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婚約破棄と解消と保留、そしてする予定はありませんけど?  作者: みのみさ
第一部 断罪劇は茶番です

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突撃訪問は困ります(後編)

 屋敷に戻ったレナルドはメリザンドが来ていると聞いて訝しんだ。

 お互い合意の上の解消で謝罪は不要と、彼女から言い出されていた。顔を合わせる必要はない。

「あら、思ってたより元気そうね? ルクレール家で凹まされたかと思ったのに」

 元婚約者様は開口一番、相変わらずの憎まれ口だ。

「言いたいことはそれだけですか? 貴方の嫌味に付き合うほど暇ではないのですが」

「まあ、イヤだわ。エリゼーヌ様から話を聞いて様子を見に来てあげたのよ? 貴方、ジェスター様にだいぶ搾り取られたそうね」

 感謝なさい、と言わんばかりに、頭をつんとそびやかすメリザンド。レナルドはこめかみをぐりぐりと揉んだ。

「それはご親切にどうも。用事はもうお済みですね」

 お帰りはこちら、と侍女に任せようとすれば、メリザンドは紅茶のカップを手に優雅に微笑んだ。居座る気満々である。

「そうやって興味のない事に無関心なのは悪いクセだわ。12年もの付き合いだった元婚約者の誼で忠告してあげる。玉石混交の雑多な情報を精査し取捨選択して玉を取り分けてこその高位貴族でしてよ。

 貴方、野心家のくせに視野が狭いのよ。もっと、観察眼を磨きなさいな」

「・・・忠告痛み入ります」

 レナルドは憮然として応じる。

 どうせ、舌戦では敵わない相手なのだ。適当に流して早く解放されたかった。

「エリゼーヌ様への謝罪がルクレール侯爵家の体面を慮ったものではなくて、ジェスター様本人からの報復だとは気づいていて? 貴方、断罪劇で彼女を貶めていたけど、政略結婚だからって愛情はないと言えないのよ」

「つまり、彼らは思い合っているというのですか? そんなはず・・・」

 レナルドは否定しかけて目を泳がせた。四阿での光景が目に浮かんで言葉が詰まる。

 メリザンドは何かを察したのか、にんまりと頬を緩める。

「ルクレール邸で心当たりがありましたのね。ジェスター様は案外まめな方でしたでしょう?」

「ジェスターが? まさか・・・というか、貴方ずいぶんと親しそうですね、彼と」

「ええ、この一年の間、彼と顔を合わせる機会が多々ありましたもの。どこぞの薄情な殿方とは違ってね。

 あの方、わたくしたちの女子会後はいつもエリゼーヌ様をお迎えに来てましたの。来られない時でも侯爵家の馬車を必ず迎えに寄越してましたし、会えない時なんてちょっとした贈り物ーーキャンディやクッキーの小箱、ミニブーケなどに必ず手書きのメッセージカードを添えてましたわ。

 普段は素っ気ない態度なのに、そんな心配りが意外で驚きましたけど」

「はっ?」

 レナルドは目が点になった。彼女の語る人物が幼い頃からの友人だとはとても信じられなかった。


 レナルドらがフェリシーに構っている間、放ったらかしにされていた婚約者たちはお互いに交流を持っていた。お茶会や歌劇観賞、買い物や新作スイーツ巡りなど女子同士で楽しんでおり、本来なら婚約者との交流の時間だったのだから必要経費だと請求書を回されたこともある。

 ジェスターは学業以外はフェリシーに関わらないようにしていたが、その分生徒会業務で多忙だった。休日もフェリシーと過ごすレナルドたちのもとに文鳥(ふみどり)が飛んできて、会長や会計の承認印のいる書類が急ぎだから、居場所を教えろと言われたことが何度もある。

 大概はシリルが遣わされるのだが、別件を任せ中だとジェスター本人が書類を持参してきたこともあった。ジェスターだって婚約者との交流は彼らと同様に少なかったはずだ。しかも、女性にまめなジェスターなんて予想外すぎて想像もつかない。

「彼にそんな時間があったとは思えません。シリルがよくこぼしてましたよ、『折角の休日なのに、男同士で顔見合わせて書類仕事三昧とか灰色の青春だ』とか。第一、あの面倒くさがりがそんな事するとは・・・」

 メリザンドは呆れた顔で元婚約者を見遣った。

「あら、ご自分たちと一緒にしては失礼でしてよ。本気だからこそ、面倒を厭わないのでしょう。ジェスター様は日中は多忙で共にいられないからとエリゼーヌ様をお迎えした後はずっとご一緒に過ごしていたのよ。ルクレール邸には彼女の個室が用意されていていつでも泊まれるそうよ。そうして休日明けの朝は馬車で一緒に登校ですって。本当に仲睦まじいのよね」

「いや、ジェスターと朝一緒になったことはありますが、彼女は一緒ではなかったですよ?」

「外聞を気になさってエリゼーヌ様だけ先に降ろして、ジェスター様は学院の周りを更に一周して登校時間をずらしていたのよ」

「え、そこまでしますか⁉︎」

 レナルドはジェスターの献身に引き気味だ。

「さすがに毎週となると、侯爵様が気になさったらしいわ。以前からエリゼーヌ様がルクレール家に外泊することはよくあったそうだし。

 シャルリエ子爵夫人は病弱な方でしょう。発作を起こされると、エリゼーヌ様は子供の頃から親族に預けられていたそうなの。それを気遣った侯爵様がご自宅に招いていたらしくて」

「・・・ああ、あまりお加減はよくないと聞いたことがあります」


 シャルリエ子爵夫人ーーエリゼーヌの母はもともと身体が丈夫ではなかったが、出産を機に寝込むようになって社交界には出て来ない。

 シャルリエ子爵家は土地持ち貴族で王国一最小領地だ。貴重な薬草の群生地を保護して薬草の流通で辛うじて財源を保っている。主な卸し先は薬師の家系のブロンデル家と子爵の勤め先・魔術師団の研究開発部門で新たな取引相手を開拓する余裕はなかった。

 社交の必要のないシャルリエ子爵家と研究者気質で社交が苦手のルクレール侯爵家でも、貴族社会で必要最低限の付き合いはある。

 だが、その社交の場にジェスターが婚約者を伴ってきたことは一度もなかった。デビュタントだって、ジェスターは体調不良で婚約者をエスコートしなかったのだ。父親の決めた相手で本人は納得していないのだと噂されても仕方がないだろう。

 そのジェスターがまさかの相思相愛説とか、レナルドにはとても信じられなかった。

 メリザンドは緩やかな金の髪を背に払って肩を竦めた。

「社交界にエリゼーヌ様を出すのはジェスター様が嫌がるの。子爵令嬢だから侮る相手がいるって。なんでも、昨年それで揉めたお相手がいたらしくて。

 まあ、もともとジェスター様も社交はお好きではないし、そんなに手広く社交する必要はないから、親しい相手とだけお付き合いするつもりみたい。本当に、大事になされてるわよ。

 貴方、 学院での彼らの装いを覚えていて? お互いの色のリボンをいつも身につけていたでしょう。ジェスター様はライトグレーでエリゼーヌ様は黒ね」

「シャルリエ嬢の普段は存じ上げませんが、あの時は確かに黒のリボンをしてましたね。しかし、ライトグレーは彼の好む色ですから。服装もライトグレーで統一して・・・」

 学院の様子を思いだしていたレナルドはふと引っかかりを覚えた。


 確かエリゼーヌもライトグレーの服装をしていたが、袖口や襟の飾り刺繍がジェスターのジャケットと同じ意匠だった気がする。彼の家紋の柊をあしらったものだ。

「え、まさか・・・」

「あら、気づいて? お揃いの服装だから、リボンでお互いの色を纏っていたの」

「それでは、あのアミュレットにオニキスを使っていたのは・・・」

「自分の色を使った装飾品を婚約者に贈るのは基本でしてよ」

 メリザンドの言葉にレナルドは目を剥いた。

 夜会などでパートナーの髪か瞳の色を身に纏うのは貴族の常識だ。衣装そのものだったり、装飾品や小物に取り入れたりと意匠は様々だが、ジェスターの黒髪か瞳の鳶色となると、華やかな夜会で取り入れるのは難しい色味だ。

 それで、エリゼーヌは普段から日常使いでおかしくない小物に彼の色を使っていた。

 ジェスターも彼女を真似て明るい灰色(ライトグレー)ーーエリゼーヌの瞳の色を好んでいると言われて、レナルドはドン引きだ。

「えええ、嘘でしょ」

 それが本当なら、断罪劇で得々と彼女を諭した己はとんだ道化者だ。ジェスターにも嫌われる訳である。

「エリゼーヌ様は『ルクレール侯爵のお気に入り』なのではなく、『ルクレール侯爵()のお気に入り』なの。ジェスター様に本気で絶縁されたくなかったら、ちゃんと覚えておくことね。貴方、彼とはまだ友人でいたいのでしょう?」

「・・・貴方にそんなこと言われる筋合いは」

「稀少な友人は大切にしたいわ。そうではなくて?」

 レナルドの言い訳をぶった斬ってメリザンドはにこりと微笑んだ。

 公爵家次女のメリザンドはレナルドと同じ立ち位置だ。実家から独立する身だが、実家の利害関係と自身の利益を常に念頭において行動しなければならない。損得勘定で人脈を築き、人付き合いには慎重さと警戒心が必要だ。

 だから、社交の必要のない打算抜きで付き合える相手は貴重だった。それを誤解の上の余計なお節介でなくしたくはないだろう。


 思えば、彼とは似た者同士だからこそ、気が合わなかった婚約者だった。ーーお互いの嫌なところまでよくわかってしまうのだから。


「最後までイヤな人ですね、貴方は」

「ふふっ、お互い様でしょう?」

 メリザンドは相手の負け惜しみを華麗に受け流した。そして、用は済んだとばかりに立ち上がる。

「長居は無用ですわね。それではご機嫌よう」

 レナルドは優美な礼を披露して辞去する元婚約者に最後まで敵わなかった。


 ジェスターのノックに応じたのはエリゼーヌ付きの侍女だ。ジェスターが目で合図すると、心得たと扉を少しだけ開けて退室した。

 婚約者でも未婚の男女なので、侍女が付き添わないときの措置だ。    

 エリゼーヌの部屋は一番手狭な客室を改装したもので、ルクレール侯爵・ディオンの好みで最初はパステルカラーで整えられた。少しずつエリゼーヌが手を加え、ジェスターも小まめに贈り物をした結果、お年頃になった今では年相応の落ち着いた部屋になっている。

 白で統一された家具の中でアルマンが贈った色とりどりのミニチューリップの花籠が鮮やかに存在感を主張していた。ちらりと視線を向けたジェスターは次の贈り物は鉢植えでもいいかな、と密かに思案する。

 エリゼーヌの前にはお茶の支度が整っていた。香りのよい紅茶に彼女の好きなチョコレートケーキとガラスの小鉢に薔薇形のチョコレートの盛り合わせだ。

「もうお見送りしてきたの? アルマン様たちとはお約束してあったのでしょう。よかったの?」

「気にしないで。彼らも納得済みだから」

 ジェスターはエリゼーヌの向かいの席について足を組んだ。

 エリゼーヌはこの前ヴィオレットたちとお茶会をして、それぞれの元婚約者+婚約継続者の今後の情報を耳にした。ジェスターが心配していると思って伝えにきたのだが、彼らの約束の邪魔をするつもりはなかった。

 男友達の約束と婚約者からの誘いなら、間違いなく後者を取るジェスターは悪びれもせずにしれっとしている。

「でも、お二人とも王都に戻れるのはいつになるかわからないそうよ。もっとゆっくりとお別れしても・・・」

「ふーん。ずいぶんとあいつらを気にするね。特にレナルドなんか、心配しなくてもいいよ」

 エリゼーヌは婚約者のご機嫌斜めの気配を感じて目をぱちくりとさせた。

「ジェス?」

 二人だけの時の愛称を呼べば、婚約者様はふいっと横を向いてしまった。むすっと唇をひん曲げてわかりやすく拗ねている。断罪劇の後と同じだ。

 断罪劇で難癖つけてきたレナルドにした彼女の返答はジェスターのお気に召さなかった。エリゼーヌとしては、ジェスターから婚約破棄される覚えがないからこそだったが、『まさか、本気じゃないよね? 身を退くとか、冗談じゃないんだけど』と拗ねてしまって、宥めるのに大変だったのだ。


「ジェス、隣に座っていい?」

「・・・好きにすれば」

 ジェスターが座っているのはふかふかの弾力のあるソファーだ。彼のお気に入りでお昼寝用に使用することもあるもので、二人で座っても十分な幅がある。

 移動してちょこんとジェスターの隣に収まったエリゼーヌにも鳶色の瞳は動かない。彼女は小首を傾げて自分の膝をぽんぽんと叩いた。

「ジェス、お昼寝の途中だったでしょう。もう少しする?」

「・・・さっきしたから、いい」

「それじゃあ、ケーキ食べる? ジェスの好きなチーズケーキもあるわよ」

 エリゼーヌはガラス蓋で覆われた皿を手で示した。侍女がチョコレートケーキとは別に用意してくれていたものだ。

「エリィが食べたら?」

 拗ね小僧は憎らしい返答でそっぽを向いたままだ。

 メリザンドに言わせるとこういうのは面倒くさい男らしいが、エリゼーヌはジェスターに甘えられるのはイヤではない。必要とされている、頼りにされていると嬉しく感じる。

 なにしろ、ジェスターは面倒くさがりだが、とても有能だ。いつも、与えられている立場だと思っている彼女にしてみれば、唯一彼に尽くし返せるものなのだから。

「ジェスと一緒に食べた方が美味しいもの」

「・・・それじゃあ、髪結んで。邪魔だから」

 ジェスターがライトグレーのリボンを渡してから背を向けた。肩より長めの黒髪がさらさらと揺れる。

「手櫛でいい? 動かないでね」

 ん、と返事があって、黒髪を梳き纏めるエリゼーヌの手にジェスターは素直に身を委ねる。


 なんだか警戒心の強い黒猫が懐いているようでくすぐったい気分だ。ふふっと笑みをこぼしてエリゼーヌはさらさらの髪に触れる。


「ねえ、ジェス。お二人とも幼なじみで貴方の大切なご友人だわ。心配してもおかしくはないでしょう。わたしよりも貴方との付き合いは長いのだから」

「・・・僕から君を奪おうとする奴なんか友達じゃない」

 するりと黒髪がリボンから滑り落ちて結び損ねた。思わず、エリゼーヌは声を裏返らせる。

「ジェ、ジェス!」

「え、僕のせい?」

 笑みを含んだ楽しげな声音だ。動揺するエリゼーヌをよくわかってやっている確信犯である。

 エリゼーヌはばくばくと落ち着かない鼓動で震える手でなんとかリボンを結んだ。少し雑な仕上がりだが仕方がない。

「・・・セドラン様が噂を鵜呑みにしたのはジェスにも責任があるでしょう。変な事言わないで」

「へー、そういう事言う?」

「だって・・・」


 ジェスターはレナルドに入学前にお互いの婚約者の顔合わせをしようと声をかけられた。一番婚約の遅かったジェスター以外は何かと顔を合わせる機会があり、それぞれの婚約者も顔見知りだ。下位貴族のエリゼーヌは王城に赴く用事もなく、まだ彼らと面識はない。同時期に学院に通う同級生・下級生になるのだから、親しくしておこうという挨拶だった。

 だが、ジェスターは『面倒だからやだ』とすげなく断った。

 下級生のエリゼーヌは彼らと学院内でも出会う機会はなく、もとから友人だったヴィオレットを通してレティシアやメリザンドと知り合った。彼女たちとは親しくなるうちに噂は無責任なものだとわかってもらえたが、すでに彼女たちと婚約者には距離ができていたから彼らには知られることがなかった。ジェスターもわざわざ恋バナを披露する趣味はない。

「ふーん、エリィはそんなにアイツらと会いたかったの。初耳だね」

 ジェスターは低く呟くと再び拗ねてしまった。長椅子の肘掛けに頬杖ついて完全にエリゼーヌを避けている。

「そういう訳では・・・。だって、ジェスの友達だもの。挨拶くらいしたかっただけ」

「・・・アイツら、君を値踏みするつもりだったから会わせたくなかった。エリィの良さは僕だけが知っていればいい」

「えっ・・・」

 エリゼーヌは表情の選択に困って頬に手を当てた。ジェスターの心配は嬉しいのだが、同時に申し訳なく思う。

 レナルドに言われた通り、エリゼーヌは家格も低く魔力も少ない。利点は土地持ち貴族の跡取り娘で爵位と領地くらいだが、侯爵家嫡男で立身出世が容易なジェスターには意味がない。釣り合わないなんて最初からわかっていた事だ。それを気に病んでは彼を傷つけてしまう。

 ぐにぐにと頬を揉みほぐすエリゼーヌの手が大きな掌で覆われた。そのまま、くいっと顔を横向きにされて至近距離から鳶色の瞳に覗き込まれる。

「何してるの? 頰が赤くなるでしょ」

「えーと、その、顔の・・・体操?」

「くっ、何それ」

 吹き出したジェスターはエリゼーヌの腕に指を滑らせた。アミュレットに辿りつくと、彼の色ーー黒の貴石オニキスを一つ一つ丁寧になぞっていく。

「僕が作ったって公表したけど、半分はエリィの功績だ。君が大部分の古語を翻訳してくれたからできた。でも、その事は口外しないで。厄介なヤツらに知られたくない」

「厄介って・・・。何か利権が絡んでくるの?」

「まあ、そのようなもの、かな。約束してくれる?」

 エリゼーヌは素直に頷いた。ジェスターはほっと息を漏らす。


 シャルリエ子爵家は王国の成り立ちよりもずっと古い家系だ。元は一介の薬師だったらしく、自家栽培の難しい薬草を乱獲・絶滅から守るために土地を確保したのが始まりだ。

 子爵家には古語で綴られた古書が多数保存されている。大部分は植物辞典や薬学書といった専門的なものだが、代々当主に伝わる先祖の日記や覚書なども古語で記されているから、当主には古語の知識が必須だった。

 子爵家ではそれを領地の特色だと思って気に留めていないが、研究者界隈ではとても貴重な知識だ。シャルリエ子爵・イヴォンは言語能力をディオンに見込まれて魔術師団に勧誘された。先代である父が壮健で領地経営を任せて王都で職に就いている。

 一人娘のエリゼーヌは読書が趣味なこともあって幼い頃から古語に馴れ親しんできた。港町を治める領主が船乗りの言葉から他国語を学ぶようなものだと思っていて、特別な事だとは思ってもいない。

 イヴォンのように勧誘されるだけならいいが、エリゼーヌは跡取り娘だ。妙な野心に駆られた愚か者なんぞに目をつけられていいように利用されては堪らない。本人は無自覚だが、決して何の利点もない娘ではないのだ。

 ジェスターはエリゼーヌの才能を公にはしたくなかった。

 彼にとっては利点などどうでもよい。ただ、彼女を気に入っているだけなのに、彼の利になる相手だと煩わしい輩の興味をひきたくない。だから、王族のジルベールも一緒の交流に彼女を招かなかった。他の友人たちは婚約者を伴っていたのに、彼は一人きりだ。婚約者と不仲説の噂が流れるのは当然だった。


「ケーキ、食べるよね?」

 ジェスターが頰を解放してくれてケーキ皿に手を伸ばす。エリゼーヌは手渡してくれると思ったのだが、ジェスターはフォークでケーキを切り分けた。そのまま、彼女の口元にフォークで運んでくる。


 恋人同士のイチャイチャの定番、『あーん』である。


 固まるエリゼーヌにジェスターの笑顔の圧がすごかった。機嫌が直ったと思ったのは早計だった。どうやら、エリゼーヌに構ってもらうのではなく、エリゼーヌを構い倒す方向にベクトルが向いたようだ。

「あの、ジェス? わたし、自分で・・・」

「ああ、ごめん。僕の膝の上で食べたい?」

 無駄な抵抗を試みたエリゼーヌは瞬時に敗退した。ぶんぶんと勢いよく首を振って、大人しく口を開けるしかない。

「美味しい?」

 今度は縦にこくこくと首振り人形と化すエリゼーヌ。

 こうなったジェスターは気の済むまで好きにさせないと、最悪抱き枕状態で添い寝まで強要される。ルクレール邸では魔力の高いジェスターの機嫌を損ねて情緒不安定になられるよりはと、生贄・・・もとい尊い犠牲者をだす方針だ。ディオンのお気に入りを義娘にという思惑もあるが、一応若君もそんな無体な真似はしないはず、と使用人たちは皆生温かく見守る体制だった。

 ようやく、食べ終わったと気を抜いたのも束の間、ジェスターがガラスの小鉢を手に取った。

「ジェス、わたし、もう食べられないわ。お腹いっぱいだもの」

「じゃあ、今度は僕の番だね。はい」

「え」

 エリゼーヌは明るい灰色の瞳を目一杯見開いた。小鉢を手渡されて途方に暮れる。

 薔薇型のチョコレートは薄紙が敷かれていて手で持って食べる仕様だが、盛り合わせられたチョコに薄紙はない。フィンガーボールとお手拭きが用意されているだけだ。しかし、ジェスターは手を清めることなく笑顔でエリゼーヌを見つめるのみ。

 食べさせて、と鳶色の瞳が雄弁に語っていて、エリゼーヌは目を泳がせた。

「エリィ?」

 甘さを含んだ、逃さないと言わんばかりの呼び声に、彼女の背に軽い痺れが走る。

 ジェスターは彼女の髪を一房手に取ると、くるくると指に絡ませて軽く引っ張り始めた。つんつんと引っ張ってはするりと滑り落ちた赤毛を再び絡めとって、と弄ぶ。

 エリゼーヌは圧が増した催促に屈した。指を清めると、おずおずとチョコを手にして、黒猫改め雛鳥と化して口を開ける婚約者に餌付けである。

「ん、美味しいね」

 ジェスターは指に吐息がかかって身をすくめる婚約者にご機嫌であった。

 更に激しく動揺しているのに平静を保とうとするエリゼーヌが愛おしかった。彼女がジェスターで一杯になってあたふたするのがとても楽しい。

 再び、あーんで今度は唇が指を掠める。

 エリゼーヌはもう涙目だ。くすりと笑みを漏らすジェスターを気丈にも睨みつけてくる。

「ジェス! からかわないで」

「うん? それじゃあ、本気になっていいんだ?」

 お許しがでたことだしーー、とジェスターはエリゼーヌの手を取ると、指先に優しいキスを贈り始めた。押し止めようとした彼女のもう片方の手も指を絡められてしっかりと恋人繋ぎにされる。振り解くのはできなかった。

「や、ジェス。あ、あの・・・」

「イヤなの?」

 ぱくりと小指を咥えられた上での上目遣いだ。熱を孕んだ鳶色の瞳にエリゼーヌは声にならない悲鳴をあげた。はくはくと口を開閉させて全身が真っ赤に染めあがる。

「あ、あの、その・・・」

 うろうろと視線があちらこちらを彷徨い、全くの挙動不審である。

「エリィ?」

 楽しげな婚約者様は艶を含んだ囁きを耳元で披露してくださると、耳たぶを喰みはみしてくる。エリゼーヌはもう全面降伏だ。目を伏せて力が抜けた身体を彼にもたれさせた。

「ーーーーないから。・・・困るの」


 イヤじゃないからーー、という小さな呟きをしっかりと聞き取って、破顔したジェスターは恋人を優しく抱きしめた。


エリゼーヌの素では『わたし』です。

公では『わたくし』、行儀見習いの結果です。

エリゼーヌは慣れてないから甘やかされるのが苦手、甘やかす方が好き。

ジェスターはエリゼーヌ限定で甘やかされるのも甘やかすのも大好きだったりする。

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