後悔しても遅かった(前編)
今回も長くなったので、前後編にしました。
イヴォンは娘の部屋をぐるりと見渡すと、一冊の本を手に力なく寝台に腰かけた。
家具はすべて置いてある。閑散とした印象はないが、やけに部屋が広々と感じられて空虚だった。
エリゼーヌが持ちだしたのは着替えと身の回りの品、そして本棚と勉強机の中身だけだ。荷造りはあらかじめファブリスに指示された老執事が済ませていたから、エリゼーヌは確認だけした。
イヴォンが娘のお気に入りだったこの本を渡そうとしたら、領地にもあるからいらないと断られた。
「・・・エリーは覚えていなかったな」
イヴォンの手にある植物図鑑は幼い娘のお気に入りだった。乳母がマドレーヌの相手をしてくれている間に少しは娘と交流する時間がとれていた。エリゼーヌは絵本を読んで、とよく乳母にせがんでいたが、イヴォンには決まってこの植物図鑑を持ってきた。
難しい本だから、おとーしゃまに読んでもらうのだ、と。
おとーしゃまのごほんーー幼いあの子はそう言ってきゃらきゃらとよく笑っていた。
その無邪気な笑顔が消えたのは乳母が亡くなってからだった。
乳母が引退したのはエリゼーヌの7歳の誕生日だ。
ファブリスを育て、イヴォンにエリゼーヌとシャルリエ子爵家三代に渡って養育してくれた乳母は平民の出でかろうじて読み書き計算ができるくらいだったが、刺繍の腕前は一流だった。本人は学がないから手仕事を身につけたと言っていたが、愛情深い人で本当の親や祖母のように接してくれた。
年老いて身体にガタがきたと領地での隠棲を望み、エリゼーヌと共に領地へ向かってそのまま引退した。
エリゼーヌは後任の侍女頭に懐いていたし、誕生日に領地に向かえば会えると思っていたからあまり気落ちしていなかった。却って、イヴォンのほうが寂しさを覚えたくらいだ。
だが、乳母はその年の冬を越せなかった。
悄然としたイヴォンだが、娘には乳母は神に召されたからもう会えない、誰でも年をとれば起こることなのだと、優しく言い聞かせた。侍女頭も気を配って諭してくれたから、娘は乳母の死を受け入れたと思っていた。
しかし、翌年の誕生日に父から連絡がきて、エリゼーヌは乳母を探し求めて大泣きしたと知らされた。
誕生日には会えると約束したから、エリゼーヌは乳母にまた会えると信じていた。乳母が少女との約束を破ったことは一度もなかったからだ。ファブリスからはショックを受ける孫娘をしばらく預かると言われた。
イヴォンはちょうど仕事が立て込んでいた時期で、領地へ様子を見に行く暇がなかった。ようやく、長期の休みをとれるようになったのは半年も経ってからで、イヴォンは娘を迎えに行った。ファブリスがなかなか孫を手放さなかったから、迎えに行かねば娘をとられるような気がしたのだ。
久しぶりに会う娘はにこりと静かに微笑むようになっていた。無邪気さはナリを潜めたが、乳母の死を乗り越え、成長して落ちついたせいだと思っていた。
しかし、ドロレでジェスターと過ごす娘の姿を目の当たりにしてそれは勘違いだったとイヴォンは気づいた。エリゼーヌは無邪気に笑わなくなったのではなかった。
ーー父に対して身構えるようになっていた。
エリゼーヌは絶対的な味方だった乳母を亡くしたことで、両親から距離をとるようになった。母の理不尽な干渉を避けるためだ。
だが、娘の本心を隠した作り笑いに気づかなかったイヴォンは娘からの信用を完全に失っていた。
幼いエリゼーヌには自分のことをエリーと呼ぶ癖があり、イヴォンは娘を愛称で呼ぶのをやめた。マドレーヌがみっともないから矯正したほうがいい、と言いだしたせいだ。しかし、父やディオンは変わらず愛称で呼んでいたのに、娘の癖はいつの間にか直っていた。
彼らと会う機会はそう多くはないから、とイヴォンは思っていたが、胸にわだかまりを感じた。娘はイヴォンが愛称呼びをやめなくても直していたのではないか、と。
妻は娘を出来のよくない子だから、とよく庇う発言をしていたが、エリゼーヌをそう評価するのはマドレーヌだけだ。
領地やミルボー家で世話になっている間、家庭教師をつけてもらったが、歳の割に教育内容は遅めだが理解度は早く、自主学習よりも家庭教師をつける時間を増やしたほうがよいと報告されていた。だが、一時的な部外者よりも母親のほうが娘と接する時間は多い。
妻の言い分を信じてしまったのが、愚かだったのか。
マドレーヌは己が尊重されないと感じると発作を起こしやすかったから、イヴォンはできるだけ妻の言い分を訊いて言う通りにしてきた。
乳母はマドレーヌをお嬢様扱いで持ちあげていたから、乳母がいた時には子爵家はうまく回っていたのだ。それを侍女頭にも期待していたが、マドレーヌより数歳若かったせいか女主人には逆に癇に障ったようでうまくいかなかった。
イヴォンは乳母の真似をすれば、元通りになると勘違いしてしまった。それが、子爵家で女主人が専横する結果になった。
エリゼーヌの親権はファブリスに移ったが、かろうじて籍はまだイヴォンの娘だ。ファブリスは将来的にエリゼーヌと関わらない事を条件に養子にはしていない。
一応、子爵家当主の世間体を慮っていたが、イヴォンのためではない。エリゼーヌが成人するまで、嫁ぐまでは子爵家の醜聞となりそうな弱味は隠しておく方針だからだ。侯爵家との間に無用な横やりを入れられないための用心だった。
だが、マドレーヌは憤慨していた。
子爵家の跡取りなのに、侯爵家の嫡男との縁組などと烏滸がましい。もし、跡継ぎが生まれなかったら、領地はどうなるのか、と心配するのには皮肉でつい笑いそうになった。
自分の結婚では跡継ぎに恵まれなければ養子をとればいい、とあっさり了承したのに。
「ああ、本当に、彼女の言う通りだったんだな・・・」
侍女頭の顔が思い浮かんで、イヴォンの瞳には陰がさす。
エリゼーヌを連れて戻ったら、もう侍女頭の辞職が決まっていた。娘が落ちつくまでもう少しと引きとめるイヴォンに侍女頭は最後の忠告を残した。
『僭越ながら、最後のご奉仕として忠告させていただきます。奥様はお嬢様を旦那様の寵を競うライバルと思っておられます。どうか、お嬢様の身辺にはお気をつけなさいますよう』
老執事にも似たようなことを言われた。マドレーヌは母親でもなく、子爵夫人でもなく、未だ伯爵令嬢の気分のままでいるのだ、とーー
だから、娘の粗探しばかりで決して認めようとはしない。貴族社会で他の令嬢と競う感覚のまま、娘に接しているのだ。我が子なのに、隙あらばすぐにでも蹴落とそうとするライバルとみなしていた。
「旦那様、奥様がお話があると仰っていますが・・・」
老執事が控えめに声をかけてきて、イヴォンは我に返った。とんでもないマヌケな主だが、まだ老執事は見捨てないでくれている。これ以上の失落は避けるべく、シャルリエ家当主は立ち上がった。
エリゼーヌは跡取りで婿取りだったので、本来なら嫁がせることにはならなかったのに・・・。
娘に愛情を伝えるのを怠ったイヴォンは花嫁の父にもなれません。ファブリスが父親役を譲りませんから。
おじい様は盛大に泣きつつ、孫娘の幸せを願って嫁がせるでしょう。




