仔猫とサラリーマン
初投稿です。
拙い文章ですが、よろしくお願いいたします。
カタンカタン……カタンカタン……
夜の街を縫うように、電車が走る。空はあいにくの雨模様で、電車の窓にネオンの光を反射しながらキラキラ光る水滴がついては流れていく。
タケルは、走る電車のドア付近、手すりにもたれかかるように立っていた。持っていたビニール傘をドアの片隅に立てかけると、しっかり締めていたネクタイを緩め、きちんと着込んだスーツのジャケットのボタンを開ける。シャツの首元のボタンも緩めると、「はあ」とひとつため息をついた。
クールビズは終わりを告げ、街には涼やかな風が吹くようになった。南方で台風17号が発生したと、電車内の掲示板に文字が映る。来週には東京にも台風が来るかもしれないなとぼんやり考えるタケルの顔には疲れが見えており、立つ姿はだらりと力が抜けていた。
いつもなら帰宅ラッシュで混み合う車内も、週末を前にして街へと繰り出す人が多いからか比較的空いている。タケルの同僚も合コンだとはしゃぎながら退社していった。クリスマスまでに彼女をつくるんだと意気込む同僚に、「うまくいくといいな」と上から目線で思っていた数時間前の自分を殴りたい気持ちでタケルはいっぱいだった。
席もいくつか空いているが、タケルはいつもの帰宅ラッシュの習慣でついついドア付近を陣取ってしまっていた。タケルの家は会社からそれほど遠くない。快速で三、四個駅を通過すればもう降りるのだ。混み合う車内をいちいち歩いて降りるのが苦手なタケルは、いつもドア付近に立って電車に乗るのだ。
今日はタケルにとって、散々な一日だった。入社三年目にしてようやく任された仕事。半年かけて進めてきたその取引の契約が、突然白紙になった。取引先の社長が突然倒れ、社長が代わり、経営方針も見直すということで、タケルの半年の苦労はパーになってしまった。タケルは連絡を受けて慌てて取引先へ向かいどうにかしようとしたものの、うまくいかなかった。
取引先から会社へ戻る際、雨に降られタケルが急遽コンビニで買った傘は、退社しようとした時には誰かに持ち去られた後だった。コンビニの安いビニール傘とはいえ、社会人にもなって盗むなよと、傘立ての前で独り言ちた。タケルは仕方なく近くのコンビニで本日二本目の傘を買った。
タケルはこの悲しい煮え切らない気持ちを恋人に癒してもらおうと思っていたのに、一週間前から約束していた駅前の待ち合わせ場所にタケルの彼女はなかなか現れなかった。雨に降られて困っているのか、残業で仕事から抜けられないのか。1時間ほど待ったころに、彼女からメールが入った。別れ話の内容だった。
タケルが慌てて彼女に電話をかけても繋がらず、メールで今日約束してたし会って話そうと伝えるも、30分待っても返事もない。まさかメールで振られるなどとタケルは思いもしなかった。やり場のない怒りは、普段ならそのまま酒でも飲んで気を晴らそうと思うところだが、契約白紙のショックですでに限界だったタケルは、そのままフラフラと電車に乗り込んだのだった。
タケルが窓については流れる雨の雫をぼんやり眺めていると、自宅最寄駅への到着を告げる車掌のアナウンスが入る。タケルはもたれかかっていたドアから体を離し、電車が駅に入りドアが開くと立てかけていた傘を掴みホームへ出る。
タケルはそのまま改札を通り抜け、傘を開いて駅を後にする。どんよりと空を覆う雲は月を覆い隠し、夜の闇をいっそう濃くしている。営業を終了し閉店作業に追われる商店街の店を横目にタケルは歩く。街灯は暗い夜の闇を照らすが、それはほんの狭い範囲だ。静けさの漂う夜の街と、しとしとと降る雨は、タケルの心を表しているようだった。
商店街をトボトボと力なく歩きながらタケルは考える。今の会社に入って三年経った。石の上にも三年というし、ここまで頑張ったのだから転職してもいいのではないか。自分には落ち度のない仕事の失敗だったのに、上司は慰めるどころか契約間近の白紙撤回に激怒し、新人や後輩の前でタケルを怒鳴り散らしたのだった。
タケルはこんなに惨めで理不尽な思いをしたことはあまりない。世間ではゆとり世代だと揶揄されるが、こんな理不尽なことをされたら心も折れるというものだ。半ばやけっぱちになりながらも、タケルは転職について考えながら家へと歩く。
そういえば夕飯を食べてないなとタケルが思い出したのは、商店街を抜けて少ししてからだ。このあたりには夕食時を過ぎた夜に開いている飲食店はない。
タケルは仕方なく通り道にある小さなスーパーで値引きシールの貼られた惣菜と安い発泡酒を買う。閑散としたレジで会計を済ませスーパーから表に出ると、先程まで降っていた雨は止んでいた。
タケルはビニール袋をぶら下げて、街灯もまばらになった道を歩く。しばらく歩いてから、スーパーの入り口に傘を立てかけたままだったのを思い出す。今から引き返すのも面倒だと思い、明日朝にまだ置いてあったら持って帰ろうと考えた。タケルの毎朝の日課はジョギングであり、この辺りはタケルのジョギングコースだった。
学生時代、タケルは陸上をやっていた。プロになれるほどの記録は出せなかったが、その頃から毎朝のジョギングは欠かしたことはない。すっかり身についた習慣を変えることは、タケルには難しかった。
タケルが家のアパートの近くに来ると、ミャアミャアとか細い猫の鳴き声がする。まるで仔猫が助けを求めているようだと、他人事のように考えながらタケルが歩いていくと、アパートの前の自販機の横に段ボール箱が置いてあった。小さな鳴き声はその段ボール箱から聞こえてくる。
ーー捨て猫か。
タケルはぼんやりとそう思い、通り過ぎようとする。仔猫はタケルが通り過ぎるのを引き止めるように、必死に鳴き声をあげていた。
タケルは薄情ものではない。タケルの実家では小さい頃から猫を飼っていたし、小学生の頃は飼育委員だった。クラスで飼ってた金魚の世話を、夏休みの間も率先してこなした。誰かがいたずらで金魚の水槽にザリガニを入れ、悲劇が起こった時は人一倍泣いた。未だにあのザリガニを入れたのか誰だったかは分からない。見つけたらただではおかないと、大人になった今でも思う。
タケルはそんな生き物を大切にする心優しい青年であるが、同時に扱う命の大切さも知っている。命は簡単に扱えるものではない。生き物は、ご飯も食べるし排泄もする。それぞれの生き物に合わせた環境で飼育してやらないといけない。時には病気だってするのだ。病気になったら薬を与えたり、病院に連れて行ったりしないといけない。
タケルの実家で飼っていた猫は、残念なことに最期を看取ることは出来なかった。タケルの実家は田舎の盆地の町にあり、自然豊かな町では、猫は放し飼いにするものだと思われていた。車の行き交う町では轢き殺されても文句も言えないわけで、猫の安全を考えたら室内飼いを考えるべきであろう。しかし、タケルの実家は周りを田んぼで囲まれており、交通量も多くはなかった。誰も猫が田んぼ道を散歩していても気にも留めない場所だった。
そんな猫が外から病気をもらってきた時はタケルの家族はみんな慌てたものだ。町に一軒しかない動物病院に猫を連れて行き、懸命に看護をしたが、ある日猫は姿をくらました。
あんなに家族になついていたのに、どこに行ったのかとタケルが心配していると、今はもう亡くなっているタケルの祖母が「猫は死に目を見せないっていうからなぁ」と、諦めたような声で言ったのを今でもタケルは覚えている。
タケルは家族みんなと張り紙を町に貼り、必死に探したが、結局猫は見つからないままだった。遺体もなければ遺骨もないが、猫が消えてから一年後には、木の板に名前を書いて庭先に墓だけは作ったのだった。墓には遺骨の代わりに猫がいつも使っていたお気に入りのブランケットを、祖母が畳んで埋めていたのを、タケルは実家に帰る度思い出すのだ。
仔猫のことは気になるが、拾うなら責任を持たなければならない。それを知っているタケルは、後ろ髪を引かれる思いをしながら、耳を塞ぐようにして足早に仔猫の鳴く段ボール箱の前を通り過ぎる。そのまま一気にアパートの自宅へと入ると、後ろ手に玄関ドアの鍵をかけた。
タケルは靴を脱ぎ、「ふう」とため息を吐き出しながら、手にぶら下げていた惣菜の入ったビニール袋をテーブルの上に置く。通勤カバンをいつもの定位置に置き、発泡酒の缶を袋から取り出すと冷蔵庫へと入れる。
スーツを脱ぎハンガーにかけると部屋着をクローゼットから取り出し、タケルは風呂へ向かう。シャワーだけ浴びて部屋着に着替え、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出す。少し生温い発泡酒だが、渇いた喉によく染みた。
タケルはテーブルに置いた袋から惣菜を取り出し、パックに入ったままレンジで温める。ピーと鳴ったらレンジから惣菜を取り出しパックの蓋を開け、箸と一緒にテーブルに並べ、どかっと椅子に座る。
タケルはそのまま惣菜を食べようとするも箸が進まない。玄関の鍵を閉めてからずっと、タケルは先程の仔猫のことが気になっていた。頭の中をぐるぐると考えが回っていたのだ。
今日はつい先程まで雨だった。あの仔猫はいつからあそこに捨てられていたのだろうか。今朝タケルがジョギングや出勤のために自販機の前を通った時は、仔猫の入った段ボール箱はなかった。雨が上がってすぐに捨てられたのならまだいいが、もしタケルの出勤後に人知れず捨てられていたのなら、昼間から降り続けた雨で濡れているはずだ。
猫の繁殖期は冬と夏であり、春と秋は出産シーズンである。生まれたばかりの仔猫であるならば、母猫の乳を飲まなければ長くは生きられない。実家で飼っていた猫は野良猫が生んだ仔猫を近所の子どもが軽はずみに触ったために、人の臭いがついて嫌がった母猫が捨ててしまった仔猫だった。タケルは仔猫がどれだけ弱いのか、どんな世話が必要なのかを思い出していた。
タケルは箸をおき、発泡酒を一口飲む。缶をテーブルに置くと、意を決したように立ち上がる。適当なバスタオルを密林の名前の通販会社の段ボール箱の底に敷き、鍵と一緒に持って家を出る。
仔猫が何匹いるかはわからないが、とりあえず保護して里親を探そうとタケルは心に決めた。タケルの住むアパートはペット不可だが、里親が見つかるまでの間ぐらいは大家も許可してくれるだろう。退去の際には修繕費として多めに支払わなければならないかもしれないが。そんな事を考えながら、タケルは仔猫の元へ向かった。
夜の闇に佇む自販機の隣に段ボール箱はまだあった。仔猫の鳴き声は弱々しいが、タケルの足音が聞こえたのかミャアミャアと必死に鳴いている。
タケルは段ボール箱の前にしゃがみ込み、仔猫を見た。使い古されてボロボロになっている布の上で小さな仔猫が一匹だけ必死に鳴いていた。仔猫は目は開いているが目やにが出ている。段ボール箱はすでにふやけていて、ボロ布もしっとりと濡れていた。
雨に濡れたのであろう仔猫の体毛は濡れてぺたりと体にまとわりついており、ただでさえ小さな仔猫の体がさらに細く小さく見える。仔猫は必死にその細く小さな四つ足を踏ん張り、タケルの方を見つめてプルプルと寒さに震えながらも助けを求めて鳴いていた。
タケルは自分が持ってきた段ボール箱からバスタオルを取り出し、猫をそっとタオルに包んで片手に抱きかかえると、ボロボロになった段ボール箱をボロ布ごと密林の名前の段ボール箱に入れて空いた手に持つ。
タケルは腕の中の仔猫を潰さないように気をつけながら、足早に家へと戻る。タケルに抱かれた仔猫は温かなタオルに包まれたからか、暴れることはなく、ただミャアミャアと鳴いていた。
タケルは家に入ると玄関に段ボール箱を置いて、仔猫を抱えたまま部屋に入る。仔猫を包んでいたタオルで濡れた体をよく吹くと、別の密林段ボール箱の底に乾いた別のバスタオルを敷いて、そっと仔猫を下ろした。
仔猫はまだミャアミャアと鳴いている。きっとお腹が空いているのだろう。タケルがよくよく観察してみると、生まれたばかりの仔猫よりは大きく見えた。もしかすると離乳はしているのかもしれないと、タケルは考えた。
タケルは財布と鍵を持つと、猫を家に残して急いで外に出る。先ほど傘を忘れたスーパーへ急いで駆け込み、閉店間際の店内で離乳用と書かれたキャットフードを探し、素早く見つけて会計を済ませ店を出る。傘を置き忘れていたことなどすっかり忘れて、タケルは急いで家へと戻った。
タケルは家に帰ると手をよく洗い、自分の指にキャットフードを乗せて仔猫に与えた。よほどお腹が空いていたのか、仔猫は出された餌を警戒することもなくぺろりと平らげ、満足したのかウトウトし始める。
タケルは仔猫をそっと掴み、新聞屋の勧誘員が置いていったお試し用の新聞紙の上に乗せ、お尻を優しくポンポンと叩く。排泄を促された仔猫は、すんなりと排泄した。全て出たのを確認すると、タケルはそっとティッシュでお尻を吹いて、仔猫を優しくタオルで包むように、段ボール箱へと戻す。
仔猫はタケルの手から降ろされると、あっという間に眠り込んでしまった。先ほどまでずっと鳴いていたのだ。小さな仔猫の体力はもう限界だったのだろう。
タケルは仔猫を温めるように追加で仔猫の周りにそっとタオルを敷く。仔猫は耳をぴくりと動かしたが、目を開けることなくそのまま眠っていた。
タケルは立ち上がり、玄関に置きっ放しにしていた段ボール箱とボロ布をゴミ袋に詰め、手を洗う。後始末を終えたタケルは、眠る仔猫を眺めながら椅子に座り、テーブルの上ですっかり冷え切った夕食に手をつける。発泡酒は炭酸がだいぶ抜けてしまっていたが、胸のつかえが取れたからか、先ほどより美味しく感じられた。
つまみ代わりの惣菜を食べながら、タケルは考える。
仔猫の里親を探すのはやめよう。ペット可の物件を探せばいいだけだ。彼女にも振られてしまったし、猫と暮らすのもいいかもしれない。明日は土曜日だけれど、空いている動物病院を探して仔猫を連れて行こう。寄生虫の検査や病気の検査もしなくてはならない。仔猫の目についていた目ヤニは拭ったが、目に何か病気があるのかもしれない。
そこまで考えて、タケルはふっと息を吐き、ひとりほのかに笑う。ついさっきまで転職しようと考えていたのに、自分は現金なものだと思ったのだ。
仔猫を飼うのにはお金はかかるし、病院代だってバカにならない。新しく引っ越すとなれば、さらに金はかかる。
ーー転職なんて、考えている場合じゃないな。
タケルは、仔猫との生活を想像しながら遅くなった夕食を食べ、仔猫のためにも仕事をがんばろうと思うのだった。
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