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『落ち着いたかしら?』
「はい…ありがとうございました」
涙を拭って顔を上げると、女性が優しく微笑む。『ふふ、どういたしまして?』首を傾げて言う姿は少女のようでとても愛らしい。『わたくしも、お礼を言わせてくれる?』
ドラゴンを助けたことだろうか。それなら最初にお礼を言われている。きょとんとしていると、女性は志穂の頬をそっと撫でた。ひんやりして冷たい手だった。
『わたくしの主があなたをこの世界へ呼んだ。呼ぶのは、あなたでなければいけなかった。主の我侭で、あなたの生活が壊れてしまったわね。そして、この世界に来たときに、あなたは主に魔法をかけられた。その魔法で、あなたには、あなたが『魔王』と呼ぶ者の能力が備えられてしまったの。この世界に馴染み、魔物と呼ばれる子たちと心を通わせると、魔法はゆっくり開花し始める。あなたは自分のことを、体力のない平凡な少女だと言ったけれど、その魔法はほぼ花咲いている。あなたが望むと望まざるに拘わらず、あなたは神獣に認められた、彼らの頂点の存在になってしまったわ』
さやさやと葉擦れの音が耳を擽る。緑の葉が一枚、風に吹かれてはらりとドラゴンの鼻先に落ちた。
『この世界はとても平和。悲しいことも勿論あるけれど。魔物と呼ばれる子達は穏やかで、静かに暮らしているわ。でもそれは、あなたが『魔王』だからなのよ』
「え?」
『あなたがこの世界に来たばかりの頃は、主の魔法も馴染んでおらず、スライムに存在を知られるくらいだったわね。でももう違う。八咫烏と契約した頃にはもう、あなたには強い力があった。あなたの言葉ひとつで、魔物と呼ばれる子達はあなたの指示に従うわ。従ってしまうのよ。あなたが、人間を強く憎み、恨んでしまったら。一時の感情ででも、滅びを願ってしまったら。彼らはあなたの願いを叶えるために動いてしまうわ。あなたが教えてくれた物語のように。町は滅び、魔物と呼ばれる子達は人を襲い、厭われるような、そんな世界になっていたでしょうね。でも、あなたは違ったわ。辛い目にあっても、人間を心から憎んだりしなかった。隷属の子に、滅びを望まなかった。だから、ありがとう、シホ。わたくしのかわいい子達に、ひどいことをさせないでくれて。『魔王』の能力を持つ者があなただったから、この世界は平和なのよ』
女性は、志穂の額に唇を寄せて、そっと触れた。
『この世界に呼ばれたのがあなたで、わたくしは、とても嬉しいわ』
ふわりと抱きしめられ、柔らかな感触に包まれる。あたたかい。志穂は瞳を閉じて抱擁を受け入れる。
自分が魔王だとか、魔法をかけられていたとか、神から連れてこられたとか。色んなことを告げられて混乱する。まともに頭が働かない。
志穂の腕の中からドラゴンが抜け出し、女性にどんと体当たりをした。『あらあら』苦笑を浮かべて女性は志穂から身を離す。二人の間にふわふわと浮かぶドラゴンの鼻先をつついて頬を膨らませた。『嫉妬したのかしら。わたくしのぼうや。まったく。よっぽどシホが気に入っているのね』
瞳を和らげて、志穂を見つめる。
『ねえシホ。この世界の伝承を知っていて? 生命の木に辿り着いた者は願いを叶えることができるの。まあ、あなたの場合はわたくしが招いたのだから、例外だと言えるけれど』
女性は、にこりと微笑んだ。
『わたくしは、あなたを元の世界へ還すことができるわ。あなたがそれを願うならば』
志穂は瞠目した。帰れる。元の世界に。
この世界で出会った人たちのいない、元の世界。自分は平凡な女子大生で、代り映えのない毎日を過ごす日々。
一人暮らしの部屋に帰り、寝て、家を出る。その繰り返し。アパートの住民と擦れ違うこともなく、ただ静かに時間が流れてゆく毎日。
両親は健在だが、進学を期に家を出た。両親は志穂にあまり興味がないようだった。子供なんて欲しくなかったと怒鳴られたことも何度もある。体罰はなかったが、毎日いないもののように扱われていた。
志穂の楽しみは、長期休みの度に預けられる、祖父との暮らしだった。
祖父は志穂に優しかった。一緒にご飯を食べ、一緒に遊び、ねだれば一緒に寝てくれることもあった。外遊びが苦手な志穂に、ゲームを教えてくれたのも祖父だったのだ。
そして、この世界に似たゲームに出会った。
祖父のおかげで、志穂は人間でいられたのだと思う。よく来たねと笑う顔はくしゃっと皺だらけ。その祖父の笑顔が大好きだった。誰もいない家でごはんを食べる寂しさ、テストで満点をとっても渡す家族さえいない悲しさ、つらさ。そういうものはすべて、祖父に会うと忘れられたのだ。そして、また祖父に会うため生きようと思いながら、誰も待たない家へ帰るのだ。
でも、そんな祖父は、もういない。
わたしを待つ人は、元の世界には、いないのだ。
この世界に来てからの、短いながらも濃い日々を思い出す。
魔物がいる、言葉も通じない世界。電化製品もなければ生活環境も違い、戸惑いばかりの日々。
でも新しいことを知るのは楽しかったし、優しい人達に出会えて、人のあたたかさを知って、志穂は毎日がとても充実していたのだ。
元の世界ではいなかった、信頼できる友達もできた。悲しいと寄り添ってくれ、楽しいと一緒に笑ってくれる、そんなひとたち。
悲しいことがあった。つらいことも苦しいこともあった。だけど。
(私は、この世界がとても好きだ)
そして気付く。この世界に来てから、ほとんど元の世界のことを思い返さなかった自分を。
それほどまでにこの世界の暮らしは、志穂を満たしていたのだ。
『あなたが元の世界に還る方法は、ただひとつ』
考え込む志穂に何を思ったのか。女性はすっと細くしなやかな腕を掲げた。手のひらが輝き、美しい剣が現れる。刀身は陽光を受けて金色に輝き、柄には細かな装飾が施されていた。
その剣を、志穂に差し出す。
『この場所で、あなたの信頼する者に、この剣で腹部を貫いてもらうのよ。大丈夫、これは神剣だから痛みはないし血もでないわ。ただ、刺し貫けば良いだけ。あなたが元の世界に還る方法は、これだけ』
志穂は、震える手で美しく輝く神剣を受け取る。『あなたの信頼する者も呼びましょうね』女性がぱちんと指を鳴らすと、目の前の空間が一瞬揺らぎ、すぐに一人の男性が現れる。
ゲオルグだ。志穂は目を見開いた。
前触れもなく突然この場に呼ばれたのだろう。ゲオルグは慌てて周囲を見回し、困惑顔のまま志穂の肩に手を振れた。「シホ、突然いなくなって驚いた。大丈夫か」
ゲオルグの触れた肩があたたかい。志穂は再び込み上げる涙を堪えて小さく頷いた。ゲオルグは安心したように息を吐き、志穂が持つ神剣に気付く。「その剣は? どうした」
志穂はゲオルグを見つめた。元の世界へ戻る選択をするなら、彼の協力が必要だ。自分自身で決めなければいけないことだとわかっている。だけど。
志穂は、必要とされたい。
「ゲオルグ。私がこの剣でお腹を刺してってお願いしたら、そうする? 刺しても怪我をしないとして」
「は? できるわけない」
志穂はゲオルグの瞳を見る。彼の瞳には、不安そうな自分が映っていた。
「ゲオルグは、わたしが必要?」
「当たり前だ。一緒に帰るんだろう? あの村へ。みんな待ってる」
ゲオルグの大きな手が志穂の髪を撫でる。「早く、帰ろう」
志穂はうんうんと何度も頷き、目元を拭った。
瞬間に辺りが輝き、志穂とゲオルグは光の中へ放り込まれる。
「な、なんだ!?」戸惑うゲオルグの声。志穂はゲオルグと離れないようその腕にしがみついた。
『シホ』
頭に美しく澄んだ声が響く。声の主を探して周囲を見回すが、姿は見えない。いつのまにか、神剣も消えていた。
『あなたは、この世界に残ることを選ぶのね。うれしいわ。これであなたも、わたくしのいとしいこどもよ』
志穂は、はいと頷く。
『さあ、わたくしのいとしいシホ。あなたの望みはなあに?』
志穂は瞳を閉じた。自分はこの世界では魔王のような存在なのだ。魔物達を護り、導いてあげなければならない。とても大役だ。護るといっても自分は非力だから、護られることの方が多そうだけれど。
正直、自分には荷が重すぎる。けれど、魔物達が悲しみ苦しむのは見たくないから。
「わたし、魔物の住む村を作りたい。そのための広い土地がほしいと思います。そこで、魔物達と一緒に暮らして、人間と交流を持ったりして、平和な、のんびりした村を作ってみたい」
エアストドルフに住むことはできないかもしれないけど、でも。
これは、自分が考えた、やりたいことだから。
不思議と、ゲオルグと離れるという不安は芽生えなかった。
『そう。そうね。素晴らしいことだと思うわ。わたくし、はりきって準備するわね。この国は土地があまってるから容易なことよ。ああ、国王のぼうやに納得させる神託も授けておかないと。あのこは神託にめっぽう弱いの。あなたたちが王命を成し遂げたこと、伝承のドラゴンまでも従えていること、いろいろ伝えてあげるわ。ふふふ。願いを叶えるのは久しぶりだから、わたくし、ものすごくたのしくって、わくわくしてしまうわ』
頭にうきうきと弾む声音が響いた。少女のように喜んでいる美女の姿が目に浮かんで、志穂は笑う。ゲオルグは困惑顔のままだったが、志穂が離れないよう、しっかりと抱きしめている。
気が付いたときには、志穂達は魔物達が待つ草原に腰を下ろしていた。




