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ピアノ

 男に生まれたかった。それは、トランスジェンダーという意味の「男」ではない。単純に、男に生まれたかったという意味だ。

 まだまだ日本に於いては、仕事をする上で、主導権を握るのは男だ。それはもちろん、「隣の芝生は青い」という立場からの、偏見ということもあるだろう。だが、美音(みおん)のように、結婚もせず、子供も産まず、ずっと生活を支えるために仕事をしてきた人間に言わせれば、やはり「男」である方が、断然生き易かったと思う。

 「子供を産まなかった」という「楽」な道を選んだ当然の「報い」と言えば、それまでかもしれない。だが、男であるならば、子供がいようがいまいが、仕事をする上で、まずそこを比較されることはない。たまに「彼も寂しいだろうに」と、適当な同情をされるのがせいぜいだ。

 しかし女性の場合、仕事で成功している人間が、更に子育てもしたと言うだけで、数段評価が上がる。もちろん、そのことに不満や異議を唱えるつもりは毛頭ない。しかし何度もいうが、男性であるならば、子供がいようがいまいが、評価が左右されることはない。逆に言えば、女性の場合、成功していても子供がいなければ、「やっぱりね」と言われてしまうのである。


「どうして、女に生まれてきたんだろう」

 美音は、そんなことを考えながら、21階に移動するエレベーターに乗っていた。都内にある自社ビルは、43階建ての商業施設も併せ持つ複合ビルである。19階で男性が2人乗ってきた。ここにも1人、生き易いだろう男性がいる。室岡課長だ。美音は小さく目礼をした。室岡はそれに挨拶を返すでもなく、一緒に乗った部下から書類を受け取っていた。

 美音の部署はWeb製作を担当しているが、室岡はクリエイティブディレクターなので、さらに上流を担っている。美音自身はWebデザイナーだったのだが、今は課の庶務をしている。デスクは同じフロアにはなく、仕事内容で顔を合わせることはほとんどない。今のように、エレベーターの中や食堂で見掛ける程度だ。


 会社組織というものは、従業員が200名くらいまでなら名前と顔が一致するが、それ以上になると人事部や総務部でもない限り、まず把握しきれなくなる。学生時代を思い出せば、分かりやすいだろうか。同じ学年でも、クラスが一度も一緒にならなかったとか、部活が一緒じゃなかったとか、交流を持たなかった「同窓生」などは、一生口を利くこともない「赤の他人」ということになる。多少の違いはあるが、会社も似たようなものだ。同じフロアで仕事をしていても、「隣は何をする人ぞ」と、全く交流もなければ接点もなくなっていくものだ。

 ただ、この室岡課長は女子社員から人気があるので、社内でも顔をよく知られている1人と言っていい。間もなく40歳になろうかという年齢だが独身で、超イケメンとまではいかないが、ギラギラしていないサッパリした風貌で、「美男・美女」の条件である「左右対称の顔」をしている。頭脳は、国公立大学出身といえば説明はいらない。同期の中でも3割程しかなれない「課長」職についているので、仕事もできるのだろう。そんなところが女子にウケている要因だと思われた。

 思われたというのは、そんな室岡のことも、美音は全く異性としては見ていなかったので、実感として認識していないということだ。室岡に限らず、社内の全ての人が、美音にとっては関わりのない、いや、関わってはいけない人達であった。

 それでも、上司に変わりはないのだから、すれ違ったりする時は小さく挨拶をする。このエレベーターは一般の人は乗れない、商業用フロアを外したオフィスフロア専用エレベーターなので、同じ会社の人間であることは相手も分かっているはずだが、役職が上になればなるほど、挨拶はしなくなるものだ。特に、不快感もない。

「で、大貫のところのデザインは進んでるのか?」

「はい。おおよそはタイムスケジュール通りに」

「今回はカメラはどこだった?」

「ミムさんのチームです。風景ですから」

「……そうだったな。コピーの進捗は?」

「それで少し相談をさせていただきたいと……」

「分かった」

 そんな打ち合わせをしながら、エレベーターは室岡たちの階に着く。「開」ボタンを押しながら、美音は2人が降りるのを待った。扉を通過直前、室岡は小さく右手を上げた。

「……」

 美音は思わずその後ろ姿を、扉が閉まる寸前まで見続けてしまった。今のは、美音に対する「お礼の片手上げ」だと気が付いた。小さなことだが、こういうところに女子は惚れる。人気があるのもうなずけるなと、目的の21階で美音もエレベーターを降りた。


 美音は残業はしない。する程の仕事もない。いくつかの製作チームの日常の細々とした雑務をこなすだけなので、ルーティーンの仕事も瑣末(さまつ)なものだ。仕事に対して、文句はない。正社員であるにもかかわらず、この歳でこの仕事をさせてもらえることは、ありがたいことなのだろうと思っている。パートでも派遣でも、充分こなせる。むしろ新入女子社員が代わりに担えば、男性社員のモチベーションが格段に上がり、業績アップに繋がるかもしれない。だから、やはりありがたいのだろう。

 6時のアラームが、スマホのバイブで終業を知らせる。「お先に失礼します」と周りに声を掛け、更衣室に向かいバッグを手に会社を出た。この後軽く食事を済ませ、美音には行くところがあった。アルバイトである。


 我が社は「働き方改革」以降、残業規制が掛かり、個人の収入が減少傾向にある。それを鑑み、

会社は副業を「可」とした。もちろん、業務に支障のない様にということと、仕事に於いて知り得た情報を外部に漏らしてはならないという商業道徳を遵守することが条件だが、現在、アルバイトをしている社員は結構いる。仕事の技術を生かし、ユーチューブやSNSでお金を得ている人が多いが、美音は全く違うバイトをしていた。

 イートインがあるパン屋に寄って、パンとコーヒーで夕食を済ます。後は電車に乗り、六本木まで急いだ。

「おはようございます」

「おはよう」

 高級会員性クラブ「煌愛欄(あきら)」の裏口から入った美音は、前を通り掛かったママに挨拶をする。

「今日もよろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

 女性専用更衣室で、先客の女の子達に混じって着替えを済ます。美音の着るドレスは、緑がかった青の地に、シルバーの花と蔓のプリントの上にビーズが施された、控えめなドレスだ。この歳なので、もうオフショルダーのような露出度の高いドレスは着られない。店内には若くて美しい女性しかいないのだから、肩を並べるべくもない。せめて、みっともなくならないように努めるだけだ。

 レースが首から肩、腕全体を覆う、綺麗見せができるドレスを選んでいる。化粧台に向かい、少しだけメイクを盛り、スポットライトが当たった時に、肌が綺麗に見えるように整えた。店の女の子達はヘアメイクが必須だが、美音は免除してもらっていた。それでも自分でできる形で、髪をアップにする。スプレーで固め、乱れのないように細心の注意を払い整えた。

「やぁ、おはよう」

 準備が整い更衣室から出た美音に声を掛けたのは、背の高い短髪のイケメンである。肩は意外とガッシリしていて、この職業の割にはガタイがいい。白いカッターシャツの腕をまくり、黒のスラックスを履いている。筋肉の付いた太ももが、はち切れそうだ。

「おはよう。今日も、よろしくね」

「うっし」


 美音の業務開始である。2人でフロアの片隅にあるピアノの前に移動した。美音はベンチ式のクッションがしっかりした椅子に腰掛け、イケメンはピアノの前に置かれたトムソン椅子に腰掛ける。美音が鍵盤に指を下ろして何拍か後に、彼は弓をDownした……。そこだけ板にしてあるフロアに音が響き、お腹の底に響いてくる。綺麗な低音が、メロディーを奏で始めた。

「ここは、これがあるからいいんだ、ママ」

「あら、社長はチェロがお好きですか?」

「バイオリンよりは、チェロだな。名曲も多い」

「バッハでしたかしら、お好きなのは」

「ああ。最後は結局、バッハに行き着く。まあ、サン=サーンスもいいがね」


 今流れているのは、サン=サーンスの「白鳥」である。彼の代表曲といっても過言ではないだろう。この曲で振り付けされた、バレエの「瀕死の白鳥」も有名だ。傷を負った1羽の白鳥が、この曲が流れる3分半の間に息絶えていく、ミハイル・フォーキン振付けの名作である。白鳥の白い衣装の胸に、ポツンとある赤い羽根が、負った傷を思わせ、息絶えて行くその姿は、いつ見ても迫るまのがある。

 アンナ・パブロワというロシアのバレリーナのために振付けされ、そのまま彼女の代表作となった。あまりに素晴らしい踊りであったため、以後20年以上現在に至るまで、そのままの振り付けで踊られることがなく、伝説にまで達している。その後、同じロシアのマリア・プリセツカヤという、腕も足も長い現代の最高峰とも言われるバレリーナが、振り付けを変え踊っていたが、彼女も2015年に亡くなっている。

 

 チェロの音が止むと同時に、静かに1羽の白鳥が死を迎えた。さぁ次は、少し明るめの曲。

「ほぅ。こんな選曲とは、彼女かな? それとも、彼か。なかなか気が利いている」

「フランスの貴公子が弾いていそうな曲ですね」

「ママの言葉選びも、なかなかいい」

 そう言いながら、ママの(もも)に手を伸ばす。ゆっくりと動かせば、その着物の下の跳ね返るような柔らかさが、男の気持ちを奮い立たせる。

「ママも飲んで」

「ありがとうございます。いただきます」

 チェロとピアノが奏でているのはルービンシュタインの「ヘ長調のメロディー」だ。元々はピアノ曲なのだが、チェロで弾くことで音に深みが加わっている。深みが増しているのに、逆に仕上がりが軽くなるという不思議な曲だ。確かにフランスで、マダムがティータイムにでも聴いていそうな曲である。

 バッハの無伴奏「プレリュード」が始まる。この曲は、美音はお休み。無伴奏の中でも、有名な1曲だ。バッハが好きだといっていた客は、既に音楽などそっちのけで、ママとのおしゃべりに夢中である。美音は1人、チェロを堪能する。

 (りく)の音は、今日も清々しい。もちろん次のマスネの「エレジー」などは哀愁に満ちた音を創り出すが、基本的には癖のない「綺麗な」音を奏でる。きっと彼の性格からきている。美音はそんな陸のチェロが大好きだ。伴奏を弾かせてもらえて、幸せだと思っている。


 美音は音大を出たわけではない。小さいころから「お習い事」の1つとてピアノを習っていただけで、それも高校に入ってからは止めてしまった。ただピアノは好きで、趣味として弾き続けていただけだ。だが、音楽教室で一緒だった友達の白石が音大に進み、彼女から声を掛けてもらってピアノを再開させた。

 白石は大学在学中から、喫茶店やバーなどでピアノのアルバイトをしていたのだが、本格的に勉強するためフランスに留学することが決まり、そのアルバイトの後釜として指名してくれたのだ。

 最初は随分頑張って練習をした。その甲斐あって、レパートリーも広くなり、今ではこうして音楽のプロである陸の伴奏をさせてもらえるまでになっている。この時間だけは何もかも忘れられて、美音の命を継ぐ一時となっている。

 

 最後にドヴォルザークの「母の教えたまいし歌」を弾く。これを弾くたびに、美音は「佐藤しのぶ」のことを思い出す。2019年9月29日、若干61歳という若さでこの世を去った、美しい声と姿のソプラノ歌手である。この年の8月に演奏活動の中止を発表し、わずか1ヶ月足らずで帰らぬ人になってしまった。音楽界、とりわけ声楽界に激震が走った。この年は、アメリカのソプラノ歌手、ジェシー・ノーマンもその翌日に亡くなっており、声楽界に於いては悲嘆の年となった。

 美音も彼女の演奏会には、何度も足を運んでいる。前から2番目の席で聴いたこともあった。NHKの「紅白歌合戦」に出演後、そのオペラ歌手らしいふくよかな体型をバッシングされ、相当なダイエットを成功させ後は、デビュー当時の深みのある声ではなくなってしまったが、それでも、日本を代表するソプラノ歌手のトップであったことは間違いない。彼女と握手したときの、香水の香りと柔らかな手は、美音の記憶にも残っている。その彼女が、よく演奏会で歌っていた曲がこの曲である。リサイタルでは必ずと言っていい程、この曲を歌っていた。ライフワークの曲だったのではないだろうか。


「お疲れ様、陸。今日も素敵な音ね」

「おぅ、サンキュ。次は9時だな。それまでちょっと出てくるけど、いい?」

「いいけど、どこいくの?」

「サウナ」

「えぇ、疲れない? まだあと、3回あるよ」

「今日、昼の演奏会、照明がすごく暑かったんだ。シャワー浴びる暇がなかった」

「それで、あの清々しい音なわけ!? さすがね〜」

「じゃ、時間までには戻るから」

「気をつけてね」

「おぅ」

 美音も休憩に入る。弾いているのは30分だ。20時から始まり、1時間おきに23時まで4回弾く。しかし陸と違い、お客さんに指名されれば、次のステージまでの時間は、接客もしなければならなかった。もちろんその場合は、別の指名料も貰える。白石などは断っていたらしいが、美音は自分を守ることに特にこだわりをもっていなかったので、自分にできることならば、ぼぅっと待っているだけよりも、実入りのある時間の過ごし方を選んだに過ぎない。

「綾さん、ご指名です」

「はい」

 黒服の矢田が休憩室まで呼びに来た。「綾」とは美音の源氏名である。アナウンサーのアヤパンから頂いた。彼女のように、誰にでもそつなく対応できるようにとの思いを込めて。

「いらっしゃいませ、社長」

「やぁ、綾ちゃん。今日も良かったよ」

「ありがとうございます」

 美音を指名したのは、いつも美音のピアノがある日に来店し、美音を指名していく自営業の社長だった。60代と思われる風貌で、身長が150cm程しかない為、立ってしまうと美音の方が超えてしまう。不思議と座っている分には同じぐらいの目線になるから、相手を見下ろさずにすんでいる。

「お代わり、お作りしますね」

「うん、うん」

 嬉しそうな社長の顔に微笑みかけながら、ボトルから水割りを作る。

「綾ちゃんは、飲めないんだったよねぇ」

「すみません。まだ、ピアノを弾かなくちゃいけなくて」

「うんうん、いいよ。話だけ、しよう」

 いつもそういう社長は、それでもボディタッチは積極的にしてくる。美音は社長の会話に笑いながら、それをそのままにしておく。キスを強要されたり、あちこち直接揉まれたりしなければ、拒むことなかった。


 これに慣れるまでには、半年は掛かっただろうか……。最初は触れられるだけでぞっとしたものだ。だがいつからか、酔うことでしか抱えているものを吐き出すことができない人々を、「可愛い」と思えるようになった。

 タチの悪いお客さんは、このバーでは数少ない。それはママのこの業界でのキャリアと、なんといってもオーナーの力によるものだと、なんとなく分かってきた。どこかの組織が関わっているのかもしれないが、その組員達が我が物顔に出入りしている店とは、一線を画している。

「社長の音楽に対する知識には、舌を巻きます。私なんかのピアノで、お恥ずかしいです」

「いやいや、綾ちゃんのピアノは優しくて、あのチェロの彼が時々恨めしくなるよ」

「あら、そうですか?」

「そうだよ。まるで、愛し合ってる恋人同士みたいな音だ」

「ふふっ。そうですねぇ、彼の音を愛してますから」

「ほらな、平気でそんなことを言うだろ。綾ちゃんは、僕の大事な人なんだから、音だけだよ、愛していいのは」

 そう言って、手を握ってくる。その手の上を優しく擦り

「もちろん、音だけですよ。社長の方が、大切ですから」

と耳元で囁く。社長は喜んで肩を抱いてくるが、そろそろ次の演奏の時間であることは分かっているので、ここから離脱する言葉を囁きかける。

「じゃ、今度のステージは、社長のために弾きますね」

 と席を立った。「うんうん」と嬉しそうに送り出す社長を残し、控え室に移動した。

「陸、次のステージ『B』でお願いできる」

「また例の、ONLY YOUバージョンか?」

「そうそう。あのお客さんには、もう1時間はいてもらわないとね」

「俺、あれ飽きた」

「ははっ」

 美音はピアノを弾きながら社長の顔に甘い視線を送る。そうやって弾き始めた曲は「愛のあいさつ」である。社長が来た時には何度も弾いて、まるで彼専用の曲の様に思わせる。そうやって、指名客を増やしていくことで、美音の収入も少しずつ増えていた。だからこの曲は、この社長以外の何人もの「専用曲」になっている。陸が飽きるのも、しょうがない。まぁ、陸もそこのところは良く分かっているし、何度も同じ曲を弾くことはプロとして当たり前のことなので、手を抜くことはないからさすがである。感謝です……。

 無事、今日の仕事を終えて陸と別れた。電車に乗って帰宅するのだが、面倒なので化粧はそのままにしている。明るい車内では、きっと少し濃い目に見えるだろうが、誰も美音のことなど気に留めることもないから大丈夫だ。この時間にいるのは、仕事で疲れ果てた人か、飲んでご機嫌な人達ばかりである。そんな空間が、美音は嫌いではなかった。平日の車内は、休日のそれと違い、大勢いるのに誰もが1人だ。そう、美音だけじゃない。会社の様に……。

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