一足遅かったのです
「いつまで寝てるのよ! いい加減に起きなさい!」
エリゼーヌは怒声とともに顔に水をぶちまけられて、はっと目を覚ました。呆然と起きあがった彼女の顔にタオルが投げかけられる。
「みっともない顔ね。身なりも整えられないなんて、これだから下位貴族は・・・。さっさと拭いて、これにサインするのよ」
目の前で豪奢なドレス姿の美少女が忌々しそうな顔をしていた。展示即売会で見かけた貴族令嬢、ブランディーヌ・クレージュだ。
エリゼーヌはタオルで顔を拭きながら周囲を見渡した。品のよい調度品が並ぶ小洒落た室内はどう見ても貴族の住まいだろう。
てっきり、薄暗い地下室にでも連れてこられたかと思ったのに。以前、人身売買組織の悪徳商人に捕まった経験があるから、戸惑ってしまう。
エリゼーヌはフカフカのソファーに寝かせられていた。身体には上等な毛織物のブランケットがかけられていて、無理矢理拉致したにしては好待遇(?)だった。
「あの、何故このような真似を・・・」
「いいから、サインするのよ。そうしたら、すぐに家に送ってあげるわ」
ブランディーヌは一枚の書類を突きつけてきた。
エリゼーヌは目を通して顔を強張らせた。
婚約解消の誓約書だ。しかも、誓約魔術での縛りつきとか、絶対に頷けるものではない。
「これは・・・、貴族の婚姻は当主の許可がなくては成立しません。解消も同じことです」
「そんなのどうとでもなるわよ。貴女が断れないから婚約解消に力を貸してあげるのよ、感謝しなさい」
ブランディーヌが当然のごとく告げた内容が理解不能だった。
ナゼにエリゼーヌが断れない婚約だと思われているのか?
「貴女の婚約はルクレール家当主が望んだモノと噂になっていましたね。貴女自身は乗り気ではなかったのではないですか?」
口を挟んできたのは壁際に控えていた護衛騎士のジョルジュだ。エリゼーヌは彼にナイフを突きつけられたのを思いだしてびくりと身体を震わせた。
「あー、怖がらせてしまいましたか。すみませんねえ、少々強引な真似をしまして。
ですが、急ぎの用件だったもので。急がないと、お嬢様が領地に軟禁されてしまうのですよ。婚約者がおられれば、それを免れますので・・・」
人助けと思って婚約者を譲ってくださいませんか? などと、言われて、エリゼーヌは目が点になった。
「は、いえ、あの、え・・・」
「いいから早くしなさい。慰謝料なら、これで十分でしょう」
ブランディーヌの合図でジョルジュがトレーを運んできた。
大粒の宝石のついた様々な装飾品が溢れんばかりに載せられている。ネックレスに髪飾りにブローチ、イヤリングに腕輪に指輪と、どれもこれも一流品とわかるものばかりだ。
「どれでも好きな物をあげるわ。いくつ選んでもよくてよ」
「・・・そういう問題ではありません」
「まあ、業突く張りね。全部欲しいと言うの? 欲の深さには呆れるけど、まあいいわ。
その代わりにサインしたら、二度とわたくしたちに構わないでちょうだい。侯爵家同士の縁に無遠慮な横やりは入れないでよ」
エリゼーヌにはブランディーヌの主張が意味不明だった。横やりを入れてきたのはブランディーヌのほうだ。
今だって無理やり拉致してきたエリゼーヌに婚約解消の誓約魔術を結ばせようとしているのに、彼女の言い方ではまるでこちらがお邪魔虫のようだ。
犯罪紛い、いや犯罪そのものの行為で婚約したところで相手に嫌悪されるだけなのに、最低最悪の悪手だと何故わからないのか。
「婚約者が必要ならば、お相手のいない方を選んだほうが」
「生意気ね! わたくしに逆らうなんて。
もともと、ルクレール家のご子息はわたくしとのお話だったのよ。邪魔しないでちょうだい」
「邪魔などしておりません。お断りされたのはクレージュ家だと聞いています」
ブランディーヌは物分かりの悪い相手にイライラとしていた。お茶をぶっかけてやりたいが、護衛に痕跡が残る仕打ちは厳禁だと釘を刺されている。
ブランディーヌが兄に子爵令嬢にお詫びするから別宅を使いたいと申し出たら胡散臭そうな顔をされたが、何とか了承は得られた。兄の手配で別宅を整えてもらって、今日はそれを確認すると言う名目でブランディーヌは外出できた。
子爵令嬢を招待するのはもっと後のことで、兄が用意した使用人でおもてなしの準備をすることになっていた。
リュシアンはイマイチ妹を信用していなかったから、自分の信の厚い使用人を妹につけることで許可していた。それではブランディーヌの狙い通りにできないので、護衛に命じてすぐに子爵令嬢を連れてこさせたのだ。
ここで、相手から婚約解消の言質をとらねば、ブランディーヌの領地行き阻止は無理だ。なんとしても、サインさせる必要があった。
ブランディーヌは目の前の恋敵を上から下まで品定めして、ふふんと鼻で嘲笑った。
不美人ではないが、貴族では好まれない地味な赤毛で、男性ウケする容姿ではない。身なりだって訪問用のドレスも着ておらず、まるで自室にいるかのような格好だ。格上の誘いに不適切な装いでやってくるとか、マナーが全然なってない。
しかも、迎えの馬車で酔ったとかで護衛に抱き抱えられての降車だった。
温情で気がつくまではとソファーに横たえてやったのに、全く目を覚さないから洗顔代わりの水をかけてやった。服が濡れてもすぐに乾くし、何の痕跡も残らないから暴行の証拠にもならない。そう教えてくれた護衛は相変わらず淡白な様子で、何を考えているのかよくわからない相手だが、ツカえる相手なら問題なしだ。
「あの、わたくしの婚約は当主の父と領主の祖父、そして侯爵家当主の侯爵様とでお話し合いが済んでおります。この誓約書で解消なんてできません。
そもそも、わたくしが望まなければ成立していないのですから、断れなかったと思われるのは誤解です。
第一、このような真似をなさっても・・・」
これでブランディーヌが婚約できるわけがないと、言外に匂わされて、当の本人がかっとなった。目の前のトレーに手を伸ばして中身をぶちまけようとする。
「お黙り! 子爵令嬢ごときの分際で」
「お嬢様、ストップです。傷つけてはダメだと教えたでしょう、痕跡を残すのはマズいのですよ」
ジョルジュが素早く主人を止めに入った。大粒の宝石ばかりの装飾品を投げつけたりしたら、絶対にエリゼーヌが傷を負う。
「申し訳ないのですが、お嬢様を怒らせる真似はやめてくれますか? サインさえしてくれたら、無事にお返ししますので。それで、お嬢様の気が済みますから」
トレーを遠ざけた護衛が淡々と諭してくるが、エリゼーヌには了承できるわけがない。
誓約魔術は神への誓いだ。通常は神官が立ち合いのもとで結ばれる。誓約を破ると魔術が跳ね返り、最悪だと死に至るケースもあるのだ。神官が誓約内容に応じた魔術式を整えてくれた上で、正当性を吟味して行われる。当然、犯罪行為になど認められることはなく、脅迫行為での使用は禁忌だ。
エリゼーヌはぎゅっと両手を握りしめた。そうしないと両手の震えが押さえられそうになかった。
解消でも破棄でも、または白紙撤回でも婚約が流れた相手とは二度と縁が結ばれないものだ。高位からの権力のゴリ押しでの婚姻関係が禁じられた法の制定時にそう定められた。脅されてのことでも誓約魔術を結んでしまったら、解除は難しいだろう。誓約通りに婚約解消せねばならない。サインだけは絶対に無理だ。
かと言って、拒否し続ければ、ブランディーヌがどんな手を使ってくることか。拉致時や先ほどを見るに、堪え性のない性格だ。もっと過激な手段にでてもおかしくない。
エリゼーヌはなるべく穏便に理性的な話し合いを試みているが、心中は不安と恐怖とで泣きたいくらいだった。
ジェスターからもらった護身用のアミュレットは領地で荷馬車に轢かれそうになった事故で失われてしまった。今、エリゼーヌが身につけている装身具は普通の宝石だ。身を守る手段は何もない。
ジョルジュが困ったようにエリゼーヌを見つめてきた。
「貴女の婚姻に政略は絡んでないと聞いています。薬草栽培の方針の関係でルクレール家の後ろ盾ができるのは歓迎されているようですが、そう強いものではない。もし、情が絡んでの婚姻でしたら、お気の毒ですが・・・。
まあ人生なんて、ままならぬものですよ。諦めて大人しくサインなさってください」
「そんな・・・」
エリゼーヌは青ざめてふるふると首を横に振った。本音では嫌だと泣き叫びたいくらいだが、ワガママな侯爵令嬢を刺激するのはマズい。
案の定、ブランディーヌがキツく眦を吊りあげるが、ジョルジュが動くほうが早かった。
「仕方ないですねえ」
ジョルジュはエリゼーヌの腕を引くと、無理やりペンを持たせた。彼女の背後に回って覆い被さるようにペンを持った手を上から握ってくる。
「い、いや、離して!」
「暴れないでください。すぐに終わりますよ」
「やだってば!」
もう淑女らしさなんてどこかにすっ飛んで行った。エリゼーヌは首を激しく振って抵抗しようとした。ジェスター以外の異性に抱き抱えられるなんて嫌悪さえ感じる。だが、まだ未成年の彼女が成人男性、しかも現役の護衛騎士に敵うわけがない。
腕は全く思い通りにならずに、勝手に書類に名前を綴られてしまう。
書き終わってすぐに書類が赤い炎に包まれた。書類は燃える尽きる事なく、すぐに元に戻って誓約魔術の印がうっすらと赤みを帯びて浮かんでいる。
「はい、これで終了です。ご自宅にお送りしますから、安心なさってください」
ジョルジュがすぐにエリゼーヌの手を離した。
エリゼーヌは呆然として書類を見つめた。無理やり書かされたせいで彼女自身の筆跡とは異なるが、確かにエリゼーヌの手で綴られたサインだ。
「やっと終わったわね。さっさとこの娘を返してちょうだい」
ブランディーヌがふふんと鼻を鳴らして指図した。ジョルジュが呼び鈴を鳴らして馬車の用意を言いつける。
エリゼーヌは茫然自失状態だったが、気がつくと頬が濡れていた。ポタポタと堰を切ったように涙が溢れる。拭う気力もなくうなだれていたら、慌ただしい足音が近づいてきた。
ノックもなく、いきなりドアが叩きつけられるように開く。
「お嬢様! た、大変です。ルクレール家が攻めてきました! リュシアン様を人質にとられています」
「思ったよりも早かったが・・・。ルクレール家、過激すぎないか」
別宅の管理人が青い顔で駆け込んできた。ジョルジュがぼそっとこぼした呟きは主人の耳には入らなかった。ブランディーヌが驚きで大きく顔を歪ませた。
「攻めてって、何よ? お兄様が人質? どういうことかしら」
「攫ったご令嬢を無事に解放しろと要求され」
どごおおおおん、と派手な破壊音がして、軽く地響きが室内を襲った。
誰もがそばの卓や椅子にしがみつくが、破壊音と地響きは連鎖してずっと続いた。しかも、音も揺れも段々と大きくなっていく。
「え、な、何が・・・」
「る、るくれーる家のご子息が、宣戦布告して・・・」
「はあ⁉︎ 戦乱時代でもあるまいし、何をバカな!」
ブランディーヌは吐き捨てた。
狂乱王の時代以前には領地間の争いで武力行使もあったが、現代ではあり得ない。非常識極まりなかった。
「そりゃあ、愛しの婚約者を誘拐されたから、お怒りなのでしょう」
混乱するブランディーヌと管理人にあっさりと応じたのはジョルジュだ。ブランディーヌが思いきり目を剥く。管理人が唾を飛ばして叫んだ。
「ゆ、誘拐? お嬢様、まさか本当に? さすがに、それは犯罪ですよ!」
「な、何を言っているの? わたくしがそんな事す」
「言い訳は後にしましょう。このままでは警備隊、いや騎士団に突きだされますが、いかがなさいますか?」
ジョルジュが冷静に指摘してきた。主人の顔色を伺って、撤退を提案してくる。
「リュシアン様が人質という事はルクレール家に屈したと思われます。お嬢様がここを脱けだしてクレージュ家本宅に戻っても、投獄は間違いなしです。
領地のお母上や祖父君を頼りになさいますか?」
「そんな! だったら、領地に行くわよ!」
ジョルジュが主人に手を差し伸べて素早く抱きあげた。腰を抜かした管理人は放置で置いてけぼりだ。
エリゼーヌは卓にしがみついて震えていた。何がなんだか、理解が追いつかない。
管理人が這々の体で、文字通り這いながらドアまでたどり着くが、いきなりドアが蹴破られた。管理人の上にドアが倒れて、ぐええっとカエルが潰されたような声がする。
「若様、見つけました! お嬢様です」
ルクレール家の護衛騎士ノエルが部屋に飛び込んできた。何やら足元から悲鳴がしたが、緊急事態につき無視だ。
「エリィ!」
黒髪を振り乱したジェスターもノエルに続いて駆け込んできた。ほっと安堵するのも束の間、泣き顔の婚約者に険しい顔になる。
「エリィ、どこか痛むの? 何をされたの?」
「ご、ごめんなさい。わたし、もうジェスの婚約者じゃないの。ジェスと婚姻できない」
婚約者から告げられた衝撃の内容にジェスターの動きが止まった。付き従っていた護衛たちも動揺して青ざめる。
エリゼーヌがナイフで脅されたのはクロエから聞いている。まさか、危害を加えられて傷モノにされたのかと、誰もが焦った。
えぐえぐとエリゼーヌは泣きじゃくった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。こ、婚約、かいしょ、う、なの。こんいん、できな、いの」
「エリィ、落ちついて。大丈夫だから。僕は何があっても君を手放したりしないから」
「だ、だって、だって・・・」
ジェスターは纏っていた外套を脱ぐと、婚約者の肩にかけようとした。エリゼーヌは振り払って後退る。
「もうダメなの!」
悲鳴のように叫んだエリゼーヌは絶望していた。一足遅かったのだ。誓約魔術は発動してしまった。
エリゼーヌが恥も外聞もなく、もっと抵抗していたら。泣き喚いて無様に暴れてでも、時間稼ぎをしていたらジェスターが間に合ったかもしれないのに。
エリゼーヌは対応をしくじった。
ルクレール家で高位貴族の振る舞いを教育されていても、生粋の侯爵令嬢であるブランディーヌには通じなかった。エリゼーヌではやっぱりダメなのだ。
ジェスターの隣にブランディーヌが並ぶことはないが、エリゼーヌもだ。救出に安堵するどころか、絶望が深まってこの世から消え去りたいくらいだった。
「ジェスター様、これを」
護衛騎士のポールが床に落ちていた書類を拾って手渡してきた。無理やり署名させられた婚約解消の書類だ。
「これで、エリィは婚約解消って言ってるの?」
「ひっく、かか、された、の。ごめん、なさ」
ボロボロ泣くエリゼーヌはうずくまって顔を覆った。
ジェスターの言葉は真実だ。彼は絶対に婚約解消に同意しないだろう。
でも、神への誓約を違えたら、エリゼーヌだけでなく、ジェスターにまで咎が及ぶかもしれない。そんなのは絶対にダメだ。優秀な彼を至らない令嬢である自分に付き合わせてはいけないのだ。
「ごめん、なさ・・・、わた、し、・・・ほうって、おい・・・」
「エリィ⁉︎」
「お嬢様、落ちついて!」
ジェスターはエリゼーヌから魔力の威圧を感じて恐怖した。
彼女の魔力では無理なはずなのに、高魔力保持者のように魔力が周囲に漏れでている。護衛騎士も青ざめて制止の声をかけるが、エリゼーヌは幼子のようにイヤイヤと頭を振る。
ぶわりとエリゼーヌを中心に魔力風が吹き荒れた。
ポールがジェスターの前にでて庇う。ノエルが意を決して顔をあげた。
「若様! お嬢様は俺がお連れしますから、部屋の外に! ポール、若様を一時退避だ」
「な、ノエル、勝手な真似を」
「ジェスター様、お引きください。ここはノエルに任せて‼︎」
ポールは主の腕をとってひきずるように部屋の外に連れだした。ジェスターは抵抗して暴れるが、お構いなしだ。
エリゼーヌの捜索で人手をわけたのがアダになった。ジェスターに付き従っていたのはノエルとポールの二人だけだ。ノエルがエリゼーヌの保護に赴くならば、ジェスターを守るのはポールの役割だ。
「若様、すぐに増援を呼びますから!」
「それじゃ遅いんだ‼︎」
ジェスターは怒鳴り返すと、ポールの腕を振り払った。魔力で思いきり威圧すると、膝をついた護衛を放置して部屋の中に飛び込んで行った。
今回の救出で陣頭指揮をとるのはジェスター。制止役がいないので、思う存分やらかしています。