嫉妬などお門違いです
イングリットの母親とメリザンドの母親が従姉妹のまた従姉妹の関係。リーゼロッテとは父方の祖父がリーゼロッテの祖父の従兄弟という遠い親戚です。
「学院長、よろしいでしょうか?」
女性教師が発言の許可を求めた。ふくよかな中年のマナー講師だ。学院長が頷くと、講師はフリードリヒに向き直る。
「我が学院は勉学のみの学びの場ではありません。人脈を得て、良き人間関係を構築するのも教育の一環ですが、誰でもお茶会を開けるわけではありません。
サロンの使用許可がでるのはマナー講座の合格者のみです。お茶会の参加者も同じく許可がでた相手だけ。
ロイター嬢は残念ながらお茶会が開催される時期には合格点に達していなかったのです」
「そんなバカな! そこの子爵令嬢が招かれているのに、リーゼが資格を得られないわけがないだろう」
「あら、やだ。本気で仰っているのかしら」
マナー講師が急角度で眉を吊りあげた。エリゼーヌに指を突きつけるフリードリヒに近づくと、遠慮なく指を掴んで折り曲げようとする。
「いだだだ、な、何をする!」
「殿下!」
「無礼だぞ!」
「黙らっしゃい!」
マナー講師は騒ぐフリードリヒらを一喝して睨みつけた。
「人を指差すなど、お行儀の悪いこと。幼児期に教わりませんでしたの? 貴方がたは我が学院に何を学びにきたのかしら」
マナー講師はぺいっと指を離してフリードリヒを解放した。
「マナー講座では合格ラインは身分ごとに異なります。同じ所作でも下位貴族は60点、高位貴族は90点。しかし、下位でも嫁ぎ先を考慮して上の合格ラインを望まれる方もおられます。シャルリエ嬢がそうです。
彼女は一年生から90点台をキープしていました。満点を取られたこともあり、優秀なご令嬢です。
ロイター嬢も後見人から上の合格ライン、75点以上を指示されておりましたが、ギリギリ合格に達したのは後期の卒業間近でした。それも課外の奉仕活動の加点を入れてのことです。
同じ下位貴族だからと一緒にするものではありません」
「マナー講座の合格基準についてもだが、ロイター嬢はお茶会の参加資格については知らなかったのかね?」
学院長がリーゼロッテに確認をとると、彼女は俯いて小さな声で答えた。
「いいえ、存じあげておりました。ただ、そのう、わたくしが中位の合格ラインを望まれているとは思わなくて・・・」
「まさか、伯爵家相応の教育を望まれての留学なのに?」
イングリットが思わずというように声をあげた。それをフリードリヒらが非難する。
「お前はまたそうやってリーゼを馬鹿にして!
貴族令嬢生活の短いリーゼが不慣れなのは仕方ないだろう。どうして、もっと優しくしてやれないのだ。祖父の老侯爵の依頼は厳しく叱責しろとは指示していないはずだ。お前のやり方ではリーゼが萎縮してしまうだけだ」
「そうですよ、メルケル嬢は自分ができるからとできない相手の気持ちがわからないのです」
「リーゼロッテ様は頑張っておられましたよ。ただでさえ、他国の習慣など馴染めないのに、初めて会う親族は緊張している彼女を気遣うこともしないのだから」
「なるほど、ロイター嬢の成績が振るわなかったのはメルケル嬢の配慮不足でしたか。老侯爵様は同い年のご令嬢がおられるから友人のように接していただけるとご期待なさっていたのではないですか?」
側近に続いて口出ししてきたのはボードレールの外交官だ。ファーベルクの外交官も同意して頷いている。
「確かに。教育したいだけなら家庭教師を手配すれば済むことですからね。友情を育むことも期待されていたのに、果たせなかったとは。いやはや、老侯爵様はガッカリでしょうな」
イングリットはよってたかって非難する男どもに冷ややかな眼差しを向けた。
「揃いも揃って、リーゼロッテ様を幼子扱いなさるおつもり? 生憎とわたくしは乳母ではないのですけれど?
リーゼロッテ様に関わろうとすれば、いつも殿下の邪魔が入るのにどうやって友情を育めと仰るのかしら。そもそも、殿下には『醜い嫉妬はよせ』とか、『妬むのもいい加減にしろ』などと暴言を吐かれてうんざりですわ。
殿下の告発はわたくしが殿下をお慕いしている前提条件で成り立っておりますわね?
殿下とはただの政略結婚で義務以外の感情などないのに、どうしてリーゼロッテ様を排除しなければなりませんの?
もし、万が一にでも・・・、まあ有り得ないことですので、仮定の話ですが」
イングリットは大事なことだというように繰り返した。
「仮に殿下に恋心を抱いたとしても、リーゼロッテ様に何かすることはございません。だって、わたくしが調教すべきは殿下のほうですから」
「え!」
「チョウキョウ?」
イングリットから令嬢らしからぬ単語がでてきて、皆唖然としている。イングリットは頬に手をあてて悩ましげに吐息をこぼした。
「ええ、リーゼロッテ様を排除しても意味がないでしょう? 元凶の殿下をなんとかしませんと、同じことを繰り返されるだけでムダではないですか。
婿入りなのに、婚姻前からあいじ・・・、いえ、ごく親密な異性がいるというのはあらぬ誤解を招きます。我が家の名誉を貶める真似はぜえええったいに避けてもらわないと困りますもの。政略結婚で婿入りなのですから」
あらまあ、困ったわあ、というように、イングリットは首を傾げた。
フリードリヒは顔合わせの初対面から不機嫌な顔しかせず、イングリットはずううううっと邪険にされていた。それで、恋心を抱くとか絶対有り得ない。
メルケル家は目立った功績はないが瑕疵もない、可もなく不可もないごく普通の貴族だ。中立派の中の中立派と言ってもよい。
継承権のない皇族の押し付け先として間違っても面倒が起こらない家だと選ばれたに過ぎない。イングリットは初恋もまだなうちに整えられた婚約を貴族令嬢の義務だと教えられて育った。義務以上の情など抱きようがなかった。
これまで、イングリットが婚約者の言動に口を挟んだのは家の名誉のためで、嫉妬などお門違いだ。
「リーゼロッテ様を襲うくらいなら、用意した薬を殿下に用いて大人しくなってもらいますわよ。
皇家からの命令で我が家からはお断りできない婚姻なのですから、せめて我が家の名誉を守っていただかないと困りますもの」
イングリットの薬漬け発言にフリードリヒがひきつった顔になる。側近たちもドン引きで顔色が悪い。
マナー講師が大きく頷いた。
「そうですわよねえ。異性の友人が悪いわけではありませんが、婚約者よりも優先する姿勢は褒められたものではありません。
他国の留学生ーーダールベルク帝国とカルヴァートですけれど、彼らからも戸惑った声があがっていました。皇太子殿下のなさりようはマナー違反ではないか、と。学院で人脈を得るのも彼らの目的の一つだったのですが・・・」
フリードリヒが出張ってくるリーゼロッテとの付き合いにメリットはないと判断されたから、誰もが敬遠していた。他の留学生からのお誘いもなく、自発的にリーゼロッテと交流するのはイングリットとお世話役の令嬢しかいなかったのだ。
「わたくしがリーゼロッテ様を排除しようと思えば、ベルツ老侯爵様に連絡するだけで済みます。わざわざ暴漢をけしかける必要はありません」
ベルツ老侯爵はリーゼロッテの祖父だ。
すでに息子に爵位を譲っているので、尊称で老侯爵と呼ばれている。引退した身だが、権力も財力も有り余っている。リーゼロッテの後見人になって留学費用を全てだしていた。
ベルツ老侯爵が留学中止で帰国を命じればリーゼロッテに拒否権はない。リーゼロッテがボードレールに戻れば、フリードリヒと会う機会はなくなる。
フリードリヒが王国に留学できたのは一応の大義名分で婚約者との交流が掲げられていたからだ。イングリット抜きでリーゼロッテと交流できるわけがない。
「殿下の告発は全否定させていただきますが、婚約破棄は確かに承りました。我が家の名誉を貶める方とは添い遂げられませんので。
反対にわたくしのほうから名誉毀損で訴えさせていただきます。皆様、証人となってくださいますか?」
「な、待て、イングリット! 紛らわしい真似をしたお前が悪いのだろう?」
「「「どこが?」」」
イングリットを含め、王国側全員からのツッコミだ。フリードリヒが怯んだ隙にリーゼロッテがしゃりしゃりでてきた。
「皆様、お待ちくださいませ」
リーゼロッテが潤んだ瞳でフリードリヒを見上げて、両手を組んで周囲に訴え始めた。
「フリードリヒ様はお優しい方で友人であるわたくしを心配してくださったのです。わたくしが孤児院にいた頃はとてもひどい環境だったので・・・」
リーゼロッテがいた孤児院では院長が運営費を着服していたのでとても貧しい暮らしだった。食事がぬかれることもあったし、院長は躾と称して鞭で孤児たちを打っていた。
虐待されていたとリーゼロッテは涙ながらに訴える。
「わたくしは院長先生に折檻されたトラウマで身分が上の女性が苦手なのです。殿下はそんなわたくしを気遣ってくださって、正義感が少し行きすぎてしまっただけです。どうか、大事にはなさらないでくださいませ」
「ああ、リーゼ。君はなんて健気なんだ」
「ロイター嬢はご苦労されたのですな」
「お気の毒に。辛い思いをなさったのに、堪えてメルケル嬢らと関わりを持とうとなさったのですね」
うるうると涙目のリーゼロッテは庇護欲を誘う見た目だ。フリードリヒらと外交官の同情が集中する。
「まあ、なんておいたわしい。お可哀想に、ロイター嬢はとてもご苦労なさいましたのね。でも、それはそれ、これはこれですから」
「え?」
リーゼロッテはマナー講師に淡々と受け流されて面食らった。これまで、生い立ちを話せば誰もが同情してリーゼロッテの味方になってくれた。こんなにあっさりとした反応は初めてだ。
「ロイター嬢がご苦労の多い生い立ちなのはわかりましたが、今のお話には関係ありませんわ。
殿下が不確実な憶測で婚約者を貶めたのです。卒業記念パーティーという公の場で、衆人環視のもとに。
メルケル嬢並びに我が国の貴族令嬢も醜聞に塗れましたわ。
成人として第一歩の祝いの日だというのに。この落としま・・・、いえ、責任問題は国としても見過ごせないものです」
「さよう。大事にしないでも何も。最初に大騒ぎなさったのは殿下のほうだ。他国の目もあるのに、うやむやにはできませんぞ」
口を挟んできたのはメガネをクイっと押しあげた語学教師だ。留学生の相談窓口だった語学教師は呆れたようにフリードリヒらを見やった。
「大体、ロイター嬢は王妃様にでもなるつもりかね? 身分が上の女性がダメというならば、それこそ王妃様にでもならない限り、社交界にはでられないだろう。社交ができないなんて、貴族女性としては致命的な欠陥だが」
「そ、そんな言い方はあんまりですわ」
リーゼロッテがわあっと泣きだした。
フリードリヒがハンカチを差しだして側近たちはオロオロとしている。外交官たちが抗議しようと口を開いたが、語学教師にギロリと睨まれて気迫負けだ。マナー講師は泣きじゃくるリーゼロッテに憐れみの視線を向けた。