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ここから、話が一気に進んでいきます。
シロは、プラスチックでできた直方体の台の上に置かれた、真っ赤なボタンと相対していた。いかにも怪しいボタンは、訝しげに見つめるシロを嘲笑うように輝いていた。もしシロがスパイで、ここが探りに来た敵の根城だったなら、これ以上ないほどに怪しいこのボタンは、絶対に押してなかっただろう。しかし、現実は世界のどこにあるかも分からない謎の空間で、閉鎖的なこの状況を打破する足掛かりになり得るものは、このボタンしかなかった。
「押すかどうか迷うだけ時間の無駄だよな」
あまりにも幼稚な仕掛けに、仕込んだ誰かの意図をしばらく探りあぐねていたシロは、考えても無駄だと割り切ると、大胆にボタンをポチッと押した。すると、けたたましい警告音が真っ白な壁に反響した。無機質な壁は、気持ちいいほどに音を反射し、音源がどこにあるのか見当もつかない。
シロは、今度はどんな恐ろしい拷問のような、“成長”が自分に襲い掛かるのかと体をこわばらせながら待ち構えた。しかし、警告音がやんでも、シロを蝕む煙がでてくるわけでも、体内に熱が流れることもなかった。その代わりに、ラジオ放送のような音が天井から聞こえてきた。
「ザザー、ザザー……。あっ、テスッ、テスッ。ただいまマスクのテスト中です……」
「ねぇ、そこのきみぃ。聞こえてる?」
その声は、青臭さはある程度抜けているものの、あどけなさが若干残る、二十代半ばぐらいの男性の声だった。あまりにも腑抜けた声につられて、シロは体の緊張をほどいた。
「あぁ、聞こえてるよ。それと、あなたに聞きたいことが山ほどある。」
ようやく、自分の存在への糸口が掴めたと感じたシロは、語気を強め返答した。尊敬と軽蔑が入り混じったような口ぶりだった。
「そりゃ、そうだよね。えっと、何から説明すればいいのかな……。そうだ、まず私の事を話そう。きみもなんとなく勘づいていると思うけど、君が目を覚ましてからこの部屋にたどり着くまで導いたのも、“成長”を施したのも全部私がやったことだ。私の事は、詳しくは説明できないけれど、きみの父親とでも思ってくれればいい。」
シロは、どこか狂ったような調子で話すこの男が、今までの狂気じみた仕掛けを仕組んだ張本人ではないかと、薄々感じていた。しかし、男の話の内容には腑に落ちないこともあった。男は自分の事をシロの父親だと名乗ったが、声から予想される年齢を考えると、シロの生物学的な父親でないことは明白だった。ならば、この男は、そして自分は何者なのだろうか。そのシロの疑問を見透かしたように男は話を続けた。
「きみはどうやら、自分は何者だろうか、私は何者だろうか、と疑問に思ってるようだ。きみの存在はね、一言で表すとするならば、まさに“才能の塊”だよ。まぁ、その才能は私が種をまき、水をやって育てたものといってもいいだろうけど。それでもだ、きみのその才能があれば、おおよそ思いつくような偉業はなんだって成し遂げられるはずだ。例えば、世紀の大発明とか。スポーツの世界チャンピオンだとか。歌やダンスで名をあげることも、歴史に名を残す芸術家になることだってできるだろう。私が、きみを育てたのだってその才能に惚れ込んだからなんだ。問題はきみにその気があるかどうかってことなんだけどね。」
男はシロの、いやシロが持つ才能の、熱狂的なファンとでもいうように、始終興奮しながら語ったが、核心をつくようなことは言わず、シロの疑問に答えることを避けるようだった。この男が、どうやってかは分からないが、自分を生み出し育てたという事実はもはや疑いようもなかった。だが、結局のところ、この男が自分を何のために生み出し、利用しているのかという肝心なところが分からずじまいだった。
「それで、あなたは、私を利用するつもりなんだろう?だが、私はあなたの命令に素直に従う気はこれっぽっちもない。」
「あはははははっ。そうか、目的か、きみのいう通り、私がきみをつくったのは、ぼく自身のためさ。だけど、端的に言うならば、ぼくの目的っていうのはきみのような“才能の塊”を生み出すことであって、きみがこうしてここにいるだけで、目的はすでに達成されたも同然なんだよ。あとは、そうだな。きみがこれから世界へ羽ばたいていった後に、どこか遠くできみの噂が流れてくるのを楽しみに待つことぐらいかな。きみは到底信じられないかもしれないけどね、本当にこれがすべてなんだよ。だから、ぼくはこれ以上きみに関与することはないし、きみは晴れて自由の身さ、約束するよ。それで、ぼくの目的を話したところで、改めて聞こうと思う。きみはこれから何をして生きていくんだい?」
男は、あらかじめ用意された台詞を吐き出すように、淡々とシロの身に起こった出来事の全容を説明した。シロは、男の説明で納得できないこともあったが、男がシロをこの息の詰まる無機質な空間から解放することをほのめかしたので、いまだ腑に落ちないことについては、自由の身になった後で、ゆっくり結論を出せばいいと考えていた。そして、男の質問に答える前に、ずっときがかりだったことについて、逆に質問した。
「そのまえに、ひとつだけ。白くて何もないこの場所で、目を覚ます前の私について教えてくれないか?」
男は、先ほど前と別人のように冷淡で、その質問にはどうしても答えたくないといった様子で返事をした。
「そのことについては、私からきみに話すことは何もない。ただ、ここで目を覚ます前のきみは、平凡で才能の欠片もなくてつまらない人間だったことだけ伝えておくよ。それよりも、私の質問に答えて欲しいな。」
シロは、ほんの少し逡巡して、引っ張り出した答えを男にぶつけた。
「私は、私が生まれた理由を知りたい。たとえ、あなたが教えてくれなかったとしても、きっと私自身で見つけ出してみせる。才能はそのために使う。」
シロの言葉には、たったいま生まれたばかりの決意と覚悟があらわれていた。だが、男は心底あきれ、シロに対する興味を完全に失ったように呟いた。
「そうか、きみには失望したよ。」
ブチッ、そんな音をたてて、流れていた声が途切れると同時に、今までずっとシロと行動を共にしてきた白い部屋は、絶望したように真っ暗になった。