6話
リアンは仕事があるらしく、その後は別行動を取った。
夕食が終わってどれくらい経っただろう。書庫の扉が開く音がした。時間帯の問題もあるだろうが、あまり人が来ない場所らしく、夕食から今まで人が書庫に入ってきたのは彼が初めてだった。
「……暗いな。キトリ? いるのか?」
「はい、おりますよ」
読んでいた本を閉じ、仰向けに寝ていた身体を起こす。声の方向を追って視線を向けたリアンは、私を見てぎょっと目を向いた。大きな本棚の上に仰向けに寝そべっていただけで、そんなに驚かなくてもいいだろうに。
厚い表紙の本を仰向けで読むと肩が凝る。胡座をかきながら、隣に積んだ本の山にさっきまで読んでいた本も乗せると、ぐいっと背を伸ばし、欠伸をした。その拍子に、近場に浮かべていた明かりがふよりと流れる。
書庫の明かりはそれだけで、後は高い天窓から落ちてくる月明かりだけだ。
「お前、何てところにいるんだ!」
「平らでそれなりの広さがある場所で、掃除もされている。何の不都合が?」
「…………それはお前の癖なのか、魔女の習性なのか?」
「本棚の上で寝る魔女、多いですよ? 魔女の習性と呼んでも差し支えないかもしれません。というか、床で寝るよりいいと思いません?」
くるりと杖を回し、積み上げていた本を棚へと戻していく。勝手に定位置へと飛び立っていく本を、リアンは物珍しげに目で追う。鳥のように空を飛ぶ本は、大人しく棚に収まる。
次いでくるくると回した杖先をリアンへと向けた。手首の動きだけで動かした杖に合わせて、リアンの身体が浮かび上がる。
「う、わっ!?」
暴れようにも掴む場所がなかったのだろう、結局自分の腕を掴んだリアンを、私の目の前に下ろす。
「人を呼びつけた上に突然何をする!」
下ろすと同時に怒鳴られた。
「行くのが面倒だったので呼びました。下りるのが面倒だったので上げました」
人間はきちんと説明すれば安心できる生き物らしい。さっき本に書いていた。だからきちんと説明したのに、リアンの機嫌は更に悪くなった。やっぱり、本の知識を理解せずただ実行するのは悪手だったようだ。
この書庫は、縦には広いが横は狭い。そのため高く高く積む必要があったのだろう。一つ一つの本棚も大きく高い。リアンの身長を三倍にしてもまだ足りないくらいだ。あちこちに梯子が取り付けられている梯子を眺めている間も、リアンはぷりぷり怒っている。
「そんな説明で納得がいくか! 大体なんだあの悍ましい人形は!」
「え? 私の可愛い、お手伝いしちゃう魔くんが何ですって?」
「裂けた口から断末魔のような声を響かせながら凄まじい速度で走り寄ってくる人形の何が可愛いんだ!? そいつに足にしがみつかれ、『時間が出来たら書庫に来てー』とお前の声で言われた私の気持ちを考えろ! その後、世にも奇妙な動きで捻れながら溶けて消えた人形を見た、私の気持ちを考えろ!」
「連絡は速やかに確実に。他の人に捕まらず、伝達後は秘密保持のために消える。完璧じゃないですか?」
「…………魔女っていうのは皆こうなのか? ……読んでいる本はまともだな」
怒ってはいるが、私と同じように胡座をかき、私が読んでいた本の題名を確認していることから結構順応性が高いと見えた。
「シルフォンの歴史に興味があるのか?」
「知らないものには興味がありますよ」
「それにしたってお前、どうして明かりをつけないんだ。暗いだろう。灯石が一斉に切れたわけでもないだろう?」
灯石は自然に採取できる光る石だ。高い魔力を持っていれば自分で作り出すことも出来るけれど、それ以外の人々が夜の明かりを得るにはやはり炎が一番手っ取り早い。灯石はそれなりに高価なので、城でも使われている場所は火が厳禁な場所がほとんどだ。
私は杖の先でかりかり頭を掻いた。
「月明かりが必要でして」
頭を掻いているほうとは逆の杖先で、浮かべていた明かりをつついて消す。いま書庫に残っている明かりは、天窓から漏れる月明かりだけだ。あまり大きな窓にすれば、日の光で本が傷んでしまうからだろう。
私達がいる本棚は、今の時間、ちょうどその窓から月明かりが当たる場所だ。
「月明かり? どういう意味だ」
「日光と月光では、同じ存在でも見える形が変化するんです。月光で正体が知られた魔物のおとぎ話とか結構ありますよね。そんな感じです。では、ちょっと失礼しますよ」
どっこいしょと膝立ちになり、まだ胡座をかいているリアンの頬を両手で掴む。杖は脇に挟んでいる。大きく見開かれたら瞳を覗き込みながら、一緒に挟んでしまった金の髪を横に払う。魔女の瞳でじぃーっと見つめれば、やがてリアンの瞳に呪いが映り始めた。
やっぱり、複雑怪奇だ。性別転換の呪いは、何度も言うがそんなに難しいものではない。ようはもう一つの形にひっくり返せばいいだけなのだ。本来なら核となる部分の糸を一本引っこ抜けばいいだけである。
それなのに、何がどうして、全て絡まった状態で巨大な毛糸玉のようになっているのだろう。さっぱり分からん。
「……どうだ?」
「相変わらずぐっちゃぐっちゃですね」
「うっ」
瞳を合わせて見つめ続けながら、状態を説明していく。呪いの形、というものがリアンには今一理解できないようだ。それも仕方ないだろう。
本来呪いとは可視化するものではない。魔女はともかく、それ以外の種族でも魔力の形はあまり見えないものだ。多種族にもそういったものが見えやすい存在も稀に生まれるが、魔女ほど当たり前ではない。
「呪いの見え方はそれぞれなので、解呪の仕方もそれぞれです。私は糸で見えるので、絡まっていたら解き、糸を引き抜いて崩していきます。生き物で見える人は引きずり出して倒して解呪したり、呪いを惚れさせて解呪したり、巨大な氷を溶かしきったら解呪という人もいれば、花を咲かせればいい、逆に枯らせば解呪、という人もいますね」
「ほ、本当にそれぞれなんだな」
「そうですね。あ、これ抜けそう。よいしょぉ」
「そんな適当さで私の呪いに触るなぁー!」
彼の胸からするんっと一本引っ張り出せば、何故か猛烈な抗議を受けた。何故だ。解呪まで一歩進んだのに。人間って難しい。
引っ張り出したのは一本の赤い糸だった。長さは私の指先から肘ほどで、毛糸ほどの太さだ。しかし、よく見たらもっと細い髪の毛ほどの糸が数本絡まっていた。しかも、その細い糸はまだリアンと繋がっていた。これ以上引き抜けない。
引っ張り出せた分を指で摘まんでみる。ぐちゃりと粘着質な何かが糸を引くのを見て、私は眉を顰めた。
「……殿下、殿下を呪った魔女のこと、伺っても宜しいですか?」
紫の糸を指の腹で擦り合わせながら問う。しかし返事がない。怒鳴られてもいないから、人間ってよく分からないと首を傾げる怒りに触れたわけでもなさそうだ。糸に固定していた視線を向ければ、半眼の瞳が私を睨んでいた。
怒鳴ってはいなかったけれどやっぱり怒っていたのか! 人間ってよく分からない!
じっとりとした目で私を睨んでいたリアンが背筋を伸ばした。ぶかぶかだったりみちみちだったりする、大きさの合わない服でも分かるほど綺麗な姿勢だ。
流石王子様。威厳ある美しい姿勢、完璧だ。
「姿勢を正せ」
「な、何ですか?」
「姿勢を正せ!」
「何なんですかぁ……」
くわっと全開した瞳に押され、しぶしぶ足を折畳み正座する。背筋は伸ばさずちょっと丸めたまま肩も落とす。正された姿勢は足だけだ。完璧に怒られ態勢である。何故この姿勢を取ってしまったのかは分からないけれど、リアンの勢いに押されてしまった。
彼が呪いを受けた状態でよかった。元々の彼の姿がどんなものかは知らないが、十七ともなればそれなりに身体が出来上がっている頃だ。そんな相手がぎろりと睨んできていたら、それなりに怖いと思うのである。それなりに。
あと、多大に面倒。
そんなことを考えていたら、眼光が鋭くなった。何故ばれた。人間が魔女の思考を読めるというのか。そんな馬鹿なと思っていたら、眼光が更に鋭くなったので慌てて思考を切って捨てた。
リアンはすぅっと息を吸い、怒声と共に全て放出した。
「私を呪った相手の情報……そういうことはまず最初に聞くものだろうが!」
「いやぁ、興味が無かったもので……」
「聞いてこないから知っているのかと思いきや興味がなかっただけか! 普段のお前がいくらあれでも、七百歳の手練れならば素人が口を出すのもまずいかと何も言わなかったが、興味がなかっただけか!? この、阿呆がっ! 原因となった存在の情報は基本中の基本だろうが! お前は本当に七百歳か!」
「似たようなものです……」
ぎろりと睨まれた。しぶしぶ口に出す。
「…………十五です」
正直に告げれば、リアンの目が丸くなった。相手の年齢にこだわる男はモテないんだぞーと心の中で悪態をついたら、深々と溜息を吐かれた。
「確かに七百十五なら七百歳と似たようなものだな……。人間の十五年はかなり違うが……それなら尚更七百十五らしい生き方を心がけろ! そんな生き方は私も知らんが!」
私も知らないよ。
魔女は長生きという一般常識は、魔女に詳しくないシルフォンにも浸透しているらしく、七百に実年齢十五が足された。その程度の誤差はどうでもいいが、七百歳だろうが三千歳だろうが、魔女にだって一歳の頃も、五歳の頃も、十五歳の頃もあるんだとはあまり思われないらしい。
魔女は確かに生まれたときから魔女だ。幼少期だって魔女だ。だが、無邪気で愛らしい時分も、確かにある。瞬きくらいの一瞬くらいは。
心の中で行われている抗議を当然の如く知らないリアンのお説教は止まらない。そう、これはお説教だ。怒ってるなぁと思っていたけれど、内容を聞けば何のことはない。お説教だった。
「シルフォンの情報を知らなかったこともそうだ! 自分が訪れる国の情報くらいまず事前に調べろ! もし治安が悪い国だったらどうするんだ! 城に行くのならせめてその国の王族の力関係や評判くらいは耳にしておけ! 魔女は国を持たないのなら、どの国もお前達の領域じゃないということだろうが! 他人の領域で何かあったらどうするんだ! 何かあってもどうにかなる自信があるのかもしれないが、まず何も起こさせないよう防ぐことも重要なんだぞ!」
な、なんだよぉ。怒るなよぉ。興味なかったんだよぉ。
「魔女は個人主義なんだろう! それならば尚更、情報は大事だ! 七百十五年無事だったからと言って、これからも無事とは限らないだろう! 大体お前は女……今は私も女だが、お前はこれからもずっと女だろう! 女の一人旅なら尚更気をつけろ! 阿呆が!」
月明かりを浴びながら、腹の底から声を出して怒る美女。どうしよう。全然嬉しくない。相手が男だろうが女だろうが嬉しくない。そもそも怒られて嬉しい存在などいるのだろうか。……いるんだよなぁ。世界には様々な嗜好を持った存在がいる。
しかし私にそんな趣味はない。ないんだけど。
「あのぉ、殿下……」
そぉっと聞いてみる。
「何だ!」
ぐわっと返された。凄い勢いだ。でも返事はしてくれる。いい人だ。
「もしかして、心配してくださってるんですかね?」
「当たり前だろうが! 自国にいる以上、敵以外の全ては王族が守る対象だ!」
そんな趣味はないんだけど、困った。それなりに嬉しい。うるさいけど。
かりかりと杖で頭を掻く。
「いやぁ……殿下は変わってらっしゃると思っていましたが、想像以上でした」
杖で帽子のつばを押し上げ苦笑する。リアンはむすっと眉間に皺を寄せた。この人、男だったときもこういう顔をしていたんだろうなと、容易に想像がつく堂に入りっぷりだ。
「青い夢想家だろう。よく言われる」
「ああ、いえ、そうではなく。魔女への対応と言いますか……魔女に説教くらわす存在はあまりいません。魔女はそういう生き物だと諦めるか、恐れるかのどちらかですから」
「まあ、ここは大人も子どももふわふわした国だからなぁ。私も呑気な部分があるのだろう。シルフォンは、平和で穏やかで少し抜けた、自慢の国だ」
「ええ――いい国ですね」
素直に認めると、リアンは嬉しそうに笑った。本当に自慢の国なのだろう。くしゃりと照れたように笑う姿は、まるで子どものようで。
何かを誇らしく思うことも、それを褒められることも滅多にない『魔女』には浮かべられない顔だ。思わず見惚れるくらい、綺麗だった。
夜は闇に覆われる。闇は魔を呼ぶ。夜は、魔物の時間だ。だから夜は魔女のもの。昼だって魔女は好き放題生きるけれど、夜とは比ぶべくもない。それなのに、この生き物は月明かりを味方にしている。夜でも光を己が物と出来るとは、彼はまさしく光の生き物だ。魔女とは真逆の生き物は、どうやら夜でも眩しいらしい。
「七百年も他の国を見てきたお前に言われると、誇らしいな」
「まあ、師匠に連れ回されていろいろな国に行ったのは確かですねぇ」
「そうか。私は仕事以外で他国へ行ったことがないんだ。行っても出歩くことは出来ないしな」
「それでいいと思いますよ。愛おしい故郷があるのなら、あなたはここから出るべきではない。だって世界は、命に対して情など持ち得ないのだから」
さて、用事も終わった。
夜もそれなりに更けたことだし、これ以上の夜更かしは人間には酷だろう。早々に解散し、自由時間を取るべきだ。
立ち上がり、スカートの皺をぱたぱたと手で払う。杖でやってもいいけれど、リアンが傍にいる状況で杖を振り回せば彼に当たってしまう。
「では殿下。明日は貴方の叔父から話を窺いたいので、そのつもりでお願いします。どうします? 同席されます? 私は別に一人でも問題ありませんが」
いやあるか? どうだろうと首を傾げる。女好き、女好きかぁ。リアンから与えられている事前情報からは、一人で会いたいとは全く思わない印象しか受けない。だからといって、年相応の外見しかしていない私にまで食指を伸ばすだろうか。女好きと言われても、好みくらいあるだろう。
「……私も同席する。流石に叔父と女を二人っきりにさせるわけにはいかん。何せ、この私にまで色目を向けるあの節操の無さっ!」
リアンは心底嫌そうな顔で吠えた。そのリアンのほうが余程生物的に女としての魅力に溢れて見える。あ、問題ない。これが好みだった場合、私は一切問題ない。
「殿下が好みの場合私は問題ない気がしますが、分かりました。じゃあ一応、魔女の性格設定ちょっと変えていきます」
「……そんなノリで変えていいのか?」
「何種類かあるので」
私は咳払いした。あーあー、喉の調子がよすぎて望む声が出にくい。何度か喉を震わせ、しばらくぶりの声を探し出す。
「あー……まだまだひよっこの坊や達には分からないかもしれないがねぇ。我々魔女にはある程度の器用さがいるんだよ」
喉から出てきたしゃがれた声に、リアンはぎょっとした顔をした。いたずら心が湧いて、さっと杖で一撫でし、顔を老婆へと変える。大きな鷲鼻、垂れ下がった頬と目、しょぼくれながらも大きな唇。
「坊やのような可愛らしい子は、食ってしまおうかねったぁあ!?」
「月明かりしかない場所で不気味なことをするな!」
「頭殴ることないじゃないですか!」
「ろくでもないいたずらをした奴には拳骨と相場が決まっているんだ!」
「相場なら仕方がないですね!」
ぎゃんぎゃん騒いでいたら、見回りの兵士が入ってきて二人揃って注意された。二人組兵士の生暖かい視線に私は慣れていたが、リアンは酷く落ち込んでいた。可哀想だったので、再び鷲鼻魔女の顔になって慰めてあげたら凄まじく怒られた。
元気が出たようで何よりである。