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02

 

 風に揺れる木々の葉音。小さく聞こえる虫の声。男に背負われてから、どのくらい経ったのだろう。恐怖で震えていた体も、少し落ち着きを取り戻していた。「あの」掠れた声で話しかけると、男はちらりと横目で志穂を見る。思わず身を固くすると、困ったように眉を下げた。そして、前方を指差す。


「あれが、俺の家です」


 男の言語は、日本語と他の言語が重なって聞こえる。なんともいえない違和感に、思わず耳を触りながら示された方向に目を向けると、あかりに包まれた小さな家があった。暗い森の中、開けた場所にある煉瓦造りの家の周囲にはランタンが灯され、薪や桶が積まれている。家の窓からはやわらかな明かりが漏れていた。闇の中に浮かび上がる光景に目を瞠る。「きれい」思わず零れ出た呟きは、男の足音にかき消された。男は足早に家へ向かい、扉を開く。扉からあたたかな光が漏れ、ぱたぱたと室内から軽やかな足音が聞こえてきた。


「おかえり! 遅かったじゃないの」


 男を笑顔で迎えたのは中年の女性だった。男の母親だろうか。少しふっくらした優しそうな女だった。女は背負われた志穂を見て驚いたように「あらまあ!」と両手で口を覆っている。男は室内に入り、志穂を椅子に、荷物をその足元にゆっくりと下した。女が慌ててタオルを持ってきて、志穂の顔や手を拭いてくれる。そういえば、あの生き物の体液をかぶったのだった。志穂は明るい室内で改めて自分の姿を確認すると、体液がかかったところは白くぱりぱりに乾きつつあった。


「その人、森でスライムに襲われてた。ひどく怯えていたからとりあえず連れてきた」

「スライムに? 珍しいね。あんな臆病な魔物が人を襲うなんて」


 男だけじゃなく、女の声も多重放送のように聞こえる。やはり自分の耳はおかしい。志穂が肩を落とすと、心配そうな表情で女が背中を撫でてくれた。あたたかく柔らかい手に、心が落ち着くのを感じる。顔を上げると、男も志穂を見ていた。

 青年というには少し若い、少なくとも志穂より年下だろう。背も決して大きくはないのに、志穂と荷物を難なく運んできたのだから大したものだ。志穂ははっとした。先ほどの会話から、おそらく彼は志穂をあの生き物から助け、保護してくれたのだろう。だというのに、自分はまだお礼を言ってない。もちろん、背を撫で続けてくれているこの女性にも。志穂が慌てると、女はにっこりと笑んだ。心があたたかくなるようなその笑みに、強張っていた体から力が抜けた。ゆっくりと息を吸い、そして吐く。そして、2人に頭を下げた。


「あの、助けてくださってありがとうございました」


 2人が息を呑むような気配がしたが、志穂は頭を下げたまま続ける。


「ここはどこなのでしょうか。近くに警察があれば、教えて頂けると…」


 言い終わる前に、頬がやわらかな手に包まれた。顔を上げると、目を見開いて女が志穂を見ていた。その瞳にぽかんとした自分が映っている。「あ、あの…?」


「あんた、あたしの言葉がわかるかい?」


 言葉は二重に聞こえるが、ちゃんとわかる。志穂が頷くと、男と女は顔を合わせて小さく頷いた。2人の様子に、ようやく落ち着いた心にじわりと不安が広がる。女は志穂の両手をぎゅっと握った。


「あんたの言葉は私らはわからないんだ。ごめんね。でも、こっちの言葉がわかるのなら安心したよ」


 日本語が通じない。ということは、やはりここは日本ではないのだろう。しかし、志穂は相手の言葉が理解できる。どういうことなのだろう。困惑していると、女にゆっくりと手を引かれ、椅子から立ち上がる。少しふらついたが、男がそっと支えてくれた。ありがとうと言うと、男は小さく頷いた。志穂がしっかりと立っているのを確認して、男がそっと離れる。女は男にいくつか指示をだし、志穂に向き直った。


「とりあえず、汚れを落とそうか。詳しい話は明日にしよう。せまいところだけど、ゆっくり休んでね」


 


*****




 目を覚ますと自室のベッド。ああ、変な夢見たーなんて。


(そんなわけないよね)


 見知らぬ天井を見つめながらため息をついた。夢なわけない。全て現実だ。自分は、おそらく異世界にいる。志穂はベッドに横になったまま室内に視線を移した。暗い。夜明け前なのだろう。


 あの後、お湯で体を洗い、寝巻きを借りて部屋に戻ると、ホットミルクをご馳走になった。そして疲れただろうとベッドまで貸してもらったのだ。ベッドに横になった途端、眠気が襲ってきたのを覚えている。そして、今、目が覚めた。

 少し眠ったおかげで、随分と落ち着いた。ごろんと寝返りを打つ。ここは志穂が生まれ育った日本ではないだろう。日本どころか、地球ではないように思う。ここは異世界ではないのか。昨日までの自分なら、漫画かライトノベルの話かと笑ってしまうような考えだが、笑えない。おそらくここは異世界だ。なぜなら。


(私の世界には、あんな生き物いなかった)


 昨日出会った、粘液が丸い形をした生き物。志穂を飲み込むように広がり、そして散った赤い目の生物。あんなのは、知らない。あの恐怖を思い出し、ぶるりと震えた。恐怖を紛らわすよう頭を振る。ここは異世界だ。そう考えるとしっくりする。

 何故かわからないが、この世界の言葉が理解できるのはありがたい。自分の言葉は通じないが。

 志穂は、こちらの世界で出会った2人の人物を思い浮かべた。助けてくれた少年と、その母であろう女性。彼らの言葉は日本語として聞こえたし理解できたが、多重放送のように他の言語が重なって聞こえていた。おそらく、この世界の言語は、重なって聞こえる方なのだろう。なんらかの力が働いて、彼らの言葉が理解できるのではないだろうか。なんとも都合のいいことである。どうせなら自分の言葉も通じるようにしてほしかった。

 志穂は暗闇に慣れた瞳で再び室内を見る。簡易な本棚に机。椅子。壁にかけられた鞄と衣服。男物の服のように見えるので、もしかしてこの部屋は少年の部屋なのか。そういえば、お湯を借りる前に、女性が何が指示を出していたように思う。それが、この部屋を自分に貸すためのことだとしたら、少年はどこで寝たのだろう。申し訳ないしありがたいしで、少し涙目になってしまった。いま、無事こうしていられるのも、彼が助けてくれたおかげだ。

 机上には燭台と蝋燭。 この家には電気がない。それも、ここが異世界と思う理由の一つだった。自分の世界には当たり前のように在ったものが、ここにはない。


(これからどうしよう)


 元の世界に戻る方法を探すには、この世界で生きていけるよう知識を得なければならない。日常生活を送れるよう、ここの生活習慣を覚えなければ。それだけではない、生きるためには仕事も必要だ。

 そして言葉。幸いなことに、こちらの言葉は理解出来る。ただ、自分から伝えることができない。言葉を覚えて、意思疎通できるようにならなければ。

 親切な2人にこれ以上甘えるのは心苦しいが、朝になったら、身振り手振りで相談させてもらおう。力になってくれそうな気がする。彼らにとって、自分は突然現れた言葉の不自由な不審人物でしかないだろうが、どうにかして生きていかなければならない。

 2人のことを信じていいのか不安もあるが、何もわからないのだ。ここから逃げたところで、行く宛なんてない。なんとでもなれ。

 よしっとガッツポーズをして気合を入れ、瞳を閉じた。これから先のことを考えて疲れたのか、再び眠気が襲ってくる。それに抗うことなく、志穂は意識を手放した。



「あんたさえ良ければ、しばらくここで暮らすかい?」



朝、部屋からそっと出てきた志穂をみとめて、女は優しい笑顔を浮かべた。




 女性はカルラ、少年は息子のゲオルグという名だそうだ。志穂は自分を指差して「如月 志穂です。シホ、シホ」と名を繰り返した。2人が「シホ」と復唱してくれた時、言葉が通じた喜びと安堵が胸に広がった。


「狭い家だし、ずっと暮らすのは無理だけど、旦那が帰ってくるまでの数ヶ月ならここにいていいよ」


 カルラの夫は出かけていて、あと2ヶ月は戻ってこないそうだ。「そのかわり、色々と手伝って貰うけどね」にっこりと笑ったカルラの笑顔につられて、志穂も微笑んで首肯した。

2ヶ月。2ヶ月もここにおいてもらえるのだ。その間に生活習慣、そして言葉を覚えたい。1人で暮らしていけるよう仕事も得られたら尚良い。まず、彼女の手伝いをしっかりとやろう。志穂はぐっと両手を握りしめてカルラを見た。明るい茶色の、少し癖のある長い髪。それを後ろで結んでいる。目が合うと、優しく微笑んでくれる。少しふっくらしたやわらかそうな綺麗な肌。とてもこんな大きな子供がいるように思えない。志穂はゲオルグに視線を移した。カルラよりも濃い茶髪。まだ幼さが残っているが、とても整った顔をしている少年だ。表情があまり変わらないので、カルラと違って冷たい印象を受ける。が、志穂を見るゲオルグの瞳が心配そうに揺れてるのに気づき、優しい子なんだなと思った。


「本当にありがとうございます。これからよろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げると、言葉は通じなくてもなんとなく意味がわかったのか、カルラは満面の笑みで頷き、ゲオルグは瞳を細めてくれた。

 少しでも足しになれば、と志穂は買い物バッグから豚バラブロック肉を差し出した。受け取ったカルラが大きな目を更に大きくした。「こんな綺麗な肉はじめてみたよ! もらっていいのかい?」こくこくと頷く。喜んでもらえて、志穂の心がじんわりとあたたかくなった。豚バラブロックは、クリームシチューと煮豚になって夕飯に登場した。


「美味しいお肉だね! そうとういいお肉だったんじゃないかい?」

「うん、美味い」


特価グラム88円の外国産のお肉です。

そう伝える言語能力のない志穂は曖昧に笑って料理を口にした。日本から持ってきたお肉は無駄になることなく、志穂のお腹と心を満たしてくれた。



 

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