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黒服

 室岡と広瀬は、クライアントでの打ち合わせから、帰社の道のりを歩いていた。18時は過ぎているので、会社に近づけば近づくほど、帰宅する人の流れとぶつかって、なかなかに歩き辛い。それでも2人は会社に戻るべく、急いでいた。

「さっき、大貫たちには帰ったらすぐミーティングをすると連絡しておいたから、まだ皆いると思うが、メンバー揃うか?」

「僕も確認しましたが、大丈夫だと思います」

「よし」

 クライアントの承認を取りに出向いていたのだが、大幅な変更を余儀なくされることになり、急いで会社に戻る途中なのだ。更に歩みが早くなったところで、広瀬の足が少し緩んだ。横で一緒に歩いていた室岡だったが、微妙にズレていく広瀬の顔を少し振り向きつつ確認した。

「どうした?」

 広瀬の視線が何かに引き留められたように止まっていた。

「何だ?」

 声を掛けられ、広瀬がこちらに意識を引き戻したようだ。少し逡巡した後、小さく答えた。

「いえ。ちょっと、気になったので……」

 その言葉を聞いて、室岡も歩みを緩めた。「なんでもありません」という答えを想像していたのだが、わざわざ報告めいた言葉を使うということは、あながち自分にも関係がないことではないのだろう。室岡も、先程広瀬が見ていた方向に、焦点を合わせた。自然と緩んでいた歩幅は、更に緩くなり、すぐに動きを止めることとなった。

「杉浦さんか?」

「ええ」

「会社に男の出迎えとは、ベテランらしくもな……い……」

 美音が、車に乗ろうとしていた。見ると運転手は美音よりかなり若いと思われる。だが、乗っている車はレクサスのLSだ。1千万は下らない。最後の方の言葉が、尻すぼみになっていく。

「相手、堅気の職業には見えませんよね……」

「……その筋か?」

 確かに堅気には見えない。かといって、チンピラとも言い難く、ただ、存分に夜の世界の臭いがする。

「まるで、黒服だな……」

「あぁ、なるほど。それが、一番ピッタリしますね」

 2人で美音の乗った車を、遠くから見送る形になった。

「ちょっと、意外だな……」

「ほんとですね……」

 室岡の目が、一瞬本気の色を宿らせた。

「さぁ、戻るぞ」

 そう広瀬に声を掛けると、会社に向かってまた歩き始めた。


 映像を確認しながら、変更場所の修正方法を吟味していく。今回の変更は、クライアントの社名である。外資系企業に買収される形になり、元の名前が全く変わってしまう。ギリギリまでクライアントの社員にも知らされていなかったらしく、室岡たちは元の社名のままでの広告を制作してしまった。

 画像や印刷物、録音に至るまで、あらゆる変更をしなければならない。クリエーター同士の細かい打ち合わせに移ったので、室岡は少し離れた椅子から眺めながら、さっきの光景を思い出していた。

 美音が……、笑っていた。ドライバーの若い奴に向かって、きっと「お待たせ」とでも言っていたのだろう。柔らかい笑顔で、つい先日見た雛人形の笑顔とは、似ても似つかない優しい顔だった。あの恭介に向けた生身の美音の顔だ……。室岡は、思わず奥歯を噛みしめていた。

「課長、どうでしょう」

「あぁ、取り敢えず、その方向でいい。皆、修正に掛かってくれ」

 今日のところは、これで解散となる。

「プライベートだからな……」

 小さく声になる。プライベートだから、どんな男と付き合おうが文句は言えない。言えないが、イラついている自分を制御する道筋が見つからない。なんで、もう少し普通の男じゃないんだ……!そしたら、気にも留めないのに……。


 1週間後、室岡は忘れかけていた苛立ちを、もう一度再確認することになった。

「この前の奴とは、違う……」

 また会社帰りの美音が、迎えの車に乗り込むところを見てしまったのだ。会社から歩いて5分程離れたところで、しかも駅と反対方向になる場所なので、本来なら会社の人間と遭遇することはないと思われる場所なのだが、室岡の方がめったに通らない道を歩いていたため、見つけてしまった。

 しかも今日は、男の顔がこの前とは違う。やはり、夜の雰囲気を纏っているので、同じ奴かと思ったが、今日のは茶髪で小綺麗な顔をしている。しかしその目の底には、何かあればすぐにでもケンカを始めそうな、危険な色を沈めている。

「何なんだ……」

 室岡の引っ掛かりが、今日のこれで捨て置けないものに変わってしまった。確かにプライベートな案件だ。どんな私生活を送ろうが、会社が責任を負うことではない。いわゆる「本人に任せています」で済む。しかし、万が一何かあった時には、我が社の社員という肩書きが一番矢面に出るのだ。その想像力を、彼女は持っていないのか! 危機管理能力の欠如だ!

「調べないと、いけないのか……。まったく、面倒な……」

 自分の直属の部下でもない社員の、しかもプライベートな事柄を、会社の信用のために追求しなければならない。難儀なことであると、この時には、本当にそう思っていた。


「矢田さん、ありがとうございました」

 美音は運転していた矢田に礼をいう。お店の黒服である。まだまだ「付け回し」はさせてもらえないが、ママやベテラン黒服に可愛がられている黒服だ。今は店内の清掃、飲み物などのお運びや灰皿の取り換えなどといったホール業務をこなしている。終電を過ぎた時間のお店の女の子の送りなどもしているが、今日はその反対である。

 先週も今週も、普段は20時からのピアノの生演奏の時間が19時からとの要請を受け、迎えに来てもらった。ママのお客様が、どうしてもその時間にとの予約で、陸と共に19時に入ることになっている。いつものように電車で通っていては間に合わない。万が一、美音が残業になることも考慮して、タクシーではなく、ママが自分の車で、迎えを用意してくれた。

「陸、今日の曲、Aでいい?」

「いいんじゃないか。まあ、客の様子を見て、もう少し軽い方がいいなら、Cで」

 さすがに同じ曲を何度も弾くわけにはいかないので、2ヶ月くらいのスパンで、弾く曲を変えている。一日4回×30分なので、結構な曲数になる。季節を取り入れたり、CMやドラマで話題になったクラシックを見つけると、取り入れたりする。基本的にはポップスには逃げないというのが2人の約束なのだが、それも臨機応変ということで、ママや客からリクエストが入れば、文句を言いようがない。

「OK。それと、これ新曲でどうかと思って」

 楽譜を陸に手渡した。

「バーバーとマーラーか。ちょっと、重くないか?」

「最近お客さんが減ってるから、少し音で空間を満たそうかと……」

「ああ、なるほど。今度、合わせてみるか」

「よろしく。新しい常連さんにもリクエスト貰えたりしてるから、それにも応えたいし……」

「いつもの様に、土曜日営業前に合わせるか。来週、どう?」

「大丈夫。よろしくお願いします。楽譜、足りないものあったら、用意するから言ってね」

「うっし」

 六本木の夜は、まだまだ寒さの残る風に晒されていた。


「杉浦さん、少し時間を空けてほしいんだが……。申し訳ないが、仕事のことではないので、終業後の30分程お願いできれば」

「……はい」

 少し慣れてきた室岡課長に、呼び出された。1901会議室……。嫌な予感がする。美音は鎧を心に(まと)った。

「座ってくれ」

 先に待っていた室岡に、着席するように促される。先日までの気さくな様子とは、明らかに違う。美音は心を、どんどん自分から離していった。

「プライベートなことなので、踏み込むべきかまだ僕も決めかねている……」

 歯切れの悪い言葉が並ぶ。美音の顔が、益々無表情になる。室岡は、意を決したかのように話を始めた。

「偶然だが、先週と先々週、君が車で帰るところを見てしまってね……」

「……」

 さすがに美音に準備がなかった……。まさかそんな程度のことで、()()、呼び出されるとは思いもよらなかった。そういえば以前も感じたが、この課長は10年前どこにいたのだろう……。美音は室岡のことを、10年前を知らない上司なのだと、やっと認識した。

 しかしその認識は、逆に美音を傷つけていく。もう周りの人間にとっては、すっかり忘れ去られてしまったことなのだ。なのに、私はいつまでもがんじがらめで、這い上がるどころか、顔を上げることすらできないでいる……。

「別に君が、誰とどうプライベートを過ごそうが、問題はない」

「……」

「だが、もし万が一、君に何かあった時は、この会社の社員という肩書きが前面に出る。それを事前に回避しておくべきだと考えて、君に話を聞こうと思った。僕の考えは杞憂に終わりそうか?」

 室岡は真剣な目を美音に向けた。美音は室岡の真意をあらゆる角度から考察する。何に怯え、何を恐れているのか。沈黙が……、お互い充分に思考が巡らせることができる時間、流れた。


「課長の一番のご懸念については、ご心配要りません。()()は、反社会勢力の一員ではありませんので」

 彼ら、か……。強い目をして見つめられ、まるで勝負を挑まれているかのような気配に、室岡は美音の覚悟を読み取る。小さく溜息が漏れた。

「そうか……」

 これで話は終わりだ。釘を刺すことはできただろう。すぐにでも帰すべきだと分かっていた。だが室岡は、どうしても美音の、もう1つ奥にある言葉が聞きたかった。


「なぜ、もっと大切にしない」

 静かな声だった。美音はいきなり心臓を鷲掴みにされたかのように、動けなくなった。

「なぜもっと、自分を大切にしないのかって、聞いてる」

 どうしてこの課長は、こんなに辛そうな顔をしているのだろう。問い詰められているのは私なのに。

「なぜ、大切にしてないって、思うんですか?」

「……っ、それは……」

 全く表情が変わらない美音とは逆に、室岡は虚を突かれたように言葉を失った。

「私が、色んな男と寝てるから……ですか?」

「……」

「だれも、私を大切にしてくれなかったんです。きっと、大切にするほどのものでもないんです」

 だんだん小さくなる声で、独り言のように吐き出されたその言葉に、室岡は理解が追いつかない。

「何を……、言ってるんだ」

 美音はゆっくり笑顔になった。あなたが2番目に心配していることに、答えを返してあげる……。

「ご心配には及びません。お金を貰っているわけではありませんから。あぁ、それとも、もしお金を貰っているなら、会社辞められますか? だったら、貰います」

「……」

 辞められますかって、だったら貰うって、何だ!? どういう意味だ。そんなことしたら、即刻懲戒免職に決まっている。というより、もはやそれはれっきとした犯罪だ。一体君は、何を言っている……!?

「これ以上お話がないのなら、失礼してもよろしいでしょうか」

 室岡の返事を待つ気はないらしく、美音はあの雛人形の笑顔を湛えながら、丁寧にお辞儀をして部屋を出て行く。室岡は引き留める言葉を見つけられないまま、呆然とその場に立ち尽くしてしまった。


 同じ会社の従業員なのだ。室岡はそれからも何度かエレベーターの中で美音と一緒になることはあった。が、以前の様に気軽に声を掛けることは、もうなかった。それなのに、どうしてなのだろう。美音のプライベートを、他の誰でもない室岡が知ることになる。


 この日、室岡は接待で、客との待ち合わせ場所にタクシーで向かおうとしていた。そこは前とは違う場所だった。あれから当然美音も警戒して、前回の場所では2度と迎えの車に乗ることはなかった。更に遠くに待ち合わせ場所を変えて、分かりづらい所で待ち合わせをしたのに、それでも室岡はそれを目にしてしまう。

 今日は車まで違う。カイエンだ。ポルシェのSUVである。やはり、1千万を超える。そんな車に、美音は乗り込むところだった。今日の相手は、前の2人とも違う人物……。長身で、短髪の黒髪を綺麗に7:3にして、黒メガネを掛けている男性だ。前の2人に比べれば、かなり知的な印象だが、やはりとてもサラリーマンには見えない。こちらは、頭脳で上納金を手にしそうな、静かな佇まいにも係わらず、貪欲な目をしていた。


 誰だ、そいつは……! また、君は……っ! 室岡の足は、自然にカイエンに向かって走り出していた。もう少しで手が届きそうなところで、美音は車のドアを閉め終えていた。室岡は車道に降り立ち、美音の乗った助手席のウィンドウを、拳で横からドンッと叩いた。運転手は、思わずブレーキを踏む。驚いて窓越しに外を見上げた美音は、そこに眉間にしわを寄せて厳しい目で見下ろしている室岡の顔を見つける。

「誰だ?」

 運転席からは窓を叩いた人物の顔は見えない。美音は1度だけ眉を寄せ、ゆっくりと前を向いた。

「……いいです。行って下さい」

 無言で了解したらしい運転手は、アクセルを踏み車を発進させた。

「……」

 室岡は走り去る車を、じっと見送った。奥歯が、ギシッと軋んだ。

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