人生、何が起こるかわかりません
フェリシー視点です。呪詛の言葉が明らかになります。
ーーこんなはずじゃなかったのに、とフェリシーは狭く貧相な部屋で唇を噛みしめた。
聖女候補だった部屋とは広さも調度も段違いだ。扉も窓にも厳重に封印の施された重度の病人用の隔離室で彼女は軟禁されていた。
壮行会で断罪劇に加担し、呪詛をばらされたフェリシーはもう様子見など言ってる場合ではなかった。神殿に要注意人物のレッテルを貼られ、即刻隔離された。
まだ卒業前で学生の身分だったのが幸いして更生の余地有りとみなされたが、聖女候補の待遇なんて返上だ。
本当は卒業パーティーで事を起こすつもりだったジルベールらを止めた己の見識に拍手を送りたいところである。
断罪劇から十日ほど経つが、フェリシーはずっと事情聴取を受けていて卒業式は病欠だった。一応、卒業資格は貰えたが、実家からは勘当されて除籍された。平民の身分に逆戻りだ。
事情聴取で特に厳しく追及されたのはアミュレットに記録されていた言葉の連なりだった。
フェリシーは『むしゃくしゃしてデタラメを叫んだ。呪詛なんてとんでもない。クレージュ侯爵令嬢とはなんの繋がりもない。ただ、エリゼーヌと悶着あったらしいと耳にしたから嫌がらせで口にしただけ』と主張して呪詛は否定したが、どこまで信じてもらえたことか。
「あんた、転生者なの? 悪役令嬢ブランディーヌ・クレージュに一体何したの? ゲーム開始前に退場とか⁉︎ 信じられないんだけど」
あの叫びが命取りになるなんて大誤算だった。日本語を理解できるのは転生者だけ。この世界の人間ならただの無意味な音の羅列にしかならないはずだった。
ただエリゼーヌ・シャルリエが転生者なのか知りたかっただけなのに。
フェリシーは転生者だ。治癒術に目覚めたのと同時に前世の記憶が蘇っていた。
名前とか住まいとか細かなことは覚えていないが、確か社会人なりたての研修期間に亡くなったはずだ。フェリシー・バランドの名に覚えがあると気づいた時には『暇潰しで遊んでいた乙女ゲームの主人公に転生とか、どこのライトノベルだ』と全力でツッコミたくなったものだ。
フェリシーは記憶が整理されて落ち着くと、まずは情報収集に勤しんだ。
『やったー、ヒロインだ! この世界は私のためにあるのよ♡』などと、お気楽思考はフェリシーにはない。何しろ、前世では苦学生でバイト三昧の学生生活を送っていた苦労人だ。本当にこの世界がゲームと同一なのか、果たしてシナリオ通りに進むのか、確かめる必要があった。
フェリシーにはこの世界で16年生きてきた確固たる意志があるのだ。ゲームと現実を混同した挙句に好き勝手やらかして自滅とかあり得ない。前世でそういう小説を読んだこともあるから、慎重になるのは当然だった。
数年間だけでも先の展開が読めるのは、豊富な魔力量・強大な魔力・貴重な治癒術の使い手、とチート能力持ちなフェリシーが生きていく上で大きな利点だ。最大限に利用したいが、そのためにはゲームの強制力があるのかも重要だった。
自分の意思を無視して勝手に進む世界なんて冗談ではない。気味が悪くて発狂しそうだ。
ゲームの開始はよくある入学式からで、それまでの間にフェリシーは十分な確証を得た。
治癒術のきっかけは馬車に轢かれそうになったフェリシーを庇って怪我した騎士だった。血の流れる頭部をハンカチで押さえながら、騎士の無事を願ったのが始まりだ。その騎士はフェリシーが神殿に聖女候補と認定された時に怪我のお礼に現れた。神殿騎士だったその人はなんと隠しキャラの一人だった。確か、聖女ルートで護衛に抜擢された彼と再会し、恋情が育まれるのだ。
そして、ゲーム開始前の下準備というか、設定通り攻略対象の一人レナルド・セドランがお世話役に紹介された。面倒見よく学院について教えてくれる彼に、入学式前に学院を見学に訪れたいと強請ったのは、ゲームにない展開でどう変化が現れるか確認のつもりだった。
結果として、この世界はシナリオ通りには進まない、強制力も働かない現実なのだと嫌でも思い知ることになったのだが、同時にフェリシーの力に致命的な欠陥も見つかった。
レナルドは学院の施設見学には前もって申請が必要で急な申し込みには応じられないのだと説明しつつも、外見を見るだけならと馬車を用意してくれた。
学院の周囲を馬車でゆっくりと一周しつつ、『兄からの受け売りだけど』とレナルドが建物を指差しては色々と説明してくれる。フェリシーはゲーム知識との相違を確認していた。もうすぐ回り終えるという時に事件は起こった。
後方から物凄いスピードで走ってきた馬車が彼らを追い抜いた直後に、前方で悲鳴が湧きあがった。爆走した馬車が数人の通行人を跳ね飛ばしたまま、スピードを緩めもせずに走り去ったのだ。
怪我人の中には子供もいて、神殿の馬車に同乗していたフェリシーたちはすぐに救助に向かったが、フェリシーは治癒術が使えなかった。幸いにも、護衛騎士が弱くても治癒術が使える人材だったので、怪我人たちは一命を取り留めたものの、フェリシーは愕然となった。
「突然のことで動揺したのでしょう。治癒できなくても仕方がないですよ」
「まだ、能力が目覚めて間もないのですから、慣れていないのです。そう焦らなくてもよいのです。魔力が安定すれば、自由自在に扱えるようになりますから」
落ち込むフェリシーをレナルドに続いて神官長も慰めてくれたが、彼女にはそうは思えなかった。
なにしろ、ゲームでは魔力が不安定だという設定はあったが、治癒できない場面はなかった。シナリオ以外の出来事だから治癒できないなんて、この世界ではあり得ない。現実ではリセットは利かないのだ。命を落としたら、そこで終わってしまう。
フェリシーはシナリオにはない治癒術の訓練を始めた。治癒術は軽傷で使うと自己再生能力が弱まってしまうのであまり歓迎されないが、フェリシーは聖女候補を前面に押し出して周囲の協力を得た。その結果、ゲーム内で治した事実があれば、シナリオ通りでなくても治せるとわかった。
ーー例えば、『第一騎士団の訓練中に治癒術を行使した』とあれば、第一騎士団の人間ならいつでも治癒可能だ。
ジェスターに『好みの美男子しか治癒できない』と辛辣に揶揄されたが、誤解と偏見である。
乙女ゲームの舞台だけあって顔面偏差値の高い世界なのだ。たまたま治癒術のお世話になりやすい騎士を治すのが多かっただけだ。
しかし、そのことをフェリシーは絶対に口にできなかった。
前世を覚えてるだけでも怪しいのに、さらにこの世界はゲームの舞台だとか。信じてもらえないどころか、狂人扱いされたら人生終了だ。いや、信じてもらえても、数年先の出来事がわかる能力ーー未来予知を上位者にいいように利用されて搾取されでもしたら、男爵家出身のフェリシーには逆らいようがない。
ゲームでは4人の攻略対象ーー第二王子ジルベール・神官長甥レナルド・騎士団長子息アルマン・魔術師団副団長子息ジェスターーーの婚約者は当て馬役にはならない。別に悪役令嬢がいた。
それが侯爵令嬢ブランディーヌ・クレージュだ。
幼少期から病弱で何度も危篤状態に陥っていたブランディーヌには婚約者がいない。甘やかされて我儘放題に成長したブランディーヌは婚約者探しで入学してくる。そして、『本当なら婚約者はわたくしだったのに』と攻略対象たちに付き纏い、婚約者たちを排除しようとするのだ。
それに立ち塞がるのが、ヒロイン・聖女候補フェリシーである。
選民思想のブランディーヌはフェリシーを元平民の成り上がりと蔑み、聖女候補の役割で攻略対象の側にいるのでさえ許せない。それが嫌がらせを咎めだてしてくるのだから、腹立たしいことこの上なく、婚約者以上に邪魔者扱いで苛烈に虐めるのだ。
フェリシーは攻略対象とはそれがきっかけで仲が深まり、婚約者とは友情を築き上げる。最後にはブランディーヌが婚約者へ行った悪事の冤罪をかけられたフェリシーを攻略対象と婚約者が救うのだ。卒業パーティーの断罪の場でブランディーヌは裁かれて修道院行きになる。
婚約者は恋よりも友情を選んで身をひき、フェリシーと攻略対象を祝福するエンディングと異色の展開が話題の乙女ゲームだった。
しかし、ブランディーヌは学院に入学してこなかった。ゲームは開始から詰んでいる。
ブランディーヌの病状が悪化したと聞いていたのだがその後の情報は全くなく、フェリシーは最初から嫌な予感がしていた。
半年経って訓練の結果がでた頃に、ようやく男爵家の侍女がブランディーヌがすでに亡くなっていたと噂を仕入れてきた。
フェリシーは愕然とした。
もしかしたら、ブランディーヌも転生者で断罪される未来を変えようとしていたのでは? と思っていたのに、亡くなったというからにはあり得ない。もともと病弱なのだから、領地で静養と引きこもってしまえば、ゲームとは無関係になれる。偽装死を装うデメリットを負う必要はなかった。
フェリシーはブランディーヌについて詳しく知ろうとしたが、お世話係のレナルドにやんわりと躱されて教えてもらえなかった。他に聞く相手がいなくてフェリシーは困惑した。
悪役令嬢がいないせいでゲームの展開にはなっていないはずなのだが、レナルドとジルベールがフェリシーに構ってくるので、レティシアらに苦言を呈されて他の生徒とはあまり親しくなれなかった。
フェリシーはこのゲームを暇潰しでやっていたくらいだ。正規ルートでも見逃したイベントはあったし、隠しキャラをネット情報で見かけて隠しキャラ攻略の聖女ルートは未プレイだ。
聖女ルートは逆ハーレム状態で好感度が高すぎて告白シーンになってはいけない。恋愛ではなく、敬愛の情で4人の好感度を等しく保つ必要があったはずだったが、現実では彼らの好意度にはばらつきがある。
ジルベール=レナルド>アルマン>ジェスター、だ。
特にジェスターに至っては塩対応で『好感度なんてある? マイナスでは?』と思うほどである。何しろ、魔術の指南役を面倒がられている有様だ。
ある日の魔術の居残り授業後などーー
「ジェスター様、いつも付き合ってくださってありがとうございます。でも、たまには息抜きも必要だとは思われませんか? お世話になっているお礼に、この後はお茶でも」
「はっ? 君に無駄話してるヒマあるの? この前の課題、未提出だよね」
「神殿の務め優先で構わないと猶予をいただけましたわ。ですから、少しくらい・・・」
後片付け中のフェリシーの目の前にどこから取り出したのか、どさりと本の山が築かれた。課題以上の魔術書が山積みである。
「君の魔力安定に必要なんだから早く読んでよ」
引き攣るフェリシーなど気にもとめずに塩対応のジェスターはすでに帰り支度を終えていた。
「こ、こんなに一度にはむ」
「お茶する暇はあるんでしょ。どこが無理なの。人を付き合わせて、無駄な時間を浪費させてる自覚なし? 最悪だね」
言い訳をぶった斬られた上にモロに迷惑がられていた。少しでも親しもうと努力するフェリシーもさすがに凹む。
「・・・うわぁ、ツンデレどころかツンしかない」
思わず、ボソッとこぼしたらジェスターに怪訝な顔をされた。
「何、寝言? 君、目を開けて寝ぼける癖でもあるの? 睡眠学習できそうだ。追加してもいいね?」
「い、いえ! 大丈夫です。まずはこの本を読ませていただきますから!」
「へえ、そう? じゃあ、次の実技までには読んでね。基礎編・応用編・実用編と三段階の指南書だから、ためになるよ」
「!」
慌てるフェリシーに非情な追い打ちがかかる。ジェスターは本の山に途方に暮れる彼女を手伝うことなく帰宅してしまった。
貴重な魔術書を放ったらかしになどできない。
ーー鬼だ、悪魔だと、心の中で罵りつつも、フェリシーは馬車乗り場と教室を往復する羽目になった。しかし、フェリシーは苦労して運んだ魔術書には目を通さなかった。
ーー無駄に時間を浪費しているのはフェリシーの方だ。いくら、学んだところで治癒術は安定して使えないのだから。
不完全な治癒術しか使えないのでは聖女はムリだ。しかし、神殿が『聖女候補』認定したほどの力を見逃してくれるほどこの世界は甘くない。神殿の後ろ盾がなければ、平民あがりの男爵令嬢なんて貴族たちに喰い物にされるだけだ。
強力な後ろ盾を得なければーーと、自己保身を考慮した結果、一番親しくしている貴族・ジルベールかレナルドの庇護を得ようと思った。
ゲームのように彼らと恋愛するつもりはない。ただ、友人関係を築いて聖女以外の進路に力添えしてほしかっただけだ。
それがあの断罪劇に繋がってしまったのは、巡り合わせが悪かったとしか言いようがなかった。
庇護欲を誘うためのちょっとした演出で、小物を落として『なくなった』と言ったり、『淑女としてはしたないと言われても、平民の皆さんと関わるのに貴族の仕草がでては威嚇しているみたいで親しんでもらえない』と困ったふうに落ち込んでみせれば、ジルベールらは心配して庇ってくれた。
嫌がらせされてると思われるようになったのは、レティシアが案外真面目に淑女教育を施してくれたからだ。聖女は無理と割り切っていたフェリシーにはありがた迷惑だったが善意の行動で従うほかなかった。あまりの厳しさに泣いてしまったので、レティシアのフォローをすれば何故かフェリシーの株が上がり、レティシアの株は下がる謎現象だ。
勝手に忖度してくれるジルベールらを諌めるのは却って逆効果なので放っておくしかなかった。嫌がらせにしても同様だ。
メリザンドの件は本当にコケただけだし、ドレスは忙しさにかまけて用意を忘れてしまっていただけ。ヴィオレットに至っては不運が連続した結果だった。
デビュタントの支度できびきびした一流のプロの王宮侍女に世話になってフェリシーはテンパってしまった。馴染み深い侍女にあれこれ用を言いつけても仕方がないだろう。
「喉が渇いたから飲み物を持ってきて」
「暑いから少し扇いでくれない」
「足がむくんだみたい。少し揉んで欲しいの」
などなど、我儘いっぱいだったが、主人の緊張をほぐそうと侍女はよくやってくれた。
だから、準備中のアクセサリーケースをどこかに置き忘れても仕方がない。たまたま運悪く伯爵家に紛れてしまっただけで、『ヴィオレットに嫌がらせされた』とは完全に誤解である。雛菊のアクセサリーだってヴィオレットがあんなに思い入れしている物だとは思わなかった。
たまたま失敗が重なりあった不幸な出来事だったのにーー
フェリシーはアクセサリー発見の一悶着後に化粧室へ向かった際に、扉の開いた休憩室から聞こえてきたヒソヒソ話につい足が止まった。
「ねえ、聞いたかしら? 聖女候補様のお話」
「ええ、装飾品一式紛失したと思ったら、伯爵家の荷物から出てきたと言うのでしょう?」
「本当にただ紛れてしまったのだと思う? 事故なのかしら、故意なのかしら?」
休憩室で誰かが飲み物をこぼしたらしく、その後片付け中の下女たちが話していた。ヒマを持て余していたのか、ずいぶんと耳が早い。
「平民出の聖女候補様だもの。妬まれてるか、それとも案外強かに自分でやったのかもよ?」
「ああ、気を引きたくて? やだわ、お騒がせね」
嫌なクスクス笑いにフェリシーはカアッとなったが、ここで出て行ってはさらに何を言われるかわかったものではない。
「伯爵家に喧嘩売るなんてよくやるわね。いくら神殿がついてるからって、調子に乗ってない?」
「そりゃあねえ、平民がお貴族様になってチヤホヤされるんだもん。いい気になるのも仕方ないんじゃない。でも、侯爵様のお気に入りに手を出さないだけ分別あるんじゃないかしら」
「なあに、それ?」
「知らないの? 子爵令嬢なんだけど、婚約相手の親御様が実の娘のように気に入ってるんですって。去年揉めた相手ーー私の前の務め先のお嬢様なんだけどね、そりゃあ我儘で・・・。まあ、そのお嬢様は子爵令嬢と色々とあって結局病死なさって、私解雇されちゃったのだけど」
「お貴族様の病死? やだ、聞きたいけど、関わりあいたくないわ」
「興味あるなら、そのうち話してあげるわ。物語の悪役らしい逸話がいっぱいよ?」
意味ありげなやり取りで下女たちが含み笑いを漏らしてフェリシーは怖くなった。
個人名はでなかったが、子爵令嬢はエリゼーヌ・シャルリエだ。そして、去年病死した貴族令嬢となると、ブランディーヌ・クレージュしかいない。
エリゼーヌは入学しても全く接点がなく、顔を見ることもできなかったレアキャラだ。
読書が趣味の彼女はゲームでは放課後に図書室へ行けば出会えたはずなのだが、全然会えない。ニアミスも全くなく徹底して存在が不明だった。ブランディーヌの例があるから実在を確かめたくてデビュタントのお目付役にそれとなく誘導して、ようやくお目にかかれたのだ。
今日は婚約者のジェスターが体調不良で義父になるルクレール侯爵がエスコートしていたが、とても仲がよさそうだった。噂通りに可愛がられているらしい。
そのエリゼーヌに対して何やら不穏な噂だ。
貴族の『病死』には文字通りと暗黙の了解でもう一つの意味があると、貴族になってから学んだ。密かに抹殺された場合、外聞を慮って『病死』と取り繕うのだ。
暗黙の了解の場合、エリゼーヌの正体に疑問が生じる。
ーー彼女こそが転生者で、ゲーム通りの展開を防ごうと暗躍したのではないか? 悪役令嬢は邪魔だから消された?
エリゼーヌにゲームの記憶があるなら、避けられまくって姿さえ見掛けないのは大いに納得できる。
フェリシーはエリゼーヌが転生者か確かめたかったが、相変わらず学院内では見事なほど遭遇できない。
悩むフェリシーの視界に暗めの赤髪が翻ったのは冬季休暇に入る前日だった。
一か月の冬季休暇を遠方の領地や観光地で過ごそうと早めに帰宅する生徒が多く、学院は人気がなかった。学院長に呼び出されて遅くなったフェリシーは早足になっていた。
学院長は未だ魔力の不安定なフェリシーを気遣って、『一度医師に診てもらった方がいい』と提案してきた。
なんでも以前にも同じような生徒がいて、偏頭痛持ちで体調不良が原因だったらしい。軽症だからと医師の診察をしていなかったら、偏頭痛の原因は歯の噛み合わせが悪かったせいで歯列の矯正で治ったという話だった。意外な不調があるかもしれないと長々と説明されて、正直フェリシーはうんざりだ。
それくらいで治るものなら悩みはしない。早く聖女認定したい神殿からのプレッシャーが強まってきて大変なのだ。『やっぱり、聖女なんて無理です』とは切り出しづらいが、休み明けには研修期間に入る。フェリシーの欠点が知られる可能性は高かった。
ーー高魔力なのに使えないとか、神殿の後ろ盾を失ってもジルベールたちは今まで通り面倒をみてくれるだろうか?
フェリシーが鬱々と降りる階段を上がってきたのは本を抱え込んで俯く令嬢で、暗めの赤毛を黒のレースのリボンで上品にまとめていた。貴族ではアルマンのような緋色や朱色といった華やかな赤毛が好まれる。
地味な色合いだな、と髪色に気をとられていたら、すれ違ったのはエリゼーヌだ。
フェリシーは数段降りてから慌てて振り返った。
恐れと不安と敵意がごちゃ混ぜになって、『早く確かめなくちゃ』と焦燥感に突き動かされてーー
つい咄嗟のことで無意識のうちに日本語が飛びだしていた。
「あんた、転生者なの? 悪役令嬢ブランディーヌ・クレージュに一体何したの? ゲーム開始前に退場とか⁉︎ 信じられないんだけど」
ぐわっと身の内から何かが湧きあがる感覚がした、と思った瞬間に、その何かが弾き飛ばされてフェリシーは階段から転げ落ちた。
フェリシーが気づいたのは医務室のベッドで、たまたま通りがかった魔術講師が助けてくれたらしい。怪我の応急処置をしてくれた講師は他に人影は見なかった。エリゼーヌは講師に気づかれないうちに立ち去ってしまった。
ジェスタールートの悪役令嬢が断罪される悪事は階段からの突き落としだった。
ーーやはり、エリゼーヌは転生者なのか?
しかし、階段を上がりきっていた彼女とは少し距離が空いていて、突き飛ばすのは無理だったはず。一体、何があったのかわからない。
階段から落ちる寸前に感じた何かは魔力の塊だった。魔術を使うつもりはなかったのに、ぐちゃぐちゃな感情に引き摺られて力が溢れそうになった。こんなのは初めてだった。
魔術の初歩である術の制御さえできなくなるなんてあり得ない。それほど、実技は未熟ではなかったはずだ。
困惑したフェリシーは心配してくれるジルベールとレナルドに適当な言い訳をするしかなかった。
そして、研修期間中に超絶美形以外の情報が不明な隠しキャラと出会えたのは幸運だったのか、不運だったのかーー
フェリシーは聖女ルートでないと登場しない隠しキャラに出会えたことで、いつの間に聖女ルートへ進んだのかと訝った。
隠しキャラから情報を引き出そうとしたが、平民だと言うわりに洗練された所作の美形は警戒して大した事は聞けなかった。身元を探ろうにも治療院から患者の情報は漏らせない、とまさかの個人情報保護だ。美形の声に聞き覚えがあったが、出会った記憶は全くない。
これだけの美貌を簡単に忘れるはずはないのだから、通りすがりで声だけでも聞いたことがあったのか。
隠しキャラは3人。護衛騎士と美形と隣国から視察に来る皇太子で、3人目の皇太子は一番最後の登場だ。
ーー美形が現れたのなら、このまま不完全な治癒術でも聖女になれるのでは?
淡い期待を抱いたフェリシーはここでふと気付いてしまった。
もしかしたら、自分は何か思い違いをしていたのではないか?
現実世界なのにゲームで治療した事実がなければ治せないなんて変だ。実はただの思い込みで、上手く治癒できなかったことを気に病んで必要以上にゲームの知識に捉われて間違った判断を下してしまったのでは・・・?
だって、情報がなかった美形隠しキャラを苦もなく治療できた。未プレイだが、隠しキャラとはここから知り合って恋が始まる展開なのだと思って治療したのに、隠しキャラの名前もわからずに進展の気配はさっぱりだ。
ーー本当は治癒術の発動にゲームで治療可か不可かなんて制約はなくて、実は自分の心持ちの問題だとしたら?
階段落ちで制御の甘さを感じたのだ。フェリシーの力が強すぎて感情の揺れで左右されるものだったら、その可能性は十分あり得た。
そもそも、フェリシーは誰にも相談ができなかったから独自に探るしかなく、魔術の専門家の意見は聞いたことがなかった。
思い返してみれば、確か魔術の授業で『精神的に未熟な幼児期には魔力の暴走を起こしやすい』と習った。ゲームでは記述さえなかった狂乱王だが、最期の暴挙は急激な病状悪化で精神を病んだ末とも言われており、実践で魔術の行使は気力体力共に充実させて行うよう指導されていた。
『トラウマで魔術の発動が妨げられることがあるから、この本も読んでおいて』とジェスターから心理的な専門書を渡されたことがあったが、フェリシーは目を通さなかった。聖女になれる訳がないから、不要なものだとみなしていた。
フェリシーはここに至って真面目に魔術の課題に取り組まなかったことを初めて悔やんだ。
神官長から『魔力が安定さえすれば、聖女は確実』と再三言われていたのもただの慰めだと聞き流していた。学院長の提案だって、お節介な年寄りの無駄な長話と思ってまともに取りあわなかった。
ゲームの世界では治療不可能なんてなかったが、それはゲームーー仮想世界だからだ。進行に不必要な要素が反映されることはない。治療不可能で生じるシナリオがなければ起こることがないのは道理だ。
現実では体調不良や精神的ショックで発動できないのは十分あり得ることで、今までフェリシーは治癒術が使えなくて心配はされても批難されたことはなかった。隠しキャラの美形を治す前の患者は後輩のシリルだったが、血が怖いと泣く彼女を無理強いする者は誰もおらず、却って『貴族令嬢なんだから、荒事には向かなくても仕方がない』という雰囲気だったのだ。
命に別状はない怪我でも治療院で治療拒否して咎められないなんて普通はあり得ない。フェリシーが貴族だから、聖女候補だからではなく、情緒不安定で魔力暴走されるより治せなくても仕方ないと判断されたと思えば当然の措置だった。
そう気づいた時にはもう遅かった。今更、やり直しなんてできない。卒業まで秒読み段階になっていた。
神官長から格下げの通達を受けたのは研修終了間際だ。
『魔力さえ安定すれば聖女は確実なのだ。励みたまえ』と神官長は励ましたつもりかもしれないが、焦ったフェリシーは自分に都合の良いように受け取った。
ーーまだ巻き返しがきく、と。
本当はここで諦めてしまえばよかったのかもしれない。聖女以外の道ーーただの治療師でも、元平民にしては十分な出世だ。
しかし、一度は諦めた道が本当は叶うものだったと気づいてしまったら、欲がでてきた。
平民から男爵令嬢に成り上がって、更に王家と対等な聖女になれるのだ。そうなれば、身分差別や能力搾取に怯える必要はないし、他にも転生者がいて何か画策してきても彼女の身は安全を保証されるだろう。
ジルベールが聖女様の側近を目指していたことを知って利用することにした。彼らの目論みを聞いても黙って首を傾げるだけで賛成も反対もしない。フェリシーから咎めだてして欲しいと言った訳ではない。もし、上手くいかなくても彼らが勝手にしたことだと逃げ道はあった。
ただ、断罪を卒業パーティーでと言い出したのには困った。ゲームと同じ展開にはしたくなかった。
レティシアらへの断罪は誤解や勘違いばかりで彼女たちは何も悪くない。フェリシーが自己保身で黙っているだけだ。罪悪感が半端ないが、フェリシーに比べて彼女たちには強力な後ろ盾がある。貴族令嬢の婚約破棄は傷物とみなされるが、彼女たちならいくらでもやり直しが利くだろう。
このゲームは全年齢向けで処刑や追放、娼婦堕ちなんてバッドエンドにはならない。悪役令嬢のブランディーヌだってせいぜい修道院行きくらいだ。そう悲惨な目に遭うことはない。
聖女になった暁にはフェリシーだって贖罪で彼女たちに尽力するつもりだったから、『そんなに大袈裟にしないで』と教師不在の壮行会で行うようにジルベールたちを誘導した。
その気のないアルマンやジェスターも側近に望んだのは後ろ盾は多いに越したことはないし、ジルベールとの利害の一致でもある。彼も己れの支持基盤に友人たちを取りこみたかったのだ。レティシアとの婚約破棄はアルシェ家を敵に回すことになる。
それなのに、あの展開はさすがにないだろう。シリルが例の美形隠しキャラとか、想定外もいいところだ。
パニックったせいでエリゼーヌを糾弾してしまったのはまだ彼女を疑っていたからだ。彼女も転生者なら一人だけズルいと思った。ジェスターにあんな暴露をされた意趣返しもあって、どうせ堕とされるなら引きずりこんでやると自棄になった。
フェリシーの罪は黙って見ていただけ、それだけだったのにーー。呪詛の件が明らかにされたことで断罪劇を陰で操ったのだと疑われてしまった。
こんなことになるとは全くの予想外である。
ーー本当に、こんなはずじゃなかったのに。
転生者はフェリシーだけでした。
悪役令嬢ブランディーヌ・クレージュの話は後ほど。




