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03

 

 志穂の朝は、井戸の水くみから始まる。

夜明け前にベッドから抜け出し、身支度を整えてカルラの指導のもと家事をこなしていく。この世界に来てから早くに就寝するので、自然と早寝早起きが習慣になった。井戸の水くみも、初めは大変だった。もたつきながら水をくむ志穂を、指導役のゲオルグが心配そうに見守っていたものだ。それも1週間経つ頃には手早くこなせるようになった。初めと比べれば、だが。

 水くみの後はカルラと朝食の準備をする。料理は好きだったし、調理道具も元の世界とそう変わらなかったのですぐに慣れた。食材もよく似たものばかりなのも助かった。ただ、ガスコンロはない。火を点ける作業が大変で、これにはまだ慣れない。

 朝食が出来上がる頃、ゲオルグがキッチンに顔を出す。彼も早朝から起きているが、カルラや志穂とは別の作業をしているそうだ。母子の会話を聞きながら、志穂が食卓に朝食を並べて3人で食事を始める。その後、ゲオルグは仕事のため出かけていく。森を抜けた先に村があるらしい。そこには小さな学び舎があり、彼はそこで働いている。雑用係だとゲオルグは言うが、授業を行うこともあるそうだ。生意気な子供ばかりだけど、仕事は楽しいと彼が口元を緩ませて話してくれたことがあった。その表情がとても優しかったので、志穂の顔もほころんだ。

 笑顔の多いカルラとあまり表情の変わらないゲオルグ。髪の色以外あまり似ていないと思っていたが、笑うとよく似ていると思った。


 この世界では15歳から成人で、17歳のゲオルグは大人として立派に働いている。彼に年齢を教えられたとき、自分が20歳で、3つ年上だと身振り手振りで説明した。なんとか伝わったが、ゲオルグは「年上…」と呟いて眉間に深い皺を刻んだ。20歳の立派な成人だというのに、手伝いも満足にできない志穂に呆れたのだろう。まさか年下に見えたわけではあるまい。志穂は童顔ではない。


 朝食の片づけが終わると、洗濯や部屋の掃除に食事の下ごしらえ。元の世界と変わらない家事が志穂を待っている。洗濯機や掃除機など便利な機械はない。洗濯は家の近くに流れる川で行うが、森の中にある。5分も歩けば川に着くが、志穂はスライムに襲われた経験から森が怖かった。そんな志穂にカルラは呆れることなく付き合ってくれる。洗濯籠を担ぎ、空いた方の手を繋いで川までの道を歩く。志穂が怖がらないよう、他愛のない話をしながら。洗濯を終えると洗濯籠を担いで、また手を繋いで家路を辿る。森は怖くないよ。カルラは何度も教えてくれるが、志穂は小さく頷くことしかできなかった。


 夕食の支度を始める頃にゲオルグは帰ってくる。3人で夕食を終えたら順番に入浴し、志穂の仕事は終わる。入浴といっても、大きな桶に湯を入れて水で薄めただけのものだ。バスタブもシャワーもないお風呂に最初は戸惑い、湯舟が恋しくなったりもしたが、これにもすぐ慣れた。郷に入っては郷に従えである。


 仕事の後、志穂は言葉の勉強をしている。聞き取りは問題ないが、話せるようになりたい。カルラとゲオルグ、お世話になっている2人と言葉を交わすためにも、毎日頑張っていた。参考書はゲオルグからもらった幼児用の教本である。学び舎で使っているものらしい。童話のような物語が数作品載っていた。国語の教科書みたいだ。

 文字は見たことのない形をしているのに、都合のいいことに何故か読める。でも書けない。志穂は日本語と学校で習った外国語しか書けないままだった。本当に、中途半端な力である。そのうえ、文字は読めるが発音の仕方がわからない。

 なんてことだと頭を抱えた志穂に気付いたゲオルグが、勉強に付き合ってくれるようになった。家のことや仕事のことで疲れているだろうに。彼の優しさに胸がきゅんとなる。ああ、本当にいい子だ。

 ゲオルグに報いる為にも、はやくこちらの言葉で感謝を伝えられるようになりたいと強く思った。



 そんな日々が続き、志穂がこの世界に来て2週間が過ぎた頃。穏やかに過ごす内に森ヘの恐怖も薄れ、1人でも川へ行けるようになったある日のこと。

 無事洗濯を終えて帰り支度を始めた志穂の前方。川を隔てた向こう側に、粘液を固めたようなボール状の生き物がこちらを見ていた。カルラやゲオルグが「スライム」と呼んでいた魔物。それがぷるんぷるんと体を揺らしてじっと志穂を見ている。

 あの夜の恐怖を思い出してごくんと唾を飲み込む。逃げなければ。でも、体が竦んで動けない。


(だ、だいじょうぶ。2人が言っていたもの。スライムは人を襲うような魔物じゃないって。だから大丈夫。大丈夫よ)


 自分に言い聞かせるように何度も呟いて、志穂はスライムの赤い瞳と見つめあった。


 川の水がさらさらと流れる穏やかな音と、ばっくんばっくんとうるさいくらいに騒ぐ心臓の音。恐怖と緊張とで志穂の額に汗が浮かび始めた頃、スライムはゆっくりと後退し、体をぷるぷる揺らして森の中へと消えていった。その姿が完全に見えなくなって、志穂は糸が切れた人形のようにぺたんと地面に腰を落とした。




「何度か言ったが、スライムはあまり人前に出てこないし、滅多に人を襲わない」


 ゲオルグの言葉に、志穂は洗濯物を干しながらこちらの言語で訴えた。


「しかし、わたし、まえ、スライム襲うされた」

「それが珍しいんだ。少なくとも、おれは今までスライムに襲われた人をシホ以外で見たことがない」


 ゲオルグが洗濯物に手を伸ばし、干すのを手伝い始める。彼は本当に優しい。整った顔立ちだし、もう少し表情筋が動いたらモテるだろうと思う。

 ゲオルグはあまり表情が変わらない。綺麗な顔をしているのにもったいない。そんなことを考えている志穂に気付くわけもなく、ゲオルグは洗濯竿に白いシーツを広げた。ふわりと石鹸のいい香りが漂う。


「スライムは魔物の中でもとても弱くて臆病だ。だから、人前に姿を見せるのも珍しい。おれも数える程しか見てないし」


 あの夜を含めて3回目だと言うゲオルグに志穂はぎょっとした。17年も森で生活する彼が、3回しかスライムを見てないとは。

 志穂はたった2週間で2回もスライムと出くわした。しかも2回目はついさっきだ。なんという確率。運がいいのか悪いのか。

 嘘をついていると思われただろうか。志穂は慌てて頭を振った。


「わたし、うそ、ちがう」

「シホが嘘をついてたとは思ってない」


 ゲオルグが苦笑を浮かべた。彼は、まだ単語でしか話せない志穂の言葉をちゃんと理解してくれる。さすが先生。言葉の師匠だ。ゲオルグは考え込むように洗濯物を見上げて呟いた。「…スライムが、シホの前に現れたのなら」


「シホに興味があるのかもしれない」


 志穂はぎょっとした。スライムに興味を持たれている。

 それはどういう意味の興味だ。襲われた恐怖を思い出して青ざめる志穂に、ゲオルグは珍しく少し慌てたようだった。


「危険はないと思う。スライムは怖くない」


 何かあれば、力になるから。そう言って、ゲオルグは安心させるように志穂の肩をぽんと叩いた。


「いざとなれば走って逃げればいい。スライムは動きが遅い」

「…はしる…」


 志穂は運動が苦手だ。もちろん、走るのは遅いし持久力もない。

 体も鍛えねば。逃げ足を早くするために。志穂は気合を入れて残りの洗濯物を干した。



 その日を境に、志穂は1人でいるときに度々スライムを見かけるようになった。

 井戸で水くみをしている時。川で洗濯をしている時。外で洗濯物を干している時。


(滅多に姿を現さないんじゃなかったの? 話が違う!)


 遭遇する度に逃げていたが、いつもスライムは離れた場所で志穂を見ているだけだった。はじめこそ警戒したが、目が合うとすぐに立ち去るので段々と警戒心も薄れたうえに、愛着までわいてきてしまい、外に出るとその姿を探すようになってしまった。よく見ると、丸いかたちも動くたび揺れる体も赤い目も真ん丸でかわいい。


 そんなある日、志穂が水くみをしようと腕まくりをした時、いつもの視線を感じた。振り返ると、少し離れた場所にスライムの姿が見える。スライムは怖くない。ゲオルグの言葉を思い出す。志穂は深呼吸をして心を落ち着かせてから、ゆっくりと口を開いた。「こんにちは」挨拶は問題なく話せる。

 声が届いたのか、スライムの体がぷるんと震える。赤い目がぱちぱちと瞬きした。


(瞬きするんだ)


 スライムが驚いてるように思えて、志穂はくすりと笑った。

 初めて出会った魔物はとても恐ろしかったが、今、目の前にいるスライムには恐怖を感じない。このスライムは、志穂が恐れているのが分かっているようにいつも距離をとってくれていた。警戒が薄れるまで、根気よく待っているようだった。

 ゲオルグは、スライムが自分に興味をもっているかもと言っていたが、今は自分がこのスライムに興味を抱いている。

 スライムに言葉が通じるかわからないが、何か話しかけようと思った。すると、スライムが躊躇うようにゆっくり距離を詰めてくる。思わず一歩引くと、ぴたりとスライムの歩みが止まった。そして、赤い目を少し細めて森に戻って行く。その姿が見えなくなるまで眺めていた志穂は、スライムがいた場所に何かあることに気づいた。赤い、林檎に似た果実のようなものがそこにあった。


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