脈アリなのでしょうか
「ここはこうやって解くの、わかった?」
「・・・えーと、もう一度、お願いします」
エリゼーヌは申し訳なさそうに頭を下げた。ジェスターはふうと息をついてペンを手に取る。
ディオンの言う通りで彼女はまずは試しにと学力テストを行ったら極端な結果が出た。
語学や文章構成・読解力は満点なのに、算学や歴史は惨敗、と庶民の通う初等学校レベルよりも低かった。
侯爵家から迎えの馬車を出して一日置きに通わせることにした。侯爵邸で学ばせたら課題を持たせて子爵家でも勉強させる。課題を採点して間違えたところは再課題で、と繰り返し学習だ。
このままでは貴族なら就学必須の高等学院で落ちこぼれるのは確実で、本人にもそれがわかっているから学習意欲は高い。やる気があるのは結構なのだが、ジェスターとしては復習と言っても簡単すぎて手応えがない。エリゼーヌからは古語を教えてもらう交換条件だから悪くない取り決めなのだが、遠慮がちな彼女が申し訳なさそうな顔をするのが頂けなかった。
「あのさあ、気が滅入るから、そう辛気臭い顔しな」
「若様、休憩時間にしますか?」
ジェスターの言葉をぶった斬ったのはエリゼーヌ付きの侍女クロエだ。ジゼルの娘で、ナディアの孫である。今年成人した彼女は他の屋敷で働く予定だったが、ルクレール邸に年若い侍女がおらず、エリゼーヌに気の許せる相手がいないと言うので急遽雇われることになった。
幼少期には遊んでもらったことがあるから、ジェスターには頭が上がらない相手でもある。
「・・・チーズケーキある?」
「もちろんでございます」
クロエはエリゼーヌを萎縮させそうになると介入してくる。辛口なジェスターの制止役でもあった。
せめてもの意趣返しで好物をねだると、すでに用意済みだ。さすがに準備がよい。
「エリゼーヌ様にはお好きなチョコレートケーキがございますよ」
「ありがとうございます、嬉しいです」
ぱあっと顔を輝かせたエリゼーヌにクロエはにこやかに笑いかける。
ーー全く、皆甘やかしすぎでしょ。
ジェスターは心の中で密かに愚痴った。
ルクレール邸では『エリゼーヌを逃すとジェスターは独身主義を主張するかもしれない』と使用人一同が読んでいた。研究三昧で不健康な生活を送りそうな若君には奥方は必要と皆認識しているから、ジェスターの密かな望みを阻止しようと一致団結していて彼女に甘いのだ。
にこにこ笑顔のエリゼーヌが手荷物の小さなバッグを手にした。
「ジェスター様、この前のハンカチのお礼に新しいハンカチをお持ちしたので受けと」
「いらない。必要ないから」
「・・・あ、そうですか」
エリゼーヌはバッグから取り出しかけた袋を元に戻した。目を伏せて大人しく紅茶を口にする。
今までプレゼント攻撃を仕掛けた令嬢はこんなに大人しく引き下がったりはしないから予想外の反応だ。
クロエが彼にしか聞こえないように、ちっと舌打ちして睨めつけてきた。瞬時に向かいの少女には笑顔を向ける。
「エリゼーヌ様、よろしかったら見せていただけますか? お嬢様が刺繍なさったのでしょう」
エリゼーヌがこくりと頷いて再びバッグを手にする。
ーーえ、今、舌打ちした? しかも、睨まれたけど。僕が主だよね⁉︎
クロエの殺人光線に唖然とするジェスターの目の前では綺麗に包装された袋が侍女の手に渡ってハンカチの鑑賞会だ。ルクレール家の家紋の柊があしらわれたハンカチは御用達の服飾店の仕上がりと見まごうばかりの出来で実に見事な物だった。
「まあ、素敵ですわ。この前、頂いた薔薇の刺繍も素晴らしかったですけど、本当にお嬢様はお上手ですね。他の者も喜んでおりますよ」
「・・・これくらいしか取り柄がなくて」
「そんなことありませんわ。旦那様にお見せしましょう。イニシャル入りのハンカチをもらってお喜びでしたもの。こちらもお気に召していただけますわ。差し上げて構いませんわね、ジェスター様?」
「・・・好きにすれば」
ジェスターはそっぽを向いた。
初対面でディオンにクッキーを持ってきたようにエリゼーヌはちょっとした贈り物をよく使用人にあげていた。いつもお世話になっているからと感謝の気持ちだと言っていたが、わざわざお手製の刺繍物を贈っていたとは初耳だ。
下手に懐かれたくなかったから断ったのだが、自分以外はもらっているとなると、少々面白くない気がしてジェスターとしては複雑な心境だった。
ジェスターはむすっとして、エリゼーヌは静かに、とお茶を頂く。クロエも大人しく控えているので、無言のまま休憩時間は終わりだ。
再びペンを取ったジェスターは何気なく口を開いた。
「そう言えば、この前、ブレーズ教授が褒めてたよ。君の意訳。どうしても直訳だと意味が通じなくて困ってたらしいけど、よく思いついたねって感心してた」
ブレーズ教授はダールベルク帝国の最高教育機関で教授職についていた。ルクレール家の蔵書目当てにジェスターの家庭教師を務め、エリゼーヌにも教えてくれている。少女の才能を知って古語にも挑戦し始めた好奇心の強い老学者だ。
ブレーズ教授との授業は少年少女の片方に課題を出して取り組ませている間にもう片方には講義を施してと、学習内容と進度の異なる二人を同時進行で教えてくれている。時折、それぞれの学習内容に絡めた雑談などもしてくれるのでとても興味深く面白い。
教授は授業後にジェスターと一緒にエリゼーヌから古語を教わっているが、さすがに老学者の方が理解度は早かった。すでに短文ならば独学で読み取れるようになっていた。
エリゼーヌは明るい灰色の瞳をわずかに和ませた。
「なんとなく・・・、前後の文章からそうするのが一番しっくりくるなって思って」
「ふーん、君、そういうのは得意だよね」
ジェスターはペンを動かして数式を記入しながら応じた。エリゼーヌの方は決して見ない。
やれやれとクロエはこっそりと肩を竦めた。誰がこれがジェスターの気遣いだと気付くものか。素直に褒めればいいだけなのに遠回しすぎて笑える。
これでは縁組は難しそうだとエリゼーヌを見やると、驚いた事に彼女は本の陰からはにかんだ笑みを零していた。
ーーえ、まさか、お嬢様喜んでる? もしかして、これは脈アリなの⁉︎
クロエは若君の幸せを願う使用人仲間に要報告を決めて二人の観察に力を入れた。