バーラウンジで
帰宅途中に寄ったバーで、美音はいつものようにカウンターの端に座る。あんまり、同じ店に入り浸るのは好きではないが、ここは特別。恭介がいる。ここのところ、3日と開けず通っていた。
「恭介君、新しいカクテルある?」
「美音さん、少し疲れてます? 弱めの方が、いいかな」
「う〜ん、やっぱりいいや。いつもので」
意図せずアルコール度の低いカクテルにされそうだったので、美音は安定の定番を頼んだ。
「はい、はい。いつものね」
恭介がグラスを扱う様を、両手を組んだ上にあごを乗せて、ゆったり眺める。彼は、カクテルの大会で腕を磨いている、向上心の強いバーテンだ。
「はい、どうぞ」
差し出されたお酒を、多めに一口飲んだ。喉から真っ直ぐ一筋、熱くなるのが分かる。ふーっ、と息をついた。
「珍しいですね。イヤリング……」
「あぁ、してるの忘れてた。……似合わないね」
そう言いながら、外してしまった。……いや、とても似合っている。だが敢えて、否定をしない。少し長めの揺れるタイプだ。緩くカーブした地金の先端に、小さくダイヤが光っている。本物だろうか? こういうものは、彼女は自分で買ったりしない。もう、随分前からアクセサリーなんて着けなくなった。つまりこれは、誰かからのプレゼントなのだろうと想像する。だから……、似合っているが、外してもらおう。
「食事、ちゃんとしました?」
「ちゃんとって、どういうの?」
「ちゃんとは、ちゃんとですよ。体、壊しますよ」
「壊れたら、面倒見てくれる?」
「嫌ですよ。面倒見るなら、健康な美音さんじゃないと」
「あら、相変わらず色男は、素敵な事言うのねー」
ゆったり笑った恭介は、ナッツが入った小皿を美音に差し出す。
「ん? 頼んでないわよ」
「少しでも、何か胃に入れて下さい。それは強いから」
「……、そんなに誰にでも優しいと、彼女は大変ねぇ」
「いませんよ、彼女なんて」
またまた〜と言いながら、更にグラスを傾ける美音を、恭介は悟られないように細心の注意を払って気遣う。やはり今日は、いつもより疲れている……。
彼女は、大学の1年先輩だ。もっと言えば、高校からの付き合いである。綺麗で明るくて、血気盛んな高校1年生の自分には、眩しすぎる先輩だった。
「祐一、凄いね〜。今度入った1年生、いきなりレギュラー?」
「ああ、恭介か? あいつ、中学のジュニア大会3位だからな」
「3位……。どうしてそんな子が、ウチみたいな弱小テニス部しかない学校に入ってきたの?」
「失礼だな、お前まで。国公立目指してるらしいからな。プロになるつもりはないらしい。大学に入るまで、テニスは一旦保留だそうだ。トレーニング程度ってことだな。は〜、真剣にやってる俺達に、失礼だよなぁ、まったく」
「実力の差じゃ、しょうがないよねぇ。この間の練習試合でも、ストレート負けだったし。応援しがいがなかった……」
「美音は、どSだな。事実でも、傷つく……」
「あー、ごめんごめん。祐一も来年のレギュラーは確実なんだから、頑張って!」
「へっ、そりゃ、2年は5人しかいないからな! って、やっぱりデスってるだろ……」
「ははっ、嘆かない、嘆かない」
拗ねた祐一の腕に、自分の腕をいとも簡単に絡ませ、下校していく姿を恭介は遠くから見送っていた。
部活の先輩の彼女だった美音と話すまでに、3ヶ月は掛かった。夏の大会の前に、たまたま下校中に美音の方から声を掛けてきたのだ。祐一先輩を待っていたのだと、後で知る。
「恭介君って、中学から硬式テニスやってたんだって? 部活で硬式って、珍しいよね」
恭介って……、名前かよ。せめて苗字にして欲しい。いちいち、心臓がやばい。
「いえ、小学校から兄貴と一緒にスポーツクラブでやってたので……」
「えっ、小学生からって、そんな前からなの!? ジュニア大会3位だったって聞いたよ。すっごいね〜」
褒められて、顔に血が上るのを止められなかった。
「美音〜、あんまりじゃれるな。大会前に、ウチの大事なエースの気持ちを乱すなよ」
美音の後ろからきた祐一先輩の目が、口調とは裏腹に、真剣に怒りを含んでいることに気が付く。もちろんそれは、美音へ向けられたものではなく、俺に向けられている。
「ちょっと話してただけでしょ。じゃれるとか、ないし! ねぇ」
と、甘い笑顔で、同意を求めないで欲しい。
「お前は、無自覚に残酷だな。わりぃな、恭介」
美音のおでこを、丸めた指の関節でコツンとしながら、祐一先輩が美音の横に立った。
「……、いえ」
恭介の美音への気持ちに、この祐一先輩は気づいているのだと分かり、いたたまれない……。
「変なの〜、祐一。じゃあね、恭介君。大会頑張ってね。応援行くからねー」
「……」「……」
すれ違い様、美音の視界の外で、祐一先輩にガッツリ睨まれた。「俺の女に手を出すんじゃねぇ」だな……。
「何1人で、ニヤついてるの〜?」
ふっと思い出し笑いをした恭介を、美音は目ざとく見逃さない。美音のからかう様な声で、恭介の耳にバーの喧騒が戻ってきた。美音に水を出しながら話す。
「昔のことを思い出してたんですよ。美音さんがまだまだ、こんなおばさんになる前の、若かった時のことです」
「ほんとにその口の悪いの何とかしないと、嫁の来てがないよー」
ぷーと膨れた美音に向かって、「水も交互に飲みなさいよ」と子ども扱いしておいた。他の客に声を掛けられ、美音の前から離れた。
室岡はボックス席の座り心地のいい椅子に、肘を付き、その手に頭を少し預けて、目の前の男の話を聞くともなしに聞いていた。
「でな、沖縄に新しくできるリゾート施設に、井波が絡むらしいんだ。この間、連絡をもらってな。4億ぐらい動くらしい」
「……」
「室岡、聞いてるか? お前、今日どうした。食事の時も、たまに上の空だったぞ」
「……いや、すまん。井波がどうしたって?」
「だから……。まぁいい、よそう」
山内は溜息交じりに一息ついて、ウィスキーのダブルのストレートを口にする。相変わらず、酒が強い。
この山内は、大学時代からの友達だ。エネルギッシュな人間で、一緒にいると常に「戦」をしているかのような気持ちにさせられ、モチベーションが自然と上がる。大学卒業後、一流商社に就職したが、海外での商売の仕方を身に付けた途端、あっさりと退職してしまった。どうするのかと思っていたら、商社時代に培った人脈で、あっという間に自分の会社を立ち上げた。今では海外に4店舗も店を構え、今後更に増やしていこうとしている。誰もが躊躇する、人生での「一歩踏み出す」という膨大なエネルギーを必要とする事柄を、軽々とやってのける尊敬すべき友人である。
彼が東京に来た時には、いつも会っていた。今日は取引先との仕事を終えた彼と、久々に夕食を共にし、宿泊先のこのホテルの、最上階にあるバーラウンジに落ち着いていた。
「お前、最近ちゃんと遊んでるか? これから、いつもの店にでも繰り出すか」
「あぁ、かまわんよ。最近あの店には、顔出してないからな」
そんな返事に右眉を上げながら、山内は背中を椅子にドサリと預ける。
「特定でも、できたか?」
「……。いや、ちょっと、忙しかっただけだ」
「何だよ、今の一瞬の間は。仕事は順調だって言ってたよな」
アルコールが少し回ってきて、昼間の美音の顔が頭を掠める。
「……」
「気になる子でも、いるのか?」
「……まぁ、ちょっとな」
「へぇ〜、どんな子?」
「……。いや、いい。次の店行くなら、もう出ようか。どうせお前、持ち帰りたいんだろ」
「何だよ、他人事かよ。モヤモヤしてるなら、お前もすっきりしたらどうだ」
「そうだな」
室岡は「ここは俺が持つよ」と言いながら、席を立とうと視線を出口の方に向けた。……えっ。
今、まさに、その「気になっている」女性の顔を見つける……。小さく息を詰め、瞠目した。
「ん……? 知り合いか?」
その動きに気付いた山内が、室岡の顔を覗きこみながら確認してくる。
「……。少し、出るのを待ってくれるか……。いや、先に行ってくれていい。すぐ追いつく」
「はは〜ん。……まさか、こんな偶然! って、顔してるぞ〜」
くっくっ笑いながら、もう一度椅子に深く沈みこんだ山内が、無礼な視線を送ってくる。
「まったく、な……」
そう答えながら、室岡も深く椅子に座り直した。
「あの子、前も見たな。綺麗な子だから覚えてる。ちょっと、トウが立ってるが、まぁ、お前にはちょうどいいくらいかな」
同い年のくせに……と、山内の戯言を聞きながら、目だけは彼女を追っていた。立ち飲みバーでもあるまいに、女性が1人でこんなバーに来るのは、少し目立つ。何より、彼女には似合わない……。待ち合わせでもしているのだろうか……。今の山内の言葉からすると、初めてではないらしい。
「ん……、あのバーテンと知り合いか?」
山内の言葉は、そのまま室岡の疑問でもあった。……あんな顔。
「見たことないな……」
小さな声で、呟いていた。あんな、誰かに気を許したような顔、会社では見たことがない。気さくに「恭介君」と呼んでいる声が、小さく届く。つぅっと、体の中心が引き攣れた様に反応した。
「何だか、不思議な女性だな。ひどく……、捉えにくい」
数多くの女性と浮名を流してきた山内が、珍しいことを言う。「大抵の女は、5分話せば分かる」と、いつも豪語している男が掴み切れないとは、室岡にもその意味が何となく分かる気がした。
室岡が、眉間にしわを寄せ、ぐっと奥歯を噛みしめた。「恭介」と呼ばれたバーテンが、無造作に美音の耳元に片手を伸ばし、そこにある小さな煌めきに触れた。まるでそのまま美音の顔を引き寄せ、キスでもするかのような仕草で、愛撫そのものの様な手の動きだった。美音は、特段嫌がるでもなく、その触れられた煌めきを、スッと外してしまう。反対側の耳の煌めきまで、外してしまう。
――どうですか?
昼間、室岡が「試供品」と偽って贈ったイヤリングだった。女性にアクセサリーを送ることは、今まで幾度となくあった。しかし、今回ほど真剣に選んだことはない。目立ってもいけないし、安物では彼女を軽く見ているかの様で、手を出せない。遠慮されるような代物でもいけないし、クライアントが扱いそうな価格の範囲でなければ、「試供品」とは誤魔化せないだろう。手に取るのを躊躇させてもいけないし、特別だと思われてもいけない。そして何より、彼女にずっと身に着けてもらいたい、ギリギリの選択で結構苦労した。
すごく似合ってるんだぞ。外させるな! と心で叫んでみても、状況が変わることはない。美音はそれを、グラスの横にそっと置いた。
「あいつ、彼女に惚れてるな……」
そんなことはいちいち言われなくても、見てれば分かる。では美音はどうなのかと更に見続けるが、やはり心を探ることが難しい。
「俺が、試してやろうか?」
山内が、嫌な予感しかしない言葉を放つ。
「手を……、出すな」
室岡は小さくけん制する。威嚇を含んだ目で見据える。
「おっ、こりゃいい。ちょっと楽しくなってきた。彼女を落とせたら、俺の勝ちだ。次、奢れよ」
山内はサッと立って歩き出す。こういう時の彼の行動は、早い。もちろん本気で止めれば、止められることも分かっていた。が……、見てみたい……と思った。室岡も、彼女がどうするのか、見てみたい。知りたい気持ちが上回ってしまって、止めることができない。
「美音さん、気を付けて」
恭介はそう言うと、美音の前からスッと離れた。
「何、飲んでるの?」
後ろから、美音に男性の声が掛かる。ゆっくりと横を見れば、40歳前後のスーツを着た男性が、何の戸惑いもなく隣の椅子に腰掛ける。サラリーマンではないと、ひと目で分かる空気を醸し出している。その顔には、自信に裏打ちされた、それでも嫌味を感じさせない笑顔を湛えていた。美音はゆっくり微笑んで自分のグラスに目を戻した。
「モスコミュール」
「ウォッカが、好き?」
「……少し強いのが」
「もうすぐ終わりそうだ。1杯、ご馳走してもいいかな」
「どうぞ……」
ご勝手に……、とまでは声にしない。美音も笑顔を崩すことはしない。少し顔を傾けて、嬉しいと言っているかのように、更に微笑みを足す。
「彼女に、バラライカを」
また随分強いのを飲ませる気だ。そんなに、女に飢えてるようには見えないが……。まぁ、好きにすればいい。
「一昨日も、ここで飲んでたよね」
「あら、そうでしたか?」
すっとぼけて、恭介がカクテルを作る様を眺める。
「出張で1週間こちらにいるんですよ。今日は、接待がキャンセルになっちゃってね」
「……どちらから?」
「福岡です」
「情熱的な男性が多い、福岡?」
「ははっ。そうでもないですよ。田舎者です」
と言う割には、仕立てのいいスーツにコードバンの靴。それに、当然のように腕にはロレックスが光っている。ダイヤがちりばめられているものだ。しかも今は、目に色気を隠すことなく宿していて、こんな目で見られたら、多くの女性は心を動かされるだろう。そしてそのことを、彼はしっかり自覚している。
白く半透明なカクテルグラスが美音の前に置かれた。「バラライカ」だ。これにもウォッカが入っている。レモンの香りで女性にも飲みやすいカクテルなのだが、アルコール度数はかなり高い。美音は一口含んだ。
「美味しいですね。女性が好きなもの、よくご存知……」
「お口に合いましたか? それは、よかった」
美音はふーっと息を吐く。
「仕事の帰り? それとも、君も宿泊してる?」
「仕事の帰りです」
「何度も来るなんて、ここ、気に入ってるんだね。確かに、東京の夜景は、いつ見ても綺麗だ」
バーのカウンターに座れば、夜景が目の前に広がるように、バーテンの後ろがガラス張りになっている。世界のどの都市と競っても負けない人口を抱え、眩い光の景色の境目は地平線まで続いているようで、ドバイやラスベガスのように突然終わったりしない。見渡す限りの人の営みが、その輝きを絶え間なく「創って」いる。
「こんな夜景を見てると、自分の悩みなんて、大したことないように思えてくる」
そうだろう。いかにも、あなたの様な人が言いそうだ。「小さなことで悩んでろ、お前ら!」と、下の人々に向かって叫びそうだ。
「この中の1つくらい光が消えても、誰も気が付かないでしょうね……」
「……」
山内は飲もうとしていたグラスを、思わず止めた。ゆっくりテーブルに戻す。そうか……、その綺麗な顔が、なぜしっくりと彼女にそぐわないのか、糸口を見つける。彼女には、拭いきれない絶望感のようなものが纏わりついている。
……面白いな。悪いが室岡、真剣に落とさせて貰う!
「夜はまだ終わらない。もう1件行きませんか。こちらに来た時に、よく行く店が近くにあるんです。君みたいな素敵な人には、次いつ会えるか分からない」
「今日は、少し疲れてて……。早く、休みたい……」
そう言って、山内の目をじっと掬うように見上げた。潤んだ瞳に見つめられ、山内は彼女の言葉を的確に汲み取る。
「私の部屋で、少し休んでいかれませんか? 割と眺めもいい」
「……」
美音は微笑みながら、傾けるように彼のほうへ顔を向けて、ゆっくりと目を伏せてから瞼を開けた。まるで、「いいわ」と応えたかのような瞬きだった。
「先に行って頂けますか。この後、少し約束がしてあったので、断りの電話を入れます」
「じゃ、待ってますよ。部屋番号は4311」
コンシェルジュフロアだ。彼だったら、もっと素敵な女性を手に入れられるだろうに……。高級ワインばかりではなく、たまには田舎のにごり酒でも飲もうか、とでも思っているのだろうか……。
「部屋にまわしておいて」
と恭介に言っている。サインをしながら、もう一度美音のほうへゆったりと向けたその顔には、野心と欲望を隠すことなく、取り繕うように小さな笑顔が張り付いていた。美音はスマホを耳に当てながら、小首を傾け綺麗に微笑んで、彼の顔を見送った。
「恭介君、お水ちょうだい」
山内の姿が見えなくなったところで、さっきまで恭介に見せていた「普通」の顔に戻った。水を飲んで席を立ち、支払いを確認すれば、
「先程のお客様が」
と言われる。1杯目のカクテルまで支払ってくれたようだ。それは、ごちそうさま……。グラスの横に置いていたイヤリングを、両耳に着け直す。
「じゃね」
と右手の指をひらひらさせて、恭介に別れを告げる。恭介はにっこり笑って
「またのお越しを」
と頭を下げた。美音は、そのままエレベーターホールに向かった。
室岡は、その様子を、じっと見つめていた。一番奥のボックス席に座っていたので、美音が余程周りを気にしていなければ、気が付かないだろう。彼女がエレベーターに乗り込んだであろう時間、待った。そのまま席を立つ。1万円札を恭介に渡し、「すぐ戻る」と言ってエレベーターホールに急いだ。動いている下りのエレベーターは、今ちょうど1基で見分けがつく。そのことに小さく安堵の溜息をつきつつ、階を表すランプの明かりをじっと見ていた。43階は……、そのまま止まらずに通過する。それを見届けて、バーに戻った。既に用意されていたお釣りを受け取る。
「君は、彼女の知り合い?」
「彼女とおっしゃられますと?」
「杉浦美音だ」
名前を、知っている……。何だ、こいつ。
「杉浦様は、お客様です」
恭介は表情を変えることなく、静かに答えた。
「恭介君と呼ばれていた」
「……。お客様は、杉浦様とどういったご関係ですか?」
「珍しいな。バーテンが、そんなにストレートに聞くとはね」
それ程、彼女を守りたいとでもいうのだろうか……。一体、彼女の夜の顔は、どうなってる……。
「こちらも、お客様の個人情報になることは、お伝えするわけには参りませんので……」
そう言うと、恭介はバーテンとは掛け離れた視線を室岡に向けた。
きっと美音には見えていなかっただろうし、美音のような女性が1人でバーにいれば、よくある視線だったので、特に警戒もしていなかったが、恭介には、室岡と山内の2人の行動は、手に取るようによく見えていた。店内全てに目を配るのが、バーテンの役目だ。
美音がカウンターに座るや否や、それを見つけた室岡の視線が鋭くなった。その室岡の態度に気付いた山内が、美音を見ながら室岡に話し掛ける。室岡は美音を見据えたまま二言三言返し、それを聞いた山内が、嫌な笑いを顔に浮かべた。
男性が欲情に向かう時の顔は、余程のことがない限り、世界共通の顔をする。それを醜いと思うほど自分は枯れていないし、聖人でもないと恭介は理解しているが、相手が美音の場合に限っては、やはりいい気はしない。
案の定、山内は美音を誘った。きっと、2人で美音相手に賭けをしたに違いない。それならば、山内よりは、美音が誘いに乗らない方に掛けただろうこの客の方が、まだ客として対応してやるだけの、薄っぺらい価値はある。
「どうやら、私達が悪ふざけをしたのを、分かっているらしい……」
ふっ……。随分、はっきり言う。思わず言葉にしてしまうほど、罪の意識が働いているのか?
「悪ふざけ……でございますか?」
「大人の悪ふざけだよ。そうされる彼女にも、隙があるということだ」
やはり……。言い訳をするだけ、まだましと言える。彼女を人として扱っているということだ。
「女性は、ただの息抜きもできないと? お部屋には、行かれなかったのでは?」
そこまで、お見通しか……。彼には分かっていたわけだ……。
彼女は、誘いには乗らない。
その確信がなければ、今頃彼も、もっと慌てていたに違いない。
実はそのことは、室岡にも予想がついていた。山内が横に座った途端、それまでの「生身」の美音に触れているかのような顔が、一瞬で消え去ってしまった。そして、会社で見慣れた「笑顔」に変わってしまったからだ。それは見事といえる程で、その瞬間、賭けには勝てたと、小さく息を吐いた。
なので、その後「妖艶」とも言える笑顔まで見せられても、不安にはならなかったのだが……。この彼のように確信にまでは至らなかった。もし43階で降りる様なら、部屋まで押し掛けるつもりだった。
「……」
睨み合ったまま無言の攻防がほんの4、5秒あり、室岡はそのまま店を出た。後ろから恭介の「ありがとうございました」と言う声が、小さく聞こえていた。歩きながらスマホに手を伸ばす。
「残念だったな。彼女はもう、今頃ホテルの外だ。賭けは、俺の勝ちだな」
「はっ! 来ないってか! ……まぁ、こういうこともあるさ」
悔しそうな声がスマホの向こうから聞こえてくる。
「しかしなぁ……、誘った時、いい顔したんだけどなぁ……。あの子、お前には手に余るぞ。闇が深い。だから、真剣に欲しくなった。……あ〜やっぱり、一緒に店を出るべきだったなぁ」
「それはどうかな。多分、別の方法で逃げられてたぞ」
「分かったよ。今度、奢る。ただし、その時はちゃんと持ち帰れるお店を用意しろよ」
「相変わらず、お前は注文が多いな。じゃあな」
闇が深い、か……。一体君は、何を抱えてる……。
店を出る前、あのイヤリングを着け直してくれたことが拠り所となって、室岡の胸に小さな明かりが灯る。
そのまま室岡も、ゆっくりとホテルを後にした。