16話
日照りが続いた。暑い日が続き、様々な物が干上がっていく。
父は薬を卸に行くたび暗い顔で母と話すことが増えた。幼い私は何日雨が降っていないかなど考えもしなかったけれど、その年の日照りは酷いものだったそうだ。山に暮らす私達にはまだ影響が少なかったけれど、町、村、と、山から離れた場所から川は干上がっていった。町では既に井戸の水すら涸れ上がっていたという。
人は困難に陥れば余所へ原因を見つけ出そうとする。どこかに悪を見出そうとする。悪を倒しさえすれば解決するのだと思い込みたいからだ。天候などとどうしようもない要因ではなく、自分達の手に届く範囲に原因があるほうがずっと簡単で、楽なことだからだ。
理不尽な疑惑の目は、まじない師と、魔術師の素質を持つ息子と、魔女の娘を持つ、毎度一定量の薬を卸し続ける男へと向いた。
日照りが続こうが、男の薬は尽きることがない。当たり前だ。だって山はまだ枯れていないのだから。
しかし、日に日に住民達が父へ向ける目は険しくなっていった。このままではもうここには住めなくなるかもしれない。両親は少しずつ荷物を纏め始めた。よしんば雨が降ったとしても、一度芽吹いた疑惑の種は枯れない。同じ状態のまま保全され、次に何かがあれば一気に花開くだろう。
両親は転居を決めた。だけど私には何も知らされず、二人は首を傾げる私の頭を優しく撫でるだけだった。
お兄ちゃん、夕方帰ってくるんだよね。あんまり暑いと大変だね。雨が降るといいね。あ、でもお土産濡れちゃう。それに足下が悪くなっちゃうからお兄ちゃん大変。
母とのんびり交わした会話は、それが最後だった。
「シルヤ、キトリを連れて逃げろっ!」
水やりをしていた私達の元へ、昨日薬を卸に行った父が血相を変えて飛び込んできた。その額から血が流れていて、母は真っ青になった。いつも穏やかで楽しい父の怒声と鬼気迫る顔が怖くて、震えながら母の足に抱きついた私を、母はすぐに抱き上げて身を翻した。
どうして? お父さん怪我してるよ? お父さんのところに行くんじゃないの?
不思議に思い、私を痛いほど抱きしめて走り出したお母さんの腕の中で身を捩る。何とか顔を出して背後に視線を向けた私の目には、父を農具で殴り倒す男達の姿が映った。何度も何度も父を殴りつける男達は、父が動かなくなった途端、跳ね上がったようにこっちを見る。
「あいつらを逃がすな!」
「ほら見ろ、言ったとおりだろ! 水があるぞ! こいつらが雨をせき止めていたんだ!」
「殺せ!」
「水を奪え!」
「逃がすな!」
「魔女は殺すな! 魔女は雨乞いに使え!」
こっちを指さし、恐ろしい声で叫ぶ男達に私の身体は震え上がった。母の身体も大きく震える。けれど決して振り向かず、私の抱く腕の力を強めた。
けれど、どんなに逃げても女の足だ。それも、六歳の子どもを抱いている。逃げ切れるはずもない。すぐに追いつかれた母は、髪を掴まれて家の中に引きずり込まれた。血だまりの中に伏せたままの父の横を通り、私も一緒に放り込まれる。
何が起こったのか分からなかった。何が起こっているのか分からない。この男の人達は誰なのか。どこから来たのか。どうしてこんなことをするのか。
これは酷いことだ。酷いことが起こっているのだと、私には気づく余裕さえ与えられなかった。
お母さん、お母さん。泣き叫ぶ私に、母も必死に両手を伸ばした。
「やめてください! 私達は何もしていません!」
「嘘を吐け、この魔女め! それなら何でこの家だけ作物が無事なんだ! さっきだって水を撒いていただろう!」
「井戸水です!」
「町はもう井戸水も枯れたんだぞ!」
「ここが山で、他に住んでいる人もいないから枯れていないだけです! このまま日照りが続けば、いずれここの水も涸れます! 現に水位はとても下がっているんです! やめて! 娘には手を出さないで! まだ六歳なのっ! お願いやめて! やめてやめてやめてぇっ!」
何もしていません。何も出来ません。私も娘も、そんな力などありません。天候を操る力などありません。
母はそう何度も叫んだ。声が枯れ、血を吐いても叫んだ。何十人もいる男達に惨たらしく殺されるその瞬間まで、叫び続けた。
ふと、掌に温もりが触れた。リアンの手が私に触れている。
握っているのではない。本当に触れているだけだ。離れず寄り添うようにほんの僅かに力を篭めてその手へ擦り寄れば、くすぐるような柔らかさで握り返してくれた。その後、痛いほどに握りしめられる。
もうこの先何があるかなど、何も知らなかった馬鹿な私以外なら誰にでも分かっただろう。難しいことは何もない。両親と同じ末路を辿る。ただそれだけのことなのだから。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
同じ言葉がぐるぐる回る。恐怖は既に麻痺した。混乱はずっと続いていて、怒りは湧かなかった。
分からなかったのだ。これが酷いことだと、理解できなかった。そんなことが起こるなんて思わなかったし、そんなことを出来る人がいるなんて知らなかった。世界は優しいものだと、大人は穏やかな巨人だと、信じて疑っていなかった。
重たいものをいっぱい持っても平気な強く大きな手は抱き上げてくれるもので、撫でてくれるもので。まさかそれが拳のまま振り下ろされてくるなんて、私は知らなかったのだ。
もうどれくらい時間が経ったのか分からない。男達はひっきりなしに入ってきては、色んなものを壊して出ていく。全部取っていく。私のぬいぐるみまで、全部だ。だけど、お兄ちゃんのお花だけは窓際に置いていたから壊されていない。野菜は取られたけれど、お花は食べられないから置いていかれたのかもしれない。
そんなことを思っていたら、蹴り飛ばされた。跳ね飛んだ身体はお母さんの横まで滑って止まった。身体はねじ曲がり、ひゅうひゅうと変な音が胸から漏れている。お母さんも動かなくなるまでこんな音を出していた。
お母さん。そう呼んだつもりだったのに、喉の奥から出てきたのはぐちゃりとした赤い塊だった。おてて繋ぎたい。そう思って伸ばしたつもりだったのに、私の指もお母さんの指も全部変な方向に向いていて、とてもではないが握れそうになかった。何より身体が動かない。
私の髪を掴んで引き摺り上げた男の顔が眼前にある。ぶらぶらと揺れる足の下に、ぼたぼたと血が落ちていく。あんなにいっぱい血が出たのによく無くならないなぁなんて思ったのは、もう全てが麻痺していたからだろう。
「強情なガキだな。さっさと雨を降らせろって言ってるだろうが!」
床に叩きつけられた瞬間、水の中に落ちた気がした。
「雨をっ――――――――!」
「――の――キがっ――――!」
「――――――――――!」
何を言っているのか分からない。水の中に潜って聞く音によく似ている。耳が壊れたのかなとやけに冷静な自分が納得した。だって目もかたっぽ壊れちゃった。
だけど壊れたのは耳じゃなくて心だったのだと、飛び込んできた意味ある言葉で知った。
「何て、ことを――っ、キトリ! キトリ、キトリ、キトリ! やめろ! キトリに触るな! キトリ! 僕だよ、お兄ちゃんだよ、キトリ! 目を開けろ、キトリ!」
お兄ちゃん。お兄ちゃんの声だ。お兄ちゃんの声がした。
私はぴくりともしない身体を動かすことを諦め、目玉だけでお兄ちゃんを探した。
お兄ちゃんは、開け放されたままの扉から中に飛び込もうとして、男達に押さえ込まれていた。いつも帰ってくるときに持っていた大きな鞄もお土産もないし、服も酷く汚れているし顔にまで土汚れがついている。頬や身体に擦れた傷口があることから、途中から男達に引き摺って来られたのだろうと分かった。
お兄ちゃん。
ごぼりと血を吐く音を呼び声に変えた私を見て、兄は絶叫した。
「出来るはずがないだろう! 雨を止めたり降らせたり、そんなことその子に出来るわけがないだろうがっ! あんた達を退けるどころか抗うことすら出来ていないその小さな子が、天候を操るなんてことが、今そこで死にかけているその子にそんな大層なことが出来ると、あんた達は本当に思っているのかっ!?」
兄の形相と、ぼろ屑のようになっている私を交互に見て、男達は僅かに怯んだ。
「魔女を自分達に都合のいい神として扱うな! 己の不幸のはけ口に子どもを使うな! あんた達の悲劇の代償に、俺の妹を使うなぁっ!」
お兄ちゃん、俺って言ったの、はじめて聞いた。
私はそんなことをぼんやり思っていた。
怒声と共に、ひしゃげて潰れた男達の悲鳴が轟く。兄が、男達を殺していく。
今なら分かる、魔術師として習ったであろうそれは、決して人に向けてはいけないもので。少なくとも、まだ学生である兄が扱っていいものではなかったはずだ。
けれど兄は躊躇いなくそれを発動し、男達を殺していく。
それでも多勢に無勢なのは変わらない。なぜなら男達は常に補充されていくからだ。ここから一番遠く、一番大きな町の憲兵である腕章をつけた男が、兄を家の中から蹴り出した。お兄ちゃんの怒声も、男達の怒号も遠ざかる。
お兄ちゃん、待って。置いていかないで。
さっきまで麻痺していた恐怖心が戻ってくる。
寂しい。怖い。寒い。痛い。お兄ちゃん。いかないで。私も連れていって。お兄ちゃん。
男達の怒号は壁越しに振動となって聞こえてくる。雨が降らなくなって久しい窓の向こうに、ばちゃりと大量の赤が飛び散った。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん。視界の中に入らなくなった兄が寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて。
赤がべったり張り付いた窓の前に置かれている、お兄ちゃんの花を見つめる。
いかないでいかないでいかないで。
いかないでお兄ちゃん。
私を置いて逝かないで。
兄の瞳と同じ色をした花が、一瞬で黒に染まった。そうして、ほろりほろりと崩れ、溶けて消えたその瞬間、私は己の死を知った。
人間としてのキトリは死んだ。
残り、そうして生まれたものは、怒りと憎悪の怨炎だけがこんこんと湧き出る、禍難の魔女だった。
何も覚えてはいない。その間何があったのか、私の中には何一つ意識として残ってはいなかった。ただただ憎かった。恐怖も混乱も全ての感情が死んだ後には、それしか残っていなかったのだ。
真っ赤に染まった熱に焼かれたのは世界か私か。炎は私の肌をも焦がし、思考を焼いた。
その後は、歴史に刻まれた通り。ただただ転がり落ちるが如く。炎は数多の人間を飲みこんだ。
虚ろな目を見開いたまま、燃える髪を不自然に靡かせた子どもが炎の中に座っている。炎は子どもの中から湧き出しては子どもを焼き、世界に散っていく。
己が身を顧みない加減も制限も知らない魔力の爆発は、子どもの身体も一緒に壊していった。
客観的に見ればなかなか凄惨な状態だ。けれど、本人からすればどうでもいいことだった。だって、何も感じなかった。痛みも恐れもない。悲しみすら存在しない。何故なら、私の中には憎しみしかなかったのだから。
血と憎悪を垂れ流す赤い子どもがふっと消えた。のどかな家が現れる。先程壊し尽くされ奪い尽くされた家ではない。
同じ家だが、こっちは私の工房だ。勿論、ぐちゃぐちゃに折れ曲がった母も、憎悪に飲まれた子どももいない。
世界には静寂が満ちた。だってここは生命の住まう場所ではないのだ。
「あの後は番人に回収され、ディアナスに弟子として引き渡されました。本来番人を通さず人間を殺した魔女は魂を徴収されるんですが、私は魔女として成立していなかった事もあり見逃されました。……ディアナスは、やり方は滅茶苦茶でしたが、私の治療の一環でもあったのだろうと、今では思うんです。強制的に関わらざるを得ない状況を作りでもしないと、私はまともに人間と関わろうとはしなかったでしょうから。考える暇も無く『魔女の被害を受けた』人間の相手をしていくことは、荒療治ではあったのでしょうが、確かに効果はありました。今では一応、無関係な人間まで殺そうとは思っていません……ははっ、こうして改めて見ると、何のことはない、よくある悲劇ですね」
思わず笑えるくらい、ありふれたつまらない悲劇だ。
異能に恐怖した大多数が勝手に疑惑を募らせ、猜疑心の果てに異能を殺す。昔から幾度となく繰り返されてきた使い古された悲劇だ。
だけど、許さない。
ありふれたつまらない悲劇でも、使い古された悲運でも、どうでもいい。絶対に許さない。
当事者もそれを許可した連中も煽った連中も同意した連中も止めなかった連中も傍観した連中も、全て殺してやる。私の親兄弟を殺したのだから、当事者の親兄弟も殺す。ただそれだけだ。私の家族を見るも無惨に嬲り殺したのだから、お前達の墓も許さない。
「貴方が一緒に来ると言って聞かないジェイナは、未だこの炎が燃えている国ですよ。恐らく、当事者ではない魔女でさえ歩けば石が飛んでくるでしょう。当事者である私なら尚のこと。身の程知らずな人間共には、その都度それ相応の報いを与える。それがジェイナを通過する魔女に出されている命です。私と一緒に来れば貴方も悪魔の誹りを受けますよ。ちゃんと貴方が無事なように用意しますので、貴方は向かわないほうが無難でしょう」
私が燃えていた場所をじっと見つめたまま、リアンは動かない。握られた手も離れず、されど力が篭められたわけでもなかった。ただただ手を繋いだまま、温度を分け与えられているだけだ。
そうして気づいた。私の手は冷え切っていた。だからリアンから温度を分け与えられているのだ。馬鹿らしい。ありふれたよくあることだと心の底から思ったのは虚勢でもなく本心だ。それなのに、未だ身体が反応しているのか。
リアンはまっすぐに私がいた場所を見ていた瞳をゆっくりと閉ざし、そうして今度は今の私をじっと見つめた。何も変わらない瞳だ。私の原初を見る前も今も、何も変わらない。哀れみも、憤りも、何も。ただただまっすぐに私を見ているこの人に、安堵した。
この高潔な心を穢したいわけではない。美しい心に傷をつけたいわけではない。だからほっとした。淀まず、傷つかず、まっすぐに立ち続けるこの人の強さに私は確かに安堵した。
飲みこまれないで。そう願った。自分が出来なかったことを、しようともしなかった耐久を、他者に望む。それがどれほど醜悪な傲慢か、分かっているのに。
「私は一緒に行くぞ」
「殿下」
「私自身のことだ。それに、これも一つの社会勉強だろう? 如何せん友人がいなかった弊害か、どうにも世間知らずで堅物なんだ私は」
「それは否定しませんが、社会勉強ならもうちょっと安全な場所から始めたほうがいいと思いますよ」
「ほう。例えば?」
「…………………………そういえば私の社会勉強ディアナスでした」
まっすぐだった視線が揺らぎ、気まずそうに彷徨う。そして戻ってきた視線には、しっかりばっちり同情の色が映っていた。
「まあ、うん……じゃあ寝るか。私はどっちの部屋を使ったらいいんだ?」
「どちらでもお好きなほうを。同じ部屋でも構いませんが」
「ふむ……じゃあそうするか」
「はい?」
自分で言っておいて何だか、乗ってくるとは思わなかった。冗談だとからりと笑うのかなとしばし待ってみたが、一向にその様子はない。
リアンは繋いだままの私の手を引き、子ども部屋に入っていった。床に敷かれている絨毯を指さし、リアンは笑う。
「これ、空飛ぶときに使っていたものと同じだよな」
「……寝転んで、まじまじと見つめた時間が一番長かったのこれだったんですよ」
「馬鹿にしたわけじゃない。可愛いと思っただけだからそう拗ねるな」
二段ベッドの前に立ち、ふむと上下を覗く。
「一度二段ベッドで眠ってみたかったんだが、せっかくなら誰かがいたほうが楽しいだろう?」
「はあ。上と下、どっちがいいですか?」
「お前はどっちで寝ていたんだ?」
「下です。幼児は昇降が危ないということで」
「成程、道理だ。では私は上で寝よう」
本当にこのまま眠るらしい。まあいいかと帽子を外し、くるりと回して夜を呼んだ後に杖も置く。リアンはいそいそと上の段に登っていく。ふと気がついて注意する。
「殿下、天井が近いので頭打たないでくださいね」
「いたっ……!」
遅かったらしい。王子様は、高い天井には慣れていても、眼前に迫る天井には慣れていなかった。二段ベッド自体も初めてなのだから仕方ない。
しばらく頭を打つ音と短い悲鳴、そして態勢を整える位置調整の音が聞こえていた。
ようやくうまく収まったのか、静かになった頃を見計らって声をかける。私はとっくに魔力で編んだ衣装も解いて就寝準備は済んでいた。それどころかいつもなら放置する髪も、やることがなかったので緩く編んでいる。過去に感化されたわけではないが、緩く三つ編みにしてみた。
昔は皆がしてくれた髪を、今は一人魔力で編む。
「殿下、落ち着きましたか?」
「ああ……なかなかコツがいるんだな」
「殿下の手足が長いからぁ」
「打つのは頭だ」
「殿下の頭が長いからぁ」
適当に返して、枕に体重を預ける。ふっと力を抜けば、身体の重さは布団に沈み込む。この場を動かないと判断した温もりが、布団と自分の間でじわじわと居場所を確立していく。
怖い夢を見ても平気だった。だってすぐ上にお兄ちゃんがいるから。朝起きられなくても平気だった。だってすぐ上にお兄ちゃんがいるから。雷がおへそを取りに来ても平気だった。だってすぐ上にお兄ちゃんがいるから。
ベッドの上段が僅かに軋む度、安堵した日々は遙か遠い。誰もいなくなったベッドの下で自分の身体を抱きしめて眠り続けた日々は、未だ呆れるほど鮮明で。
だからいま、ベッドの上に人がいるこの状況をどう感じるべきか、心が迷っている。安堵すべきか戸惑うべきかよく分からない。だけど何だかくすぐったい。
痛いほどに。
「殿下、本当にジェイナ行くんですか?」
「当たり前だ」
「やめましょうよ」
「嫌だ」
頑ななリアンから見えないのをいいことに眉を下げる。弱った。困った。そんな顔になった私には気づいていないだろうに、リアンも困った声で笑った。
「お前を一人で行かせたくない男の意地だ。悪いが折れてくれ」
「……どういう意味ですか?」
「まあ要するに、守られてばかりだと少々さわりがある、ということだ。せめてお前の古巣に一人で行かせないくらいの気概を見せる余地を残してくれ。流石に一から十まで守られると私も立つ瀬がないんでな」
「立つ瀬、ないんですか? じゃあ私魔法で作りましょうか? 足場作ったらいいんですか?」
地上にないのなら空中に作るのもありだなと考えていたら、上段が激しく軋んだ。どうやら派手に笑っているようだ。声を殺していても振動でばればれである。
「お前は意外と身内を甘やかす類いだな」
「そうでしょうか」
「そうだよ。大魔女殿にも結局世話を焼いてしまったんだろうなと思った」
……そんなことありませんよと言おうとして、うっかり借金の始末をつける算段を考えてしまった自分を思い出して苦い顔をする。苦虫を噛み潰している間に、リアンは静かになった。このまま寝るのかもしれない。
だから私もそっと目蓋を閉じた。風もなく獣も虫もいない工房の時間は酷く静かだ。聞こえるものは、互いの吐息と微かな衣擦れの音だけ。それでも命とは騒がしい。生き物の気配はこんなにも鮮明に心を打つのかと、ぼんやり思う。
「なあ、キトリ」
「はい」
そっと静寂を溶け込んだ声で呼ばれた。自身が放つ命の気配より余程静かな声だ。
「私は一王族として、人間として、お前の行いを認めることは出来ない」
「ええ」
静かな声に頷いた後、これじゃ見えないと気づいて音にする。それと重なるように、小さな声が聞こえた。だが。そう続いた言葉に、瞬きする。
「友としてならば、よくやったと、私は言う」
息が、止まった。
「お前はご家族の仇を取ったんだ。友として私は、誇らしく思う」
止まった息を深く深く吸い込んで、肺を空っぽにするほど吐き出す。正当性を得たいが為にこの人に知ってもらったわけじゃない。
認めてほしいわけじゃない。許しも同意も要らない。それは本当だ。だけど、砕け散った私の何かは、確かに満たされた。家族が殺されたあの日から泣かなくなった幼い人間の私が、小さな声で泣いた気がした。
同時に、不安になった。この人は、駄目だ。この優しく生真面目で高潔な魂は、神々が好む最たるものだ。
この人はきっと、神に見つかれば愛されてしまう。神に愛された者の末路は火を見るより明らかだ。人としての生も幸福も全て奪われ、世界のために使い潰され、最後は魂ごと召し上げられて永久に囚われる。
魔女を殺した人間は、問答無用で英雄に召し上げられる。そんなことは、絶対にさせない。だから何があろうと紫紺の魔女は私が殺す。その先が私の魂の徴収であろうと構うものか。
原初の魔女はこの件を把握しつつ今の今まで動いていなかった。彼女らはこの件を星の管轄と断じたのだ。原初の魔女が星の流れに逆らうのは魔女の存亡を懸けた時だけ。それ以外は星に従順だ。それどころか、星の流れが円滑になるよう尽力する。
この件は、何の星だ。リアンの死? それとも、それを回避した先の、英雄への道?
「あとお前、何か勘違いしているようだから言っておくが、私は普通の人間で王族だぞ。別に聖人でもなければいい人でもない。狡くも卑怯にもなれるし、敵だと判断すれば容赦せず追い詰められるし、命だって刈れる。それが別段苦ではない。その程度には真っ当な王族だ。そう簡単には潰れないし、潰されない。……だからお前も、少しは人を頼れ」
「……殿下は本当に真面目ですねぇ」
「リアンだ。お前いい加減、友達を役職で呼ぶのやめろ」
「リアンは本当にくそ真面目ですねぇ」
「リアン呼びすればいいってものでもなくてだな?」
この人を英雄には、させない。
彼と繋いでいた掌を握りこみ、胸に抱く。この気持ちを、淡く芽生えただけの愚かな恋を伝えることは決してしない。けれど、守ろう。この人を守り切ろう。十八を超えても、二十を超えても、五十を超えても。いつか百に辿り着けるよう。
この人が星などに振り回されず、己の選択で生を歩んでいけるよう。
この美しく高潔な魂を持つ人に、明日私はどんな笑顔を返せているのだろう。出来れば、彼が向けてくれたような、日だまりのような顔であればいいのだけれど。
私は、既に一線を越えた魔女だ。何だって出来る。だから、守れる。守ってみせる。あなたを死の呪いから守り切れるなら、あの日生き残ってしまった絶望すらも昇華されるだろう。
『なあ、私の魔女』
だって私は、今だけは、あなたの魔女なのだから。
だから、殺してあげる。あなたを害するもの全て、あなたの光ある道を阻むもの全て、私が殺してあげる。大丈夫。私そういうの、結構得意。
好きなものはほんの少しだけ。魔女も人間も関係なくて。ただただ、私の好きな人。それだけの括りだったのに、その少しが叶わないこの世界に抗うのなら、私が懸けるものは最初から決まっていた。




