許さないから
エリゼーヌは身体を丸めて小さくなっていた。もうダメだ、何もかも無駄になってしまったと、ひたすら悲嘆に暮れるばかりだ。
ジェスターのそばにいたいから、侯爵家から施される教育をずっと頑張ってきた。
普通の貴族令嬢の常識さえも怪しかったエリゼーヌがすっかり淑女らしくなったのはジェスターのおかげだ。彼がエリゼーヌを望んでくれたから、彼に相応しくなりたいという想いが彼女の成長を促した。
それなのに、誓約魔術で婚約解消となると、絶対に婚約者様は暴走する。彼はどんな手段を使ってでも、婚姻解消を阻止しようとするだろう。その事には絶大な信頼がある。
エリゼーヌのためにジェスターに無理をさせたくなかった。
ルクレール家が貴族法に逆らう真似をしたら、他家から顰蹙を買うのは確実だ。王家からだって睨まれるかもしれない。かと言って、籍を抜いて平民になるなんて、双方とも跡取りなのだから無理だ。爵位には付随する責任と義務があるのだから、跡取りの身で除籍なんて認められないはずだ。
婚約者には権力で法の抜け道を強行突破するなんて真似をしてほしくはなかった。このままだと、やらかす未来しか思い浮かばない。
ブランディーヌは侯爵夫人になりたかっただけだ。ジェスターに恋焦がれていたのではない。他に条件のあう相手がいれば、そちらを選んだだろうに。
そんな相手にジェスターの婚約者の座を追われるなんて。まだ、恋情の絡んだ恋敵に貶められたほうがマシだった。
ジェスターが侯爵家嫡男でなければ、シャルリエ家の爵位がもっと上だったら、横やりは入らなかったのに・・・、などと後悔してもどうにもならない事ばかり頭に浮かんで、自己嫌悪が増幅する。
エリゼーヌはもう消えてなくなってしまいたい、と激しく落ち込んだ。
ジェスターを支えて共にありたいと願っていた自分が彼の足をひっぱってしまうのだ。とんだお荷物で役立たずだ。やっぱり、至らない令嬢は至らないままだった。真の貴婦人にはなれなかった。
どん底まで自己否定したエリゼーヌはますます小さくなって丸くなる。
己が身から何かが抜けていく。どんどん小さくなっていくのをぼんやりと感じてはいたが、止めようとは思わなかった。
ーーこのままでいいのだ。消えてなくなってしまえば、ジェスを諦められる・・・、かも、しれない・・・、から。
「エリゼーヌ様、落ちついてください。大丈夫です、婚約解消になんてならないですから。力を収めて!
このままだとお嬢様の身体に負担がかかります」
ノエルは腕をあげて目を庇いながら呼びかけた。
瞬間的に暴走しそうになったエリゼーヌの魔力だが、もともと少女の魔力はそれほど多くも強くもない。暴発は免れて、術者の周囲を吹き荒れるくらいになった。それくらいの威力でもノエルは近づけなかった。少女の魔力から強い拒絶の意思を感じる。
一刻も早く収めないと、魔力枯渇の危険性があるのにと、ノエルは焦っていた。
「侯爵家の者は皆、マクシム様も含めてお嬢様の味方です。心配することは何もありませんから」
返事はピシピシと雪礫のような威圧だ。襲いかかられても放置できるくらいの威力だが、地味に痛いかすり傷を負う。
平民出身のノエルはジェスターの見合い相手への試金石だった。
そこそこ見目よく、フレンドリーな護衛騎士に好意的な令嬢でも、平民出と聞くと態度を一変させる相手もいたのだ。身分で使用人への態度を変えるようではルクレール家の女主人に迎えるわけにはいかない。特に同僚のポールは子爵家の出だったから、彼とでは態度を変えるような令嬢はお断り対象だった。
エリゼーヌは自家で侍女たちから蔑ろにされていたせいか、貴族令嬢らしくない令嬢だった。身分差を振りかざす真似はしないが、最初はやけに腰の低いご令嬢だと思ったものだ。
ノエルの妹たちと歳が近いこともあって、彼は最初から妹のような感覚で接していた。エリゼーヌは護衛騎士に馴染みがなかったから緊張していたようだが、シャルリエ家への送迎で顔を合わせているうちに打ち解けるようになった。
エリゼーヌは親しくなると、一人っ子のせいか弟妹の話を珍しがってねだるようになった。姉のような従姉妹はいたので、兄の存在に憧れていたようだ。
ノエルは五人も弟妹がいる長男で面倒見がよい男だ。
失礼かもと思いつつも、お忍びでエリィという呼び名をつけて兄のフリをしたら、エリゼーヌはとても喜んでくれた。いつもの遠慮がちな態度ではなく、素で嬉しそうな笑顔に、主の伴侶とならなくても少女をしっかりと護衛しようと決心したものだ。
今ではすっかりジェスターの専売特許となっている呼び名だが、『エリィ』の命名者はノエルだ。
婚約成立してからはすっかりお嬢様扱いになったが、内心では以前と同じく妹のように思っていた少女なのだ。
そのエリゼーヌの危機に何もできないなんてと歯噛みする思いでいっぱいだった。
ノエルは焦燥感と恐慌に煽られて、ついブチ切れて声を荒げた。
「ああ、もう! エリィちゃん、オレ泣くよ? 泣いちゃうよ⁉︎ 大泣きだ‼︎
君は妹みたいなものなんだから。
このまま、エリィちゃんに何かあったら悔やんでも悔やみきれないからね?
若様や旦那様だけが君を思っているわけじゃない。侯爵家の皆も、クロエや君の家の執事さんだって、君が大好きなんだ。もしも、君に何かあったら絶望するどころじゃない。
クレージュ家を滅ぼすだけで済まないからね。下手をすると、少しでも君の誘拐に関わった者は全員破滅するよ。
侯爵家が残虐非道な極悪人で悪辣な貴族だって悪評を被っちゃうよ、それでもいいの?」
脅しのようなセリフだったが、うずくまる少女の肩がぴくりと反応を示した。
少しだけ威圧も弱まってピシピシと身体に当たることはなくなった。それでも、ノエルが足を踏みだすと拒絶の気配が強くなり、威圧が増す。
ノエルは情に訴える作戦にでることにした。エリゼーヌが気にする部分につけ込んで威圧を弱めるのだ。
決意して口を開いた彼の背後から災害級ブリザードが襲いかかった。
「誰が、エリィちゃんだって?」
「わ、若様! 退避してくださいって、言ったじゃないっすか!」
勢いよく振り返ったノエルは思わずビビってしまって言葉使いが乱れた。目を合わせた主の極寒の眼差しに串刺しにされそうで、嫌な冷や汗がでてくる。
「やかましい。僕のエリィを他の男に任せられるか」
「ああ、もう! そういうヤキモチは平時になさってくださいよ」
「いいから、さがって。僕がやる、時間が惜しい。早く収めないと」
ジェスターが有無を言わさずにノエルと代わった。
魔力の威圧ならば、ジェスターのほうが断然に威力は上だ。ノエルは主を危険に晒すことにためらったが、ブリザードが進化するので大人しくひっこむしかない。
ジェスターはノエルのような懐柔策はとらなかった。力尽くでエリゼーヌの魔力鎮圧にかかる。
彼女の周囲から抵抗感があがるが、もとから勝負にはならない。狼に向かって子猫が威嚇するようなものだ。少女の魔力はすぐにねじ伏せられた。
「若様、ひっでえ、手加減してえええ!」
何やら、背後から悲痛な叫びがあがったが、ジェスターはスルーでずかずかと婚約者に近寄った。
エリゼーヌはぐったりとして横たわっていた。光のない目が虚で視線が彷徨っている。意識が朦朧としているようだ。
ジェスターは少女を抱きあげると、首筋に手を当てて脈を測った。弱々しい鼓動に思いきり顔をしかめる。
「ノエル、廊下にポールがへばってるから回収して。
我が家に医師の手配の連絡だ。エリィはうちでしばらく療養させるから。父上と子爵にも連絡をつけておいて」
「了解です」
ノエルが急いで部屋から出て行く。ジェスターは懐から薄紫の小瓶を取りだした。
リュシアンから譲り受けた魔力安定剤だ。リュシアンは人質のフリをしてくれた協力者だった。
未だ魔力制御の腕輪をつけている妹用に用意していたもので、いざとなったら取り押さえてでも飲ませて大人しくさせるからと言っていたモノである。
魔力安定剤は精神を穏やかにする作用があり、興奮を抑えて身体への負担を減らす。体内の不安定な魔力を落ちつかせる効果があり、高魔力保持者のジェスターも魔力不安定な幼少期によくお世話になったものだ。
無理な魔力暴走で婚約者は魔力不足になっている。強引に暴走を収めたせいもあって、体内では魔力が不安定な流れになっているはずだ。ただでさえ、消耗しているのだから、落ちつかせないと心臓に負担がかかりすぎる。
ジェスターは中身を一気に仰ぐと、婚約者に口移しで飲ませた。こくりと嚥下したエリゼーヌはぼんやりと瞬きした。
「・・・じぇ、すぅ?」
「ねえ、エリィ。僕は君にものすっごおく怒ってるんだけど?」
「・・・ごめ」
「僕はそんなに頼りない? 君一人で抱えこんで暴走するほど・・・」
ちがうの、と言葉にはできなかった。エリゼーヌは思いきり硬直した。
婚約者様が覆い被さるように唇を重ねてきたのだ。いつものような戯れに触れるだけの軽いモノではない。もっと深く激しく、彼の心のうちが現れているような口付けだった。
エリゼーヌは身動き一つできなかった。呼吸もできなくて意識が飛ぶ寸前にようやく解放されて。
「僕から君を奪うなんて、君が相手でも許さないから」
許さない、なんてとても厳しい言葉なのに、耳元の囁きは今にも泣きだしそうな気配で。
優しく頭を撫でられて、少女の意識は完全に闇に飲みこまれた。
絶望のあまりヤケになったエリゼーヌ。
やっと最愛を救出したジェスターにはやり切れなくて、悲しみとお怒りです。