始まりの村
第一章始まりの村
泉の前でオリヴィアが踊っている。
ゆったりと辺りの空気を仰ぐように回っている。
アレックスはその見慣れた光景を少し遠くの場所から、幸せな気持ちで眺めていた。
穏やかな気候なのに、なぜか景色の色は薄く、その不釣り合いな空間は少しアレックスを不安にさせた。
最初はゆったりと回っていたオリヴィアだったが、徐々に回るスピードが増していった。
アレックスは声を出して止めさせようしたが、いくら頑張っても声が出なかった。
最後には狂ったように回り続け、もう見てはいられないとアレックスが目を背けたときに、目の前の光景が薄らいでいった。
アレックスが目を開けると、エリーが仁王立ちをしてこちらを見下ろしていた。
「また、うなされていたわね」エリーは言った。
「そんなことない。大丈夫だ」アレックスは少し苦笑いをしながら答えた。
アレックスはよろけながら立ち上がると、自分の寝床だった場所を見つめた。村のゴミ収集所はアレックスの第二のベッドであった。最近は部屋ではなく、この場所で目覚めることが多く、そのたびにはエリーに起こされていた。
「昨日も飲みすぎていたようね」エリーは言った。
「ああ。いつもどおりさ」
今年五十歳を迎えるアレックスは、顔や体に若干の脂肪を蓄え、お腹も十二分に膨らんでいた。二十歳も歳が下のエリーに心配をされた気まずさもあって、何か言いたげなエリーを横目にその場を後にした。
店に戻ると開店の準備をしている母親のロズと目があった。ロズは手を動かしながら言った。
「昨日はお客さん入ったのかい」
「いつもどおりさ。八百屋のエイブはまたツケで飲んで、向いのクレミーは暴れて椅子を壊していったよ」おどけながらアレックスは言った。
「おやおや」ロズは嬉しそうにうなずいた。
「おばあちゃん、私手伝う!」
バタンと大きな音を立て、エリーが店に入って来た。
「相変わらずお転婆さんねぇ」ロズはもっと顔をほころばせた。
「もう、いい歳のレディにお転婆って言わないで!」
文句を言いながらエリーはカウンターの中で料理の仕込みを始めた。
アレックスの家の一階は酒場になっていて、二階がアレックスの部屋となっていた。二十人入れば立ち飲み客が出るほど小さな店だったが、村唯一の酒場ということもあってか、連日お客で賑わっていた。昔はロズも二階に住んでいたが、毎晩騒ぎを起こし、安眠とは程遠い生活に体力が追い付かなくなったこともあり、近くに家を借りて住むようになった。
「今日は何時からお店に入ったらいい?」アレックスはロズに聞いた。
「昨日無理して遅くまで残ったからねぇ。少し早めに入ってもらえると助かるよ」
「了解。村の灯が点き始める頃には店に入るよ」
そう言ってアレックスは席を立ち、店のドアを開けて出ようとした瞬間立ち止まり、振り返って言った。
「壊れた椅子、後で直すから外に出しておいて」
自分に対して言われたことに気が付いたエリーは、少し怒った口調で言った。
「まったく、なんでもかんでも私にやらせて、少しは自分でやったらどうなの。大体おばあちゃんはアレックスに甘すぎるのよ――」
アレックスに文句を言っているようだったが、店から離れるにつれて段々と声は聞こえなくなっていった。
アレックスが歩き出してすぐに、露店の準備をしている八百屋のエイブが目に入った。
「こんなに働いているのに、酒代すら稼げないならやめちまったほうがいいんじゃないか?」アレックスが声をかけると、エイブは顔を上げて言った。「今にドカンと稼いで、ツケなんか万倍にして返してやるよ」エイブは笑いながらリンゴをアレックスに放り投げた。
アレックスは投げられたリンゴを返そうか迷ってすぐにかじりついた。文句を言われる前に踵を返し、リンゴを持って手を振るようにその場を去った。「ツケから差し引いておけよ!」後ろからエイブの叫び声が聞こえた。
穏やかな気候の中、村の人たちは生活を営んでいた。嫁に虐げられながら肉を切っている肉屋や、花の露店を出している姉妹、家の前のロッキングチェアーに揺られながら眠っている老婆。そんな風景を眺め歩きながらアレックスは少し幸せな気持ちになっていた。
アレックスは目的の診療所に着くと、すぐに受付に向かった。丸々と太った浅黒い女はアレックスを見ると、嬉しそうにしきりに手を振ってきた。
「アレックス!」女は叫び声に近い、大きな声でアレックスを呼んだ。
「やあオランダ。調子はどう?」アレックスは言った。
「いやねぇ。オランデよ。まだ酔っぱらっているの?」笑顔でオランデは言った。
「昨日も少し飲みすぎてね」少し大げさに片手で頬をさすった。診察室を親指で指して「アイツはもう終わりそう?」アレックスは聞いた。
「お昼の休診まであと一人二人ってとこね」オランデは答えた。
「いつもありがとう」アレックスは大げさにオランデの手を取り、手の甲にキスをするふりをした。
受付すぐ近くの椅子にアレックスは座った。周りには診察待ちの患者が2人いて、どちらも訝しげにアレックスのことを見ていた。
診察室から聞き慣れた声がした。
「次の方どうぞ。」
一人の患者が診察室から出ていくと同時にアレックスは立ち上がり、次の患者と思われる人を遮った。入り口前にある札を『休診中』にすると次の患者以外の人たちは苦々しい表情を浮かべ診療所を後にした。
アレックスは医者の前にある丸椅子に座った。医者のヘンリーは、髪がしっかりと撫でつけられていて、丸い黒い縁の眼鏡をかけていた。
ヘンリーはカルテに目を落としながらアレックスに尋ねた。
「どこが悪いんですか」
「頭が少し痛くて、体がダルいんです」アレックスは答えた。
「それは薬を出さなくてはいけませんね」
ヘンリーはそう言うと、スラスラとカルテに文字を書きだした。
『クソマズイスープ』
カルテに殴り書きにされた文字を見たアレックスとヘンリーはゲラゲラと笑い出した。笑いが一段落したときにヘンリーは言った。
「昨日は店行けなくてゴメンな。夜に急患が入ってさ」
「珍しいな。そんな重症な患者が来るなんて」アレックスが尋ねた。
「昨日、村の子供が近くの森でヒートモスに刺されたんだとよ。」ヘンリーは答えた。
「ヒートモスってデカい蚊みたいな奴だろ?アイツはほとんど根絶やしにしたはずじゃなかったか?」アレックスが言った。
「根絶やしにはしたんだが――だいぶ前のことだからな。ある程度は生まれてきてもおかしくはないさ」
少し俯きがちにヘンリーは答えた。それを聞いて何か考え込むかのような仕草をみせていたアレックスに、ヘンリーは続けて、おどけるように言った。
「まあ気にするなよ。俺たちが生まれた頃にはそれこそ村中で見たぐらいさ。だいぶ少なくなったほうだよ」
ヘンリーは笑いながらアレックスの肩を叩いた。
ヘンリーとアレックスは、ほぼ同じ時期にテラス村に生まれた。二人が生まれたとき村では害虫が大量に発生し、農作物のほとんどが害虫のエサとなって、村の食料はほとんど失われていた。村人たちが普通の生活していくのも難しく、当然のことながら子供を産んで育てようとする人間はほとんどいなかった。そんな時期に生まれた二人は、当然のことのように親しい友人として、長い時間を過ごした。
「それはそうと、装飾屋のベネッタは昨日もお店に来たのか?」
「ああ。いつものとおり強い酒をしこたま飲んでんのに、ほとんど素面で帰っていったよ」
「なんだよ!子供の患者なんて放って行きゃよかったよ!」悔しそうにヘンリーは言った。「俺について何も言ってなかったか?」食らいつくようにアレックスに尋ねた。
「そう言えば―――『ヘンリーは今日来てないの?』とか聞かれたな」
「そうだろ!やっぱりアイツは俺に気があると思ってたんだよ!」
嬉しそうに話すヘンリーに向かってアレックスは言った。
「嘘だよ。店には来たけど、お前の話なんてこれっぽっちも出てなかったよ」
唖然とした表情でヘンリーはアレックスを見つめた。
「あんた達!診察もそっちのけで何喋ってるんだい!」
怒鳴りながら入ってきたヘンリーの母親は両手に底の深い皿を持っていた。
「いつもいつも、昼どきになると紛れ込んで来て――婆さんの息子じゃなければ叩きだしているところだよ!」
そう言って両手に持っていた皿を診察机に置いた。
ヘンリーの母親は、 ため息をつきながらエプロンのポケットから二つのパンを取り出し、無造作に診察机の上に置いて部屋から出て行った。
ヘンリーの母親が出て行ったあと二人はまた大笑いをしてパンをかじった。
「いつもお前の母さんは怒ってるな」アレックスは言った。
「いつもはパンまで出さないだろ。今日は上機嫌だよ。」ヘンリーは答えた。
窓の外から「あんた達いつまで食べてるんだい!」というヘンリーの母親の声が聞こえて二人は黙々と食べだした。食べ終わった後、アレックスは言った。
「悪い。何かすぐ食べられる物持たせてくれるか?」
「いいよ――ところでさっきの話、本当は―――」「何も言ってなかったよ」アレックスが答えるとヘンリーは悲しそうに首を横に振った。
ヘンリーは部屋の窓から顔を出し大声で叫んだ。
「母さん!サンドイッチ!」
アレックスは診療所を出て村を歩いていた。村の外れに行くほどに、店や民家が少なくなっていき、森を抜けて村の外れに出た。辺りには腰まで生えた草と、遠くに見える山々だけだった。ほんの少し見える草を踏み歩いた跡を進むと、目の前に一軒の民家があった。
アレックスが民家の扉を押し開けると、中には誰も居ないようだった。民家の中には色々な動物のはく製が飾られてた。はく製の目がすべて自分に向いているようでアレックスはこの部屋が少し苦手だった。
アレックスが気味悪るがりながら家の中を見歩いていると、遠くのほうで爆発音のようなものが聞こえた。
アレックスは民家を飛び出て辺りを見回した。遠くに大きな煙が立っているのを見つけ、その方向へ走っていった。
しばらく走ると目の前に横たわる人間を見つけた。近づいて見ると、男が横たわっていた。髪の毛が激しい癖毛で、体格は小太り、立派に茂った髭。すぐに知り合いのドーンだと分かった。気を失っているドーンを揺さぶり、頬を叩きながら言った。
「おい、しっかりしろ!」
何度も繰り返しているうちに意識がはっきりしたのか、ドーンは目を大きくあけながら答えた。
「ジャイアントベアー!ジャイアントベアー!」
興奮していたドーンは、アレックスを目の前にして正気を取り戻したのか、何事もなかったかのように言った。
「今日のご飯は何?」
辺りで小鳥のさえずりが響き渡った。
アレックスとドーンはドーンの家の中にいた。二人はテーブルに向かい合うように座り、ドーンはアレックスが持ってきたサンドイッチを頬張っていた。
「何があったんだ?」アレックスは聞いた。
「川に水を汲みに行ったら、目の前にジャイアントベアーが現れて、気が付いたら目の前にアレックスがいたんだ」ドーンは答えた。
「あの大きな音は何だったんだ?」
「大きな音って?」不思議そうにドーンは言った。
「いや、分からなかったらいいんだ」 アレックスは言った。それを聞いたドーンは首を傾げながらサンドイッチの残りを頬張った。
「ところで、さっきから何を煮てるんだ?」かまどで煮立っている鍋を指さしてアレックスは聞いた。
「薬草を煮出してるんだよ。まだまだ煮詰めないと意味が無いんだけどね。アレックスも飲む?」ドーンは煮汁をコップに注ぎアレックスに手渡した。
アレックスはコップを手に取り臭いを嗅いだ。
「いや、俺はいいや」アレックスは言った。
「そう。美味しいのに」ドーンは煮立った鍋をかき混ぜながら言った。。
「いつもご飯ありがとう」ドーンは言った。
「どういたしまして」
アレックスは立ち上がり、部屋を出ようとした。
ドーンは少し強い口調で言った。「何か困ったことがあったら言ってね!」
アレックスは少し笑いながら答えた。
「あったら真っ先に言うよ」手を振りながら町へ歩き出した。
アレックスが町まで戻るとエリーが走って向かってくるのが見えた。
息を切らしながらエリーは言った。「アレックス!大変なの!」
「どうしたんだ?」アレックスは言った。
「帝国の人たちがお店に押しかけて、おばあちゃんが――」
エリーの話が終わらないうちにアレックスは走り出していた。
ウィルは自分の部屋で机に向かい、昨日ヘンリーに与えられた課題について考えていた。
〈ビービーの毒の症状と、治療法について〉この課題の最善の答えはウィルにもすぐに分かった。毒を持つ魔物に対して、それぞれの症状に合わせた血清があり、それを投与すれば症状は良くなるだろう。問題はそれらの血清は限られた町でしか手に入らないことだった。ヘンリーが問いているのは一般的な治療法ではなく、この村でできる治療法だ。そんなことは、過去いくつものヘンリーからの課題をこなしてきたウィルにはすぐに考え付くことができた。ただし、それ以上の答えは持ち合わせていなかった。過去に学んだ薬学を駆使してもこの毒の治療を行うまでには至らなかった。
ウィルは机の上に散らばっていた文書をかき集めると、鞄に詰めて家を飛び出した。
診療所に着いたウィルは受付のオランデに話しかけた。
「まだ診察始まってないよね?」
誰もない受付の椅子に座り昼食をとっていたオランデは食べる手を止め答えた。
「あらウィル、ちょっと遅かったわね。アレックスは今出て行ったところよ」
ウィルは曖昧な笑顔を浮かべ、診察室へと入った。
「ヘンリー!昨日の課題なんだけど――」
「なんだウィルか。脅かすなよ」
大声で呼ばれたことにヘンリーは驚いているようだった。
「昨日くれた問題が分かんなくて――答えを教えてよ」診察用の椅子に座り、身を乗り出してヘンリーは言った。
「いつも言ってるだろ。分からなくてもいいから自分で調べて来いって。それから十分に考えて答えを持ってこい」
ヘンリーはカルテに目を落としながら言った。
「だって答えを教えてくれたほうが早いじゃないか。それに、考えたけど分からなかったんだ」
ヘンリーはウィルに目をやり、ため息をついた。
ウィルは三年ほど前からヘンリーの元へ通うようになった。ウィルがヒートモスの幼虫に刺され、それを治療したのがきっかけだった。ヒートモスの幼虫にさされ、今にも死にそうな顔をしていたウィルを薬草一つで直してしまった。ウィルはそんな些細な行為で治ってしまったことに驚き、その結果何を間違えたか医者になりたいと言い出した。それから診療所に通うようになり、なし崩し的にヘンリーに治療や薬について教えるようになっていた。
「ウィル、お前が来てから三年が経つよな――もうそろそろ文書だけじゃなくて、実際に治療をしてみたらいいんじゃないか。幸いにもこの診療所は優秀な助手を募集している。それこそ年中な」おどけるようにヘンリーは言った。
「そんなことよりも、もっと治療に関する知識を増やしたいんだ」
真っすぐな目で見つめるウィルを前にして、ヘンリーは何も言うことが出来なかった。
ヘンリーは机の上の紙にスラスラと何かを書き始めた。書き終えると、それをたたみウィルに手渡した。
「昨日の課題の答えと今日の課題だ」
「ありがとうヘンリー」
「ウィル、腹減ってないか?サンドイッチがあるんだ。持ってくか?」
ウィルは紙の包みを受け取り、もう一度礼を言うと診療所を後にした。
ウィルはヘンリーからもらったサンドイッチを食べながら村はずれに向かって歩いていた。途中見かけた八百屋のエイブに声をかけた。
「やあエイブ、調子はどう?」
「ウィルじゃないか!こりゃまた大きくなって」驚いた表情でウィルの肩を大げさに叩いた。
「昨日も会ったじゃないか」
「そうだったな」エイブは高らかに笑った。
「リンゴを一つくれないか?」
ウィルは銅の硬貨一枚をエイブに渡した。
「丁度よかったよ。隣の町からいいリンゴが届いてな」
「隣って――一番近い町はラスティンだろ。あそこからうちの村までは馬車で丸二日かけてくるじゃないか」
「細かいことは気にするなよ」エイブはそう言うと片手でウィルの銅貨を受け取り、もう片方の手でウィルに紙袋を手渡した。
「まいどあり――一つはサービスな」
「いつもありがとう」
ウィルもまた小さな声で礼を言った。
ウィルがドーンの家の前に着くと、家の煙突から激しい煙が立ち上っていた。尋常ではない煙の量に、ウィルは急いで家の扉を開けた。
「ドーン!大丈夫?」
部屋の中は煙だらけで一歩先も見えないほどだった。ウィルは咳き込みながら部屋中の窓を開けた。
部屋の中が薄っすらと見えるようになり、釜戸の前にいるドーンの後ろ姿が見えた。ドーンの肩を叩くと、驚いた様子で振り返った。目の前のドーンは布で口を覆い、目を閉じていた。ドーンは薄っすらと目を開けて言った。
「なんだウィルか。おどかさないでよ」
部屋の中の煙はほとんどなくなり、ウィルとドーンは向かい合わせに座っていた。
「今日は何を作っていたの?」ウィルは尋ねた。
「『青い草』と『赤い実』を煮て薬を作ってたんだよ。ちょっと飲んでみる?少しだったら体に害は無いから」
先ほどまで煙を出していた鍋の中の液体を、深く小さな器に注ぎウィルに差し出した。ウィルはそれを一気に飲んだ。
「すごい味だね」苦笑いをしながらウィルは言った。
「そうでしょ?美味しいと思うよね?アレックスは口にも付けてくれないんだもん」ドーンは持っていたカップを一口あおり、不思議そうな顔をした。
「ところでさ、ビービーの毒を消せる薬草ってこの辺りに生えてる?」ウィルは尋ねた。
「ビービーの毒は『紫の葉』が一番いいんだけど、この辺りにはあまり生えていないから――それだったら『ビービーの蜜』でいいんじゃないのかな」
「でも『ビービーの蜜』は有毒って本に書いてあったよ」
「普通は毒だけどね。ただし、ビービーの毒にかかっているときには、その毒を消してくれるんだ」
ウィルはヘンリーからもらったメモを開いて見た。
「さすがドーン、すごいや!ヘンリーと全く同じ答えだよ!」
「そりゃそうだよ。この辺りの野草や動物についてヘンリーに教えたのは僕だもん」ドーンは胸を張った。「これから実際に取りに行ってみる?」
「やめとくよ。この後教会にも顔を出さないといけないからさ」そう言ってメモをポケットに仕舞い込み、ウィルは立ち上がった。
「そっか。また何かあったら来なよ」
少し残念そうにドーンは言った。
「ありがとうドーン。そういえばさっきの薬って一体何に効くの?」
「あの薬はね、お尻のデキモノに効くんだよ」
笑顔でドーンは答えた。
アレックスが酒場に着くと、十数人の兵士たちが酒場入り口を囲むようにして立っていた。兵士を押し分け中に入るとロズの怒号が聞こえた。
「帰っておくれ!」
生まれてからほとんど聞いたことのない母親の怒鳴り声に戸惑いながら店の中に入ると、一人の兵士とロズがカウンターを挟んで向かい合っていた。
兵士たちをかき分け、顔を覗かせたアレックスに二人は目をやった。
「君がアレックスか?」
白髪交じりの長い髪と、顎の髭、精悍な顔立ちは歴戦の兵士のそれであった。
「そうです。何かありましたか?」アレックスは不安げに尋ねた。
「私は帝国軍特務兵師長のゼルスだ。君の息子に話があって来た。息子のウィルはどこにいるんだ?」兵士は言った。
「ウィルが何かしたんですか?」恐る恐るアレックスはまた尋ねた。
「ひとまずウィルを呼んでくれないか?」ゼルスは答えた。
アレックスがロズに目配せをすると、ロズはため息をつきながら首を横に振った。
「ウィルへの用件なら俺が聞きます。」アレックスは言った。
「それならば君に伝えよう。君の息子に魔王討伐の命が下った。すぐにでも出発をしてもらいたい」 ゼルスは、はっきりとした口調でアレックスに言った。
「魔王って魔族の長だろ?魔族と人族は争わないって決まりじゃなかったのか?」
「情勢が変わったのだ。魔王は全勢力をあげて、帝国を含むこの世界の人間を滅ぼそうとしているのだ」
アレックスは話の意味を理解できずに、ただただゼルスの顔を見ていた。
「君の息子は魔王を倒さなくてはいけないんだ」ゼルスは繰り返し言った。
アレックスは項垂れ、そして笑い始めた。
「自慢じゃないが、ウィルはただの、へんぴな村のガキですよ。魔王討伐なんてできるわけがない」
アレックスが笑って言うと、ゼルスは表情を変えずに言った。
「国王からの命令だ。拒否する権利は無い」
ゼルスの冷たい口調で、アレックスからは笑顔が消えた。ゼルスは続けて言った。
「ウィルは今どこにいる?」
村の中心から少し外れた辺りに孤児院があった。教会の仕事を主としているが、孤児の受け入れなども行っていた。
アレックスがエリーとゼルスを連れて教会へ向かっていた。ゼルスはゼルスはアレックスへ尋ねた。
「アレックス。君はいつもこんな時間から酒を飲んでいるのか?」
「そうですけど?」手に持っていた瓶をアレックスはあおった。
「報告書どおりだな。酒に溺れた生活をしているっていうのは」
「そりゃ、こんな時間から酒を飲んでいますけど、何か問題でもありますかぁ?」
少し酔っぱらった真似をしながらアレックスは言った。
ゼルスはアレックスを無視するかのようにエリーに尋ねた。
「君は確か酒場にいたね。なぜ君も教会へ?」
「私は教会で育って、今もお手伝いをしています。酒場へは時間があるときにだけ手伝いに行かせてもらっているんです」エリーは答えた。
「君とアレックスはどういう関係なんだ?」ゼルスは唐突に聞いた。
それを聞いていたアレックスは、飲もうとしていた酒を吹き出しむせかえりながら言った。
「あんた何言ってるんだ!」
「そのままの意味だ。」ゼルスはさも当然かのように言った。
「アレックスは私が小さい頃、よく教会へ子供たちの相手をしに来ていたんです。最終的に悪ふざけを始めて、子供たちより先にシスターに怒られていましたけど」
ばつが悪そうにアレックスは顔を背け、瓶に入った酒を飲んでいた。そんなアレックスの反応を楽しむようにエリーは続けた。
「おばあちゃんも、昔はよく私や他の友達の面倒を見てくれて。今は体が悪くなってあまり来られなくなったけど―――すごく感謝をしていて、だから今は少しでも恩返しがしたくて」エリーは言った。
「少しは俺にも感謝をして欲しいね!」吐き捨てるようにアレックスは言った。
「ところ構わず酔っぱらって寝る人にどんな感謝をすればいいのよ!」「お前のオムツだって替えてやったろ!」「私が教会に預けられたのは5歳の頃よ!お酒の飲みすぎで記憶までおかしくなったんじゃない?」
二人の言い合い静観していたゼルスが言った。
「教会へ着いたぞ」
教会の周りでは数人の子供たちが走り回っていた。体の大きな子供から小さな子供まで年齢は様々だった。その中の青年の一人がアレックス達のいるところへ駆け寄ってきた。
「エリー今日はどうしたの?遅かったね」嬉しそうにウィルは言った。
「今日は少し用事があってね」
二人の話を遮りアレックスは言った。
「ようウィル!元気にしてたか?久々に会うな。元気でやってるか?」
「父さんも一緒だったのか」アレックスの持っているお酒に目をやった。「またこんな時間からお酒を飲んで、ほどほどにしないと体に良くないよ」
「大丈夫大丈夫!驚くほど体調はいいんだよ」
「そんなこと言って、いい歳なんだから無理は良くないよ。母さんみたくいきなり倒れることだってあるんだから」
それを聞いたアレックスは言葉に詰まった。
「ゼルスさんはウィルに会いに来たんですよね!」エリーの突然の大声にゼルスは戸惑いながら言った。
「君がウィルだね」
「そうですけど。あなたは?」
不安げにウィルは知らない老人を物珍しそうに見ていた。
「私は帝国軍特務兵師長のゼルスだ。突然だが、君に魔王討伐の命が下った」
アレックス達は礼拝堂の中にいた。小さな村の礼拝堂としては立派な造りになっていて、ゼルスは内装を吟味するかのように見回していた。ひととおり見終わったのか、ゼルスはシスターに尋ねた。
「ウィルを魔王討伐に連れていきたいのですが」
シスターは肌の色は黒く、目もギョロっとしていて、およそ聖母と似つかわしくない風体であったが、なぜか子供たちに好かれ懐かれていた。。
「どうして?」シスターは言った。
「国王様の命が下ったからです」
「いくら国王でも、いきなりこんな辺鄙な村の子供を魔王討伐には行かせないだろう」
シスターが修道服の袖の中から煙草を取り出し火を点けた。何か言おうとするゼルスを制して制し続けた。「何があってウィルが選ばれたの?」
ゼルスは少しの間を置き言った。
「帝国一の予知者ゴールディー様の予言によって選ばれました」
「予知者って、所詮は占い師ってことだろ?そんな占い一つで戦場に駆り出される子供は、たまったもんじゃないね」
シスターはどこからか取り出した小さなガラスの皿に煙草を押し付けた。
「ゴールディー様の啓示は今まで外れたことがない。啓示が無ければ、このような村の子供に魔王討伐をさせるはずがない!」少し怒りを含み、ゼルスは言った。
ゼルスの目を見て、諦めたようにシスターは言った。
「なんで私の意見を聞き来たの?私の意見なんか聞かなくても連れ出せるだろう。何をわざわざ許可を得る必要があるの?」
「調査によれば、あなたはシスターでありながら、村の長でもあるという。意見を聞くのは当然ではないか?」
「誰が言ったのか分からないけど、あたしはそんな役割引き受けたことはないよ!」シスターは叫んだ。「それに――一番に聞くべきはウィルの意見だろ!」
「僕は――」ウィルは言葉に詰まり俯いていた。
しばらくの沈黙に耐えかねたエリーは言った。
「すぐには決められることではないから、今日は帰りましょう。子供たちの夕食の準備もあるし――ウィルもそれでいいわね?」
答えを聞かずに皆を追い出そうとするエリーに向かってシスターは言った。
「みんな今日は帰りな!」
「でも夕食の準備が―――」
そう言おうとしたエリーはシスターの表情を見て、何を言っても無駄なことが分かった。
あの顔をしたシスターが自分で言ったことを覆したことはなく、今はただシスターの言い分を受け入れるしかないことをエリーは分かっていた。
酒場へ帰る途中、ゼルスは言った。
「明日、ゴールディー様がこの村にいらっしゃる。あの方の話を直接聞けば、予言の真偽も分かるだろう」
「さっきから『様』をつけて呼んでいるけど、そんなに占い師って偉いんですか?」
エリーは不思議そうに尋ねた。
「占い師ではない!予知者だ!予知者は占い師と違って、その予言が外れることはない。継いで言わせてもらえば、予知者は国王の側近と同等の地位を与えられている。もちろん私より上の地位だ」
あまりの勢いにエリーは少し驚いた。そんな二人の会話を無視してアレックスが口を開いた。
「あのさぁ」
エリーとゼルスは揃ってアレックスを見た。
「本当にウィルが行かなきゃダメなのか?」弱弱しく確認するようにアレックスは尋ねた。「恐らくそうなるだろう」ゼルスは冷たい口調で言った。
「そうか」それだけ言ったアレックスは、それから終始無言で歩いていた。
一方のウィルは、何か思いつめるようににずっと下を向いて歩いていた。