーロラは、自分に領地経営の手腕があれば息子の助けになれるのにとこぼしていたことがあったから、厳しいことを言いつつも心配していたのだろう。
ブリジットももう両親に病弱だと嘘をつく必要もないし、領地で起こしたい事業があれば直接父とやり取りができるようになって万々歳だった。
一つを除いて。
「ブリジット。君は今日から僕とともに執務室を使うんだよ」
父が帰ってすぐ、ファビアンはにこりと天使のような微笑みでそう言った。
アンブラー伯爵家には一応、執務室が存在する。これまで誰も使っていなかったけれど、本格的に領地を任されたファビアンはチャールズから許可を得て今日からその部屋を使うそうだ。そして、ブリジットも同様にその部屋で仕事――もとい、商品開発や事業計画などのあれこれをしろと言い出したのだ。
「机は二つ用意してもらったから、並んで仕事ができるね」
どうして並んで仕事をする必要があるのだろう。ブリジットは自室で事足りる。けれども、ファビアンの天使のほほえみの奥底に黒いものを感じてブリジットはこくこくと頷くことしかできなかった。
(この人、昨日までと別人なんですけど!)
一見、何も変わらないように見える。だから使用人も祖母も疑問を抱かないのかもしれない。だがブリジットにはわかる。ファビアンは優しいだけの青年ではない。ブリジットは、ファビアンの中の起こしてはいけない何かを目覚めさせてしまったのかもしれない。
化粧水開発の続きも、石鹸工場の着手も堂々とできるのは嬉しい。だが、昨日の今日でまだファビアンが怖いので、同じ部屋に閉じ込められたくないのに、逃げられない。
ブリジットが自室に置いていた荷物を持って執務室へ向かうと、ファビアンの言う通り、窓際に机が二つ、並んで置いてあった。
執務室には税金などの勉強のために本を取りに来たことがあったけれど、記憶している部屋とはかなり様相が違う。
まず。カーテンの色が明るいグリーンに変わっていた。
広い部屋に本棚と机と椅子しかなかった室内に二人掛けのソファが増えている。ソファの前のローテーブルには赤い薔薇が生けられていた。
「ブリジットは右側の机を使って。僕は左側を使うから」
ファビアンはこれから、以前作っていた道路や湖の氾濫工事に関する計画書に修正を加えるそうだ。ブリジットの石鹸工場の流れとあわせて着手できるように、計画を見直すのだと言う。ブリジットが他領から商人が来ると予測をつけたので、石鹸工場と販売元であるクインシア商会のある町周辺から道の整備を行うらしい。最初は伯爵家の財政から出せるギリギリのラインの着手になるので、たくさんの人を雇うことはできないけれど、工場の運営が軌道に乗りはじめたら規模を大きくしていくのだとか。
ブリジットの話を聞いてすぐに計画に軌道修正をかけるあたりさすがである。
「ブリジット、道路計画に使えるお金を算出するから、石鹸工場の利益の計算を出せるかな? ざっくりで構わないんだけど。そうだな、取り急ぎ、向こう一年分でいいよ」
「ミニマムで出した方がいいですか?」
「そうだね、その方が途中で大きく軌道修正をかけなくていいかもしれないね」
「わかりました」
明日にはクインシア商会の商会長――デイビットの父親――と、デイビットの二人を呼んで、今後の展開について話し合う手はずを整えている。ファビアンも同席するそうだ。デイビットには以前から石鹸工場計画を話していたので、彼から商会長にも話がいっている。商会長の反応も上々だったとデイビットが言っていたから、話し合いはスムーズにできそうだ。
そろばんをはじいて利益予想を立てながら、ブリジットはふと隣のファビアンに視線を向けた。
父のチャールズが領地にいなかったので、アンブラー伯爵領の雑務は執事のブラハムがかわりにやっていたと聞いていたが、どうやらそれらのほとんどもファビアンに渡されたようだ。
彼はブリジットが利益予想を出すまでの間に、それらの雑務を片付けるつもりなのか、机に積まれていた書類を恐ろしい速さで片付けている。
ファビアンが優秀なのは知っていたけれど、実際に仕事をする様を見たブリジットは純粋に感心してしまった。書類の処理に迷いがない。ブリジットではこうはいかないだろう。商品開発は得意でも、これまで領地の雑務はほとんどしてこなかったから、彼の倍以上のスピードがかかるに違いない。
「もしかして、見とれてる?」
気がつけばじーっとファビアンの手元を見つめていたブリジットは、ファビアンに揶揄い口調で言われてハッとした。
「み、見とれていません!」
「そう? 見とれてくれていいんだけど。……利益予測の計算、終わった?」
「だいたいは……」
ブリジットが計算書を渡すと、ファビアンはざっとそれに目を通して、大きく頷いた。
「ありがとう。この費用をもとに工事の進行予定表を作ってみるよ」
ファビアンは書類処理を中断すると、別でメイドを呼んだ。バーサがやってくると、彼は二人分のお茶とお菓子を頼む。
「少し休憩しようか。計算して疲れたでしょ?」
休憩するほど疲れてはいないが、お菓子は食べたかった。
バーサがソファ席にティーセットを用意してくれたのでそちらに向かうと、ファビアンが隣に座る。どうでもいいけど、どうしてソファを二つ用意せずに、二人掛けのソファを置いたのだろう? ソファはゆったり座れるだけの広さがあるが、彼が隣にいると思うと落ち着かない。昨日至近距離で迫られた記憶が呼び起こされるからだ。
準備を終えたバーサが立ち去ろうとしたので、ブリジットが「服の数出しておいてね」というと彼女はにこりと微笑んで頷いた。ようやく使用人の制服を新しくしてあげられる。
「服の数? ドレスでも買うの?」
「違いますよ、みんなの制服です。買ってあげる約束をしていたんです」
花の苗も仔馬も鍋もブラハムの老眼も、約束していたものはすべて購入しなくては。待たせてしまって申し訳なかった。
購入予定のものを全部あげつらうと、ファビアンが優しく目を細める。
「なるほどね、君がここの使用人たちに大切にされている理由がわかったよ。君が使用人たちを大切にしているから、当然だね」
使用人たちはみんな家族だ。大切にするのは当然である。
ファビアンはお茶と一緒に用意されたクッキーをつまむと、ブリジットに口元に近づけた。
「はい、あーん」
「…………あーん?」
もう病人のふりはやめたのに、どうしてファビアンに食べさせてもらっているのだろう。ブリジットは納得がいかないと思いながらも、ファビアンが差し出したチョコチップのクッキーが美味しそうだったので、葛藤の末に口を開けた。基本的に、ブリジットは色気より食い気なので、目の前に美味しいものを用意されたら、多少の恥ずかしさには目をつむる性分である。
「おいしい? ブリジット?」
「美味しいですけど、わざわざ食べさせてくれなくてもいいですよ」
「僕がやりたいから却下。はい、あーん」
ファビアンはなかなか強引な性格だったらしい。
(まあいいや。自分が食べても人に食べさせてもらっても美味しいものは変わらないし)
美味しければいい。
そんな結論に至ったブリジットは、二枚目のクッキーを口に入れてもらう。
そのまま皿に乗ったクッキーすべてをファビアンに食べさせてもらったブリジットは、その夜にベラにこう言われた。
「お嬢様、餌付けされてませんか?」