10話
「あんたはそこにいな。ここから先は魔女の領分だ」
連れ立って歩き始めたとき、ベリンダはそう言ってリアンを制した。リアンはぐっと呻き、私に視線を向ける。私はくるりと回した杖を振り、背を向けた。
リアンを置いて、少し距離を取る。ベリンダは自分の杖をくるりと回し、音が外に漏れないよう結界を張った。
「ごめんなさいね、ややこしい呪いになっちゃったみたい」
ぺろりと舌を出す様子に苦笑するしかない。
「ベリンダが悪いんじゃないよ。殿下の運が悪かっただけ」
「それもそうか」
けらけら笑うベリンダに、私も肩を竦める。なんて運が悪いんだ、リアン。叔父の代わりに呪いを受ける前からややこしい呪いを持っていたなんて。
ベリンダからリアンへの敵意が失せたことを確認して、私は簡単に事情を説明した。元々、魔女が魔女を殺すことは滅多にない。何せ魔女は執念深く執拗で、飽き性なのだ。それらは正反対の存在なのだが、魔女は器用に同居させる生き物なのである。
魔女が本気で殺し合えば、何千年も殺し合うだろう。だが、来る日も来る日も呪い合えば、いずれぷつりと飽きる。その間周辺にもたらされる被害は尋常ではないので、巻き込まれた人間達は哀れだ。あまり酷くなるようであれば魔女の掟を掲げた番人が出てくる。そして、それで終いだ。
さっきの私とベリンダのヘドロ合戦も、お遊びのようなものだ。魔法を使った戯れは魔女同士でなければ中々出来ないので、こんな時しか出来ないお遊びでご挨拶だ。
リアンは盛大に引き攣っていたが、腰の剣を抜くことはなかったので、私をそれなりに信頼してくれていたらしい。そういえば、初めて会ったときも剣を抜くことはなかったなぁと思い出す。魔女に呪われた後にしては誠実な対応だったといえよう。全く、面白い人間もいたものである。
「キトリ、依頼を受けてるとはいえ、あれからは手を引いたほうがいいかもしれないわよ」
「やっぱり?」
「ええ。あれ、相当厄介な呪いよ。私の呪いに絡みついたことでようやく可視化したみたいだけど」
ベリンダはそこで一度言葉を切った。一度切られ、続いた言葉は、あまり当たってほしくない予想が当たってしまったことを示している。
「あれは死の呪いだね。それも、あまり触れないほうがいい類いの」
そっと息を吐く。視線をベリンダから外し、リアンへと向ける。リアンはヘドロの中にぽつんと立っていた。私が弾いた場所しかヘドロが片付いていないから、距離を取ってみたらヘドロの中に立っているみたいだ。
少しくらい動いて、ヘドロに囲まれた状態から抜け出せばいいのに、律儀にその場で待っている。所在なげにしているわけではない。胸を張り、まっすぐに視線を向け、凛と立つ姿はまるで女騎士のようだ。
「そうじゃないかと思ってた」
「気づいていたの?」
「ベリンダの呪いを一カ所引っ張り出したとき絡みついていた紫の糸が、汚らしかったから」
「それは完全に死の呪いね。分かりやすいったらないわ」
ベリンダはふんっと鼻に皺を寄せた。
呪いの形がどう見えるかは魔女によって違うが、呪いの種類については皆共通の見え方をしている。小さな呪いなら小さく、手間がかかっている呪いなら細やかな細工が、お茶目な呪いならびっくりするようなことが、楽しい呪いなら楽しいことが見えるし起こる。
そして、負の呪いであれば汚らわしい物が付きまとう。死の呪いなどその最たる物だ。魂を穢し、屠る。それが汚らわしい以外の何といえるだろう。
魔女は気まぐれで残忍で狡猾だ。だからこそ、己の魂を穢すのならばそれに相応しい行為を厳選する。どうでもいい人間を殺すために、己の魂を穢す馬鹿はいない。ベリンダが仕掛けたちょっとしたいたずら程度の呪いならば、魔女の箔がつくというものだ。だが、負の、それも死の呪いとなると話は変わる。他者の魂を穢せば、自身の魂も汚れる。当たり前の話しだ。
だが、紫の魔女はそれをしでかした。リアンに、それをしたのだ。
「詳細は分かりますか」
呪いを重ねがけたベリンダだからこそ見えるものがある。己の呪いを除外した状態で見ることが出来るのだ。私には無理だった。互いの呪いが絡み合い、元々かかっていた呪いの全容は掴めない。
「十八になれば、あの坊や死ぬよ」
息を吸い、吐く。
自分の髪がゆらりと不自然になびくのが分かったが止められない。魔力が垂れ流しになっている。
怒りは、持たないほうがいい。私は自制の効かない未熟な魔女だから。そうと分かっているのに、この感情を随分久しぶりに抱いた。
リアンはまだまっすぐに立っている。一人仲間はずれにされているのだし、楽な体勢で待っていればいいのに、視線も逸らさず、怒りも含めず、まっすぐに。
綺麗な人間だと思う。姿勢も、生き方も、魂が綺麗な人間だ。ああいう人間ばかりなら世界はもっと楽しいのにと、短い付き合いながら思うほどには、好ましいと思ってしまった。
「そうですか。ありがとうございます。時間はあまりないということですね。急ぎます」
正確な日数は分からないが、誕生日が近いとシタレーヘナトは言っていた。十八までは目前だ。早くけりをつけなければ間に合わない。
頭を下げる代わりに軽く杖をぶつけ合う。かんと石のような澄んだ音が響く。魔女同士の挨拶だ。
ベリンダが張った結界からするりと抜けだし、リアンに歩み寄る。話が終わったと判断したのだろう。リアンもヘドロを器用に避けながら大股で歩み寄ってきた。私よりも距離を稼いであっという間に前に来たリアンは、開口一番言った。
「お前、大丈夫か?」
「何がですか?」
「いや……何だが、具合が悪そうに見える。少し休んでいくか? 宿を取ってもいいが。飛んで疲れたんじゃないのか?」
具合が悪そうな顔をした覚えはないし、空を飛んだくらいで疲れるようでは魔女はやっていけないし、そもそもそれは既に魔女ではないだろう。
リアンは真剣に心配しているようだ。心配されなければならないのはそっちだと笑ってしまう。魔女の具合を心配するとは、本当に酔狂な人間だ。生真面目で頑固なのに酔狂とはこれ如何に。
「何でもないさ」
そう、何でもない。何にもない。解決してしまえば、何にもないと同じ事だ。
「キトリ」
名を呼ばれ、振り向く。ベリンダは、杖を脇に挟み、腕を組んでいた。
「やめときな。あんたの手には余るよ」
「そうかい」
「その手の呪いをかける奴は、番人に目をつけられているだろうさ。それなのに呪いが生きてるって事は、魔女も健在ってことだ。つまりは、星の管轄だ」
「そうだね」
魔女に魔女の掟。掟破りの魔女を始末できていない。それは遵守させるべく存在する番人の目をかいくぐれるほどの魔女か。それとも、番人が手を出さない星の管轄かだ。
そうであった場合、私は手を出すことを許されないだろう。だがそうも言っていられない。
「仕方が無いさ。私は依頼を受けたんでね」
「せめて師の手を借りるべきだ」
「そうもいかないさ」
「何故だい」
私は、ここで初めてちょっとだけ表情を崩した。
「何せ、師と別れた直後なんだ」
そう答えれば、リアンとベリンダはお互い同じほどの驚愕を浮かべた。リアンは驚きと一緒に少々の痛ましさを浮かべているから、どうやら何か勘違いしているらしい。
私は別に師と仲違いしたわけでも死別したわけでもない。巣立っただけだ。
ベリンダは私が言いたいことを的確に受け取った。目を見開いた後、派手に笑い始める。
「そ、そりゃあとんだことだね! なんてこったい! い、いや、笑い事じゃないけども、あーっはっはっはっはっはっ! 道理で図鑑にいな、いない! あっはっはっはっはっはっ!」
「全くだよ。これが解決しなきゃ、私はお先真っ暗だってのに、ややこしくしてくれたもんだ」
むすっと答えれば、ベリンダは更に笑った。どうも、ひよっこもひよっこ、巣立ったばかりの雛だとは思いもしなかったらしい。
「そりゃあ無理だ。やめときな。手に余るどころじゃない。師に文句を言って代償も肩代わりしてもらいな。こいつは師が悪い。依頼を見誤るにも程があるってもんだ。この件に関しては助けてもらったって誰も文句は言いはしないよ」
だけどベリンダ。悪いんだけどあまり甘く見てもらっても困るのだ。なぜなら私は、大魔女の弟子なのだ。
「ベリンダ、私の師は大魔女ディアナスなんだよ」
目尻に滲んだ涙を拭っていたベリンダは、笑いを止めて私を見た。さっき以上に目を丸くしている。
「何だって……? じゃあまさか、あんたがカナンの」
「ベリンダ」
私は静かな声でベリンダの言葉を遮り、ゆっくり首を振った。
「ディアナスだよ! あのディアナス! ディアナスが弟子を助けたり、手を貸したり、面倒見たり、自分の始末をつけるはずがないじゃないか! 私の飯を奪い、金を奪い、時間を奪い、薬を奪い、借金取りを押しつけ、騙した男を押しつけ、からかった女を押しつけ、薬の調合を押しつけ、掃除洗濯食事を押しつけ、ついでに服の趣味を押しつけるようなディアナスが、私を助ける!? おかげで腹を空かせ、睡眠時間を削られ、胃薬奪われ、金策に追われ、男に襲われ、女にひっぱたかれ、仕事に追われ、家事に追われ、真冬に胸出し腕出し腿出し腹出しだ! 男に殴られ女に引っかかれ、寝不足でヘロヘロになっている私を見て腹を抱えて笑うそんなディアナスが、何度でも言うが、あのディアナスが、私を、助ける!? あり得ないっ!」
膝をつき、地面に両拳を叩きつけた魂の叫びが響き渡る。師の血はきっと青いに違いない。
血涙を流しながら過去の苦行を叫んだ私の傍に、リアンが静かにしゃがみ込んだ。草が潰れる音でさえさくりとたおやかだ。柔らかな女の手がそっと私の背に触れる。血涙流しながら視線を上げれば、可哀想に……、そんな瞳が私を見ていた。私達は何故、この感情を互いの間でやりとりせねばならぬのだ。
「……あたしの師でさえ、そこまでじゃあなかったよ。あんた、可哀想だねぇ……どうしようもなくなったらあたしの呪いだけは無理やりにでも解いてやるから、依頼反故にはならないようにしてやるよ……」
ベリンダから送られた同情たっぷりの瞳も、リアンからの同情と同じくらい私の心を抉った。
同胞と別れ、道に沿って歩く。特に意味はない。この国にも町にも、用事はなかった。ベリンダに会ってさえしまえば、既に目的は果たされたのだ。
空を見上げればまだ赤くはなっていない。後一時間もすれば日が傾き始めるだろう微妙な刻限だ。
「どうします、殿下。私、戻ったら少し忙しくしますから、この国に用事があるのなら先に言っておいてくださいね」
「忙しく、か」
口角を片方だけ上げる笑い方を、初めて見た。器用だなと思うと同時に、少しの違和感を覚える。こんな笑い方をする人ではないはずだ。
瞬きの間に歪な笑みは消えていた。見間違いだっただろうか。いや……そんな訳がない。世界で一番似合わない笑い方を、この人に当てはめて見間違えるなんてするはずがなかった。
「……殿下」
「せっかくだ。食事していくか。オリナトはシルフォンと同じく、山と海と川の幸に恵まれていて料理がうまいぞ」
「殿下」
問うたわけでも急かしたわけでもない。確信を持って呼びかけた声を無視できるような人だったら、私はきっとここまで絆されなかった。
リアンは言葉を止めて私を見た。そして、困ったように笑う。
「悪いな。完璧とまでいかないが、私は読唇術の心得があるんだ」
「あー……」
成程。迂闊だった。
呻きながら顔を覆う。仰け反ったせいで落ちかけた帽子をリアンが支えてくれた。
「とりあえず、何か食おう」
どうしたものか。言葉を切らせた私の背をぽんっと叩く。その手は前につんのめる勢いは全くなく、風のような軽さで、されどしっかりと質量を持った人の温度を私の背に残していく。
「お前、意外と人を慮れるよな」
そう言って少し眉を下げて笑ったリアンに、私は酷い絶望を味わった。
どうせなら飲食店が建ち並ぶ区域で選ぼうと、どうやら何度か来たことがあるらしいリアンに連れられて場所を移動する。他国は仕事でしか来たことがないと言っていたが、流石に隣国は数多く訪れているのだろう。
辿り着いた場所は、様々な食事が提供されている店が軒を連ね、更に屋台も転々としている広場だった。食事の時間からずれているとはいえ、それなりに混雑しているところを見ると期待が持てそうだ。
「食べたい物はあるか?」
「そうですねぇ。屋台も多いので種類多くちょこちょこつまみたいです」
「じゃあ一周回るか。椅子も座れないわけじゃなさそうだし慌てなくていいな」
最初に覗いた屋台では、濃いめの甘辛ダレで焼かれた串の肉団子が売られていた。買った。次の屋台では、ぴりりと辛いタレに絡められたイカが鉄板で焼かれていた。買った。次の屋台では、ごろごろと豪快に切られた野菜がとろとろになるまで煮られたクリームのスープが売られていた。買った。次の屋台では、一口の大きさになった果物がシロップの中で泳いでいた。買った。買った。買った。買った。買いすぎた。
あっという間にリアンの両手が一杯に埋まってしまった。ちなみに財布もリアンの物だ。別にたかったわけではない。本人が、自分が払うの一点張りだったのありがたくごちそうになっただけである。
「殿下、持ちましょうか?」
「いや……大丈夫だ…………たぶん」
「無理して落ちたほうが悲しいですよ。大体殿下、今は手の大きさも違うでしょうし。ほら、乗せてください」
帽子を持ち上げて頭を杖先で示せば、リアンは盛大に妙な顔をした。
「曲芸師の心得でもあるのか?」
「あるわけないじゃないですか。一旦しまっとくだけです」
ほら早く乗せてと帽子を揺らせば、怪訝さを隠しもしないリアンが、ぐらつく食べ物の山をしゃがんだ私の頭に乗せた。その上から帽子をかぶり直し、ぱっと脱ぐ。リアンの目が丸くなった。私は別に何もしていないけれど、してやったりな気持ちになる。
乗せた食料が空っぽになった頭を、リアンに鷲掴みにされるまでは。
「うぎゃ!」
「どこにやったんだ!? 食べたのか!? 頭で!? 一旦しまうって腹にしまったのか!? はっ、出すなよ!? 私は食べないぞ!?」
「帽子に決まってるじゃないですか! 私は魔女なんですから! 帽子は魔女の工房ですよ!? 物をしまうくらい誰にでも出来ます!」
とんでもない勘違いをされた。頭で食べるって何だ。まるっきり化け物である。大体、頭で食べたら目と鼻の奥を食べ物が通過することになるじゃないか。うっかりくしゃみをしようものなら大惨事は免れない。なんて恐ろしい。
「魔女は、凄いな……」
「いきなり魔女の頭を鷲掴みにする殿下も相当凄いですけどね……」
魔女と人間の異文化交流は驚愕を生む。互いに。人間は魔女の文化に驚き、魔女は魔女の文化に驚いた人間が起こした行動に驚かされるわけである。
「殿下、いい加減頭離してもらえますかね」
「そういえば、お前もいい加減殿下はやめろ。城下に出ている場合は特に」
「はあ、じゃあ王子」
「意味ないだろそれ、リアンでいい。それにしてもお前、頭小さいな」
「それは遠回しに馬鹿だと言われているんでしょうかね。殿下……リアンだって今は小さいんじゃないですか? 知らないですけど」
掴まれっぱなしでぐしゃぐしゃにされるのはまあいいが、帽子をかぶれないのは何だかそわそわしてしまう。
帽子は魔女の工房。魔女の財産が丸々収納されているのだ。採取した薬草も、調合した薬も、その調合器具でさえ、全てが魔女の帽子の中だ。
工房の中では外の介入を受けない。時の流れもない。魔女の魔女による、魔女の個人のためだけの世界。作りかけの薬は永遠に作りかけのまま、温かい物も冷たい物もその温度のまま保たれ続けるのだ。
私は昔の癖、という名の大人がしている行動を真似たいという憧れで、トランクを持ち歩いてしまうが、本当はトランクなんて必要ないのである。だからこそ、頭を覆うそれが無くなると、素っ裸で放り出されような不安感に襲われた。
「今は女性ですからね。それはともかく、帽子かぶりたいんで手どけてください。さもなくば私も頭を鷲掴みにしますよ」
「別に構わないが、楽しいか? それ」
「現在進行形で人の頭鷲掴みにしている人が言う台詞ではないですね、それ」
頭を離してくれたらそれでよかったのに、何が楽しいのか人の頭で遊び続けているリアンは、首を傾げながらも下げてくれた。人にやる以上自分も差し出すことを躊躇うつもりはないらしい。
仕方が無いので、杖と帽子を脇に挟んでリアンの頭を両手で挟む。柔らかくもさらりと軽い髪だ。漂う香りは草と石鹸が混ざり合った清潔感のあるものだ。彼らしいと、くすりと笑う。
「魔女は本当に髪が長いな。邪魔じゃないのか?」
足下に着くか着かないか、ぎりぎりを保っている髪を軽く持ち上げているリアンは子どものようだ。
「どうでしょう。逆に短くなったほうが調子が崩れるんです。魔力の行き渡り方が変わりますし。しかしリアン、髪、柔らかいですね」
「そうか? 自分では分からん。元に戻れば変わるかもしれんしな。お前のほうが柔らかいと思うぞ」
「私は硬いほうですね。びっくりするくらいふわふわの人もいますし。もうほんと、綿菓子も目じゃないくらいふわっふわです。その分絡みやすくて……師匠がそういう髪なんですが、私が梳いて編んで整えた頭で男を引っかけ、手酷く振り、私に後始末を押しつけるっ!」
「あー……その、何だ。お前の師匠とは一度面談をした方がいい気がするな。私が役に立てるかは分からんが…………かぶってろ」
突然帽子を奪われ、頭にかぶせられた。確かに帽子をかぶりたいと思っていたけれど、誰がこんな目深にかぶせろと言ったのだ。
ただでさえ大きなつばなのに、ぎゅうぎゅうと下に引っ張られたら帽子に頭を食べられたようになってしまう。何も、見えない。
つばを引っ張り、思っていたより深くはまっていた帽子を引っこ抜く。いくら帽子は魔女の工房とはいえ、こんな町中で用事も無く工房に引っ込んだりしない。
何なんだとかぶり直した帽子を押さえた視界に、見知らぬ足が三人分あることに瞬きした。
「お嬢ちゃんたち、暇ー?」
「可愛いねー」
「俺らと遊ばない?」
何と軽薄な響きか。この短い会話から読み取るにはあまりに莫大な量の軽薄さ。百人中百人が軽薄だと言うであろう言葉の響きと声音。
視線を上げていくと、見知らぬ若い男が三人いた。やけに胸元が開いているのと、ごつい装飾品をつけている以外は、特に目立つ特徴の無い三人組だ。強いて言うなら、一人は鼻が大きい。鷲鼻まではいっていない。何とも中途半端な鼻だ。鼻に文句をつけられても困るだろうし、人の身体的特徴をあげつらう趣味はないが、他に特徴がないのだから致し方ない。
「すまないが、お前達と遊ぶ余裕はない。他を当たってくれ」
「お、格好いいね。お嬢ちゃんもしかして女騎士? 剣持ってるもんな」
「魔女なんて珍しいね。そういや向こうの通りに魔女が住み着いたって聞いたかな」
「もしかしてお嬢ちゃんはそれ関連? いやぁ、この辺りで魔女なんて珍しいからさぁ」
軽薄注意報発令中。
女性になっているリアンと、元より女の私より三人組は背が高い。だというのに、いちいち顔を覗き込んでくる。その仕草に、少しいらつく。
私はつばの広い帽子があるからそうそう覗き込まれはしないけれど、男達は無遠慮にリアンの顔を嘗め回すように見ている。
王子だぞ。ふわっふわっのシルフォン国はいえ、今は女といえ、王子だぞ。それを、不躾な目で嘗め回していいと思っているのか。思っているんだろうな。まさかこんな場所に一国の王子様が女になって、魔女を一人連れただけで屋台巡っていると思わないだろうし。
あれ? これはリアンが悪いのでは?
そもそも、魔女が人間の枠組みを遵守しようなんてお笑いにも程がある。魔女にとって、相手が国王であろうが下働きの女であろうが、花屋であろうが食堂の親父であろうが、何の違いもない。
なのにいま、いらっとした。そして現在進行形でもいらついている。それは、おかしい。どうして魔女が人間の枠組みに配慮して、それを人間が破ったからといらつかなければならないのだ。
男達からちょっと妙な臭いがしているからだろうか。草の臭いが混ざっているから分かりづらいが、酒だ。何かを漬け込んだ酒を飲んでいたのだろう。呼吸に酒気が混じっている。
「メシ買ってたんなら食う時間くらいあるんだろ? 何かおごるからさ、一緒に食おうぜ」
「結構だ」
「君、可愛いね。この辺の子じゃないだろ」
「そうだな」
「今日は旅行? 女の子二人旅は危ないよ。まあ、こっちは魔女だけど」
そう言った男の手が、腰を抱こうと下りてくる。隣を見れば、中途半端な鼻を持つ男がリアンの肩を抱こうとした。
杖を持った手を揺らす。何がいいかな。蛙か蜥蜴か鼠か、羽虫でもいいな。ありんこでもいい。ぷちっとやられてしまえばいい。大丈夫、ぷちっとやられれば元の姿に戻る。ただし、死ぬ恐怖はしっかり味わうが。
どれにしようかなと考え、羽虫でぷちっといってもらうかと決めた瞬間、腰が抱かれた。反射的に杖を向けかけて、ぴたりと止める。腰は、思っていた方向とは反対に引かれていた。
視線を落とせば、白く細い指が腰に回っている。
余って一度折られた袖。細い手首。しなやかな指。身体の半分が酷く温かい。他者の温度だ。身体の半分だけ茹でられているような気持ちになる。他者から移る温度がこんなに心地いいなんて、思い出したくはなかったのに。
「彼女は私の友だ。手出し無用で頼む」
まずいと、思った。だって、熱いのだ。
他者の体温は心地いい。家族に抱かれた柔らかな記憶がそれを私に教えてくれた。だけど、他者の体温が温もりを超えた場合、それは。
「じゃあ、君が付き合ってくれる?」
「今度な。せめて明るい内から酒を飲んでいないときにしてくれ」
「えー、そんな飲んでねぇよ」
「悪いな。一杯だろうと、昼間から酒を飲む奴と関わっちゃいけませんと親から言われているんだ。互いの親同伴でなら相席を許可するが?」
茶目っ気を持って瞑られた片目に、男達はそれは勘弁だと肩を竦めた。酒を飲んだのは事実のようだが、どうやらそこまで悪い酒ではなかったようだし、これ以上の無理強いをする気はないらしい。
そこからはあっさり引いた男達と別れ、その背が掌ほどの大きさになった頃、リアンは私から手を離した。
「あいつらが飲んでいた酒は、ここの名産の一つだ。身体が温まる薬草を漬け込んだ酒で、安価で手っ取り早く酔える。薬草効果で身体が温まるから、主に北国に輸出されているんだ。匂いが独特だからすぐに分かるな。酔っていると先に気づけてよかった……キトリ?」
「――何でしょう」
「どうした? 妙な顔をしているが」
息を吸い、杖先で大きなつばを持ち上げる。下を向きたいときほど向くべきではない。
だって私は魔女だ。魔女には魔女の掟。
私にはもうこの生き方しか残されていない。それなのにこの愚か者は、どうやら本当に大馬鹿者のようだ。
誰が、誰を慮っているって?
馬鹿なキトリ。人間に恋心を抱いて、どうしようというのだ。
「キトリ?」
眦を少し下げ、眉間は少し寄り。心配をしている。魔女であるこの身を、己を呪った魔女と同じ魔女を、この優しい人間は案じているのだ。
魔女を対等な人として扱う、この馬鹿な人間は、魔女がどんな存在なのか全く分かっていない。いいや、分かっても同じことをするのだろう。それくらいには生真面目で、頑固で、融通が利かなさそうだ。そんな面倒そうなこの男の気質が好ましく思えていた時点で、駄目だったのかもしれない。
生き様の生真面目さを、尊さを、ただただ美しいと憧れていればよかったのに。それだけならば何も変わらず生み出さず、ただただ日々は回ったのに。
この温度に触れられる場所にいたいとじわりと灯る願いを、人が恋と呼ぶのなら、そこには絶望しか残らない。
彼は人で、私は魔女だ。
カナンの、魔女なのだ。
「いやぁ、蛙にしようか蜥蜴にしようか鼠にしようかと悩んだ結果羽虫にするところだったんですが、残念です!」
「私は今、結構な善行を積んだことを知った」
真剣な顔で頷いているリアンは知らない。目の前の魔女がどんな存在なのか分かっていない。
馬鹿なキトリ。愚かなキトリ。悍ましい、魔女。
今更、人間に恋心など抱いてどうするつもりだ。お前が一体どれだけの人間を屠ったのか。分かっていて、この美しい魂を持つ人を好きだというのか。数え切れない人間を殺した災厄の魔女が、人間に恋をするなど、悍ましいにも程がある。
ああ、本当に可哀想な人。心から、そう思う。
なんて不運なのだ。心から、そう嘆く。
とばっちりで呪いをかけられ、その前から十八になれば死んでしまう呪いをかけられていて。解呪にやってきた魔女は巣立ったばかりのひよっこで。
殺戮者で。
一人や二人なんて数ではなく、多数の集落を根こそぎ殺し尽くした。そんな行いを全く後悔していない、異常者で。
だからこその魔女で。
そんな魔女に恋をされてしまった、不運で哀れで、美しい魂を持つ人は、「とりあえず呪う前に一言知らせてくれ」といつもの真面目くさった顔で私に言った。




