危ないところを助かったようです
「エリゼーヌ様!」
「エリー!」
エリゼーヌは悲痛な叫び声に硬直した。
馬車の陰からはみでるように車道に飛びだしてしまい、すぐ目の前に荷馬車が迫っている。避ける間はなくて、怖くてぎゅっと目をつぶった。
パキンと甲高い音がしたかと思うと、何か温かいモノに包まれてふわっと浮遊感があった。
そおっと目を開けると、いつもよりも視線が高くてふわふわと揺れている。
え、何が? と目をぱちくりさせていると、名前を呼ばれた。大好きな人の声だが、ここにいるはずのない人物だ。
「エリー、大丈夫かい?」
「・・・お、おじさ、ま?」
高い高いをされる子供のようにディオンの腕に支えられた。
ディオンは幼子を抱き抱えるようにもう15歳になるエリゼーヌを縦抱きにして、トントンと背中を叩いてくれた。まるで幼子扱いだが、昔から懇意にしているディオンにされて嫌だと思うことはない。
「ジェスターのアミュレットが大活躍だな。無事で何よりだ」
???と、疑問符を浮かべるエリゼーヌには状況がよくわからなかった。とりあえず、危うく荷馬車に轢かれるところを助かったのだけはわかるのだが。
「エリィ!」
「ジェス?」
婚約者の声に振り向けば、真っ青な顔をしたジェスターが駆けよってきた。ディオンに降ろされたエリゼーヌを問答無用とばかりにぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
「怪我は? どこか痛むところは?」
「え、えっと、ちょっと、苦しい」
「どこを痛めたの⁉︎」
「落ちつかれてください、若様。若様の力でエリゼーヌ様の身体にアザができるかもしれませんよ」
必死な婚約者には悪いが、苦しいのはジェスターが力いっぱい抱きしめるからだ。
先ほど、悲痛な叫びをあげたクロエがもう優秀な侍女の顔に戻って、ジェスターを宥めてくれた。彼女の顔色だけはジェスターに負けず劣らずだが、冷静さは普段通りに取り戻している。
ジェスターから解放されると、クロエがズキズキ痛む手のひらにハンカチを巻いてくれた。膝も痛むが、人前でスカートを捲るわけにはいかない。ジェスターが寄り添って支える間に脱げた靴をクロエが回収してくれた。
エリゼーヌが周りを見渡すと、荷馬車が積荷はもちろん馬と御者もバラバラになって宙に浮いていた。魔術師団のローブを着た青年二人が荷馬車などに障壁を張って保護したようだ。積荷の一つ一つも魔法でコーティングされ、傷つくことがないようにそっと地面に下ろされていた。
え、何がどうなっているの、どういう状況? と首を捻る間にも、全ての元凶ーーポリーヌがエリゼーヌの護衛や通りすがりの領民たちに取り押さえられていた。
「お嬢様を突き飛ばしやがって!」
「なんてことしやがる、この性悪娘がっ」
「何すんのよ! わたしは何もしてないわよ‼ ロラン様、助けてください!」
「・・・君がエリーを跳ねのけたから、こうなったのは確かだろう」
「そんな!」
ポリーヌに助けを求められても、ロランは嫌悪に顔を歪めて見捨てた。彼もまた真っ青な顔をしていて、咄嗟のことで何もできなかったのを悔やんでいた。
何もできなかったのはポリーヌのお付きの者も一緒だ。彼らもまた殺気立つ領民に囲まれて強制的に事情聴取されることになった。
「エリー、荷馬車に轢かれそうになったのは本当か? 怪我は?」
祖父が慌てて部屋に駆けこんできた。
往来で騒ぎになった後、近くの宿屋が一番広い部屋を提供してくれて、医師を呼んでくれた。そこでエリゼーヌは膝も含めた治療をしてもらった。
擦りむいた掌には包帯が巻かれ、大きな打撲痕ができた膝に湿布を貼ってもらったのはいいが、少々動きづらくなった。念のために痛み止めがだされて、数日は様子見するように言われた。膝の怪我は痕が残ることはないが、しばらくは痛むだろう。
お茶をもらって人心地つくと、祖父に連絡がいったようでファブリスが青い顔をして飛びこんできた。
「ああ、ファブリス様、大事ありません。ジェスターが渡していた護身具で事なきを得たようです」
ディオンが立ちあがってファブリスを出迎えた。そのまま、興奮する祖父を宥めるようにソファーに誘導する。エリゼーヌの正面だ。
少女の隣にはずっと婚約者がひっついていて、ずっと無事だった手を恋人繋ぎにしたままだった。さらにその上に手をのせて、両手でエリゼーヌの手を握りしめている、というか縋りついていた。先ほどまで彼の手は微かに震えていた。
ジェスターは座ったまま、ファブリスに目礼だけするが、まだまだ顔色は悪い。轢かれかけたエリゼーヌよりも、目撃したジェスターのほうが動揺が激しく、魔力が乱れていた。
「一体、何があったのだ?」
ファブリスの問いに答えたのは、クロエだった。簡潔に状況を説明すると、ファブリスの眉間にくっきりとシワがよる。
続けてディオンが口を開いた。
「私たちはちょうど到着したところで、宿を探していたんだ。
シャルリエ家の馬車が止まっているのを見かけて、挨拶しようかと近づいたら、エリーやお連れの方が馬車から降りてきた。前方からやってきた少女と何やら揉めだしたと思ったら、止めに入ったエリーが弾かれたように見えて。
焦ったよ、スピードがでていた荷馬車が通りかかったから」
魔術師団から連絡が入っていて、ディオンらが来るのは承知していたファブリスがほうと安堵の息をついた。
「神に感謝を。
侯爵様たちが運良く出くわしてくださらなかったら、私は最愛の孫娘を失っていたかもしれません。改めまして、侯爵様には感謝いたします。本当にありがとうございました」
「ファブリス様、顔をおあげください。ちょうど、護身具が反応したところでして。
私どもが間に合ったのは反射された荷馬車の保護のほうです。エリーを守ったのはジェスターの護身具です」
「おお、ジェスター殿。なんと、ありがたいことか。貴方には孫娘を助けられてばかりだ」
「いえ、アミュレットがお役に立ててよかったです」
ジェスターはなんとか表情筋を動かして会釈した。心中は荒れ狂いすぎて、逆に表面では無表情になっていたところだ。
ジェスターの前には宝飾の黒い石にヒビの入った銀の腕輪が置かれていた。
一昨年、エリゼーヌを妬む伯爵令嬢たちのお茶会で念のために用意されたアミュレットだった。物理攻撃に対する防御の陣をオニキスに刻んであった。
護身具なのだが、ジェスターの色ーー黒髪を思わせるオニキスを使っていたから、エリゼーヌは気に入っていた。
無事に祖父の代理が努められますように、と願掛けでお守りのつもりで身につけていた。それが役に立ったのだが、人混みでぶつかるくらいでは反応しないように設定していたアミュレットが荷馬車の勢いに盛大に反応して石が壊れてしまった。
エリゼーヌがへにょんと眉を下げた。
「ジェスからの贈り物なのに、ごめんなさい」
「君が無事ならいいよ。そのための護身具だったから。・・・ああ、もう心臓が止まるかと思った」
ジェスターは低く呟くと、婚約者を腕の中におさめてえんじ色の頭髪に向かって吐息をこぼした。ファブリスの前だが、大目に見てもらえるだろう。今まで、硬直しすぎてまともに身体を動かせなかったのだ。
エリゼーヌも大人しくよりかかってジェスターの好きにさせている。彼女だって十分怖かったのだ。
それを少し離れたところから複雑そうに見ているのはロランだった。
エリゼーヌが手当てしてもらっている間に、ジェスターとは簡単に自己紹介していた。ロランの護衛がそばにいたのに、エリゼーヌを助けられなくて謝罪したのだが、謝罪は不用と言われてしまった。咄嗟のことで何もできなかったのはジェスターも同じだ。
あの場で唯一行動できたのはディオンだけだった。
アミュレットの発動直後に守護の魔法でエリゼーヌを包みこんでいたが、ほんの僅差だ。現場から少し離れていて距離があった分、発動が遅れただけでディオンの魔法でも十分エリゼーヌを守れていた。
「父上はエリィにとても頼りになる紳士だと慕われている。父上を超えるには僕はまだ力不足だ」
ジェスターが悔しそうに呟いたが無意識のものだろう。
彼の作ったアミュレットで事なきを得たというのに、それだけでは満足していなかった。ロランは婚約者を守るのは己の役目だと気負う同い年のジェスターに敗北感を味わった。
父である侯爵が望んだ婚約と聞いていたのに、本人も乗り気どころか大いにその気なのを見せつけられて入りこむ隙などないのを思い知らされてしまった。
もし、エリゼーヌが望んでいないのだったら、昔の誼で親密さを増していけば、もしかして・・・という下心があっさりと撃沈だ。
しかも、ジェスターの目に恋敵として映ることさえない。彼が目指しているのは、打倒侯爵ーーエリゼーヌに慕われる紳士であるディオンだ。
ロランが己の不甲斐なさを恥じているところに、婚約者の腕の中で甘えているエリゼーヌの姿は致命傷である。
落ちこむロランにファブリスから改めて本日の不手際を謝罪される。
「ロラン様にはご迷惑をお掛けして申し訳ありません。視察でお疲れのところにこちらの騒動にお付きあいさせてしまい、お時間をとらせてしまいました。
帰りの馬車が用意できましたので、お送りいたします」
「いえ、シャルリエ家には落ち度はありませんから」
ロランは暗にポリーヌの行いを批判した。
取り押さえられたポリーヌは図々しくもロランに助けを求めて、己が非を認めなかった。
故意ではなくても怪我をさせたエリゼーヌに詫びの一言もなく、自分は悪くないと喚き散らすポリーヌの姿は醜悪で、目に余るほどだった。
ポリーヌとお付きの者は別室で軟禁状態にされているという。
一応、貴族令嬢だから、街の警備所には突きだされていないだけで、待遇は必要最低限だ。ファブリスが急ぎで呼ばれたように、男爵家にも急使がだされたが、片道2時間ほどかかる。
男爵家の迎えが来るまで事情聴取されていた。
恋敵どころか当て馬になる隙もなかったロラン。合掌ですね。