びのと覧の旅立ちの朝
「びの君、びの君」
真っ暗な視界の中、少女の声がしていた。
「んー、今、『ステータス』が『ファンタスティック』なんだよ」
「『地位』が『感動的』って、どういうこと? いつまで、寝ぼけてるの」
「寝ぼけてる? 僕が?」
「わかった。昨日、柄にもなく、英語の勉強を夜遅くまでやったから、そんな夢みるんだよ。まだ寝ていたいのはわかるけど、もう、7時30分だよ?」
あー、はいはい、7時30分ね。
ん? 7時30分?
「遅刻するじゃないか」
僕は布団から跳び起きた。
「なんで、起こしてくれなかったの?」
いつもの口癖を言ってしまう。
「何度も、何度も起こしたよー」
反論しながら、覧は、僕に眼鏡を手渡してくれた。
「全然気づかなかった」
「びの君、今日遅刻したら、5日連続だね」
「遅刻記録更新だけは阻止しないと。起こしてくれてありがとう。覧」
僕は、眼鏡をかけ、覧の頭をなでると、覧は、えへへーと顔を微笑みながら、青いフードをかぶった。
覧の姿を見ると、がりがりにやせ細った腕が目に入る。
「覧、毎日、ちゃんと食べてる?」
「当たり前だよ……って、もしかして、ボクが小さいの馬鹿にしてる?」
「いやいや、そんなことはないよ」
「ボク、もう、129センチだよ? バカにしないでよ」
そっかー、まだ、129センチかー。
「覧って、何歳だったっけ?」
「2112歳」
「そっかー、覧も大きくなったね……って、まさかの老婆!!」
「まさか、信じるとは思わなかったよ。2112引く2100だよ」
「えっと……11歳?」
「ぶっぶー」
「もう、朝から難しい計算をさせないでよ」
「そんなに難しくはないからね、びの君」
いや、2桁越えたら、難しいでしょ。
「12歳だよ」
「そっかー、12歳かー」
「成長期だから、明日にでも、びの君の身長も追い越すよ」
「そう……だね?」
一日で170センチある僕の身長を追い越すことなんてことあるのかな?
「どうしたの、びの君? 急に難しそうな顔して」
覧は、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「あ、いや、何がどーしたってわけじゃないんだけど、僕、そんなに難しい顔してた?」
「うん、こう、眉間にしわを寄せてた。学年成績最下位で、成績がオール1の、びの君に難しい顔は似合わない」
「僕、どんな顔なら似合うの?」
「なんていうか、何も考えていないマヌケな顔かな?」
ショック。小学生にそこまで言われた。僕、今年で中2なのに。
あ、でも、こういうのって、年齢とか関係ないのかな?
努力もしないで、ある日突然頭が良くなるなんてことはないだろうし。
「それより、びの君、早く支度しないと」
そうだった。こんな、悠長にお話ししている暇なんてなかった。
「ん? ちょっと、待って。なんで、覧が僕の部屋にいるの?」
覧には、覧の部屋がある。なんで、僕の部屋にいるのだろう?
「えっとね、それは、朝だから、びの君を起こしに来たんだよ?」
歯切れが悪く、たどたどしい答え方をする覧。
僕は覧の顔を凝視する。
目の下にくまをつくっていた。
「僕の部屋のおしいれで、また夜更かししたでしょ?」
「そんなわけないじゃない」
「今、白衣きてるよね?」
「白衣じゃないよ。ほら、さっき実験で失敗しちゃって、青くなってるし」
「さっき? 実験?」
視線が泳ぐ、覧。
「えーと……」
覧は、何かを言いかけて、斜め上を見ながら、慣れない口笛を吹こうとする。
とぼけるのは、あいかわらず下手だ。
「覧、じゃあ、あれは何?」
僕は襖を指さし、確認する。
フラスコの中には、何やら分からない薬品が、ぼこぼこと音を立てて科学反応をしている。
「あー、あれは、フラスコだねー。いつだったかの忘れ物かな?」
パリンッ
フラスコが割れた。
「いつだったかの忘れ物が、今、突然破裂するの?」
「えーと……」
言葉に詰まる覧。
「実験は、自分の部屋でやってって、いつも言ってるじゃないか」
「論文を書いてたんだよ。実験は、そのついでで……」
「もう、なんで、僕の部屋でするの?」
「だって、びの君のおしいれの方が、狭くて居心地がいいんだもん」
僕は覧に向き直り、じっと目線を合わせた。
「……ごめん」
覧は反省をしたのか、すぐに謝った。
「いや、わかってくれればいいんだけどね」
今度からしないと約束をしてくれれば、それでいい。
「今度から、もう少し早く起こす」
ん? そっち?
「そういえば、僕、遅刻しそうだったんだ」
現実に戻った僕は、慌てて、中学校の制服に着替えた。
「びの君、覧ちゃん特製のパーフェクト・フード(抹茶味)食べる?」
パーフェクト・フードか……
覧が、うちに引き取られて、作りだした料理だ。
クッキーのような固形状で、時間も場所も取らずに、手軽に食べられて、遅刻の朝には持ってこいなんだけど……
抹茶味ってのがなー
これ、すごく苦いんだよなー。抹茶味なのに、青汁とせんぶり茶を足したような味だからな。
「ほらほら、食べる時間ないんでしょ? 遅刻しちゃうよ? 一本、キメとこう!!」
覧は、意地悪な笑みを浮かべながら、パーフェクト・フードを僕の口に無理矢理突っ込んだ。
苦いっ。
「もう、そんな苦しそうな顔して。お水でしょ? パーフェクト・フードは、パサパサだから、喉が渇くもんね」
苦いとは言い出せず、パーフェクト・フードと言いたいことを一緒に、水で押し流す。
ごくごくごく。
ふー生き返った。
「よし、朝ごはん食べたね? じゃあ、びの君、歯を磨いて、学校へいってらっしゃい」
「覧も一緒に学校行こうよ!」
「い・や・だ」
旅乃家に引き取られて以来、2年間ほど、覧は学校に行っていない。
機をうかがっては、学校に誘ってみるのだが、今日も『嫌だ、びの君の部屋から、一歩も出たくない』の一点張り。
「あ、そうだ。びの君、いっつも遅刻しそうでしょ? だから、転移装置を作ってみたんだ」
「転移装置?」
「うん、家の鏡を改造してみたの」
目の前には、いつも玄関の脇にある全身を映し出せる鏡があった。
ただし、いつもの鏡とは違い、鏡面を見ると暗黒が渦巻き、放電をしている。
「家の鏡を? お母さんに断ったの?」
「うん。工作したいからって説明したら、二つ返事でいいわよって」
「あ、そうなんだ」
一人乗りジェット機の次は、転移装置か……
小学生の工作ってレベルじゃないのは、いくら頭が悪い僕でもわかる。
お母さんは、科学音痴で、覧がどんな物を作っても、子どもの工作レベルだとしか認知してないようだが、僕にはわかる。覧は天才なのだ。
次は何を作ってしまうのだろうか?
「……でね、びの君、時空を歪めて、ワープ地点を作ったから、ここに姿を映すと、学校に行けるの」
時空を歪める? 僕には、さっぱりわかんないや。
「えっと、難しい話はおいといて、この装置を使うと、一瞬で学校まで行けるってこと?」
「うん。そう。ほら、今、雪が降ってるから、走ると危ないでしょ? だから、作ってみたんだ」
「安全性は確かめた?」
「確かめてないよ?」
にっこりとした笑顔で、こともなげに言う覧。
「…………遅刻だ~」
僕は玄関に向かって猛ダッシュした。
いつだったか、音速で動く自転車の試運転で乗った時には、大事故になりそうだったのを、僕は忘れていない。
「待ってよ、びの君。ここをくぐるだけでいいんだよ……って、きゃーーーーー」
覧の悲鳴。僕は慌てて振り返った。
誤作動でもあったのだろうか? 暗黒鏡が、覧を飲み込もうとしている。
「らーん」
僕は叫びながら、とっさに覧の手を握るが、時すでに遅し。
僕たちの身体と意識はすべて鏡へと飲みこまれた。