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12話







「では、行ってくる……何かあれば骨は拾ってくれ……」

「骨は縁続きの方に拾って頂いた方が何かと便利ですので、殿下の叔父さんに頼んだ方が宜しいかと思いますよー」

「意味ないだろ、それ!」


 まるで死地に向かうと言わんばかりのリアンは、それでもしっかりと私を部屋まで送り届けてくれた。魔女なのだから令嬢のように送り届けてくれなくても全く問題ないのだが、彼は平等な人間だ。



 真面目だなぁと苦笑しつつ杖を向け、魔法で錠をかける。魔法でかけたのだから普通の錠とは違うのに、かちりと音を立てて何かが閉まった。魔法の錠であっても根底が見知った鍵だからだろう。物質的な物は何もないのに音を立てて閉まった扉を確認し、部屋の中央に移動する。

 くるくると手慰みに杖を回しながら、精神を整えていく。その間、なんとはなしに部屋の中を眺める。部屋の中には元々設えていた物以外はほとんど荷が増えていない。

 それも当然と言えば当然だ。何せここに私が持ち込んだ物などトランク一個だ。着替えは魔法で賄える。書庫から借りた本は積まれているが、精々そのくらいだ。

 長居する気はなかったのだ。魔女は定住を求めない。時の流れが違う人間の国に定住しても碌なことがないからだ。最初は受け入れてくれた奇特な住人達も、何かがあれば魔女へ疑惑の目を向ける。運良く何事もなく過ごせたとしても、人はいずれ入れ替わるのだ。次の代が魔女と共に生きられる人物とは限らない。


 魔女は身軽な生き物だ。魔女は魔女であることに執着するのみで、他の物はどれだけ苦労して手に入れようが呆気なく捨て置きいなくなる。そして魔女には工房がある。全ての魔女は己のただ一つの工房を帽子の中に持つのだ。だからこそ身軽なのか、身軽だから工房を持つのか。


 くるりくるりと杖を回し、ふっと息を吐く。

 杖の先をぴたりと床につけ、かつんと鳴らす。左の踵を二回、右の踵を二回、踵同士を合わせて二回。計六回靴を慣らし、大きなつばの端を握る。

 ふわりと草の匂いが香った。この場でするはずのない森の匂いはどんどんと濃くなっていく。それと共に、私の身体は帽子の中に消えていく。

 身体がほろりと崩れるような不安定さでありながら、母の腕に抱かれているような温もりに包まれる。端から見れば私の身体は帽子に飲みこまれているように見えるだろう。足まで消えてなお残っていた私の手はつばを掴んだままで、今度はつばの端から帽子の中に消えていく。

 くるりと最後の黒が裏返ったとき、部屋の中には帽子も魔女も全て無くなっていた。







 目を開ければ、こぢんまりとした家の中にいた。木で出来た素朴な家だ。玄関を開ければすぐに台所と居間がある、小さな家。

 家族が食事を取る机は綺麗なものだが、四つある椅子の形はバラバラだ。元は揃っていたが、壊れた物は父が修理をしたり新たに作ったからだ。大きく賑やかな絨毯の上には、かつて玩具が転がっていて、母からはいつも片付けなさいと言われていた。

 家族共用の本棚、雑多な物を詰めた棚、窓の傍には一輪挿しが控えめに置かれているだけで、後は野菜の葉が水につけて並べられていた物だ。一つだけ何も植わっていない小さな鉢植えがある。

 小さな廊下の右手が両親の寝室、左手が物置、突き当たりが子ども部屋で、外に風呂とトイレがある。そんな家。どこにでもある、元はそんな家だった場所。


 それが、私の工房だった。




 今では壁一面に付け足した壁に大量の薬瓶が並び、かつては家族の食事が並んでいた場所には本と実験器具が積み重なっている。台所にはどろどろとした作りたての薬がまだ温かい状態で鍋に入っている。それでもすえた匂いはしない。

 ここは実際の家ではないからだ。ここで時は進まない。魔女の工房は、人が生きる世界とは別の枠組みの中に存在する。

 魔女は、己の原初の世界を工房とする。生まれ育った家か、そうでなければ引き取られた師の工房が原初となる場合もあった。どこを己の始まりとするかなど本人の勝手だ。私は、生家が工房となった。


 魔女の工房には、たとえ魔女同士であろうと当人の誘いがなければ訪ねることは出来ない。しかし全て同じ枠組みの中にある。いま私がいる場所以外にも、数え切れないほどの魔女の工房がこの枠組みの中にはあるだろう。けれど、相手が許可を出さなければ一つたりとも見つけることは不可能だ。

 工房は、魔女が持つ最後の楽園だ。この世でただ一つ、その魔女のためだけの居場所。もう世界のどこにもない、最期の楽園。



 帽子をかぶり直しながら家の中を見回して、ふっと息を吐く。帽子の中に入ったのに帽子をかぶっているのは何故だろうと思わないでもないけれど、こんなものだと思っていると大抵どうでもよくなる。


 踵を鳴らし、家を出る。外には見慣れたのどかな光景があった。かつては野菜が植えられていた庭には薬草が並んでいる。父が作ったブランコはそのまま、風もないのに揺れていた。

 ここは不思議な場所だ。雨は降らず風も吹かない。朝も来なければ夜も来ない。時の流れから断絶された場所だからだ。

 けれど作物は実る。種は芽吹き、枯れることはない。ないものは、時の流れと天気、そして生き物の気配だ。獣は勿論虫もいない。時の流れから断絶されたこの空間には、魔女以外の生命は存在しない。ここは命からも断絶された場所だ。



 庭の外はぐるりと森に囲まれている。鬱蒼とした森だ。まるで未開の地に足を踏み込んだかのようだ。人里のある浅い森ではなく、深い深い森がこういう植物を生やしている。蔦や蔓が垂れ下がり、足の踏み場もない程草が生えている。木には苔がびっしり生え、見るからにジメジメしていた。雨も降らずずっと晴れている庭を囲むには、あまりに暗鬱とした森だ。

 帽子をかぶり直し、杖を地面に三度打ち付ける。


「我らが魔女の祖、我らが魔女の原初。番人を統べる原初の魔女へ目通り願いたい。番人の地へ踏み込み叶わぬならばおとないを待つ。我が名はキトリ。カナンの魔女キトリである」


 要件を言い終わるか否かで、森が割れた。森の奥からざぁっと湿った風が駆け抜けてくると同時に、木や草が風を除け、黒い煉瓦道が現れる。湿った森の中を通っているとは思えないほど乾いた煉瓦は綺麗に敷き詰められ、所々には光る宝石が見えていた。

 躊躇わず足を踏み出す。

 かつんと鳴った踵の音が合図になったかのように、私が足を踏み出した傍から後ろの煉瓦道が消えていくのが分かる。歩いた傍から森は閉じていく。だが、そんなことは気にせず黙々と歩を進めた。二十歩も歩けば、もう私の家は見えなくなっていた。






 静まりかえった森の中を黙々と歩く。これだけ鬱蒼とした森なのに、響く音は私の靴音だけだ。黒い煉瓦道だけを器用に避け、煉瓦がある場所はたとえ空中であろうと枝すらかかっていない。煉瓦道の向こうに覗いているのは、既に絶滅した幻の薬草だ。そんなものが何十種類もびっしり生えている。

 ぽっかり空いた空は、無だった。

 真っ暗だ。夜なのではない。何もないが故の黒だ。星もなければ月もない。生き物がいない。風も吹かない。全てが止まった原初の森。この世界に存在するものは全てが原初だ。

 全ての魔女の原初で構成されたそれぞれの工房。その先にいるのは、原初の魔女だ。



 延々と続いていた道が、突如開けた。ここまで煉瓦道の幅できっちり割れていた森が大きく場所を譲っている。巨大な円上に開けた地には、光が十三画を描いていた。

 花びらのようにも星のようにも見える図形の一画ずつに、長い黒髪を持った魔女が座っている。髪の長さは果てが見えない。その髪のどれもが森に混ざっていた。森に溶け込み、絡み合い、魔女達はそこにいる。

 闇に羽ばたけるほど大きなつばの帽子。深く沈む黒の髪。色とりどりの瞳。大きな石の浮いた長い杖。黒の意匠。その全てが魔女の物。

 彼女達は原初の魔女だ。全ての魔女を統括する者。番人を統べる者。魔女の存続のみに尽力する物。

 その数は十三人。しかし、この場で生き物の気配を持っているのは私だけだった。


 ここの空気は相変わらず異質だ。淀んでいるのに澄んでいる。すえた病人の臭い、死臭、腐葉土の臭い、野の花の匂い、青い若葉の匂い、灰と水と、雨と炎の匂いがする。


「久しく、原初の魔女。目通り願い光栄でございます」


 原初の魔女は誰も口を開かない。目線を向けることもない。こちらから働きかけない限り、何百年も無為に時間は過ぎるだろう。


「魔女の掟に基づき、原初の魔女へ物問いを。我が友リアンへ死の呪いをかけた紫紺の魔女を探索中。紫紺の魔女の情報開示及び、紫紺の呪いは魔女の掟を介しているのかを問う」

「原初の魔女よりカナンの魔女へ返答を。紫紺の呪いは魔女の掟の範囲外」

「カナンの魔女より原初の魔女へ申請を。番人の出動を要請する」

「原初の魔女よりカナンの魔女へ返答を。番人の出動を許可する」


 ざぁっと森が鳴いた。原初の森を風が走り、影が溶け出て行く。それらは細長い人の形をしていた。番人は、風に乗って通り過ぎていく際は尾を引くように影を闇に溶かしていく。


「カナンの魔女より原初の魔女へ物問いを。我が友リアンの命は繋がれるか」

「原初の魔女よりカナンの魔女へ返答を。問いに意味なしと判断。番人は放たれた。よって紫紺の呪いはいずれ解ける」

「いずれでは遅い! カナンの魔女より原初の魔女へ抗議する! 六日以内でけりをつけられないのならば、紫紺の魔女の情報開示を要求する!」


 魔女が人を呪うのに、原初の魔女の許可は必要ない。魔女の掟に触れることもない。

 だが、生命の呪いは話が別だ。理由がなければ魔女は人を殺してはならない。呪うにはそれ相応の理由が必要で、更に原初の魔女の許可が必要だ。それも一人の許可ではなく、この場にいる十三人中半数をこえる承認が必要となる。

 いま、番人は放たれた。よって紫紺の魔女は原初の魔女の承認を受けずリアンを呪ったことが証明された。魔女の掟を破ったのならば、罪の重さに応じた罰を受けねばならない。番人が放たれたのならば、どこに隠れていようと紫紺の魔女はいずれ必ず捕らえられるだろう。

 だが、それだけでは足りない。意味がないのだ。


「原初の魔女よりカナンの魔女へ。要請は受け入れられない」

「我が友リアンの死に間に合わなければ、要請した意味が無い!」

「原初の魔女よりカナンの魔女へ。汝は火難。禍難の魔女。いかなる理由があろうと、二つ名の魔女に、他の魔女殺害許可は無し」


 灼熱が頬を撫でた。業火が立ち上る。竜のように無の空へと立ち上った火柱を纏い、歯噛みする。


「魔女の掟破りに誰も気づかず、罰さず、紫紺の呪いを放置した! これは魔女の不始末だ! 魔女にはリアンの命を助ける義務が発生したと進言する!」

「原初の魔女より禍難の魔女へ。紫紺の呪いは星の管轄であると過去の申請時に判断」

「知って、いたのか」


 炎が肌をなぶり、髪を燃やす。自分の身体が随分小さくなっていることには気づいている。だが止められない。


「星の管轄だからと……過去に同じ内容で申請されたにもかかわらず放置したのか!」


 魔女の掟に反していても、原初の魔女が番人を動かさないことがある。特例中の特例であるその理由は、星の管轄内の出来事であるから。

 星の管轄。それを人は、運命と呼ぶ。

 原初の魔女は運命に身を任せる。忌々しいほどに。


「お前達が動かぬならば私が手を下す! 紫紺の魔女の居所を言え!」


 ここは原初の森。感情を保てなければ、己の原初へ立ち返る。

 髪が引きちぎれ、頬は腫れ上がり、服はずたずただ。炎を撒き散らし、感情を叫び散らす、目だけがぎらぎら光る小さな子ども。

 これが、禍難の魔女の原初だ。


「禍難の魔女より原初の魔女へ要求する! 紫紺の魔女の情報を吐け!」

「原初の魔女より禍難の魔女へ返答する。要請は認められない。如何なる理由があろうと、汝が魔女殺害を為せば魔女の掟重大違反と判定し、汝の魂を徴収する」

「構うものかっ! 二つ名の魔女が命など惜しむわけがない! 大体、星の管轄だからとこのような勝手を許してきたから二つ名の魔女が生まれたのだろう! 我が名は禍難の魔女! この身は、魔女の罪を知っていながら星の管轄を理由に見過ごしたお前達と、見過ごされるまま災厄と化した魔女に恐怖を与えられた人間共の短慮によって生み出された魔女だ! 魔女の未来にしか注力しないお前達の傲慢が二つ名の魔女を作り出したものと知れ! 原初の魔女!」


 腕や足だけに止まらず、身体中の骨が折れている。癒える前に負った打撃が重なり、肌は尋常ではない色を纏う。血泡を吐く。眼球の一つは潰れ、聴覚にも異常を来している。

 ああ、私の原初が帰ってきた。


「原初の魔女より禍難の魔女へ。要請を一部却下、一部承認。禍難の魔女は独り立ちの試練制約を一部解除。師、大魔女ディアナスへの助言要請を許可」

「助力ではなく助言だと!? お前達は人間の命を蔑ろにしすぎる! 私の生も、家族の命も、そうやって見捨てたお前達が、魔女の掟を遵守させようなどと笑わせる!」


 私の原初を司る主たるもの。私を禍難の魔女へとたらしめた主たるもの。

 全てを滅ぼしても止まれないほどの怒りと憎しみは、どれほどの時間が経とうと未だ激しく血を流し、肉を焼く臭いを漂わせた。


「私の罪は私の責だ! だが、お前達に罪がないとは言わせないぞ! 知っていただろう! 人間共の罪を! 私の未来を! 知っていてお前達は放置した! 星の流れを妨げぬよう、お前達は私を禍難の魔女とした! 今度はリアンをどうするつもりだ! 星への忠誠を形にするために我らを犠牲にし続けたお前達を、私は生涯かけて恨む! もしもリアンをお前達の忠誠の形にするというのなら、私が原初を覆すぞ、原初の魔女っ!」


 喉奥から競り上がる血の塊と怨嗟を吐き出すと同時に、ぶつりと世界が途切れた。




 原初の世界から叩き出されたと気づいたのは、目の前に真っ青になったリアンがいたからだ。

 気がつけば、私に与えられた城の部屋に戻っていた。叩き出されたので、まだ身体が原初のままだ。この状態で戻されたら部屋を汚すので、せめて一段落してからにしてほしかった。

 何より、この人が心配するではないか。


「キ、トリ? お前、キトリか!? 何がっ、お前、何があった!? しっかりしろ、キトリ!」


 ぼろ屑のようになった子どもの身体でも、私と分かってくれたようだ。それが嬉しいだなんて馬鹿なことを考えるくらいには、どうやら私はしっかり毒されているらしい。

 鮮やかな月明かりの夜に似た金の髪。澄んだ湖を思わせる水色の瞳。どちらも魔女にとって、そして私にとって優しい思い出が付随する色だ。だからこそ、そんな人にこんな様を見られたくはなかった。


「くそ……だから番人共は嫌いなんだ……」


 原初の魔女とは言えない。原初の魔女は、魔女以外には禁忌の名だ。魔女であっても、一人前にならないと知らされることはなく、一人前となってもきっかけがなければ知ることはないだろう。

 だから魔女同士の会話でなければ、彼女達のことは番人と呼称する。実際は、番人とは彼女達の使い魔であるが、魔女以外にそんなことを教えるわけにはいかない。彼を魔女のしがらみに巻き込むわけにはいかないのだ。


 胸の奥に蟠っていた血の塊を吐き出し、小さな手で口元を拭う。よく見ると、指は折れ、爪も数枚剥がれている。なんて情けない、惨めな手だろう。


「番人!? お前どこに行っていたんだ!? いや、いい、今はそれどころじゃない! すぐに医者を呼んでくる! だからしっかりしろ!」

「へ、いきです、殿下」

「平気な訳あるかっ、大馬鹿者!」


 壊れている聴覚にもなかなかの衝撃をもたらす大音量だった。リアンはもう少し怪我人への配慮を覚えたほうがいいと思うのだ。まあ私は実質的には怪我人ではないので問題ないのだが。

 それにしても、幼児期の甲高さは失われているとはいえ、顕著な声変わりが存在しない女性の声だというのにかなり迫力のある声だった。人の上に立つのに向いている声をしている。女性の声でこれなら、男性の声だともっとはっきりとした声になるだろう。


 華奢な肩なのに常に怒らせて、胸を張り、仁王立ちで胸を張る少女が生まれ持った姿はどんなものだったのだろうと、少しだけ気になる。

 けれどきっと、見ないほうがいい。

 私と縁を繋いだのは、呪いを受けたリアンだ。呪いから解放され本来の姿を取り戻したシルフォンの王子は、真っ新なままいるべきである。魔女となど、関わらないほうがいい。



 それはともかく、医者は本当に必要ない。部屋から飛び出していこうとするリアンの袖を掴む。あ、ぎりぎりくっついていた爪が取れた。うーん、力が入らない。これではリアンを止められないと眉根を下げて視線を上げれば、さっき以上に真っ青になったリアンがハンカチを裂いていた。

 どうやら私が好きになった人は、動揺するとハンカチを裂く癖があるらしい。よく分からない癖だ。まあ、動揺すると人を殺す癖があるより断然マシなのでよしとしよう。


「お前、馬鹿、馬鹿野郎! じっとしていろ! 指までもげるぞ!」


 酷い顔色で私を罵ったリアンは、割いたハンカチで私の指をぐるぐる巻きにした。どうやら動揺したらハンカチを裂く癖があるわけではなく、手当てをしてくれていたらしい。人から手当を受けるという現象から遠ざかって久しく、その可能性に全く思い至らなかった。

 困惑と混乱で思考に支障を来すほどむず痒いが、それに負けている場合ではないと何とか持ち直す。


「へい、き、です。これ、は、怪我では、ありません、から……」

「何……?」


 ひゅぅと妙な音が漏れる呼吸をなんとか落ち着ける。その間、不安そうに……いや、違う、心配そうに私の背を擦っている彼の体温が少し遠いなとぼんやり考え、その理由にすぐ思い至った。

 どうやら彼の上着をかけられているらしい。幼い子どもの姿になっている今の私には、女性になってもいつもの服を着ている彼の上着はとても大きくて重いのに、それが心地よくてくすぐったかった。


「これ、は、過去が蘇った、だけ、です」


 何度か深く呼吸すれば、聴覚が戻る。こればかりは魔法に頼っても意味が無いので、ひたすら自分を取り戻すしかない。

 目の前で酷く狼狽えている人を見れば、落ち着くなんて簡単だ。それも相手が好ましい人で、私のこの姿を見て痛ましい顔をしていれば尚のこと。早く直りたい。そう思えば、いつもの何倍も早く身体が戻っていく。


 折れていた腕が真っ直ぐになり、長さも変わる。子ども特有の丸みが失せ、しなやかに伸びる肌からは傷や打撃痕も消えていく。引きちぎれ、燃えて縮れた髪は、流れ落ちる光と共に戻り、視界が両目分へと増え、呼吸に血が混ざらなくなる。服も工房に向かう前の状態に戻っていた。

 やっと一息つき、俯いていた顔を上げる。足を組み直し、背中側に手を置いて仰け反る。


「あー、しんどい! だから番人は嫌なんですよ! あ、殿下、びっくりさせてすみません。これは別にいま負った傷でも何でもなくてですね。番人のいる場所は、気をつけてないと昔の傷が再現されちゃうんですよ。ちょっとうっかりしてやらかしただけです。だから医者も要りませんよ。ハンカチすみません。直しますね」


 指に巻いて貰ったハンカチを解き、残りの破片をかき集める。いつの間にか首飾りに戻ってしまっている杖を握ろうとした手を、リアンに取られた。

 自分と同じ程細く柔らかい指に握られ、まじまじと観察される。両手を取られてしまうと私に出来ることが極端に減ってしまう。


「治っている、のか?」

「いま負った傷でもありませんし。あの、手離して頂かないと杖がですね、握れなくてですね」


 そう申告したのに、リアンはこれっぽっちも聞いてくれない。指が全部無事なのを確認した後、適当に指を絡めて握り、上に引っ張った。引っ張られた腕は当然上に上がる。服の裾が捲れ、腕が丸出しになった。

 何度か上下させられているのは何故かと首を傾げ、ぐるりと回されてどうやら骨や関節の具合を確かめられているようだと気づく。


「ここも無事だな。血も、消えているのか?」

「はい、全部元に戻っているので平気です、ので、あの、手」


 杖がですね、これさっきも言った気がするが、握れなくてですね。杖が握れずとも出来る魔法はあるけれど、何はともあれ杖がないと落ち着かない。


「本当に大丈夫なのか?」

「は、い。ですから、ですね、あの、手」


 手は解放された。私は確かに手の解放を求め、その願いは果たされた。他に望むものなど無いはずだ。だが、私は解放された手を有効活用できない。

 何故なら、私の手を解放したリアンの手が、私の顔を確保しているからだ。


「目は、見えているか? 痛みはないのか?」

「平気、です、ので、あの、手」


 どけてください。膝を立て、私の顔を挟み込みまじまじと覗き込んでくるリアンが近い、近くて無理。何だこれ、無理。無理。


「おい」


 怪訝な声にはっと気がつけば、無意識にリアンの目を覆っていた。意識の外で私の手はいい仕事をした。褒めてあげたい。せっかく手がいい仕事をしてくれたので、この機会を逃さず力を篭めて押し戻す。だが、リアンの顔が逆らった。何故か押し戻してくる。しかも手を外そうともしてきた。


「何をする」

「え、それこっちの台詞ですね」

「見えないだろうが」

「見せないんですが」

「何故だ」


 え、寧ろ何故見ようとするのだ。怪我はない。あったとしても直っている。それなのにどうして見る必要があるのだ。

 そもそも魔女の怪我など放っておくべきである。痛みにいらついてどんな八つ当たりを喰らうか分かったものではない。

 それを説明すれば、リアンは変な顔をした。目を塞いでいるのに口だけで大変妙な顔を作り上げている。


「そもそも、殿下はどうしてこの部屋に? 私、鍵をかけていたはずなんですが」


 工房に行く時は部屋にいないが、帰ってきたときの状態が不透明だったのでちゃんと魔法で鍵をかけた。現にこんな状態で戻ってきてしまったのだから私の判断は間違えていない。けれど実際にリアンはここにいる。おかげで無様な姿を見られてしまった。無様というか悲惨というか、まあ控えめに表現しても死にかけのぼろ屑である。

 好きな人には一番綺麗な姿を見てほしいだなんて可愛らしい思考は持っていない。魔女なので。だが、何が悲しくて一番悲惨な姿を見られなくてはならないのだ……いや待てよ? 一番悲惨か?

 師匠の借金返済のために三日徹夜して薬作りした直後、師匠に捨てられた男が殴り込んできて、それを追い返した直後に師匠に男を取られた女が怒鳴り込んできて、それを追い返した直後に師匠に住処を奪われた魔物が命取りに来て、それを叩き返した直後に用意していた借金とは別口の借金取りが来て、それに対応してようやくベッドに倒れ込んだら師匠のいたずらが発動して壁棚が全部落ち、薬品や薬草が降りかかってきたが反応する気力もなく気絶するように眠ったときのほうが悲惨ではなかったか?

 どっちがより悲惨なのかちょっと判断がつかないが、どっちも悲惨で問題ない。


「いや、開いていたぞ?」


 大問題である。









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