1話
寒く厳しい冬を越え、世界は新緑を迎えていた。冬の間凍えながら芽吹きを待っていた緑が一斉に噴き出し、世界を彩る。緑にも様々な種類があった。深い緑、黄みが濃い緑、赤みが強い緑、白みがかった緑、薄い緑。何層にも連なる緑が重なり合い、緑だけで世界を彩れる貴重な時期だ。
その中に、一風変わった緑が風になびいている。木漏れ日を一身に浴びたような金色を帯びた、金緑だ。風の動きに合わせ、天辺から先まで光が走り抜け、毛先で散る。美しい光を世界に放つ様は蝶の鱗粉にも似ていた。
だがこの緑、他と少し違うのはその特殊な金色ではない。持ち主が生き物なのだ。大きく分ければ植物も生き物だが、いまその話おいておこう。
「あれかぁ」
金緑の持ち主である私は、間延びした声を上げた。走り抜けた風に飛ばされぬよう、黒い大きなつばのとんがり帽子を押さえ、片眉を下ろす。
帽子を押さえている爪は、先程光を散らした長い髪と同じ色をしていた。反対の手に握られている杖は身長と同じ大きさだ。その先には髪と爪と同じ色をした大きな宝石が浮かんでいる。
風になびく長い裾は黒で、履いている靴も黒。唯一の差し色は髪や爪と同じ色。足首まである長い髪、大きな宝石が浮かんだ持ち主の身長と同じ長さの杖、黒い衣装、髪と同じ色の爪と瞳。
これらの特徴を持つのは、魔女だ。
魔女。長い歴史を紐解いても、魔女ほど世界に動乱を呼んだ者はいない。魔女とは、只人には到底不可能な怪しの術を使う者を指す。一定の期間を過ぎればどれだけ時が経とうとも姿形が変化せず、死者を呼び戻し、他者を操り、心の臓を貫いても死なない。子どもの目玉が大好物で、長い爪は細く尖り、ぎょろりとした目玉で見つめられた者は石になる。
そんな噂が後を絶たなかった。
長い歴史を越え、あからさまな迫害は禁止されている。ただ、心が生み出す差別だけは幾ら禁止しようと取り締まれるものではない。国々に雇われ、戦で絶大な影響力を見せ付ければ尚の事。恐怖の対象とさえなりえる。魔女は気まぐれで、雇った国を滅ぼすこともあったという。人々は、魔女を恐れ、災厄と呼んだ。そんな時代もあったのだ。
小高い丘に立ちながら、景色を眺める。長い髪がなびくのと一緒に飛んでしまわないよう、大きな帽子のつばを押さえ直す。
視線の先には城がある。他の建物よりは明らかに大きいが、かといって畏怖を感じるほどの大きさでもない。可もなく不可もなく。大国の一領よりはかろうじて大きいかと言われるような小国の城としては上等だろう。
私は手首を軸に杖をくるりと回した。母親の腹から出てくる際に握りしめている石は、やがて杖となる。杖は魔女にとって身体の一部と同じだ。手足であり、命であり、魂だった。
杖は、魔法を使うときも勿論使うが、いま回した理由は違う。理由は、特にない。手持ち無沙汰で髪をいじると同じ理由でくるりと回されている。
「よし」
慣れた動作でくるくる回した杖をぴたりと止め、城を眺めていた私はふわりと微笑み。
「帰りたいっ!」
きっぱり言い切った。
世界には様々な人種が存在する。獣人もいれば、爬人もいる。竜人もいれば、人間もいる。その中に魔女もいる。ただそれだけのことだ。様々な人種の中で人間は一番弱いが、一番繁殖力が強い。一番数が多いが一番弱いため、生息地はさほど広がっていない。さらに、人間は弱いだけではなく種族間であまり統率が取れていないらしく、人間という種族の中でも様々な国に分かれ、それぞれ王がいるらしい。ややこしいことだ。絶対の権力者を王と呼ぶはずなのに、それが何人もいては絶対の言葉も存在も揺るぐではないか。
人間以外の種族にはあまり理解できない在り方だが、当人達がそれでよければいいのだろう。現に争いも多いようだが、基本的に魔女は他国の在り方に介入しない生き物である。好いた腫れたに殺し合い、どうぞ好きにやってくれ。
やがて丘から離れた私は、大きなトランクと杖を手に、人間の城をつかつかと歩いていた。後ろからは案内人である城付きの使用人が慌てて追いかけてくる。本日の客人である魔女が、案内を待たずにずかずか城に上がってしまったからだ。
確かに呼んだのは城側だ。だが、城内をうろつく許可を与えたわけではなかった。勝手に城内を歩き回っているのだ。普通ならば城側の人間が捕えてしまえばいい。だが、魔女は気まぐれで、狡猾で、得体の知れない生き物だ。魔女の機嫌が悪ければ、目が合っただけで呪われる。少女が老婆に、赤子が猫に、美男の鼻は風船のように膨れ上がり、家中の金が泥となるのだ。
だから、城の人間は魔女の暴挙を止められず、おろおろと回りをうろついている。衛兵も同様だ。そもそも彼らに命令を出すべき存在がおろおろしていては意味がない。
まるで巣を突っつき回された蟻だなと思う。先触れのない魔女の訪問は確かに警戒して然るべきだが、自分達が呼びつけた魔女の訪問にこれだけ狼狽えてどうするのだろう。
その様子に、この国が今まで平和だったことが窺えた。人間の国で固まった地域の隅っこにあるこの国は、後ろが海で回りが山。人魚の生息地が近くないこともあり、多種族に関わる機会はあまりないのだろう。
それにしたって、慌てすぎだ。
城自体は、小さいが荒れてはいない。歴史のある陶器の壺が無造作に飾られるくらいの余裕があり、価値の高い絵は日の当たらない場所に飾られるだけの知識もある。けれどどこか生活感があるのは、城の大きさの割に城内にいる人間が多いからだろう。人が増えれば物が増える。一応目立たない場所に置かれてはいるが、積まれた箱や樽、壁に立てかけられている木の剣は子どものオモチャだろう。
雑多だ。精錬されていない素朴さ。だが、悪くない。寧ろ好ましい。
そう思ったとき、背後から不機嫌な声に呼び止められた。
「おい」
ようやくまともに呼びかけられ、振り向く。おい。そんな呼び方がまともと言えるかどうかはこの際おいておくことにした。
「あら、ようやく出迎えですの。呼びつけておきながら、随分のんびりしたものですこと」
「手続きを待てと言われたはずだがな。さすがは魔女だ。他人の領土にずかずかと入り込む」
振り向いた先には、声と同じほど不機嫌を隠さない女がふんぞり返っていた。金の髪、水色の瞳、整った顔。気が強そうに見えるのは瞳の鋭さゆえだろう。だが、そこが女の美しさを際立たせているくらいだ。
胸の前で腕を組み、顎を前に突き出している。どう見てもふんぞり返っている様子は、客人を出迎えるのに相応しい態度とはいえない。
ズボンにシャツにタイ、どう見ても男性の服だ。だが、立派な胸とくびれた腰、ズボンがきつそうな尻はどう見ても女だ。
腰に下げている剣は、どうやら剣帯が大きいようで、かなりずり落ちている。剣も大きすぎるのではないだろうか。今にも鞘が地面につきそうだ。
他人がどういう趣味格好を思考をしていようが自由だろうというのが魔女の考えなので、そこは特に気にしない。魔女自身も自由で気まぐれな生き物だ。しかし、こうあるべきだと定められれば、いい悪いは関係なくとりあえず反発したくなる厄介な生き物なのである。
だからそれは別にいいのだが、私には仕事があった。そっちはどうでもよくはない。なぜなら私は、依頼を受けた魔女なのだから。
トランクを下ろし、女と同じように腕を組む。遊ばせた左手で杖をくるりと回す。手首を軸に再度くるりと回した杖の先を、彼へ向ける。そう、彼だ。
「さて、シルフォン国リアン王子」
どこからどう見ても女に見える目の前の『青年』に、私はにぃっと笑って見せた。紅を塗っているのかいないのか、先程までは判断がつかなかった私の唇が真っ赤に染まる。まるで狩った獲物にそのまま食らいついたかのような赤さに、リアン王子は下がりかけた身体をぐっと堪えた。
おや、十七歳と記されていたのになかなか見所がある。偉そうにもそんなことを思ったが、この場では口に出さない。気ままな魔女といえど、その程度の分別はつく。
「この魔女めをお呼びになったのは、王女となられたお身体を王子にお戻しするため、ということで相違ございませんか?」
王女の王子は悔しそうに呻いた。
それが答えだった。