約束しました
ジェスターは右腕にしびれを感じて目を覚ました。
温室の隠れ場所で寝転んでいたら眠ってしまったようだが、なんだか温かいものが寄り添っていた。
すぐ間近で明るい灰色の瞳がぱちくりと瞬きしたかと思うと、ふにゃりとエリゼーヌが笑み崩れた。
「こんなとこで寝てたら、風邪ひくよ、ジェス」
いつの間にか、エリゼーヌが彼の右腕を枕にしてぴとっとくっついていた。
「えりぃ」
ジェスターは少し舌足らずな声で少女を抱きしめようとした。
エリゼーヌとは朝食時に顔をあわせたきりだった。今日一日で王都を発つ準備をするのだ。朝から少女は祖父と出かけていて、話をする時間はなかった。
エリゼーヌは教会とブロンデル家を訪問し、買い物にも行くと言っていた。子爵家には祖父の連絡で荷造りはすんでいたから、荷物の確認だけのようだった。
午後のお茶の時間にも戻らず、ジェスターは不貞腐れた。ずっと領地住まいではなく、王都に遊びに来たら侯爵家で泊める話は聞いたが、エリゼーヌ本人からは聞いていない。
明日には出発でしばらく会えないのに、とジェスターは不満でいっぱいだった。幼い頃の隠れ場所で一人たそがれてはふて寝していた。
ジェスターがいつもと違う抱き心地に首を傾げると、エリゼーヌが何か白い物を抱き抱えていた。
「見て、ジェス。かわいいでしょう?」
少女が自慢げに顔の前に掲げたのは白いふわふわの毛並みの猫のぬいぐるみだ。青みがかったグレーの瞳に首元に赤いリボンをつけている。
幼児ほどの大きさがあって、ジェスターは呆気にとられた。
普通、ぬいぐるみは等身大か子供が持ちやすい人形サイズのどちらかだから、これだけ大きいのは珍しい。
「どうしたの、これ?」
「おじい様が買ってくださったの」
ふふっと少女は嬉しそうに説明してきた。
ショーウィンドウに飾られていたぬいぐるみで青いリボンをつけた黒猫と対になっていた。エリゼーヌが欲しがったが、生憎とディスプレイ用で売り物ではなかった。だが、孫娘の珍しいおねだりにファブリスが奮起した。
店主にかけあってどう話し合ったのか、最後にはガッチリと硬い握手を交わして入手してくれた。
『貴方があのカミサマなのですね!』とちょっぴり頭頂部が涼しい店主がやけに興奮して、ファブリスのふさふさな頭髪に憧れの視線を向けていた。何やら拝み倒さんばかりだったのが少女には謎だったが、祖父の人柄によるものだろう。
「はい、ジェスにあげる。わたしの黒猫と対になってるから、大切にしてね。お揃いなの」
エリゼーヌにぬいぐるみを差しだされて、ジェスターは戸惑った。もうぬいぐるみを飾る歳でもない。
「抱っこして寝ると、気持ちいいの。わたしも黒猫を抱っこするから」
抱き枕か、と納得したジェスターはぬいぐるみを受けとり、脇によけると少女をむぎゅっと抱きしめた。
「ジェス、猫さんは?」
「ん、後で。今はエリィがいい。明日には領地に行っちゃうんだから・・・。急すぎるよ」
「うん、でもね、王都に遊びに行ってもいいっておじい様は言ってくださったから、遊びに来るね。お手紙書くから、ジェスもお返事ちょうだいね」
感傷的になる少年に対して、少女は初めて文通するのだと楽しみにしていて楽観的だった。
友人のヴィオレットとも文通の約束をしたと語られて、ジェスターは拗ねた。友人と同じ扱いとか、何やら虚しかった。
「・・・エリィは寂しくないの? 僕と離れるのに。しかも、婚約は一年後なんだよ」
「? 時期を見計らってるのでしょう。イレーヌねえ様もそうだったのよ」
エリゼーヌは従姉妹のお相手は教師で在学中は外聞が悪いし、卒業後すぐもちょっと、とさらに一年も待ったから、そんなものだと思っていた。でも、普通はそうではないのかと不安になって、鳶色の瞳を見つめた。
「正式な手続きがまだなだけで婚約成立だって、おじ様は言ってたのに違うの?」
「違わない。もう僕たちは婚約者同士だからね。・・・もし、横やり入れる相手がいたら、ルクレール家の名前をだして断るんだよ?」
「そんな人、いないわ」
ジェスターは不思議そうに首を傾げる少女の危機感のなさにイラッとしたから、素早く頬にキスした。
「油断大敵だよ、エリィ、隙だらけだ」
「! な、だ、だって、い、今のは反則!」
エリゼーヌは真っ赤になってぐりぐりと肩に頭をこすりつけてくる。くすくす笑ってジェスターは耳元で囁いた。
「ねえ、もう、準備は終わったの? 後はずっと僕と過ごしてくれるの?」
「う、うん、ジェスがここにいるって、ケヴィンさんが教えてくれたから」
迎えにきたの、という割にエリゼーヌはくっついたままだ。
「エリィ?」
「・・・あのね、子爵家でね、お父様と会ったの。でもね」
お母様とは会わなかったの、とエリゼーヌは小声になった。
マドレーヌがファブリスに恐れをなして部屋に閉じこもっていたのだ。ファブリスも顔も見たくないようで部屋からだすなと命じていた。
少女は学院入学までは領地暮らしだ。入学後は使用人用の離れを改装してエリゼーヌの住まいとする予定で、マドレーヌとの関わりを断つ。もしかしたら、これが最後に会う機会だったかもしれない。
「・・・わたし、会うのが怖かったの。おじい様が一緒だったけど、ダメ、だったの。・・・わたし、の、お母様、なのに」
「しかたないよ。君はあんな目に遭ったばかりだ」
ジェスターはそっとえんじ色の頭を撫でた。エリゼーヌもぎゅっとしがみついてくる。
「ねえ、エリィ。いくら、実の親でも、そりがあわない相手と無理して会う必要はないよ。却って距離を置いたほうが、いい関係もある。お互いにね。
だから、気に病まないで。君の場合はたまたま実母がそういう相手だっただけ。
夫人には子爵がついていれば充分だし、エリィはもう会わないほうがいい。・・・というより、僕が会って欲しくない」
ジェスターが断言すると、少女が息を呑む気配がした。
ジェスターはマドレーヌを要注意敵対人物とみなしていた。
クレージュ侯爵令嬢との噂をイヴォンにしたのはマドレーヌで、娘を代理とか練習相手と言いだしたのもそうだ。
イヴォンはディオンがそんな真似をするとは思わなかったが、何度も言い募る妻に負けて友人に尋ねようとした。それをマドレーヌが『ダメな場合は他の相手を紹介するなんて、練習のお礼なのでしょう。わざわざ確認するのは失礼よ。気分を害して婚約相手を紹介してもらえなかったら、エリゼーヌが可哀想でしょう』と止めたのだ。
マドレーヌは何事も子爵家のため、夫のため、娘のため、という言い方をするが、実質は己のためだ。
その証拠に今回の件では怪我をさせた老執事に謝罪など一言もない。当然、娘に対してもだ。たまたま運悪く攫われただけという認識らしい。
マドレーヌに罪悪感はなく、子爵家のためだったのに責められるなんて、と不満に思っていると報告を受けている。娘と顔を会わせたら、絶対に八つ当たりするだろう。
「・・・ねえ、夫人は間違ったことはしていないと言ってるらしいね。
もしも、逆恨みされて、また君が傷つけられたりしたら、僕は悔やんでも悔やみきれないよ。そんな事になったら、我が家は黙ってないから」
「ジェス?」
「父様も僕も君が大切で大事だからね。ファブリス様以上に君を想ってる。
だから、君が僕を想うなら、自分のことを大事にしてね。・・・でないと、僕は」
何をするかわからないよ?と、心底からヒヤリとする声音にびくっと少女の肩が跳ねた。わたわたと焦る声が少女から返ってくる。
「こ、婚約は一年後でしょ? そ、それまでは婚約者の振る舞いは控えたほうがいいと思うの! うん、外聞というか、その、順序があるし!」
「はい?」
ジェスターは首を傾げた。顔を伏せた少女のえんじ色の髪からのぞく耳や首筋が真っ赤だ。
「えっと、あのね、ジェスとこうしていられるのは嬉しいのだけど、やっぱり、その・・・」
「・・・えーと、もしかして、僕がエリィに何かするほうだと思った?」
「え?」
しばし、二人の間で沈黙が流れた。
エリゼーヌは???と疑問符が先立って意味を理解するのに時間がかかり、ジェスターは何かするのは邪魔者排除のことだったんだけど、と言いかけてふいに面倒になった。二人きりの時間は今だけなのに、問題親に煩わされたくはない。
「うん、決めた。エリィが自分を蔑ろにしたら、お仕置きするから。僕の好きにさせてね」
「お、お仕置きって・・・」
語尾にハートマークがつきそうな楽しげな宣言にエリゼーヌは焦った。ジェスターの好きにさせるとか、心臓が保たない恐ろしい予感しかしない。
「え、えっと、わたしがわたしを大切にすればいいのでしょう?」
「うん、ムリや無茶なことはしないでね」
「しない。大丈夫、約束するから」
エリゼーヌはお仕置き回避だとほっとした。
実は少女は結構無謀なところがあるから、十分お仕置き確定だな、何をしようかな、と婚約者様が嬉しそうに思案中だとは思いもよらない。
エリゼーヌの無理無茶 ≠ ジェスターの無理無茶
だと、少女が気付くのはまだまだ先のことだった。
ファブリスは『こよなく頭髪を愛する会』名誉会長に誘われていました。店主はその会員です。
名誉会長に就くことを条件にぬいぐるみを譲ってもらえました。店主は『売り物ではないから代金はいりません。その代わりに名誉を授与していただきたい』と申し入れたのです。
『こよなく頭髪を愛する会』にとって、ファブリスはまさに神。店主はこの功績で会員番号を一桁にあげました。




