エレベーターで
「おはようございます」「おはようございます」
エレベーターの前で毎朝繰り返される光景である。乗り込めば様々な香りが充満する。東京は男性でも香水を付ける人が多い。人の密度が濃いからか、香りに敏感なのだと思う。美音も上京してきた時はその事に驚いた。今ではもう当たり前になったが、その香りに馴れることは、まだ少し難しい。特に朝一は、その他にも女性の化粧だったり、おろし立ての洗濯の柔軟剤だったり、個々の香りが強い。なるべく息を吸わない様に頑張って到着を待つ。一旦、乗り換えが必要だった。
このビルは一般の人々が出入りする商業施設もあるので、オフィスフロアしか止まらないエレベーターに乗り換えなければならない。この時間は直通も何基か動いているが、美音は途中で息を吸うためにも、乗り換えの必要なこちらのエレベーターを使っていた。
「ふー」「ふー」
降りた途端、美音と同じように大きく息を吐いた人物が斜め後ろにいた。思わず振り向く。目が合ってしまったので、挨拶しなければならないだろう。
「おはよう、ございます」
室岡課長だった。
「おはよう」
美音は割と早く出社するほうなので、課長と朝会うのは珍しかった。
「早いね。いつも?」
「あっ、はい。少しは混雑が避けられるかと思いまして」
「そう」
「……」
もうすぐ、乗り換えのエレベーターが来る。これ以上、会話はないだろうと思っていたが、続いた。
「朝は、匂いが強いよね」
「……えっ」
「さっき、深呼吸してたでしょ」
「……課長も、ですか?」
「こう見えてもね、意外と鼻が利く」
美音は思わず笑ってしまう。確かに課長からは、人工的な匂いはしなかった。ほんの少し、個人の臭いがするだけだ。それも、嫌な臭いではない……。
「じゃあ、あと少しの試練ですね」
「ああ、頑張るか」
一緒に到着したエレベーターに乗り込んだ。先に室岡が降りる。「じゃ、お先」と美音に声を掛けていく。小さく会釈を返し、別れた。自然と笑顔になっていた。何年ぶりだろう、会社の人とこんな風に、息を吸うように自然に会話ができたのは……。
「杉浦さん、会議室の準備すんでる?」
「はい。資料はテーブルに配布してあります」
「今日、杉浦さんも出てくれる? 議事録頼みたいんだけど」
「はい。分かりました」
直属の上司から指示を受ける。上司なのだから、「出てくれる?」ではなく「出て」でいいのだ。特に急ぎの仕事があるわけでもないことは、彼が一番分かっている。もし私が「嫌です」と答えれば、きっとそのまま了承されてしまうだろう。これが、美音の会社での立場だった。全てのことが、壮大な忖度の末に指示される。もう、慣れた。
準備のため先に会議室に行くと、室岡がいた。
「あれ、今日はよく会うね。君、名前は?」
「3課の杉浦です……。何やってるんですか?」
室岡が両腕を万歳したように伸ばしていた。その手は、手ぬぐい(?)の両端を握って引っ張っている。
「ストレッチ。こうすると肩甲骨、良くほぐれるんだよ。やってみる?」
「いえ、私は……」
「そう?」
上にあげた両腕を、手ぬぐいを持ったまま首の後ろに下ろして、また上げて……。美音などお構いなしに続けている。名前を聞かれるなど、あれ以来、ついぞなかったことだ。美音は静かに驚いていた。この課長は、どこからきたのだろう……。ヘッドハンティングか、関連会社からの出向者だろうか……。
「あの、課長。ここ、3課がこれから会議で使うのですが、お部屋間違っていませんか?」
「あれ、聞いてない? 今日は、アドバイザーだよ」
聞いていない。慌てて資料の数を確認する。やはり、1部足りない。
「すみません。資料をご用意していませんでした。私のミスです。すぐ持ってきます」
「……いいよ。聞いてなかったんでしょ」
「いえ……」
これではウチの課長が叱られる。余分な争いは避けるべきだ。時間の無駄だ。部屋を出ようとしたところで声が飛ぶ。
「いいよ! 聞こえなかった? 皆んなのプレゼンを、白紙の状態で見てみたいから、資料はいらない」
「……すみません」
「君、杉浦さんだっけ? 言い訳もしないし、頭の回転の良さも認めるけど、人の言う事には意味があるって、分かった方がいいよ」
「はい」
こんな風に叱られるのは、何年ぶりだろう。叱られた痛みより、叱られたことそのものに驚きが隠せない。
「まぁ、どうやら君のとこの課長は、いつもそんななんだろうから、フォローが身に付いてるんだろうけど」
「いえ……」
「ほんとに、君もストレッチしない? これ、すごく効くんだけどねぇ」
もう話題が元に戻って、グチグチと引きずらない。これが、この歳で課長になる実力なのだろう。少し……、この会社に感心した。
室岡の毎日は忙しい。企画営業から持ち込まれた仕事の把握、客先への訪問はもちろん、採用すべき媒体の選択、クリエイターの選択と調整、新規人脈の構築……。時間がいくらあっても、足りない。
「広瀬、今からで間に合うか?」
「はい。先方には1時間ズラしてもらう様、調整済んでます」
「よし。行くぞ」
「はい」
この課長、優秀ゆえに他を巻き込む癖がある。少しでも良いと思われる方向を思いついた時点で、すぐに変更を仕掛ける。振り回されているはずの部下たちは、それでもモチベーションが下がらない。カリスマ性というのは、こういうとこころで分かるものだ。
室岡と広瀬が下りエレベーターに乗り込むと、美音が乗っていた。先日の会議以来だ。
「やあ」
「お疲れ様です」
先に降りる美音は、少し会釈をして「閉」ボタンを押しながら降りていく。扉が閉まったのを確認して、広瀬が質問してきた。
「課長、あれ誰でした?」
「3課の杉浦さんだ」
「3課の杉……、えっ」
「えって、何だ?」
「いえ、何でも……。課長、随分気軽に声掛けてたから……」
「変なこと言うなぁ。あれぐらい、誰にでもしてるだろ」
広瀬は少し困惑した表情をした。そしておずおずと室岡に聞いてくる。
「あの、課長……。10年前って、どこにいました?」
「大阪だ」
「……なるほど」
「何だ? 嫌だぞ、僕だけ浦島太郎なのは」
「……、何でもありません。さっ、行きましょう」
広瀬はエレベーターが1階に到着したのをこれ幸いと、室岡を押し出した。
「……」
さすがに室岡は、それ以上追及しなかった。しゃべれないってことか……。
気にするようになると不思議と出会うことが多くなる。いや、出会っていることに気付くようになるというのが本当か……。いずれにせよ、鶏と卵だ。
「何階でしょうか?」
「21階で」
「はい」
今日も美音とエレベーターの中でバッタリ会った。先日来、こちらは特に変わらず接しているつもりなのだが、美音の表情が最初に話した時とは随分違っていることに、今更気が付いた。
全く、笑っていない。
いや、あの時もニコニコ笑っていたわけではなかったが、この「無表情」とは明らかに違った。もっと「普通」だった。普通に「朝の香り」の話をした記憶だ。あの会議の時注意したことを、根に持っているのだろうか……?
「体調でも、悪いのか?」
いきなりそう言われて、美音はさすがに戸惑う。
「い……え……」
そうだ、これが「普通」の顔だ。何故そんなことを言うのかと問いかけている美音の顔に向かい、室岡は言い放つ。
「君は、もう少し笑えないのか?」
「……」
「客が疑う。まるで明日にでも自殺しそうな顔をしている」
「……申し訳ありません。気を付けます」
そういって下げた頭を上げた時には、まるで接客セミナーのインストラクターの様な笑顔になっていた。室岡は小さく瞠目した。
「……ちゃんとできるなら、いつもそうしていた方がいい」
「はい」
室岡はエレベーターを降りた。小さく鼓動が波打っていた。綺麗な顔立ちなのだと気付いたこともあるが、なんだか触れてはいけないものに触れたような、一種の危機感のようなものを感じたからだ。あの笑顔はどこかで見たことがある。廊下を進みながらゆっくり考える。あぁ、そうだ。小さい時、姉の節句に並べられた雛人形のお雛様だ……。そう、夜トイレに行った時にうっかり見てしまって、怖くて泣いたのを、ふと思い出した。
「なんなんだ、あれは……」
その時はひどく気になったが、数日も経てば室岡の記憶からはなくなっていた。
クライアントを外まで見送った後、上に戻ろうと乗ったエレベーターは、直接室岡の階まで行かない。乗り換えようと降り立てば、ちょうど1基、上りの扉が閉まりかけていて、慌てて室岡は飛び込んだ。美音が乗っていた。
「……いやっ!」
突然、美音が片手を顔の前で振りながら、狭いエレベーターの中を右往左往する。時刻は14時を過ぎたあたりで、今日は天気も良く、外はポカポカと温かい。ビルの外壁側だけがガラス張りのこのエレベーターの中にも、柔らかな日差しが降り注いでいる。美音1人だったその空間に、後から入った室岡は驚いて
「何?」
と声を掛けるが、必死の彼女の耳には入らない。よく見れば、小さなモンシロチョウが上のほうでヒラヒラしていた。
「……蝶。どっから入ってきた?」
さっき、課長と一緒に入って来たー! 美音はボタンの前で、しゃがみこんでしまう。
「……」
室岡はエレベーターの外に出ようとしてパタパタしていた蝶が、腰のあたりにある手摺りに留まったところを、そっと片手で捕らえた。
「もう、大丈夫。捕まえたから」
そう声を掛けるが、聞こえているのかいないのか、美音はまだ立てないようだ。頭を抱え、うずくまっている。そばまで行って、空いているほうの手で、美音の肩にそっと触れる。
「もう、大丈夫」
「……はい」
室岡は立ち上がろうとしている美音に手を差し伸べた。美音はその手を取って、何とか立ち上がる。しかし、立ち上がったらすぐに、エレベーターの奥にそのまま後ずさって行ってしまう。
「ははっ」
室岡は思わず笑ってしまった。まだエレベーターは通過階の途中で、目的のフロアに到着しない。室岡は半身だけ美音のほうに向けて声を掛ける。美音は、室岡の指で拘束されている蝶に目を留めたまま微動だにしない。
「蝶、嫌い?」
「……怖くて」
「こんなに小さくて可愛いのに?」
「小さい時に……、部屋に入ってきた蝶に追っかけられて……」
蝶のそばで人が動くと、その動いた空気に巻き込まれて、蝶が後からついてくるかのようになる時がある。きっと、そんなことだったのだろうと室岡は想像した。
「その後、熱が出て……、母が庭に塩を撒いてくれて、やっと熱が下がったんです」
この子がこんなに話すのを初めて聞いた。きっと、余程パニくっているのだろう。
「そう……」
エレベーターが到着する。しかし、そこは室岡の目的のフロアでもなければ、美音のフロアでもなかった。どうやら室岡が1番近くのフロアのボタンを押してくれたらしい。降りようとする室岡に向かって、美音は慌てて声を掛ける。
「わ、私が降ります。課長は、そのまま乗っていてください」
「いや、いいよ。早く蝶を放してあげないと、可愛そうだ」
そう言って、そのまま降りていってしまった。降り際、少し振り向いた顔には、優しい笑顔が浮かんでいた。
「……ありがとう、ございました」
1人になった美音は、既にいなくなった室岡に向かい、小さくお礼を呟いた。
エレベーターを降りた室岡は「さて、どこに窓があったかな……」と呟きながら、給湯室を目指す。確か、少し開けられる小さな窓があったはずだが……。高層ビルなので、ほとんどの窓は開けることができない。予想通り無事見つけて、そこから蝶を放してやりながら、美音のことを思った。
「ふっ……」
可愛かったな。小さく息を吐くと、吐いた息の分だけそんな言葉が胸に満ちた。
この間、彼女は雛人形の様な笑いを顔に貼り付けた。けれど、さっきの怒ったような、拗ねたような、きっとあれが素顔なのだろうと思われるあの顔の方が、よっぽど人の心を和ませる。そんな単純なことに、彼女は気付いていないのだろうか。どうして、あんな笑顔を覚えてしまったのだろう……。室岡は、美音の手を取ったほうの掌を、しばらくじっと見つめていた。
また今日も、室岡と美音はエレベーターで2人になった。めったにないことなのに、どうしてこの課長とはこの状況になりやすいのか……。あっ、笑顔にしないと……。美音は口角を急いで上げた。
扉を挟んで反対側に落ち着いた室岡が、胸ポケットからなにやら出す。
「杉浦さん。これ、クライアントからの試供品。着けて、感想教えて。嫌なら、捨ててくれていい」
「……はい」
渡されたのは多色のボタニカル柄が美しい、ストールが入っていると思われる袋だった。ビニール袋の上からでも素材の繊細さがわかる。超極細の糸で織られている。ガサついた手で触るのが怖いと感じる程、安物とは思われなかった。
「綺麗な発色ですね」
「そうか。第一印象は、発色か」
「はい、そう思います。まるで高級メゾンのような……。高価なものなのではないでしょうか?」
「見ただけで、そこまで分かるのか?」
「あっ、違ったらすみません。でも、私にはそう見えました。きっと遠くから見たら、柄が浮き出て見えると思います」
「なるほど。了解した。着け心地なんかも、教えてくれ」
「分かりました」
「杉浦さんは、いつも黒のスーツなんだな」
「……すみません」
「いや、いいよ。別に、悪いって言ってるんじゃない。確認しただけ。それ、着けたところ見れないのかと思ってね。僕ではその状態じゃ、想像すらできない」
「あぁ、分かりました」
「急がなくていいよ。いつでもかま……わ……」
室岡の前で、美音は徐にジャケットを脱いだ。白いシャツの第1ボタンを外し襟を立てて、その上からストールを掛ける。1つにまとめていた髪を下ろし、少しほぐして、片側に流し、光の当たるガラス張りの方に移動した。
「どうですか?」
「……」
あっという間の出来事に、大抵のことには動じない室岡が、目を瞬いて言葉を失った。ストールが光を通し、柄を浮き上がらせる。白いブラウスの上に乗ったことにより、更に色がハッキリとした。柄が、コントラストの中に綺麗に映えていた。何よりも、その髪や肌にも光が透け、華奢な肩や腕もくっきりと映し出され、肢体のシルエットがあらわになる。更に色とりどりの模様が、見たことのない美音の美しさを際立たせてしまった。
チンッという音と共にエレベーターが止まる。ドヤドヤと人が入ってきて、嫌でも室岡は美音の隣に立つことになった。
「課長?」
「あっ、いや、いいよ。本当に綺麗な色だ……」
「そう思います。素材ももシルクなんですが、コットンのような手触りで、扱いやすいと思います。これは売れると思いますよ」
「……そうか」
「ただ、お高いと思うので、OLで手が出るかどうか……」
「……そうか」
「あっ、それは感想には関係ないですね」
「……そうか」
「……、課長?」
「いや……、そうか」
室岡のおかしな返答を不思議に思った美音は、室岡の視線に合わせたのだが、その途端、逸らされてしまった。次に止まったフロアは、室岡のフロアで、そのまま降りて行こうとする。
「……」
美音が声を掛けようかどうしようか迷ったところで、室岡が閉まるドアを抑えながら振り向いて言葉にした。
「とてもよく似合ってるよ。今後もまた、意見を聞かせてくれ」
「あ……、はい」
美音はこの時改めて、自分の行動を自覚した。どうしたらこのストールの美しさを伝えられるかに集中していたために、今までの自分の行動範囲から逸脱してしまっていた。降りずに残っているほかの社員に不思議な顔で見られながら、慌ててジャケットを羽織り、髪をまとめた。
降りた室岡の方は、意味もなく足を速めながら、独りごちていた。
「まいったな……」
午後になり美音は自分のデスクでパソコンを叩いていた。
「お世話になります」
という声とともに、キリっとした面立ちの女性がデザインチームのデスクに来た。見たことのない顔で、ネームカードには「来客用」と記されている。クライアントの様だ。少しだけ画面を確認した後、打ち合わせブースに移動する。美音はお茶を出すため席を立った。
「失礼します」
そうテーブルに紙コップを置いたところで、クライアントの女性が美音のストールに目を輝かせた。
「あら、それうちの商品ですね」
女性の視線の先を確認した美音は、自分がストールを外していなかったことに気付く。どちらのクライアントのものかを聞いていなかったことを後悔しつつ、話を合わせた。
「あっ、はい。綺麗な色ですね」
「ありがとうございます。そうなんですよ。イタリアで染色した生地なので、発色が全然違いませんか?」
「はい。高級メゾンの様な……」
「ええ。エトロと同じ工場で生産された物なんですよ」
「エトロ……。そんな高価なものを配ってらっしゃるんですか……?」
「配って……?」
女性の不思議そうな顔を見た瞬間、美音は全ての事情を把握した。そうだ。こんなに高価そうなもの、試供品で配るはずがない……。
「あっ……、違いますね」
「はい。ウチの、この春の目玉商品の1つだったんです。お陰様で、店頭で即完売でした。今回こちらで立ち上げていただくオンラインショップには、載せる間がありませんでした。再入荷のお問い合わせも何件かあったんですが、今回はこれきりなので、手に入れられたのはなかなか貴重だと思いますよ」
「そうだったんですね。すみません……。頂いたものだったので、よく知らなくて……」
「あら、プレゼントでしたか。じゃあ、プレゼント主さんもお目が高いってことですね。私が言うのもなんですが、高価ですし」
「……やっぱり、そうなんですか?」
「ええ。あなたのように素敵な方につけていただけると、いい宣伝になります。ありがとうございます」
「いいえ、とんでもない」
ドキドキしていた。自分の席に戻っても、鼓動が収まらない。大きく1つ深呼吸をして、胸にこぶしを当てた。小さく、でも鋭く、何度も叩いた。まるで釘を打ち込むように、気持ちを叩き込む。叩いて叩いて、平らにして、なにも感じない心に戻していく……。
「痛い……」
心臓が小さく悲鳴を上げた。
中だるみのする週の真ん中の水曜日。今日は朝から雨が降っていて、窓に当たる雨粒が、時々コツコツと音を立てる。昼食の時間、美音はいつものように一人で食事を取っていた。食堂の窓際には長いカウンター席が作られていて、1人や少人数の人達が利用しやすくなっている。
窓から眺める外の景色は、色とりどりの傘の花が咲き、美音は眺めるともなく見下ろしていた。食事を終えた美音は、しばらくここで休憩をする。頭の中ではショパンの「雨だれ」が流れている。時々クラブでも弾いている曲で、この曲の時は、陸のチェロはお休みだ。
正式には「24の前奏曲(作品28)第15番<変ニ長調>」という。「雨だれ」は俗称で、ショパンが付けたわけではない。しかし、静かに連打される変イ(ラ♭)の音が、実際に降っていた雨の音と調和していたと、恋人サンドが手紙で書いたのをきっかけに、そう呼ばれる様になったと言われている。
曲は3部構成で、中盤に変ニ長調から嬰ハ短調へと変わり、重々しく鬱々として、時に強く打つ雨音に変わる。再度、変ニ長調に戻り、永遠に雨は降り続けるかと思われるのだが、どんどん雨足は静かになっていき、突然B(シ♭)の1音で光が差し込み、静かに止んでいくのである。
美音はこの光の1音を弾いく時、いつも全身に鳥肌が立つ。目を閉じて、そのメロディを体で感じていた。
ふと、美音の記憶にある香りが漂い、現実に戻される。そっと、目を開けた。
「やあ、探したよ」
「……課長」
「いつも1人で食べてるの? またクライアントから試供品をもらってね。君に渡そうと思って」
美音は打ち込んだはずの想いが、何かに押し返されたかのように跳ね上がってくるのを、必死に堪えた。手渡されたそれは、小さな不織布の袋に入っていて、いかにも試供品っぽい。
「イアリング……」
中身を取り出して戸惑った。これも、本当は課長が用意したものなのだろうか……。
「あの、私の他にも、お似合いの方が沢山いらっしゃるかと思うんですが……」
「あぁ、今のクライアントのターゲットが30代〜40代でね。ウチの課にはいないんだ。セクハラって言われると困るんだけど、あくまでもマーケティングとしては正確に行わないとね。君だと、丁度いい。よかったら、着けて見せてくれる? もちろん、嫌なら捨ててくれていいけど」
目の前で捨てるわけにもいかず、美音はおずおずと袋から出し、耳に着けた。それを少し身を引いて見た室岡は、ディレクターの顔になる。なかなか感想を言葉にしてくれないので、仕方なく美音から聞いた。
「どうですか? イメージできますか?」
「うーん、笑ってくれると、もっと分かりやすいんだけどなぁ」
と言いつつ、また雛人形になられても困るので、室岡は小さく仕掛ける。
「あっ、蝶々」
美音の後ろを指さして、視線までそちらに向ける。
「えっ……、やっ……」
慌てて美音が椅子から降りて逃げ出そうとするので、そこまでしなくても……と思いつつ、室岡は美音の腕を掴んで引き留めた。美音の顔が、恐怖に怯えている。
「あっ、違った。外だった」
「へっ……」
室岡の後ろに回り込んで腰が引けている美音は、言われた通り従順に外に目をやった。
外は、……雨である。
「課長……、いじめないで下さい」
情けない声を出しながら、美音は室岡に文句を言う。
「ははっ。やっと素顔が見えた。……うん、いいね」
そういうと、片手を顎に当てて見ていた室岡が、今まで美音の前では見せたことのない笑顔を見せる。その屈託がない顔に、美音もつられて笑っていた。
「もぉ……」
と声を出したところで、我に返る。やはりきっとこれもいいものに違いないので、返そうとイヤリングを外す。
「課長、やっぱりこれ、お返しし……」
「じゃ、よかったら使って。これで担当者にアドバイスも言える。こういうのは、実物を見るのが一番だな。イメージできてよかったよ。ありがとう」
美音の思惑を巧みにかわす様に、歩き出してしまった。明らかに困った様子の美音を置き去りにした室岡を、20代の女性社員が追い掛ける。
「課長、私にも何か下さ〜い」
「また君か。一体、僕を何だと思ってるの!?」
「え〜、今のクライアント、アパレルですよねぇ。販促品の小物、色々もらえそうじゃないですか」
「君いくつ? 永遠の24歳だって言ってなかった? 今のターゲットは30歳以上!」
そんな課長の言葉にもめげず、手を差し出しついて行く彼女に向かい、室岡は胸ポケットから小さな袋を出す。
「ほら〜、やっぱりあるじゃないですか〜」
「しょうがないなぁ。20代には化粧品。どれがいい?」
と、いくつか手の平に乗っている。近くにいた他の女性もわらわらと寄ってきて、あっという間になくなってしまった。
「はい! 今日の配布会は終わり!」
両手をパンパンと払ったかと思うと、室岡は片手を上げながら食堂を出て行った。これが女子社員の手懐け方なのかと、美音は思わず笑ってしまった。