エピローグ
本編はこれで最後です。
明日、番外編の投稿で終了します。
エリゼーヌは大きく深呼吸した。母の部屋を訪ねるのは11歳のあの時以来だ。
侍女がドアを開けて促すから、決意を固めて足を進めた。
今日は気分がいいからと寝台に起きあがっているマドレーヌにはイヴォンが付き添っていた。父から母の具合が悪くてもう長くないかもしれないと知らされたのは一月前だ。
心残りないように、今まで言えなかったことを言ってやったらどうだ、と言われた。母に甘い父にしては珍しい言葉だった。
マドレーヌと二人きりにはしない、必ず付き添うと言われて、エリゼーヌはようやく決心したところだ。
マドレーヌは自慢の美しい金髪に白いものがちらほらと現れて、年よりも老けて見えた。記憶にある姿よりも窶れていて、いつもの感情的に喚き散らす発作とは違い、確かに病身なのは間違いなかった。
「あら、どちら様かしら?」
「・・・お久しぶりです。お母様」
「・・・え?」
どこかぼんやりとしていたマドレーヌは目をぱちくりさせた。エリゼーヌの姿を足の先から頭の上まで眺めて首を傾げる。
「まさか、エリゼーヌなの? え、貴女、いつの間に、こんなに大きくなって・・・」
マドレーヌが最後に見た娘の姿はケロール修道院行きを命じたまだ子供の頃だ。今の娘はすっかりと成人女性に成長して、落ちついた貴婦人という貫禄がある。
「お加減はいかがですか? 今日はよろしいようだとお聞きして、お見舞いに参りました」
「え、ええ。まあ、悪くは、ない、わ」
「それはよろしゅうございました。でも、無理はなさらないほうがよろしいですわ」
母娘なのに他人行儀な挨拶だ。もう10年以上顔をあわせていないから仕方のないことだが。
エリゼーヌは卒業記念パーティーの翌日にルクレール家へ引っ越し予定で、パーティー当日の夜が家族で過ごす最後の日だった。
マドレーヌは舅のファブリスに毛嫌いされて、『エリゼーヌには関わるな、関わらせるな』と周囲にも厳命されていたから、ずっと会うことはなかった。それでも、最後の日くらいは母として言葉をかけてあげるつもりだった。
子爵令嬢ごときが侯爵家に嫁ぐのだ。それも、嫡男の嫁となり、次期侯爵夫人になる。せめて、恥ずかしくないように身を慎めと声をかけるつもりでいた。
だが、学院で何か問題が起こったらしく、パーティーに参加したイヴォンは王宮へ出向く急用ができた。家に戻れないと連絡があり、エリゼーヌも念のために侯爵家で保護すると言われた。わけがわからないまま時が流れて、気づいた時にはもう何年も経っていた。最近ではマドレーヌの体調不良が長引くようになって、起きあがっている時間はあまりない。
「・・・あの、エリゼーヌ。貴女、もしかして・・・」
母の視線は両手をあてている腹部に固定されている。腹部には緩やかな膨らみがあった。エリゼーヌはこくりと頷いた。
「ええ、安定期に入りました」
「まあ、子供が・・・」
マドレーヌは視線を彷徨わせて室内のあちらこちらを見やったが、不意にドアのほうを凝視した。
「あら、ディオン様? いいえ、もっとお若い・・・ご子息、かしら?」
「ええ、ルクレール家嫡男、ジェスターです。お初にお目にかかります、子爵夫人」
ジェスターは父のディオンによく似た容姿だが、鳶色の瞳には感情の読めない色が宿っていた。
マドレーヌは娘の挙式も体調不良で欠席だった。マドレーヌから会いに行くことはなかったし、娘夫婦もこれまで会いに来ることはなかったから初対面である。
「今日はお礼を申しあげに参りました」
そう告げて妻に近づくジェスターの腕に何か小さな布の塊が抱えられていた。
マドレーヌが悪くなった視力を凝らすと、ショールに包まれた幼な子だ。ぐっすりと寝入っていて、小さな両手は薄ピンクのショールの端をしっかりと握っている。黒髪に赤いリボンを結んでいるから、女の子のようだ。
「この子はこのサクラ色のショールがお気に入りで大好きなのです」
くすりと笑みを浮かべたエリゼーヌが大切そうに幼な子の頭を撫でた。
さも愛おしいという顔をした娘が見慣れなくて、マドレーヌは狼狽した。我が子なのに、全く見知らぬ赤の他人のようで、どう接したらいいのかわからなくなった。
「お母様、お身体が弱かったのに、わたくしを産んでくださってありがとうございます。
不出来な娘でお母様を失望させてしまいましたが、わたくしはお母様のおかげで愛する旦那様や愛おしい我が子に出会えて幸せです。わたくしは女の子に生まれてよかったと思っていますわ」
エリゼーヌはまっすぐに母を見据えて伝えた。
男の子でないからとずっと蔑ろにされてきた。否定三昧の子供時代の恨みつらみをぶつけようかと思っていたが、弱った母の姿を見てそんな気はなくなった。今のエリゼーヌは幸せだから、十分満たされている。今更、過去に囚われるのは愚かなことだ。
「私もエリゼーヌを産んでくださったことだけは感謝しています。こうして、最愛な宝物が増えますし、ね」
ジェスターは微かに口角をあげた皮肉な微笑だ。妻の意を汲んで非難するつもりはないが、身内と認める気もない。
「それでは、お身体のご負担になってはいけませんので、辞去させていただきます。どうか、お大事に」
ジェスターは片手で我が子を抱き直すと、空いた手で妻の肩を抱いた。イヴォンに目礼をして踵を返す。
数分にも満たない邂逅だった。
イヴォンが名残惜しそうに見送って肩を落とす。
「あの子はロザリーヌだ、ディオンが名付けた。もうすぐ2歳になる私たちの初孫だよ」
「・・・ま、ご?」
マドレーヌは迷子のように頼りない視線を夫に向けた。こくりと頷く夫の目尻に深いシワが寄っているのに初めて気づく。
エリゼーヌが成人して婚姻して、とは情報として知っていた。ただ、実感はなかった。マドレーヌの世界はこの邸内だけで完結している。病弱ですぐに体調を崩すから外出は負担になるだけだ。ずっと外部との接触はなかった。
「私たちももうおじい様、おばあ様と呼ばれる年になったということさ」
マドレーヌは苦笑気味の夫にポツリとこぼした。
「・・・あの子、エリゼーヌは若い頃の、そう学院の時の貴方に似ていたわ。わたくし、あの子は貴方のお母様に似ているとずっと思っていた」
「私は母親似だからね。エリーと私が似ているのは当たり前だろう? 親子なんだから」
「そ、そうね・・・」
なぜか、マドレーヌは大きく目を見開いた。イヴォンは不安げな妻の様子に気づかなかった。
「ディオンは孫娘にデレデレでね。おやつをあげすぎるから、息子から接近禁止令をだされたとか、嘆いていたよ。ロザリーヌの婿殿はとっても苦労しそうだ。今から婿選びが心配だね」
「婿って・・・。女の子でしょう、嫁入りなのではなくて?」
「一応、第一子はルクレール家の跡取りと婚姻時に決めていたからね。もし、ロザリーヌにその気がなくて、第二子以降の誰かが侯爵家を継ぐなら、嫁入りするかもしれないが。
ああ、第二子は5歳以降に父が養子にしてシャルリエ家を継ぐ予定だ。今は女性当主も珍しくないから、第二子が女児でも何も問題はない」
「・・・そう、なの」
マドレーヌはぼんやりと答えた。頭痛がしてきてこめかみを押さえると、夫が気づいて横になるのを勧めてくる。
「疲れただろう。少し横になるといい。お見舞いに香草茶をもらったから、後で運ばせよう」
「・・・ええ」
マドレーヌは寝台に仰向けになって天井を見上げた。久しぶりの我が子との面会を整理する時間が必要だった。
エリゼーヌはマドレーヌには似ていなかった。イヴォンの母親似で、マドレーヌには不満だった。
マドレーヌの実家のミルボー家は王位を継ぐ前のフォートリエ家と婚姻関係にあった。はるかに遠い縁だが、王家の血を引く由緒正しい血筋だ。そのミルボー家の容姿を持たない娘が恥ずかしいとずっと思っていた。
だが、出会った頃の夫に似た今の姿を見て、動揺してしまった。
あの子は、エリゼーヌは愛する人の子供だったのだ、と今更ながらに気づいたのだ。マドレーヌだけの子ではなかった。
マドレーヌは子供が好きではなかったが、生まれた我が子を腕に抱いた時には無事に生まれてよかったと思った。確かにあの時は愛おしく思わないでもなかったのに、その気持ちをどこに置いてきてしまったのだろう。
マドレーヌは身体が弱く婚姻は無理だと言われていたが、結婚して子供が生まれて、と人並みの生活を送れた。普通に幸せになれたはずだったのに・・・。
『わたくしはお母様のおかげで愛する旦那様や愛おしい我が子に出会えて幸せです。わたくしは女の子に生まれてよかったと思っていますわ』
『最愛な宝物が増えますし』
『エリーと私が似ているのは当たり前だろう? 親子なんだから』
娘夫婦と夫の言葉でぐるぐると目が廻りそうだった。
何が正解だったのか考えてもわからない。ただ、自分が何かひどい間違いを犯した気がして落ちつかなった。
でも、もう過ぎたことだ。過去はどんなに望んでも変えられない。
マドレーヌはなぜか深い喪失感を覚えて、静かに目を閉じた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
評価やブクマ、いいねなどありがたいです。誤字報告もありがとうございます。
ラストはエリゼーヌが幸せになった姿にしようと思ってました。マドレーヌに妻として母として幸せなんだと見せてやるのが一番だなっと。
毒親から解放されるには心の内を吐きだしたほうがいいそうですが、すでにエリゼーヌは侯爵家やジェスターの溺愛で十分満たされているので、仕返しはどーでもよくなってました。
さて、後一話、番外編で終了となります。時系列はこのすぐ後になります。
ちょっと、惚気るジェスターを書きたかった。
最後までお付き合いくださると嬉しいです。