大丈夫、大丈夫なのです
エリゼーヌは自室に訪ねてきた父イヴォンを訝しげに見つめた。
いつも帰宅後は母の元に直行する父が娘を優先するとは珍しい。明日は季節外れの雪でも降るのかな、と娘に考えられているとは思いもよらないイヴォンが躊躇いがちに口を開いた。
「その、エリゼーヌ。今日、ディオンから聞いたのだが、お前、女神教の祭に行ったのかい?」
一ヶ月も前の話でエリゼーヌは『え、今更?』と首を傾げた。
「ええ、おじ様はお仕事だったのでジェスター様に連れて行ってもらいました」
「女神教には関わらない約束だったろう?」
しかめ面になるイヴォンにエリゼーヌは苦笑を禁じ得ない。
「お父様、何を心配なさってるの。お祭りに行っただけよ」
「しかし、お前は・・・」
「大丈夫。令嬢としてみっともない真似はしません。お母様にもお約束しました。わたしはこれが欲しくて行っただけです」
エリゼーヌは本棚から取り出した小冊子を父の目の前に掲げてみせた。
女神教の教会は伝説をモチーフにしたステンドグラスが有名で、信者以外の者もこの小冊子目当てに祭に参加することが多い。続いてエリゼーヌは花瓶に飾っていた百合の造花を指差した。
「それにこのお花も欲しかったのです。良縁に恵まれるご利益があると評判なのです。お父様もご存じでしょう? わたしは婿取りで領地を治めなければならないのですから」
「それはそうだが・・・」
「大丈夫です。ちゃんと分を弁えています。侯爵家にご迷惑はかけていません。お父様とお母様が仲睦まじく王都でお暮らしになれるように励みます。安心してください」
にこりと社交辞令の笑みを浮かべる娘をイヴォンは見抜けなかった。くれぐれも軽率な真似はしないように、と念押しをして父は母の元へと向かう。
イヴォンは発作を恐れているから、母マドレーヌにこの話が伝わることはない。ほっとしてエリゼーヌは小冊子のステンドグラスに魅入った。
父神に嫌われた女神のお話は少女にはとても身につまされるものだった。別に父には嫌われていない。ただ、母に疎まれているだけだが、エリゼーヌには大差ない。
父も母もお互いが一番大事でお互いだけがいればよいのだから。
シャルリエ家は大きな取引はしていないが、貴重で珍しい薬草を扱っているし、他領では栽培の難しい薬草を温室栽培で成功させていて領地の規模の割りに裕福な方だ。貴族として十分な生活を送れるはずなのだが、母に割かれている予算が多すぎた。
元伯爵令嬢の母は身体が弱かったこともあって実家で至れり尽せりの生活だった。だから、生活水準を下げるなんて思いもせずに子爵家でも令嬢時代と同じように過ごす。
乳母が生きていた頃はそんなに不自由は感じたことがなかった。乳母はいつも『大丈夫、大丈夫』が口癖で魔法使いみたいに何でもエリゼーヌの望みを叶えてくれた。
『大丈夫ですよ。お嬢様にもいつか必ずエリゼーヌ様を一番大切にしてくれる方が現れますから』
父が母にばかり構って放置され気味な娘を慮って乳母はいつもそう慰めてくれた。
ディオンもエリゼーヌは母を不幸になどしていないと言ってくれた。母の問題は自力で解決しなければならないもので、エリゼーヌに肩代わりさせるのは間違っていると父イヴォンに伝えてくれたから、エリゼーヌの環境はイヴォンがいる時には平和になった。
母マドレーヌは些細なことを大袈裟に嘆いては誰かを責め立てて喚き散らすことでストレスの発散をしている。それを主治医は気鬱の病で仕方のないことだと、気の済むようにしてあげなさいと言うばかりで具体的な治療は行われていない。
感情の制御ができずに喚き散らすなんて貴族としては致命的な欠点だ。その昔、魔力暴走を起こした狂乱王の事例があるから、貴族社会で感情制御できない愚か者は忌避される。ただ、マドレーヌは家に引きこもって社交界には一切でないし、魔力が低めなので問題視されていないだけだった。
乳母が亡くなってから子爵家で一番立場が弱いのはエリゼーヌだ。
父がいないと、使用人は母を落ち着かせるのにエリゼーヌを生贄に差し出すことが多い。幼い頃は怯えてばかりだったエリゼーヌもディオンのおかげで母を気の毒な人だと思えるようになった。
最初の家庭教師が魔術師団に勤めていたことのある人物で魔力制御のために感情を抑制する重要性をよく教えてくれたから、母の愚行に付き合う必要性を感じなかった。長じてからは適当に聞き流してまともに母の相手をすることはない。
それでも、やはり理不尽な怒りに晒され、怒鳴り声を聞くのは辛い。
マドレーヌは金髪に青い瞳の華奢な美女で娘が義父譲りの暗い赤毛なのも気に入らないのだ。どうせ、何をしても母はエリゼーヌを認めないのだから、少女は母と関わるのはもう諦めていた。
それなのに、侯爵家との婚約話が持ち上がってからは、ひたすら侯爵家に迷惑をかけるなとお説教ばかりでうんざりする。母が心配する気持ちもわからないではないが・・・。
何しろ、エリゼーヌは人見知りするジェスターが令嬢に慣れるまでの練習相手だ。
ルクレール侯爵家の本命は別にいる。ジェスターと同い年で同家格のクレージュ侯爵家のご令嬢が唯一彼にお断りされていないお相手だった。
父には最初からそう言われて『ディオンの厚意に甘えてはいけない』と釘を刺されていた。
クレージュ侯爵令嬢は病弱で隣国で静養しているが、お年頃になれば王国に戻ってくる。その時にジェスターとお見合いをするから、エリゼーヌはそれまでの繋ぎだ。
だから、ルクレール邸がどんなに居心地が良くても皆が尽くしてくれても、あそこはエリゼーヌの居場所ではない。よくわかっているから、エリゼーヌは皆に感謝の気持ちを忘れないのだ。
こんな落ちこぼれ令嬢でも皆はとても優しくしてくれるから。
ジェスターも辛口対応だけれど、エリゼーヌを尊重してくれて無理強いは決してしない。ディオンに頼まれているからだろうが、意外にも世話焼きで令嬢として至らない少女の面倒を見てくれる。
初顔合わせで脚立によじ登って落ちるなんてやらかしたのに彼はちゃんと守ってくれて、貴重な蔵書よりもエリゼーヌを心配して侍女に怒鳴られた少女を気遣いさえしてくれたのだ。
ジェスターはきっと理想が高いのだろうな、とエリゼーヌは思う。
高位貴族の嫡男で高魔力の持ち主、しかも目の保養になるディオンに似た容姿で将来像を想定するのが容易い成長株だ。高明なブレーズ教授が見込んで教えるほど賢いし、すでに魔力制御や術の行使もディオンに仕込まれている。
優秀で有能なジェスターはあの辛口を考慮しても令嬢たちの間で密かな人気があるのだ。ヴィオレットのお茶会でそんな噂を聞いたことがあった。
昨年、少女に持ち上がった縁談の相手とは比べるのも失礼なほどに完璧な貴族令息だ。
彼の隣に立つのに相応しくない令嬢だと、自分のことは誰よりもよくわかっていた。
ーーだから、大丈夫。侯爵家に迷惑をかけることはしない。
けれども、エリゼーヌは自分の幸せを諦めるつもりはなかった。
ディオンがそう言ってくれたから。そして、乳母もそれを願ってくれたから、エリゼーヌ一人でも目指すのだ。
「ばあや、大丈夫、大丈夫よ。ばあやの言う通りの相手が現れなくても・・・。わたし、一人でも幸せになるから」
小冊子を撫でながら、そっと少女が呟いた独り言に応えてくれる相手は今では誰もいなかった。




