女の嫉妬
室岡は部下の木下を、食事時間の終わった食堂に呼び出していた。この食堂は、一斉に800名程が着席できる食堂で、もう1ヶ所、別のフロアにも同じ規模の食堂がある。食事時間が終わってしまえば、人はほとんどいなくなるため、ちょっとした打ち合わせや、労組の集まりなどで使われていた。会議室とは違い密室ではないが、余程の機密事項でなければ、社内の打ち合わせなどは、皆ここを利用していた。予約もいらない。今もあちこちで、小さなミーティングが行われている。
「杉浦さんと木下は、確か同期だったよな」
「ええ。彼女、また何かありましたか?」
「……またって、何だ」
「あれ、課長知りませんか? 三隅さんの時のこと……」
「ミスミ?」
「あぁ、課長がこっちにいない時でしたけど、さすがに知らないはずはないかと……」
なぜはっきり言わないんだ。室岡はゆっくり考える。僕が東京にいない時……、ミスミ……、あっ。
「ミスミって、あの三隅か?」
「そうです」
「あれに、なぜ彼女が関わってる。あの時の関係者は、もう全員辞めてる筈だぞ」
「とばっちりですよ」
「とばっちり……? どういうことか聞かせてくれ」
「いいんですか? 緘口令。タブーな話題ですよ」
「今更、調べて歩くほうが、よっぽどマズイ」
これ以上口を開かないと決め込んだらしい木下の情報を、室岡は即座に記憶から引き出す。木下が今一番欲しがっていた人脈は……。
「今度、大城商事に連れてってやる」
「本当ですか! ありがとうございます。近々ですよ!」
「分かった。……で?」
「あの時、最初に情報漏洩の犯人の疑いを掛けられたのが、彼女なんですよ」
「えっ、疑いって……。何だ、それ」
「嫉妬です……。女は、怖い……」
会社で自殺があった。もちろん初めてのことではない。「会社の敷地内」で、大体3年に1度くらいはある。自宅など別の場所での自殺を含めれば、数は2倍では済まないだろう。それほど、この会社の社員は疲弊していた。
社内でも、この自殺については「またか」というムードが漂い、気の毒とは思いつつも、今度は自分かもしれないという恐怖に、誰もが口をつぐんでいた。このまま、粛々と手続きが進められ、きっとまた「病気により死亡」と処理されていくのだろう。家族にも、それ相応の「見舞金」が払われ、その事実は今まで世に露見することはなかった。ところが、
「ヤフーニュースを、見ろ!」
と社内が騒然としたのが、三隅が死んで1ヶ月後のことだった。三隅の家族が、自殺の事実をマスコミにリークしたのだ。しかも、その裏づけとなる長時間労働の社内調査の極秘資料も、一緒にマスコミの手に渡ってしまったため、会社としても否定し続けることはできなくなった。世間を巻き込み、その年の最も大きなニュースの1つに掲げられた程だ。社の信用も、失墜した。
「あの資料の流出が、彼女のパソコンから発信されていたんです」
「……」
「もちろん、本人は否定しましたよ。知らないと。しかし、相当の追及にあって、当然、酷い扱いだったって噂です……」
今日も美音は、朝から会議室の1室に閉じ込められている。常務が離れた席からじっと眺めていて、罵倒してくるのは部長の島崎である。彼がこれほど激烈な性格であるとは、社内の誰も知らないだろう。見た目は穏やかで、常務の娘を嫁に貰い、東大を出たエリートの、インテリ部長で通っていた。
「お前がデータを送信したのは、分かってるんだ! どこから、この情報を手に入れた! 言わないか!」
バンと机を叩き、ガラスの灰皿を壁に投げつける。ずっと耳元で、喚き続ける。
「どこでここのセキュリティに入り込んだ! ハッカーでも仲間にいるのか! どうやって暗証コードを手に入れた! 協力者は誰だ! 体で情報を引き出したか!? 言えよ! この売女が!」
「どこから金が出た。いくら貰ったんだ。それをどうした!? 男にでも貢いだか!」
美音には、目の前で行われているこれが、とても現実とは思えなかった。来る日も来る日も同じ質問で攻め立てられ、いつの間にか、何を言われても何も感じなくなっていった……。理不尽だとの思いも、あっという間に消え去っていた。
――きっと私が何か悪いことをしたんだ。だから、こんな罰を受けているに違いない……。
「それで……?」
「課長もご存知の通り、真犯人の瀬尾さんが、彼女に一方的に嫉妬したんです。当時、瀬尾さん、小崎係長……、あの時は課長でしたけどね……。その小崎係長と付き合ってたんですがね……」
「小崎係長って、今、四国にいる、小崎係長か? あの時、独身だったか?」
「いやいや、奥さんも小さいお子さんもいて、いわゆる不倫ですよ」
「それが、どうして杉浦さんに嫉妬するんだ。……まさか! 小崎係長は杉浦さんとも付き合ってたのか!?」
「違いますよ……。それも、彼女を苦しめた噂の1つだったなぁ……」
木下は少し遠い目をして、それでも淡々と話を続ける。
「杉浦さんは、小崎係長の奥さんと仲が良かったらしいんです。ファミリー会あるでしょ、毎年。あそこで知り合って、確か、趣味が一緒だったとかなんとか……、ピアノだったかなぁ。で、奥さんとの連絡を、当然小崎係長も仲介したりして、2人が親密にしてるっていうんで、瀬尾さん疑ってしまったらしい。彼女人事部だったから、あの極秘資料、扱えたわけです。杉浦さんのログインパスワードも簡単に調べられるし。もちろん、極秘資料の方は、セキュリティパスワードを密かに手に入れてってやつでしたけどね……」
「そうだったのか……」
「辞めるって、杉浦さんは言ったんですよ。僕も、直接本人がそう言ってるのを聞いたから、そりゃそうだろうと思いました。あの時、彼女げっそり痩せちゃって……。運悪く、お父さんがちょうど入院してしまった時で、お金も必要だったらしいんですけど、この会社にいるよりマシだって」
「……なぜ、辞めなかったんだ」
「辞めさせてもらえなかったんですよ」
――もしお金を貰っているなら、会社辞められますか? だったら、貰います。
「……」
室岡は美音の言葉の意味を初めて知り、喉の奥が詰まったようになった。
「無実の疑いを掛けておいて、それが理由で辞職されたことがマスコミにでもバレたら、大変でしょ? もう、針の筵ですよ。いるのも地獄、辞めるも地獄……」
「……」
「1ヶ月長期休暇を取らせて、戻ってきた時には彼女はもう別人でした。それからは、周りの皆んなも彼女を腫れ物みたいに扱って……。そりゃ、そうでしょ。誰もが最初は彼女を犯人扱いして、少なからず敵視したんですから。それが無実とわかった途端に、手の平返すようなことできませんよ。気まずいままで……」
「そうか……」
「もっと天真爛漫な人だったんです。明るくて、冗談も上手くて、気配りまでできて。あんなことがなければ、きっと今頃チームリーダーだったと思いますよ」
お前も、惚れてた口か……、と聞くのは止めておいた。
「部署も転々と異動しました。上も皆、関わり合いたくなかったんでしょうね。課長も、あんまり深追いしないほうが、いいんじゃないですか?」
「ああ……、分かった。助かったよ。あっ、それともう1つ」
「何ですか?」
「男関係はどうだ? 元々そちらで調べてた」
「何ですか、それ。僕だって良く知りませんけどね。社内じゃもう誰も近づかないでしょう?」
「派手に外で遊んでる、とか……」
「まさか。そう見えます? あっ、でも、そういえば何年か前、六本木のクラブで彼女見かけたって後輩が言ってたな。接待で行ったクラブにいたとか、なんとか……。そういえばあの時、そのクラブにまた行くって言ってたけど、あいつどうしたのかな……」
「そいつの名前、教えてくれ」
「坂口です、企画営業の。じゃ、僕はこれで。大城商事、忘れないで下さいよ」
「ああ」
「ピアノ、弾いてました。結構高いお店だったんで、そう頻繁には接待できなくて……。見たのは、最初の1回キリで、後は1度も見ませんでした」
「客の相手をしてたのか?」
「僕が店にいる間は、なかったと思います。2回弾くのを見たけど、弾いてない間は、店内では顔見なかったから……。女の子に聞いたら、ピアノ弾きに来てるだけだって言ってましたし。そんなバイトだったんじゃないんですか? 相手は杉浦さんだし、いちいち詮索するのもやだったので、それ以上追及はしませんでした。報告しなかったの、マズかったですか?」
「いや、大丈夫だ。君にお咎めはないよ。一応、店の名前、教えてくれないか」
「はい。ちょっと待ってくださいよ……。これこれ、この名刺です」
そう言って、女の子の源氏名が書かれた名刺の写真を、スマホで見せてくれる。会員制クラブか……。どうやって入り込むかな……。
「芙美江ちゃんか? 上手くいったのか?」
「ははっ、まぁ、ご想像にお任せします」
上手くいったわけだな。
「今も行ってるのか?」
「僕、結婚したんで」
「じゃ、この名刺も、削除しとけ」
室岡はスマホを返しながら助言した。
「ちょっと、惜しくて……」
坂口は懐かしそうにスマホを眺め直している。
「バレたら、地獄だぞ」
「……すぐ、消します」
坂口は慌ててスマホの操作を終了させた。
数日後、室岡は「高級会員性クラブ 煌愛欄」の店の前にいた。このクラブは正真正銘の「会員制」で、紹介がないと入れないと分かった。結局、坂口にもう一度話をして、接待先の社長にコンタクトを取った。で、この社長、こちらの接待で飲ませると言ったら、簡単に承諾した。バブル時代を知る自営業者は、タダ酒に弱くなった。高級クラブでは珍しく19時開店とのことで、その時間にタクシーで到着する。
「社長、今日はよろしくお願いします」
「任せて下さい。久し振りなので、私も楽しみにして来ましたよ」
「僕程度が入れる店ではないので、今日は社会勉強させていただきます」
きっと今では収入は室岡の方が上だろうが、そんなことはおくびにも出さない。
「まぁ、気楽に飲めばいいよ」
鼻息荒く、社長は入店した。
「いらっしゃいませ」
室岡は出迎えた黒服の顔を見て、確信した。美音はこの店に間違いなくいる。この黒服は、この間見た小奇麗な顔の運転手だったからだ。
社長はかなり久し振りだったらしく、店内の端の方に案内された。室岡はかえって美音が見つけにくいだろうと安堵する。係りといわれるホステスが2人付いて、話を始める。少し経って、ママが挨拶に来た。その時ちょうど20時になり、店内の照明が少し落とされた。一番奥にあるピアノにスポットライトが落ちて、2人の姿が浮かび上がる……。
美音がピアノを弾き始めると、すぐにチェロが入る。シューベルトの「アヴェ・マリア」だ。イメージしている音よりも、1オクターブ低いことに戸惑いを覚えるが、耳は直ぐにそれに慣れた。
イヤリングを……、あのイヤリングを、髪をアップにした美音がつけていた。やはり、その横顔は……美しい。じっと美音を見ている室岡に、ママが声を掛ける。
「あら、お客様は彼女がタイプですか?」
「いや、チェロって珍しいなと思ってね」
「彼女が連れて来てくれましてね。割と評判がいいんですよ」
「あの2人は、どんな関係?」
「あら、興味がおありなら、呼びましょうか?」
「呼べるんですか?」
「ええ。お気に召したなら、ぜひ」
「……、今日はやめときましょう。まずは、音楽が聴きたい。次回にしますよ。いつ彼女は来るの?」
「あの2人は金曜日と土曜日だけですが、8時以降なら大抵おりますよ」
「名前は?」
「綾ちゃんっていいます」
「そう……」
曲が流れていようがいまいが、社長に聴く耳はない。生演奏そっちのけで、社長はどんどん女の子に話し掛けていた。室岡に付いた女の子からは「夏菜子」という名刺をもらっている。室岡が黙って音楽を聴いているだけなので、彼女は飲むしかない。まぁ、ホステスにとっては嫌な客である。そんなことを知らない室岡ではないので、次のヘルプが来る前に話をすることにした。
「チェロの彼、カッコいいね」
「あら、お客様の方が素敵ですよ。陸君は綾さんのものだから、手が出せません」
「そうなの?」
「仲いいんですよ、あの2人。ママには内緒ですよ。一応、店内恋愛はご法度なので。でもまぁ、あの2人は元々音楽専門ですから、そのルールには当てはまらないかも、なんですけどね」
そんなに指名客が付いているとも思えないこの子でも知っているのだ。ママが知らないはずがない。それでも解雇されないという事は、恋愛関係ではないと考えた方が間違いなさそうだ……。
「そう。じゃ、君も彼に手が出せるんじゃないの?」
「だからぁ、お客様の方がカッコいいですってばぁ」
少し甘ったるい声を出しながら、体を寄せてくる。六本木の高級会員制クラブの割には、少し馴れ馴れしい。そういう女の子を付けられたという事は、会員である社長の好みがそうだということだ。室岡は軽く肩を抱きながら、話を続けた。
「いつ頃から、あのピアニストは来てるの?」
「さぁ、私が入った時にはもういましたから、1年以上になると思いますよ」
「そう……」
「お客様も綾さんご指名ですか?」
「……も? 彼女、そんなにモテてるの。君より随分年上でしょ。君の方が可愛いよ」
「ありがとうございますぅ〜。そうなんですよ。随分お姉さんなのにね。私だってピアノくらい、弾けますよぉ」
「そうなんだ。じゃあ、聞いてみたいな。彼女が終わったら、弾いてみてよ」
「……」
イラついた顔を隠すことなく、彼女はむぅっと黙ってしまった。いかん、いかん。何故だか美音を侮辱された様な気になって、ムキになって追い込んでしまった……。弾けるといっても、せいぜい子供のお稽古程度だろう。
室岡も一般教養程度には、クラシックを聴く。演奏会にも何度も足を運んでいる。美音のピアノは確かに一流の音楽家の音ではない。それに比べれば、チェロの彼の音には「音楽」がある。きっと彼はプロなのだろう。
美音が音大を出ていないことは、履歴書を見なくても分かっている。そんな大学を出た人間は、我が社では採用されない。それでも、プロの彼を包み込む音を奏でているのだ。きっとかなりの訓練をしたはずであり、それは今でも続いているはずだ。でなければ、これほど「当たり前」のように聴くことは叶わない。カラオケでどんなに上手い人の歌を聴いても、テレビで見る本物の歌手のようには聞こえないのと同じである。素人の奏でる音は、やはり稚拙なのだ。
そんなことも分からずに、「ピアノくらい……」と言ってしまう彼女は、せっかくの美貌を二束三文にしてしまっている。大体、同じ店の先輩を悪く言うなんてことは、マナーに反している。負けず嫌いの言動は、大人になるとみっともない。が、このままでは自分も同じだなと、一応フォローの言葉を掛けた。
「ピアノなんかより、やっぱり側にいてくれた方がいいな」
と彼女の手に、自分の手を重ねる。さて、どう出るかな。
「そうですね。ピアノは機会があれば、また今度。私、少し口直しがしたいんですけど、いいですか?」
「あぁ、もちろん。好きなもの頼んでいいよ」
「ありがとうございます。いただきます」
さすがにベテランだな。転んでもただでは起きない。「目には目を、恥辱には売上を」ということだ。
「音楽に詳しい方は綾さんを指名されますよ。お客様も詳しいんですか?」
小さく首を横に振っておく。相手のペースに乗って、これ以上の無駄な売上を献上するつもりはない。
「君みたいな綺麗な子がいるなら、また来たいんだけど、僕社長でもなんでもないから、会員になれるかどうか……」
「会社は大きいですか?」
「まあ、大きい方だと思うけど」
「じゃあ、大丈夫ですよ。よろしければ、お名刺をいただけませんか?」
と催促された。
「今日は持ってなくてね」
と、定番の断りを入れる。会社の大きさを客に聞いてどうする……。やはりこの子は、少し抜けている。そういう女の子も、確かに客によっては必要ではあるだろうが、この店の格を落としかねない。「ももクロ」を源氏名にしているという時点で歳も想像できるし、指名をすることは今後ないだろう。まぁそれでも、1年もこの店にいられるのは、この顔とスタイルの良さの賜物だろう。そういう素質と努力は、認めてもいい。なんでも、一朝一夕では成し得ないのだから……。
美音達の音楽が終わった。しばらく経ったら、ステージの目の前のボックス席に美音が座った。どうやら指名が入ったらしい。小さな60代くらいの、いかにも自営業者然とした男性だ。美音はにこやかな笑顔で接客している。肩を抱かれても……、笑っている。室岡を、不快感が襲う。どういう理屈だか分からないが、裏切られた様な気さえしてくる。
「一体……」
僕は何をしてるんだ! もう、いいんじゃないか? 注意はしたし、自覚も促した。相手は黒服だと証明され、ピアノを弾く姿まで確認したのだ。もう、用件は済んだはずだ。何をいつまでもこだわっているのか……。面倒で、難儀なことと思っていたんじゃないのか……。
結局、来店から1時間程で店を出た。2回目の美音の演奏が始まっていたが、室岡は席を立った。社長は何人目かの女の子と盛り上がっていたので、もう少しいたかった様子だったが、お引き取り頂くことにした。室岡は名刺を渡し、無事会員となる。ただし、請求書は自宅に回してもらうようにお願いした。今日のこれも、もちろん経費で落ちるわけもなく、室岡の自腹だったからだ。
「室岡君、私はもう1件寄っていくが、君も一緒に来ないかね」
女性陣に見送られた後、社長は更にもう1件行きたいと要求してきたが、明日ゴルフで早いのだと嘘をつき、タクシーを拾ってチケットを渡した。
「また今後とも、何かありましたら是非当社をご用命ください」
と見送った。室岡も帰ろうと歩き出したところで、人の話し声に足を止めた。誰かが携帯で話している。その話の途中に、「みおん」と聞こえた気がした。
ビルとビルの間の狭い空間で、男性がスマホ片手に電話をしている。その姿には見覚えがあった。
「もしもし、シロちゃんか? 俺。……あのさ、美音の様子が、またおかしいんだ。……うん、そう。この間、久し振りに泣いているところを見た。……いや、俺は何も。そっちは? ……そうか。今日も、音が止まりそうになった。うん……。そりゃ、俺が必死で引っ張ったよ。……そう、なんとかな。ちょっと、気をつけてやってくれないか。……うん。でさ、もしもの時は、シロちゃんここ入れる? 俺、この仕事、無くしたくないんだよ。うん。……うん、助かる。じゃ、そういうことで、また何かあったらよろしくな」
スマホを切って電子タバコをくわえた。フーッと薄い煙を吐いたところで、突然通りから声が掛かった。
「いつのことですか?」
スーツを着た姿が、どこか垢抜けている。いや、顔か……。いかにも仕事ができそうな精悍な顔付きで、人当たりも良さそうなのだが、ディベートをさせたら、ことごとく相手を打ち負かしそうな眼をしている。
「……あんた、誰?」
ビルの壁に上半身を預けたまま、陸は警戒心を隠さない眼を向ける。
「先程、煌愛欄でチェロを弾いていた、陸さんですよね」
「……お客さん、ですか?」
陸は一応姿勢を正し、話をする態度になった。
「で、いつのことですか? 彼女が泣いていたのは……」
陸は相手を正面からつくづくと眺めた。綺麗な形をした眉が、少しだけ歪められている。その顔が、願わくば泣いていたのが自分のせいではないことを祈っている、と語っている。しかも「綾」ではなく「美音」としか言っていない会話に引っ掛かってきている。
こいつ、誰だ……。
「先週の金曜ですよ」
明らかに動揺をした顔を確認して、陸はもう一度問いただす。
「あなたは、美音の何ですか?」
「……、同じ会社のものです」
「やっぱり、会社でまた何かあったんだな」
ツカツカと室岡に詰め寄り、今にも胸倉を掴みそうな勢いで陸は室岡の前に立つ。
「今日の音を聞いたか!? あんなひどい音……。ずっと落ち着いてたのに。あんた、なんか関わってるのか!?」
「……いや」
「頼むから、これ以上彼女に関わらないでくれないか。俺達は、心配でたまらない」
もう一度睨み直して、陸は建物の中に戻って行った。室岡は思わず髪をかき上げ、大きく息を吐いた。
「泣いていた……!?」
――なぜ、大切にしてないって、思うんですか?
――私が、色んな男と寝てるから……ですか?
「君を、傷つけたのか……」
室岡を、ひどい後悔の念が襲う。まるで大きな取引を逃してしまったかのような、有力な人脈を失ってしまったかのような……、いや違う。もっと、根源的なものだ。
僕は、彼女の信用を失った……。
失望感に近い。呆然と、それでもやっと足を進めだした室岡の後ろの方で、客を送り出す女性の声が小さくした。
「ありがとうございました」
そういって頭を下げる美音を、低い身長で無理やりハグしにかかるおじさんの姿が見える。他のホステス達はどうしたのだろう。見送りに出てこないのは、珍しい。客が、断ったか……。
「また来るよ」
と言うおじさんに、美音はされるままになりながら、それでもお尻に伸びた手はそっと外している。笑いながら「ダメですよ」とも言っている。
「ごめん、ごめん。じゃ、またね」
その客はやっと美音から離れて、「バイバイ」と手を振る美音に見送られた。
そのまま店に戻るかと思ったが、その場に佇んで、美音は夜空を見上げた。空などは見えない街だが、それでも小さなそれを探しているかの様に、目を凝らしている……。
「ふ〜っ」
とひとつ、息を吐いた。そのまま瞳を閉じて、自分を抱くように重ねた腕を、そっと抱き直している。
「綾ちゃん、時間だよ」
「はーい」
黒メガネの黒服に呼ばれて、彼女は店の中に戻って行った。さっきまで彼女がいた場所が、ぽっかりと1人分空いている。これだけの人の往来にも関わらず、まるでそこだけ、別の世界に繋がってでもいるかように、誰の足にも踏み荒らされずに、ぽっかりと空いていた。
室岡は、その場所に、誘われるように立った。そして、彼女がさっきそうしたように、空を仰ぎ見る……。そこには、小さく星が瞬いていた。