婚約成立しました
「エリー、起きなさい。そろそろ到着だ」
エリゼーヌは祖父に優しく揺すられて目を覚ました。
従姉妹のイレーヌの結婚式に参加するためにミルボー領へ向かっていた。陸路と水路が交わる要所バシェからミルボー領へは馬車で二日の距離だ。
今夜はバシェに泊まりだが、ファブリスの付き添いはここまでだ。祖父はこの街で商用があってミルボー領には行かない。
シャルリエ家の主な取引先は薬師のブロンデル家と魔術師団の研究開発部門だが、ファブリスの個人的な付き合いで小口の取引相手が幾人かいた。今回はその相手と商談で、家宰の采配だった。
ファブリスがミルボー領へ出向けば、先代の伯爵夫妻と揉めるのは確実だ。何しろ、先代・マドレーヌの両親は孫娘イレーヌの婚約相手と顔合わせがすむと国外へ出かけてしまい、内孫ユベールのやらかしを長い間知らなかった。
マドレーヌにしろ、ユベールにしろ、可愛い孫娘エリゼーヌの天敵だ。顔をあわせれば絶対にどんな教育をしたのかと問いたださねば気が済まない。しかし、せっかくの慶事に揉め事をおこすワケにはいかないのだ。
ファブリスにはやらかす自信しかなかったから、不満ではあるが大人しくひっこんでいるつもりだった。
「エリゼーヌ様、こすられてはいけません。目元が腫れてしまいますわ」
エリゼーヌが眠たげに目をこすろうとしたら、クロエが止めに入った。出来る侍女はいつの間にかに濡らしたタオルを手にしていた。
「さあ、こちらで顔を拭きましょう。さっぱりしますわ」
「ん、クロエ、ありがとう」
エリゼーヌは素直にタオルを受けとった。
クロエは領地でエリゼーヌの専属侍女頭というべき地位についていた。将来的に王都のタウンハウスでエリゼーヌ付き侍女になる少女たちを鍛えている最中である。今回はクロエが付き添うから未来の専属侍女たちはお留守番だ。
エリゼーヌが顔を拭くと、クロエが髪を整えてくれる。貴族令嬢らしい振る舞いが身についた孫娘をファブリスが複雑そうに見やる。
息子夫婦がアレだったから、できるだけファブリスがエリゼーヌの面倒をみてきたが、やはり女手があるのとないのとでは細やかな配慮や気配りが違う。専属侍女をつけてもらってよかったと思う反面、ようやく手元で育てられるようになった孫の婚姻まで後五年ほどかと、いささか寂しく感じてしまう。
侯爵家の気合いの入れようから、成人してすぐの婚姻になるだろうと容易く予想がつくのだ。
だが、孫の幸せのためと思えば、手放す覚悟はできていた。
「お姫様、お手をどうぞ」
エリゼーヌはからかいを含んだエスコートの声に勢いよく顔をあげた。黒髪に鳶色の瞳の少年が手を差し伸べていた。久しぶりに会う婚約者様だ。
「ジェス!」
エリゼーヌは嬉しさのあまりに、子犬が尻尾をぶんぶんと振り回すが如く、ジェスターに飛びついた。
いきなり馬車からぴょんと飛び降りてきた少女にジェスターはぎょっとしたが、ぎゅうっとしっかりと抱きとめた。思わず、反動で後ろによろけた身体を先に降りていたファブリスがさりげなく支えてくれる。
「エリー、嬉しいのはわかるが、気をつけなさい。あまりお転婆だと、ジェスターどのに呆れられてしまうよ」
「大丈夫です、ファブリス様。エリィは何しても可愛いですから」
エリゼーヌを確保したまま、ジェスターが真面目に惚気た。周囲の護衛やお供の者は少年少女のじゃれあいは見慣れていた侯爵家の者だ。誰の目にも生温い空気が漂う。
「どうして、ジェスがここにいるの?」
「君のエスコート役。ファブリス様はここまででしょう。後は僕が引き受けるから」
エリゼーヌが祖父を見あげると、大きく頷かれた。
「さすがに姉の婚姻ともなれば、アノ愚弟も出席するらしい。ミルボー家の跡取りを正式に発表するから、アレも出さんといけないようだ」
苦虫を噛み潰したファブリスは名も呼びたくない天敵を警戒してジェスターにエスコート役を頼んだのだ。
「じゃあ、ジェスもイレーヌねえ様の結婚式に行くの? ずっと一緒にいられる?」
「うん。その後は君の領地に行くよ。遊びに行くって言ったでしょう?」
エリゼーヌはぱあっと顔を輝かせた。
毎年、王都に遊びに行っていいと言ってくれた祖父だが、そう何度も領地を留守にするのは難しい。今年は従姉妹の結婚式で出かけてくれたから、もう遠出は無理だと諦めていたのだ。
体調不良の度に娘を預けていた母とは違って、祖父は孫を大事にしているから、侍女をつけただけの少女に遠出はさせないのだ。領地外に出る時は必ず付き添ってくれていた。
「長旅で疲れたでしょう。部屋に案内するよ」
ジェスターがエリゼーヌと手を繋いでひいてくれる。
先にバシェに着いていたジェスターたちはすでに宿で部屋を確保してくれていた。
エリゼーヌの部屋に案内すると、クロエが荷解きする間、ジェスターの部屋でお茶をいただくことになった。
エリゼーヌとファブリスの部屋は二間続きの大部屋で、ジェスターの部屋はその真向かいだ。
「何から何までお世話になり、ありがたく存じます」
「いえ、未来の妻のためですから」
にこりと少年に微笑まれて、ファブリスはひくりと頬をひきつらせた。
ーーああ、これはもう逃すつもりはないな、と実感させられた。
孫娘は目の前に用意されたお茶菓子に目を輝かせていて、聞いていなかったようだが。
エリゼーヌは当然のようにジェスターの隣に収まり、真向かいに祖父一人で座っている状態には少しも疑問を抱いていない。まだ、婚約前なのに、とファブリスが苦言を呈すかどうか悩んでいると、目の前に一通の書状が用意された。
「ああ、ファブリス様、こちらをお持ちしましたので、お納めください」
銀盆の上に恭しく載せられているのは神殿の朱印入りの婚約誓約書の写しだ。正式に婚約が整った場合、誓約書には朱印が押され神殿に保管される。当事者たちには写しが手渡され、婚姻当日に婚姻届に添付されるのだ。
「・・・王都に出向いた時に、というお話でしたが?」
誓約書の提出の前倒しに頷いたが、こんなに早く手続きされるとは予想外のファブリスだ。目を丸くする老紳士にジェスターがはにかみながら告げた。
「エリィから手紙をもらいまして。今年は王都に行くのは難しいかもしれないと。
来年の手続きとなると、無用に騒ぐ外野がいるかもしれませんので、早めに手続きさせていただきました。お会いできる時に持参してお渡しした方が間違いなどありませんし」
「・・・サヨウですか。どうも、オテスウをオカケシマシテ」
「いえいえ、とんでもない。ファブリス様にお許しいただいて光栄です」
はははと、ファブリスは乾いた笑みを浮かべた。
父の侯爵の腹ぐ・・・もとい、有能さを継承しているようで、実に頼もしい婚約者様だと、遠い目をして婚約を喜んでいる孫娘を見やったのだった。




