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第6話 過去(いにしえ)より

「ハアハア……。ここまで来れば大丈夫だろう」

 鳳太は足を止め、肩で激しく呼吸をした。上手く七釜戸署を抜け出したはいいが、恐ろしく勘のいい沢崎のことだ。すぐに嘘に感付いて、連れ戻そうと追いかけてくるに決まっている。そこで鳳太も自分なりに「悪知恵」を絞り、わざと自宅のある方向とは逆方向へ向かって走ったのである。

 そのような訳で鳳太は今、七釜戸署より五百メートルばかり南にある七釜戸中央公園の西端にいた。土曜日の夜、午後七時すぎなので、デート中のカップルの一組や二組、見かけても不思議ではなかった。が、周囲に人影はなく、白い街灯の光だけが公園内を静かに照らしていた。

 道沿いの土埃にまみれたベンチに座り、鳳太はジーンズのポケットを探った。今手元にあるのは、睡眠状態の折妖犬と折り畳まれた金色の妖紙、そして自宅の鍵だけ。金はもとから一銭もなく、電車にもバスにもタクシーにも乗れない。凰香を捜しに帰宅したくても七、八キロの道程を歩いて行く以外に手がないのだ。

「仕方がないな……。こいつは役立たずだし」

 その「役立たず」の折妖犬はランク1地鳥が素妖で、サイズは僅か四。覚醒させても小型犬程度の大きさにしかなれず、乗ればたちまちぺしゃんこだ。地鳥も高ランク個体であれば空中を走ることも、一時的に巨大化することも可能なのだが、最下位のランク1では話にもならなかった。

「あとは使えそうなのはこいつだけか……。期待は出来ないが、取り敢えず折ってみるか」

 鳳太は金色の妖紙をベンチの上で折り始めた。見た目は煌びやかでも、所詮素妖はランク1か2の尾長鼠。ならばそのままの姿でよかろうと、鳳太は鼠の形に折った。

「汝を折りし折士が命じる。起きろ!」

 鳳太の一言で折妖鼠は覚醒し、鼠の姿となった。尾を含めても三十センチにも満たず、見た目は本物と寸分も変わらない――その派手な体色を除けば。

「それにしてもこんな金ぴかじゃ、目立って仕方がないな。周妖光が見えなくたって、一目で折妖だとわかるぞ。鼠なら鼠らしく茶色にでもなれよ、お前」

 折妖鼠は後ろ足で立ち上がり、鼻をヒクヒク動かした。そして次の瞬間、信じられないことが起こったのだ。あっという間に毛色が金から茶へと変わったのである。

「お……お前。身体の色を変えられるのか!」

 驚いた鳳太が尋ねると、折妖鼠は嬉しそうに小さな頭を縦に振った。

「ウン、変エラレルヨ。旦那」

「お前、人の言葉喋れるな! ならば俺の質問に答えろ。何故お前は色を変えられる?」

「ダッテオイラ、変身能力持ッテイルモン。何ニダッテ変身出来ルンダヨ。大キサハアンマリ変エラレナイケドサ」

 妖魔らしからぬ声でーーまるで幼児のような可愛らしい声で折妖鼠は答えたが、鳳太は首を捻った。凰香が以前言っていたのだ。尾長鼠は和州の中では最弱の妖魔で、高ランク個体でも隠れることしか能がないと。勿論変身などという珍奇な特殊能力は持っていない。それに人の言葉を理解はすれど、話すことまでは出来ないはずだ。

「おい、本当にお前の素妖は尾長鼠か?」

「違ウヨ。オイラハ天ノ邪鬼ダイ。変身能力デ尾長鼠ニ化ケテイタダケサ」

「天の邪鬼? 聞いたことがないな。そんな妖魔、いるのか?」

「イナイヨ。オイラ、別ノ妖魔ニ作ラレタ分身ダモン。多頭鬼ノ大将ガ作ッテクレタ」

「な……何だと! 多頭鬼の大将ってまさか……四面鬼のことか!」

「ウン。確カ人間共ハ大将ノコト、ソンナフウニ呼ンデイタ」

 折妖鼠――いや天の邪鬼が、かつて東和州を震撼させた四面鬼の分身と知り、鳳太は危うくベンチから転げ落ちるところであった。が、ここである事を思い出したのだ。そう、沢崎が話してくれた鬼の首塚の話を。

「分身のお前が生きているってことは……。もしや四面鬼は生きているのか?」

「勿論。大将、首一ツニナッテ土ノ中ニ埋マッテイルケド」

「やっぱり課長さんの言ったことは、本当だったんだな……。でも妙だな。四面鬼の首がまだ地中にあるのなら、何でお前があそこに――銭湯の前にいたんだ?」

「アア、ソノコトネ。簡単ナコトダヨ。大将ヲ閉ジ込メテイル封印ガ弱マッタンダ。ダカラオイラダケ先ニ出テコラレタノサ」

「おいおい、勘弁してくれよ……」

 衝撃の事実を耳にし、鳳太は目の前が真っ暗になった。柴山六郎が宮司に依頼して施してもらった封印。三百年以上にわたって四面鬼を閉じ込めていた封印が弱まっているというのだ。このまま何も手を打たなければ、早晩四面鬼は復活するだろう。背筋にゾッとする物を感じ、鳳太は声を荒げた。

「首塚――四面鬼の首が埋まっている場所は何処だ!  言え!」

「ウーントネ、オイラガ旦那達ニ見付カッタ所ノ近クダヨ。今、穴ホジクッテイル」

「桃の湯の近くで穴ほじくっているって……。もしかしたらあの工事現場か!」

 そう。あの妖魔警報が発令されている中、鳳太がソースを買いに行った帰りに通りかかった工事現場。あそここそ四面鬼の首が眠る場所ーー首塚だったのだ。恐らくあそこで工事を行っていたのは単なる偶然であろう。もし意図的ーーあの下に埋まっている物目当てであれば、あんな誰でもわかるように大々的に行うはずがない。精々工事現場を柵で囲った程度で、隠そうという意識は微塵も感じられなかったのだから。

「おい!  封印が弱まったのは、工事が原因なのか!」

「大当タリー。人間ガ変ナモノ土ノ中ニ突ッ込ンデ、封印少シ破ッテクレタ」

「畜生、何てことだ……」

 今度は激しい目眩に襲われ、鳳太はがっくりと頭を垂れた。しかし今は落ち込んでいる場合ではない。早く沢崎にこの事を知らせ、工事を止めさせなければ――と思った鳳太だったが、別の問題に直面した。電話で知らせようにも、金がなくては公衆電話も使えない。かといって七釜戸署へ戻る訳にも行かないのだ。

「天の邪鬼。四面鬼はもうすぐ封印を破って出てくるのか?」

「大将、暫クハ出テコラレナイ。モウチョット時間カカルネ。ダカラオイラ、大将ガ出テクルノヲアノ近クデ待ッテイタノサ」

 鳳太は一安心した。折妖は作製折士に対し、絶対に嘘を吐かない。よって天の邪鬼の言うように、四面鬼の復活はもう少し先のことなのだろう。今日明日中でなければ、沢崎に知らせるのは凰香が見付かってからでも遅くはないはずだ。

 ――すいません、課長さん。妹の捜索を優先させて下さい。

 鳳太は七釜戸署がある方角へ向かい、最敬礼した。ところが頭を上げた途端、新たな疑問が湧いて出たのだ。

「それでお前、いつ地上に出てきた?」

「アノ日ノ夜ダヨ。旦那ニ見付カルチョット前」

「あの日の夜ってことは、一日の夜か……。念のために訊くが、本当に四面鬼はお前と一緒に出てこなかったんだろうな?」

「ウン、大丈夫ダッテ。デモネ、旦那。大将ノ妖気ハオイラガ出ル時、チョット漏レチャッタンダヨネ。マズカッタカナァ。大将ノ妖気、強イカラ」

「そうか……。だから翌日の夜から妖魔警報、発令しっぱなしだったのか……」

 妖魔は妖気を糧に生きる生物であり、この「食料」を得る方法は二つある。一つは他妖魔を襲い、直接妖気を吸い取る方法。そしてもう一つは他妖魔が放出したり、体外へ滲み出た余分な妖気をちゃっかり頂く方法だ。一日の夜に漏れ出た四面鬼の妖気に多くの妖魔が反応。まるで砂糖に群がる蟻の如く、二日の夜に町内へ集まり始め、妖気が食い尽くされた五日に去っていったのである。

「この疫病神め。だけどお前、本当にあの四面鬼の分身か? 俺の妹が紙漉き出来たってことは、おは前とんでもなく弱い妖魔なんだぞ。わかっているのか?」

「ワカッテイルヨォ。オイラスッゴク格ガ低イモン」

「お前、本当に1、2レベルなんだな……。そんな役立たずの分身、四面鬼は何で作ったんだよ。変身以外何も出来ないくせに。それとも他に特技でも持っているのか?」

「アルヨアルヨ。オイラシカ持ッテイナイ力ガ。『天ノ邪鬼ノ力』ッテ言ウンダ」

「何だよ、その天の邪鬼の力って。名前からして大したことなさそうだな」

「ソンナコトハナイヨ。コノ力デオイラ、大将ヲ紙使イ共カラ守ッテイタカラ」

 天の邪鬼はベンチの上で軽快にステップを踏みながら解説した。天の邪鬼は常に四面鬼の四本首の付け根に居座っていたが、もしこの状態で紙士が四面鬼へ近付くと、とんでもないことが起こる。漉士は1レベルの妖魔すら紙漉き出来ないまでに能力が低下し、染士は力を振るおうとすると脱力を覚え、術が使えなくなってしまう。

 折士の場合も同様に能力が低下する。折士は漉士とは異なり、直接妖魔に対して術を行使する事はない。よって何ら問題がないように思えるが、実際はもっと深刻な事態に陥る。支配下に置く折妖が虚弱化し、素妖のランクが1まで落ちて特殊能力も使用不能となってしまうのだ。この状況で四面鬼に折妖をけしかけても、蹴散らされるのがおちである。

 つまり天の邪鬼の力とは、紙士から攻撃力を奪う力に他ならないのだ。攻撃不能となった紙士など、四面鬼にとって虫けら同然。拳の一振り、足の一踏みで難なく始末出来る。こうして天の邪鬼は、不届きな紙士から本体――四面鬼を守ってきたのである。

「デモネ。実ハトッテモ出来ノ悪イ紙使イニハオイラノ力、逆ニ作用スルンダヨネ」

「え、そうなのか? 超低級紙士にはお前の力は逆効果なのか?」

「ウン。大将ハ紙使イ共ガ来ルトオイラノ力、拡散サセテ使ッテイタ。デモ逆ニ弱イ紙使イガ来ルト、オイラノ力ヲ抑エ込ンダ。拡散サセルト厄介ナコトニナルカラ。マ、モットモ弱イ奴ハ大将ニ喧嘩ナンテフッカケテコナイカラ、ソンナコト殆ドナカッタケド」

「ふーん……。それで天の邪鬼の力は、お前が妖紙になっても有効なのか?」

「妖紙ナッテイル間ハオイラ、意識失ッテイタカラヨクワカラナイ。トコロデ旦那ハ大将ミタイニオイラノ力、拡散ハ出来ナイヨネ」

「そりゃ無理だろう。俺は四面鬼じゃない。お前、自力で力の拡散は出来ないのか?」

「出来ナーイ。ダッタラ旦那、オイラヲ触ルナリ身ニ着ケテイタリスレバ、多分天ノ邪鬼ノ力ハ発揮サレルンジャナイカナ」

「そうか、これで全てわかったぞ。染士の爺さんが鑑定不能だって言っていたことも、そして俺自身のことも!」

 鳳太はすっくと立ち上がった。多々良妖紙で金色の妖紙の鑑定を依頼した時、櫛山は脱力すると言った。鑑定するためには、どうしても妖紙に触れなければならない。櫛山は五段染士。天の邪鬼の力の作用をまともに受け、染士の術が使えなくなってしまったのだ。

 櫛山と対照的だったのが鳳太だ。九級折士の鳳太には、天の邪鬼の力は逆に作用する。つまり尋常ではないほど折士の能力が上がっており、9レベルの折妖西村や13レベルの折妖牧原を、あっさりと折解きすることが出来たのである。

 ところがそれは鳳太が金色の妖紙を身に着けていた――妖紙が入ったリュックサックを背負っていた場合。リュックサックを身体から離してしまえば、天の邪鬼の力の作用を受けなくなり、本来の駄目折士へ戻ってしまう。よって井上の折妖猫の時は「お話にならない」結果となったのだ。

 一方、天の邪鬼は己の力を拡散出来ない。鳳太が天の邪鬼の妖紙を持ち歩いても、周囲の者に影響はなかったのだ。沢崎は折妖西村の妖紙を問題なく鑑定していたし、井上も平気で折妖猫を覚醒させた。

 ただ妖魔は通常、紙漉きされて妖紙になると「仮死状態」となり、特殊能力も封印される。つまり普通ならば妖紙に触ったとしても特殊能力は発揮されず、紙士に何の影響も与えないはずだ。しかし今回、例外的にこれが起きている。天の邪鬼は四面鬼が自らの妖力で作り上げた人造妖魔ならぬ「妖造妖魔」。天然の妖魔とは少し違うのだろう。

「俺は気合いで折解きをしたと思っていたのに、お前のせいだったとはな。でも何で四面鬼はそんな紙士の能力の強弱をひっくり返すなんて言う、まどろっこしい力をお前につけたんだ? いっそのこと紙士全員、その能力を落とすっていう方がややこしくなくていいじゃないか」

「旦那モ大将ト同ジコト言ウネー。本当ハ大将モソウシタカッタンダケド、出来ナカッタンダ。紙使イ共ノ力ヲ全テ落トスッテイウノハ、オッソロシク手間ト妖力ガカカル作業ナンダヨ。ソンナ能力、分身ノオイラニツケラレナイダロウ? ナラバヒックリ返ス方ガ楽サ。紙ノ裏表を返スノト同ジヨウナモノダカラネ。早イ話、強イ連中ダケ意識スレバイインダヨ」

「そんなに楽な事だったら、四面鬼が自分でやればいいだろう。わざわざ分身なんか作らずに」

「楽ッテ言ッタッテ、ソレ程楽ジャナイヨ。ソウイウ手ノカカル事ハ、分身ノオイラニヤラセタインダヨ。大将、不器用ブキッチョダカラネー。ブッコワシハ得意ダケド」

 更に天の邪鬼が言うには、分身作製は多頭鬼の中でも最高位に近い高ランク個体のみが持つ特殊能力だという。分身には自分の妖力を超えない程度の特殊能力を付与できる。四面鬼は面倒くさい紙士の能力ダウンを分身にやらせることにより、思う存分暴れられたと言うわけだ。

「成程な。よしよし、ここまでよく喋ったな」

 鳳太は労いの言葉をかけ、何気なしに天の邪鬼の頭を指先で撫でてやったが、それが余程嬉しかったのだろう。天の邪鬼は飛び出た前歯を更に見せ、二、三度飛び跳ねた。

「ソレニシテモ旦那ハ人間ナノニ優シイネー。ソレニ比ベテアノ柴山ッテ奴ハ酷カッタヨ。サイテーナ奴ダヨ」

「柴山って……柴山六郎のことか?」

「ソウ。アイツニ散々ナ目ニ遭ワサレタンダ」

 天の邪鬼は「普通」の紙士の目には見えない存在だった。あの四面鬼の分身ということで、他の妖魔も本体を恐れて近寄ろうともしない。自分に危害を加える者など誰もいないはずだーーと天の邪鬼は思っていたが、そこに油断が生まれた。四面鬼の許をフラフラと離れた時、うっかり柴山六郎に捕まってしまったのだ。柴山は鬼の眼持ちで、天の邪鬼の姿が見えたらしい。

 勿論、天の邪鬼も「天の邪鬼の力」を使って抵抗した。しかし「紙士」としての柴山と六体の折妖を弱体化出来ても、「人間」としての柴山には何ら影響を与えることが出来ない。悲しいかな、低レベル妖魔の身体は刃物もあっさりと受け付ける。柴山に刀で脅され、首根っこを押さえ込まれてしまった。

「変身能力使オウニモ怖クテ身ガ竦ンジャッテサー。ソンデモッテ柴山ノ奴、大将ヤオイラノコト、洗イザライ吐カセタ挙ゲ句、『そういうことならお前には死んでもらうしかない』トカ言ッテ刀デブスリ!ダヨ。ネッ、酷イデショウ?」

 天の邪鬼は怒り心頭に発す……といった感じだったが、鳳太は苦笑するしかなかった。自分が柴山の立場だったら、きっと同じ事をしていただろう。己の折妖を使い物にならなくしてしまう存在を、生かしておくはずがないのだから。

「そんな事があったとはな。折妖に影響与えないように、柴山六郎もお前を殺したのか。ん……待てよ。お前の力は折士が持つ折妖にも影響を与えるんだよな。ってことはお前を身に付けていれば、俺の折妖も同様に能力が上がるってことか!」

「ソウダヨ。旦那ノ折妖、素妖ノ種族ノ上限一杯マデ能力ガ上ガルネ」

「俺の折妖は地鳥が素妖だ。地鳥が上限一杯まで能力が上がったら、どうなる?」

「地鳥カア。ソンナラ空モ走レルシ、デッカクモナレルネ」

 天の邪鬼の返事を聞いて、鳳太はほくそ笑んだ。身体が大きくなれば乗ることも出来るし、空を走れば馬車よりも速く天目荘へ戻れるはずだ。

「天の邪鬼。俺が命令するまで、絶対に俺の側から離れるなよ。この中に入っていろ」

「了解、紙使イノ旦那」

 鳳太が襟元を引っ張ると、天の邪鬼はそこからシャツの内側へ潜り込んだ。こうして腹の上に天の邪鬼を確保しておこうと、鳳太は考えたのだ。

「それにしても紙使い……か。随分と古風な言い方だよな」

 服の上から天の邪鬼を撫でつつ、鳳太はフッと笑った。紙使いとは紙士法が制定される以前――百年ほど前まで使われていた、紙士の古称。天の邪鬼は三百五十年間、ずっと本体と共に地下に封じ込められてきたので、この名称で鳳太を呼んだのだ。

 睡眠状態の折妖犬を地面へ置き、鳳太は指を一本当てた。

「汝を折りし折士が命じる。起きろ。そして俺を乗せられるぐらいに大きくなれ!」

 覚醒して白黒斑の柴犬となった折妖犬は、数秒も経たないうちに全長三メートルくらいにまでに巨大化した。その背にヒラリと跨ると、鳳太は北の方角を指した。

「行け! 天目荘へ向かって天翔けろ!」

 折妖犬は力強く地を蹴り、空へ向かって駆け出した。翼を使わずして、宙を大地の如く駆ける。これぞランク7以上の地鳥が持つ特殊能力「空中疾走」だった。

 ビル街を悠々と見下ろす高度まで上昇すると、折妖犬は水平飛行ならぬ水平走行に切り替えた。その速度はかなりのもので、疾走する馬車と殆ど変わらない。上空の強い風がまともにぶつかってくる。鳳太は身体を煽られぬよう、折妖犬の首へ手を回し、しがみつくのが精一杯だった。とても夜の空中散歩を楽しんでいる余裕などない。

 鳳太にとって幸いだったのは空には障害物は一切なく、最短ルートで目的地まで辿り着けるということだ。十分も経たぬうちに折妖犬は天目荘の庭へ着地した。鳳太は折妖犬を睡眠状態へ戻してポケットへ収めると、庭から中の様子を窺った。自宅、暮里の部屋のいずれにも、灯が点いていない。

「凰香はここにはいなのか……。大家さんもこの時間、家を空けるなんて……」

 鳳太は正面へ回り、自宅の玄関扉を引っ張った。鍵がかかっている。鍵を開けて中へ入り、鳳太は灯を点けたが、流し台の脇に置かれていた物を見て愕然とした。凰香のリュックサックだったのだ。

「凰香は家に帰ってきたんだ! 凰香、いるのか! 凰香!」

 妹の姿を求め、鳳太は家中を捜し回った。しかし凰香の姿は何処にも見えない。部屋は勿論、トイレや押入、物入れの中に至るまで隅から隅まで調べても。

「凰香……。何処に行ったんだ、お前……」

 妹の部屋の中で鳳太は壁にもたれ掛かり、虚ろな目で周囲を見回した。衣装箱の蓋が開けっ放しになっている。鳳太は思った。凰香は綺麗好きだ。こんなだらしがない事をするはずはない……と。更に本棚の横に打ち付けられたら釘には、見覚えのある物がーー赤い熊のキーホルダーが引っかかっていたのだ。

「こ、これは凰香の家鍵じゃないか! 何で鍵がここにあるんだ!」

 鳳太が入る時、玄関には鍵がかかっていた。凰香が鍵を置いて屋外へ出たのであれば、玄関戸は施錠されてはいないはず。第一、あの几帳面な凰香が鍵も閉めずに外出するとは思えない。窓には全て内側から鍵がかかっており、ここから出た可能性もない。

「箱を探っている最中に凰香に何かあった。俺に助けを求めたのは、きっとその時だ。そして家から逃げるか連れ去られ、その後に誰かが別の鍵で施錠したってことか……?」

 では誰が鍵をかけたのか。その者が凰香に何らかの危害を加えたと仮定すれば……と鳳太は考え込んだ。自宅の玄関鍵は天目荘に入居する際、暮里から一本ずつ受け取っただけ。スペアキーも作っていない。鍵を紛失した憶えもない。兄妹が入居する直前に鍵は付け替えられているので、前入居者の仕業とも考えられない。

「まさか……。まさかそんな事が……」

 鳳太は激しいショックに打ちのめされ、蹲った。自分と妹以外に自宅の鍵を持っている者。その人物は鳳太が知る範囲では、たった一人しかいなかったのである。


 この地下牢に閉じ込められて何時間が経過したのか……。凰香は気になって仕方がなかった。凰香は時計を持っていない。三木塚も昨夜ここへ連れ込まれた時、腕時計を取り上げられてしまった。夜が明けて六日になったことは、秋野に言われて初めて知ったのだ。

 ただ時計はなくても、腹時計は至って健在。じっとしているだけでも腹は減ってくる。凰香は七釜戸署で昼食をとって以来、何も口にしていなかった。

「三木塚さん、ここで食事はどうされているんですか?」

「秋野の妻が作って持ってきてくれるわ」

「食事出してくれるんですか……。まさか毒なんて入っていないでしょうね?」

「私もそれを心配したけど、大丈夫よ。取り敢えず秋野一家も私達のこと、大事に扱ってはくれるわ。それもこちらの出方次第では、変わるかもしれないけれど。あ……」

 三木塚は口を閉ざした。足音がエコーしながら近付いてくる。誰か地下室へやって来たのだ。足音は次第に大きくなり、凰香達の部屋の前で止まった。

 ――あのデブおばさんが夕食を持ってきたのかしら?

 ここはしおらしく振る舞おうと凰香は目を伏せ、三木塚と共に部屋の中央に座した。鍵を回す音がして扉が開き、配膳用の盆を手にした女が一人、牢の中へ入ってきた。だが予想に反してその者は秋野の妻ではなかった。凰香にとってもっと身近で、親しい間柄の人間だったのだ。

「お……大家さん! どうして大家さんが……」

 暮里の姿を見た凰香は完全に意表をつかれ、彫像のように固まってしまった。その姿に三木塚は、険しい表情で隣室へ向かって叫んだ。

「圭一! お前、まだ私に話していないことがあったのね! このお婆さん、お前が住んでいたアパートの大家さんなのね? その大家さんがここに来るってことは、一体どういう事なの!」

「御免よ姉さん。大家さんが秋野一家とグルだなんて、とても言えなかったんだ。でも信じてくれよ。俺、それ以上のことは何も知らないんだ。大家さんが秋野一家とどう関わっていたかとか。昌宏も教えてくれなかったし」

 その情けない声からして、須藤は半泣き状態のようだ。もう勘弁してくれと言わんばかりに。しかし本当に勘弁してくれと言いたかったのは、凰香の方だった。祖母の幼馴染みで、信頼していた暮里が秋野一家と組んでいたとは……。谷底へ突き落とされたような絶望感を味わったのだ。

「そ、それじゃ私が西村さんを折妖だって見破ったことを知らせたのも、大家さん……」

「そうだよ、凰香ちゃん。御免なさいね」

 暮里は膝を折って盆を畳の上へ置くと、頭を下げた。昨日、暮里は兄妹と別れた直後、秋野に西村の正体が見破られたと報告した。この事を警察に知られては厄介だ。秋野は義弟と息子を連れて馬車に飛び乗ると、即座に兄妹の後を追った。が、兄妹が北七釜戸駅前の派出所ではなく、自宅近くでタクシーを拾い七釜戸署へ向かったことから拉致に失敗してしまったのだ。

 ――こうなればやむを得まい。せめて女だけでも捕らえろ。これ以上、あの娘に我らが特製折妖人間を見破られるのだけは避けなければ。

 秋野に命じられ、暮里は凰香が天目荘へ戻ってくるのを待った。居留守を使い、凰香が自宅へ入ったのを確認した後、折妖人間を侵入させたのだ。

「そんな……。何で……何で大家さんは、あんなもぐり紙士の言うことなんて聞くんですか? 何であんな連中の味方をするんですか? あの人達、四面鬼の首を……」

「わかっているよ。秋野が何を企んでいるかぐらい。でも私には逆らえない理由があるの。だけどもうそれも限界。私が今夜ここへ来たのもそのためなんだよ。秋野一家があなた達に危害を加えるかも知れないと思ってね。至急鬼の首を在処を知る必要が出てきたからって」

「私達に危害を……ですか、大家さん……」

「秋野は相当焦り始めているからね。今日の昼に警察が来て、杉野市議の件で色々と訊かれたらしい。それがきっかけで調べられ、警察に自分達の裏稼業や企みを嗅ぎつけられるんじゃないかって、冷や冷やしているんだよ。もっともその焦りも、今日に始まった事じゃないけど」

 暮里の話によれば今月一日、青波県のフラワー博覧会会場で、首相が妖魔に襲われる事件があったが、これも秋野一家の仕業であるという。情報源は不明だが、秋野は首相が四面鬼の首の駆除を計画していることを察知。計画を阻止せんともぐり漉士の義弟を会場へ送り込み、裏ルートで入手した黒虎の妖紙を紙解きさせて妖魔へ戻したのだ。黒虎はまたの名を「密林の邪妖」とも言い、凶暴で生息地域では非常に恐れられている妖魔。これを使うということは、単なる脅しなどではない。本気で首相を暗殺するつもりだったのだ。

「政府の計画に加え、警察にもマークされたと知り、秋野は予定を変更せざるをえなくなった。今夜はどうしても外せない仕事が入ったから、それが終わり次第行動に移るはずだよ。以前に三木塚さんの折妖人間を作ったはいいが、上手くいかなかったからね」

「三木塚さんの折妖人間を作る? どうしてですか?」

「その折妖人間に、首塚の場所を喋らせようとしたんだよ」

 不可解な表情を見せる凰香と三木塚に対し、暮里は説明した。秋野一家が作った折妖人間には、素になった人間の記憶が残っていると。秋野はその特性を利用しようと考えたのだ。ただ記憶といっても不完全なものであり、全てが残っている訳ではない。三木塚の家へ忍び込んで髪の毛を採取、折妖人間を作ったまでは良かったのだが、いくら命じても肝心なことは一切喋らなかったのである。

「さらにこの折妖人間、記憶が残っているだけじゃない。人間の習慣や知識もそこそこ身に着けているし、ある程度自分の判断で行動出来る。声まで本人にそっくりなのよ。凰香ちゃん、あなたのお母さんも髪の毛さえ残っていれば――」

「いや!」

 凰香は足を崩し、弾けるように後ろへ飛び退いた。

「そんなのお母さんじゃない! お母さんの姿をした人形よ! どんなによく出来た折妖人間だって、記憶が残っていたって、魂が入っていないじゃないですか!」

「人形……ね。でも私にとって、あの人はあの人。大事なあの人なんだよ」

「あの人って……?」

 暮里は立ち上がり、鉄扉を指した。

「この外に折妖人間が一人いるでしょう? それが『あの人』。私のかつての恋人だよ」

「もしかしたら、大家さんが添い遂げられなかったっていう、初恋の人ですか!」

「静代さんからその話、聞いているんだね」

「はい……。でも私もそれ以上は知りません。祖母も大家さんの初恋の人が亡くなったとは話していましたけど、誰だかはわからないと……」

「そうだね。私も静代さんは愚か、誰にも詳しいことは一切話していないし。それでその人があの人――渡十郎さん。もうあれは五十年以上も昔、静代さんと一緒に女学校に通っていた頃のこと……」

 暮里は腰を落ち着けると、遠くを見詰めるような目をして語り始めた。

 今から五十二年前。当時暮里東こと中本東は、村雨市在住の十六歳の女学生だった。年始めのある日、母親の使いで鹿出町を訪れたが、運悪く通り雨に遭ってしまった。傘も持たず仕方なく家の軒下で雨宿りをしていると、その家の住民が出てきて声をかけてきた。

 ーーお嬢さん。よろしかったらこの傘をどうぞ。

 そう言って傘を差し出したのは、穏やかな面持ちの若い男だった。男の優しげな笑顔に暮里は頬を赤らめ、一礼して傘を受け取るとその場を去ったがーー

「その後なかなか鹿出町へ行くことが出来ず、借りた傘を返しに行けたのは一ヶ月も後のことだった。でもその人ーー十郎さんは気にする素振り一つ見せず、またにこやかに私を出迎えてくれたんだよ。それでわかったんだ。ああ、この人は優しい人だって」

 この日暮里は直ぐには帰らず、玄関先で渡と少し話をしていった。その会話の中で、暮里は相手のことを色々知ることができた。渡が二十五歳で、国立妖紙研究所に勤務する染士であること。この家に独りで住んでいること。仕事は充実してやりがいはあるが、私生活は毎日が単調でつまらないことーーなど。

 渡との会話中、暮里は胸がドキドキするのを感じていた。しかしそれは相手も一緒だったらしい。二人はまた会う約束をした。たとえ出会いは偶然でも互いを見初め、瞬く間に恋に落ちたのだ。

「思っていた通り、十郎さんは本当に優しい人だった。あの人は子供の頃に事故で家族を失い、孤児院で育った。そんな辛く寂しい経験をした人だから、他人の痛みはよくわかったんだよ。そして勤勉で誠実な人でもあった。紙士養成学校を首席で卒業したくらいだからね。私は十郎さんのそんなところに益々惹かれていった……」

 だが暮里はまだ学生であり、相手は九歳も年上の男。家族に紹介しても反対されるのは目に見えている。二人は誰にも交際の事実を告げず、暮里の親兄弟も、双方の知人友人もこの事に全く気付かない――はずだった。が、ある日の下校途中、静代がいきなり暮里にとんでもない質問をぶつけてきたのだ。

 ――ねえ東ちゃん。もしかして好きな人、いない?

 ――ど、どうしたのよ静代ちゃん。急にそんなこと。 

 ――隠しても無駄よ。顔にちゃんと書いてあるもの。私、恋してますって。

 鋭い指摘に暮里は戸惑ったが、相手は幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた親友。隠し立ては出来ないと察した。

 ――いやねえ、もう。うん……実はいるの。

 ――やっぱり。ねえねえ、誰なの? 教えてよ。

 ――駄目よ。言えないわ。でも話せるようになったら、静代ちゃんに真っ先に教えてあげる。だからこのこと、誰にも言わないでね……。

 ーーうん、わかった。約束ね。

 こうして暮里は渡と逢瀬を重ねた。暮里の親に知られぬよう、州都市内の公園で月に一、二度会う程度の慎ましやかなものであったが、会う度に互いの思いは深まっていった。

 実はこの頃、和州は世界を二分する戦争の真っ直中にあった。国土が戦火に包まれる事こそ無かったものの、男達は次々と徴兵され、異国の戦場へ送り込まれた。だが渡は国立機関の優秀な研究員。国益に直結する人材と見なされたことから兵役を免れ、暮里も二人の関係は永遠に続くものだと信じて疑わなかった。ところが―― 

「十郎さんと付き合い始めた翌年、急に父の海外赴任が決まったんだよ。私は和州に残りたかった。十郎さんと別れたくはなかった。でも父は家族全員を連れて行くと言い張った。行きたくなくてもその理由も告げられず、私は泣く泣く従ったんだよ」

 暮里はこの事をなかなか渡に切り出せなかった。刻一刻と出発の日は近付き――ついに出発前夜、暮里は渡をいつもの公園へ呼び出した。時は四月上旬、桜の季節。満開の桜の木の下で、暮里は重い口調で告げた。父の赴任で和州を離れると。ショックを隠しきれず、渡は放心状態。悲しみを堪え、暮里は叫んだ。

 ――でも……でも、父の赴任期間は二年なんです。二年後の今日、私は帰国します。その時、私は十九歳です。戻ったら両親に十郎さんのことを話そうと思います。ですから……ですから待っていて下さい、十郎さん……。

 ――わかった。僕は待っている。君が帰ってくるのを。二年後の今夜、この場所で再び会おう。そして必ず一緒になろう。約束だ。

 ――十郎さん……!

 桜の花びらが舞い散る中、二人はひっしと抱き合った。渡の暖かな腕の温もりと、熱い恋心を胸に秘め、暮里は異国の地へ渡った。

 渡に会えない寂しさを払拭出来ず、暮里は日々漠然と過ごすばかりだった。渡に渡航先は知らせていたが、二人の関係を家族に打ち明けていない以上、手紙のやり取りさえ出来ない。もどかしさを押し殺し、暮里はひたすら耐えるしかなかった。

 そんな日々が続く中、翌年の秋、暮里に和州で在籍していた女学校から小包が一つ届いた。学校から物が送られてくる憶えはない。不思議に思って開けてみると、上製本の詩集が一冊出てきた。だが小包には本以外、何も入っていない。手紙の一通すらも。暮里はろくに目を通しもせず、詩集を書棚の奥へしまい込んでしまった。

 渡航からまる二年、戦争が終結した翌年、暮里は帰国。渡に会える。この日が来るのをどれ程待ったことか……。胸ときめかせ、帰国したその夜のうちに、暮里は渡と約束を交わしたあの桜の木の下へ行った。二年前のあの日のように、桜は枝一杯に美しい花を咲かせていた。風に舞う花吹雪も同じだった。しかし……。

「十郎さんは来なかった。次の日の夜も、その次の日の夜も。不安に駆られた私は、いけないと思いつつも鹿出町の十郎さんの自宅を訪ねた。でもいくらあの人の名を呼んでも、玄関戸を叩いても何の反応もない。そこへ近所の人がやってきて、教えてくれたんだよ。十郎さんが警察に捕まって亡くなったことを」

 渡は暮里が帰国する前年、折妖人間作製の研究を行って逮捕され、その年のうちに拘置所内でひっそりと息を引き取ったのだ。

「私は三日三晩泣き明かした。もう気が狂ってしまいそうだった。あの人の死は勿論、あの優しくて聡明な十郎さんが、何故違法行為に手を染めたのかがわからずに。何か理由があったに違いなかったけど、真相は藪の中だった……」

 狂ったように泣く暮里を見て、静代は親友の思い人が他界したことを悟った。だが暮里本人は何も語ってくれない。故に静代は出征して死んだと思ったようで、暮里の家族にもそのように説明した。

 そんな心に負った傷が癒えぬうちに、暮里は親の勧めで七釜戸市の地主の男性と見合いをし、結婚。夫は十五歳も年上だったがおっとりした人物で、経済的には何一つ不自由なく生活させてくれた。おかげで暮里は人並みの幸せを得ることが出来たのである。

 だが夫も十五年前に病で他界し、暮里は独りになってしまった。夫婦の間には子供はなく、夫が残してくれた豪邸は五十過ぎの女が一人で住むには広すぎる。家を売り、別の場所で静かに暮らそう――そう考え、荷物の整理をしていると、海外にいる時に送られてきた詩集が押入の奥から出てきた。学校からの記念品として、嫁入りの際に実家から持ち出したにも拘わらず、すっかり忘れていたのだ。

 若き日を懐かしみ、暮里は詩集のページを捲った。何でもいいから独りになった寂しさを紛らわせてくれる物が欲しかったのだ。が、よく見ると、裏表紙の見返し部分が剥がれかかっている。何の気なしに見返しを剥がしてみた暮里だったが、中に二つに折られたメモ紙が挟まれていることに気付き、取り出した。そしてそのメモ紙には、驚くべき内容の文面があったのである。

『愛しき女性ひとへ。友が僕を裏切ろうとしている。思い出の木の近くにたつ銅像の袂に、ある物を埋めた。もしも僕の身に何かがあったら、それを使って僕を蘇らせてくれ。十郎』

 これぞ渡が暮里に宛てたメッセージであった。渡は自分の思いを暮里に伝えんと、女学校が出したように見せかけて手紙を封じた詩集を送ったのだ。当時は戦時下の影響で、船便シーメールの検閲が厳しかった。女学校の名で手紙を出したとしても、開封され怪しまれる恐れがある。また本を送るにしても、自分の名では出せない。もし渡が逮捕された時点でまだ郵便物ものが和州を出ていなければ、警察に発見されてしまうかもしれない。確実に届くよう、暮里に迷惑をかけぬよう、この様な手の込んだ方法をとったのである。おかげで暮里は三十年以上、封印された手紙に気付かなかったのだが。

「思い出の木。それは間違いなく出国前、十郎さんと将来を誓い合ったあの桜の木のことだった。私は深夜公園へ行き、木の近くにある銅像の下を掘った。すると出てきたんだよ。三十センチくらいの平たい木の箱が」

 震える手で暮里は木箱を開けた。箱の中には油紙に包まれた日記帳と一冊の古びたノート、封筒が一つ収められていた。封筒の中味は一束の髪の毛。ノートには妖紙の加工法や研究データが、渡の直筆でびっしりと書かれていた。そして日記帳には、渡が禁断の研究を行うに至った経緯と、その後の経過が事細かに記されていたのだ。

 暮里が渡航した翌年の麗明十七年、一月初め。三年に渡って世界の大国を巻き込んだ戦争が、ようやく終結した。国は疲弊し、国民は貧困に喘いだが、この戦争は更なる悲劇をもたらした。膨大な数の戦死者を出したのである。

「戦場へ送られた兵の多くは、遠い異国の地で命を散らしていった。彼等は二度と家族の許へ帰らなかった。そう、遺骨の一欠片すらね。家族の元へ届けられたのは、木の骨箱に入った『英霊』と書かれた紙一枚だけだったんだから」

 そんな紙切れ一枚で家族の悲しみが癒えるはずがない。遺族の嘆きは凄まじく、悲痛な泣き声が町のあちこちから聞こえてきた。そんな有様を十郎も幾度となく目にしてきた。愛する者の死が如何に辛いか……十郎は身を以て知っていた。だが自分は徴兵から逃れ、和州でのうのうと暮らしているーーそんな後ろめたさもあった。だからこそ彼は真剣に考えたのだ。遺族の悲しみを少しでも和らげることは出来ないものか……と。

「それが渡さんが折妖人間を作ろうとした理由だったんですか、大家さん」

「そう。死んだ人そっくりの折妖人間をね。でも従来の方法では細部まで再現出来ない。これじゃ何の意味もないんだよ。けど十郎さんはある画期的な方法を思いついた……」

 それが髪の毛を妖紙に織り込むことだった。出征前、多くの者は遺髪を家族の許へ残していた。髪の毛は身体の一部、これを混ぜればより本人に近いものが出来るに違いない。出来き上がった折妖人間を側へ置けば、遺族もきっと救われる――その一心で、渡は国立妖紙研究所を辞め、私財をなげうって極秘の研究に取り掛かったのだ。

「でも十郎さんは、研究仲間だった友人が自分を裏切り、警察に通報しようとしている事に気付いた。捕まれば全てが水の泡となり、遺族も救えなくなる。そこで日記帳と研究成果を纏めたノートの複製、髪の毛を一緒に銅像の袂へ埋め、私に託したんだよ」

「ま、まさか大家さん……。秋野一家の折妖人間は、渡さんの研究を元にして作った物なんですか! 大家さん、そのノートを秋野一家に渡したんですか!」

 唖然とする凰香を見詰めつつ、暮里は静かに頷いた。

「そうだよ。髪の毛の束は、十郎さんの物に違いなかった。このノートに記されている通りに妖紙を加工し、人の形に折って覚醒させれば十郎さんは蘇る。けど私は紙士じゃない。一体どうやればいいのか、さっぱりわからなかった……」

 折妖人間を作りたくても、まともな紙士や研究機関に依頼することも出来ない。そこで暮里は非合法行為も請け負う、もぐり紙士を探すことにしたが、それは容易なことではなかった。そもそももぐり紙士は、その存在自体が違法。国家資格を持たない者が紙士術を用いることは、紙士法により厳しく禁じられている。よって彼等の大多数は自分の正体をひた隠し、表向きは別の真っ当な職について善良な市民を装っているのである。

 しかし暮里はめげなかった。夫の遺産を取り崩し、それを資金にして闇情報を収集したのだ。かくして六年がかりで一軒の闇ショップを探し当て、店の紹介で九年前の吉華十六年十月、青波県在住のもぐり染士・秋野満と出会ったのである。

 初めて会った時、暮里は秋野にある取引を持ちかけた。渡の研究成果を提供する代わりに、渡を蘇らせてくれと。秋野はこれを了承し、暮里から研究ノートを受け取ったが、内容を見て舌を巻いた。

 ――こ……これは素晴らしい。未完成とはいえ、不可能と言われたことを、独力でよくぞここまでやってのけたものだ。何、心配するな。後はこの俺でも十分出来る。渡の研究は俺が完成させてやるよ、暮里さん。

 秋野の言葉は偽りではなかった。二ヶ月後に渡の研究は完成。ランク5の幽鬼が素妖の妖紙を用い、渡そっくりの折妖人間を作り出すことに成功したのである。

 それは暮里でさえ目を疑うほどの出来映えだった。ほっそりした体つきや幾分面長のところまで、渡本人と全く同じだったのだ。外見で異なるのは背丈と髪型、表情を殆ど見せないところぐらい。暮里は感涙に噎び、渡の胸へ飛びついた。

 ――十郎さん、東です! 覚えていますか?  今はこんなに年老いてしまいましたけど、十七歳の娘だった私を!

 ――ア、ズ、サ……。ナカモトアズサ……。

 折妖渡の言葉に暮里は驚嘆した。折妖渡は本物の渡の声で、暮里の旧姓まで言ってのけたのだ。側にいた秋野も興奮を抑えきれない。

 ――こりゃ凄いぞ! 渡の記憶が残っているのか! おい、十郎。ならば覚えているだろう。お前を裏切り、警察に売ろうとした男の名を。言ってみろ!

 秋野の問いかけに、折妖渡は僅かに眉根を動かし、答えた。

 ――ト、モ、ア、キ。スミダトモアキ……。

 ――ハッハッハ、いいぞ! その通りだ。ところで暮里さん、知っているか? 裏切り者の墨田智明がまだ生きているって事を。

 秋野の思いがけない言葉に感動も冷めてしまい、暮里は折妖渡から手を離した。

 ――そ、それは本当ですか!

 ――ああ、本当だとも。息子や孫達に囲まれて静かに暮らしているらしい。

 ――何て……何て事なの。あの人は拘置所の冷たい独居房の中で、誰にも見取られることなく一人寂しく死んでいったというのに……。

 暮里は今度は悔し涙にくれた。墨田のせいで自分も渡もどれほど辛い思いをしたことか。それなのに相手は家族と幸せな家庭を築いている。墨田の裏切りさえなければ、渡と一緒になれたかもしれない。子供も産まれ、幸福に暮らしていたかもしれない……そう思わずにはいられなかった。そんな暮里を見て、秋野は悪意に満ちた笑みを浮かべた。

 ――既にこちらの方で、墨田の所在は調べてある。どうだ、仇をとりたいとは……いや、十郎に仇をとらせてやりたいとは思わないか?

 まさに悪魔のいざないだった。愛する人を死へ追いやり、自分との仲を永遠に引き裂いた張本人。その男が未だ健在で、余生を平穏に送っていると知れば、心に嵐が逆巻かない方がどうかしている。憎悪の怒濤が良心を呑み込み――暮里は復讐を決意した。

 それから数日後の年の瀬の夜、暮里は秋野夫妻と共に墨田智明が住む村へ密かにやって来た。折妖渡に墨田を殺害させるために。だが現場に折妖人間が現れた証拠や痕跡を残すのはまずい。妖魔の仕業のように見せかけなければならないのだ。

 秋野は墨田の家からやや離れた場所にある人気のない雑木林まで来ると、馬車くるまを止めた。そこで秋野の妻は折妖渡を覚醒させ、繊維屑が落ちる恐れのないゴム製のウエットスーツと、指紋付着を防ぐ革の手袋を着用させた。髪は勿論、眉毛一本に至るまで体毛は全て事前に剃ってある。

 ――墨田の家はこの外の道を左に行った所にある。今の時間、奴は離れ屋に独りでいるはず。浮遊歩行で離れ屋に忍び込み、墨田智明を殺せ。ただし、声や物音は一切たてるなよ。家人に気付かれるからな。事を済ましたら、ここへ戻ってこい。

 秋野の命に折妖渡は無言で頷き、暗闇へと消えた……。

「ちょ……ちょっと待って、お婆さん……。その墨田智明って人……」

 ここで暮里の話に三木塚が強引に割り込んできた。その顔は血の気を失い真っ青、目は大きく見開かれている。

「青波県菊川村に住んでいた、墨田さんじゃ……。墨田仁さんのお祖父さんじゃ……」

 暮里は答えない。悲しそうに目を瞑り、固く口を閉ざすだけで。三木塚の顔は見る間にメラメラと燃え上がる怒りの炎に包まれ、真っ赤になった。

「やっぱり……やっぱりそうなのね。先輩の……墨田先輩の家族を殺したのは、あなたなのね!  あの折妖人間を使って! 何でそんな酷いことをしたの! 先輩、あの直後に家に帰ってきたのよ! 年末年始を家族と過ごそうと、楽しみにして! それなのに……それなのにあんな家族の惨い姿、見せられて……。先輩がどんなに悲しい思いをしたか、わかっているの! 先輩や家族が可哀想だとは思わないの!」

 半狂乱になった三木塚は泣き叫び、暮里の着物の袖を掴んだ。

「あなただって恋人を亡くしたんでしょう! 大事な人を失う悲しみ、わかるんでしょう! どうしたらそんな事、出来るのよ! ねえ!」

 三木塚に腕を引っ張られても、暮里はじっとしたまま。一言も言葉を発しない。

「ねえ答えてよ、お婆さん。答えて……」

 三木塚は畳に顔を伏せ、嗚咽を漏らした。まるで自分の家族が殺されたかのように嘆くその姿を見て、暮里の目から涙が一粒こぼれ落ちた。

「家族まで……家族まで殺すつもりはなかったんだよ……。でも……」

 戻ってきた折妖渡が報告したのだ。家族も全て始末してきたと。

 あの晩、墨田家に到着した折妖渡は家の外壁を乗り越え、敷地内へ入り込んだ。離れ屋の出入り口は、家族がいる母屋から見て反対側にある。離れ屋を楯にすれば、誰にも気付かれることなく標的に近付けるはずだ。

 折妖渡が離れ屋の玄関戸を開けると、二部屋あるうちの奥の部屋から老人の苛立ったような声がした。

 ――礼子か。勝手に入らないで、ちゃんと断ってから来なさい。

 老人――墨田は孫娘が来たと勘違いしているようだった。折妖渡は身体を浮かせて廊下を進み、襖を開けた。室内では墨田が一人、将棋盤と睨み合っていた。

 ーーこら、礼子! 何度言ったら……。

 目を上げた瞬間、墨田の表情は凍り付いた。無理もない。目の前にいるのは、決して忘れることが出来ない「あの男」。恐怖の鎖に捕われた墨田は腰を抜かし、床に這い蹲った。

 ――あ、あ、あ、あんたは……。ゆ、許してくれ、十郎……。

 墨田は渡の幽霊が現れたとでも思ったのだろう。歯をガクガクさせながらも懸命に詫びたが、折妖人間の耳に謝罪の言葉など届くはずもない。そんなものどうだっていいのだ。折妖は命令を遂行することしか考えていないのだから。

 折妖渡は無言で墨田の上に馬乗りになると、声を出せぬよう喉と口を押さえ付けた。後は幽鬼の持つ恐るべき力を用いるだけだ。生きながら体中の水分を抜かれ、想像を絶する苦痛に相手は喘いだが、生き地獄も十秒足らずで終わった。もがき苦しみながら墨田は息絶え、カラカラに干涸らびた物体と化した。

 用を済ませた折妖渡は、早々に引き上げようと腰を上げた。ところが直後、玄関戸が開く音がしたのだ。

 ――お祖父ちゃん、お茶持ってきたわよ。入るね。

 そう言うが早いか、孫娘が室内へ入ってきた。だが孫娘が目にしたのは、正体不明の男と傍らに転がる一体のミイラ。ホラー映画さながらの光景に孫娘は茶を乗せた盆を落とし、引き裂かれんばかりの甲高い悲鳴をあげて身を翻した。が、廊下で折妖渡に二の腕を掴まれてしまった。

 ――い、いやーっ!  お兄ちゃん! 助け……。

 助けを呼ぶことも叶わず、孫娘は祖父と同じ運命を辿った。だが殺戮はこれに留まらなかった。孫娘の悲鳴を聞きつけてか、今度は息子夫婦まで離れ屋へ駆け付けたのだ。余程慌てて飛んできたのか、二人共履物すら履いていない。

 息子夫婦が目の当たりにしたもの。それはすっかり軽くなった孫娘の身体が、どさりと音をたてて仰向けに倒れる様だった。しかし二人には何が起こったのか、理解する時間は与えられなかった。折妖渡の両腕が顔面を捉えたのだ。十数秒後、今度は二体の干物が玄関に重なるように横たわった……。

「それが事件の真相……。それじゃ先輩の御両親や妹さんは、口封じのために……」

「そう。普通の折妖なら、間違いなく見逃していた。殺害を命じられていたのは、智明一人だけだったんだから。でも十郎さんはそうしなかった。あの人は自分の判断で三人を殺したんだよ。『殺すなとは命じられていない』ってね。あれだけの騒ぎを起こしながら、村の者は誰も気付かなかったらしい。田舎は家がまばらで声は届きにくいし、あの夜は妖魔警報が出ていて、みんな家に籠もっていたからね」

 折妖渡から報告を受けた秋野夫婦は、この結果に狂喜した。これ程まで出来がいい、人に近いものとは予想もしていなかったと。命令に反しない範囲で自分で判断し、行動する。ただ言いつけ通り動く通常の折妖とは違い、命令者から離れていてもより「気の利いた」動きや振る舞いが可能なのだ。

 ――十郎、よくやったな。流石は天才染士と名高い渡が目指した折妖人間。そんじょそこらの折妖とは違う。おかげで今回の件、警察の抜作共には我々の仕業だとは見抜けまい。これからも懸命なる判断を期待しているぞ。

 満足げに折妖渡の肩を叩く秋野の横で、暮里は一人背を向け、戦いていた。墨田智明に報復するはずが、結果として家族全員を惨殺してしまった。どす黒い憎しみの心が、取り返しが着かない事態を招いてしまった……と。そんな暮里に追い打ちをかけるように、秋野は耳元で囁いた。

 ――これでもうあんたは我々に背けなくなったな。もしも今日の事件が我々の仕業であるとわかれば、あんたもただでは済むまい。共犯者なんだからな。ところで暮里さん。あんた、四頭鬼町に結構な土地を持っているそうじゃないか。その土地、少し譲ってもらえないか。実はうちの倅が面白い事を耳にしてね……。

 秋野が言う「面白い事」とは、四頭鬼町に眠る鬼の首の話であった。その首を手に入れるため、四頭鬼町へ移り住みたいというのだ。秋野一家にとってこの転居は、他にもメリットがあった。七釜戸市は首都にほど近く、現在住んでいる青波県より遙かに闇需要が多い。裏稼業面でも期待が持てるという訳だ。

 翌吉華十七年、暮里は屋敷を取り壊して土地を七世帯に切り売りしたが、買主の中には秋野一家も混ざっていた。秋野は暮里の弱みにつけ込み、ただ同然で自宅の敷地及び中央部の空き地を買い取ったのだ。秋野と義弟の表の職業は個人タクシーの御者。中央部の土地は、駐車場兼厩舎として利用するという名目だったのだが――

「この区画の真ん中を残したのは、秋野の指示によるものだったんだよ。屋敷の地下室を壊さず、アジトとして利用するために。そしてその出入口がある所に、秋野一家は家を建てた。元々この地下室は、私の夫が趣味を楽しむために作ったもの。写真を現像するための暗室、八ミリビデオの映写場、それらの機材や道具の倉庫だったんだよ」

 暮里の話を聞き終えた凰香は暫く何も言うことも出来なかった。あの寂しがり屋の老女が、そんな恐ろしいことをしたとは、俄に信じられなかったのだ。無論、暮里が犯した罪は限りなく重い。だがそれにも増して秋野一家の狂気は、紙士としても人としても絶対に許せるものではない。しかも人の弱みにつけ込んで、さらなる悪事を企むとは……。凰香はようやく口を開いた。

「そんなことまで……。いくら大家さんが秋野一家に逆らえないからって……」

「でも言ったでしょう、凰香ちゃん。もうそれも限界だって。実は今夜の食事は全部私が作ったんだけど、秋野一家三人分――妻子と義弟の食事の中に睡眠薬を混ぜておいたんだよ。秋野は夕方にタクシーに乗って仕事へ出かけて、朝まで戻らない。そろそろ薬が効いた頃だ。逃げるのは今しかないよ。行きましょう。でも、その前に……」

 暮里は三木塚へ向かって手をつき、深々と叩頭した。

「墨田さんのご家族には本当に申し訳のないことをしました。心よりお詫びを申し上げます。全てを警察に告白し、どんな罰でも受ける所存です」

「……お詫びは私にではなく、ご遺族の墨田仁さんにおっしゃって下さい」

 絞り出すような声で呟き、三木塚は暮里から目を背けた。いくら暮里が謝罪しても、墨田の家族は帰ってこないのだ。墨田の気持ちを考えると、やりきれない思いだった。

 暫しの沈黙の後、暮里は頭を上げると、凰香の手を取った。

「さ、薬の効き目が切れないうち、ここから出ましょう」

「でも大家さん、外にはあの折妖人間が……」

「十郎さんは私が引きつけるから、あなた達はその隙に地上へ出なさい」

「あんな通路ではそれは無理です、お婆さん」

 突然異議を唱えたのは、三木塚だった。

「あの男の横をすり抜けようにも、身体に触られてしまいます。木刀か何かはありませんか。私、多少なら剣道の心得がありますから」

「三木塚さん。あの人は確かに折妖だけど、私にとっては十郎さんそのものなんだよ。お願いだから乱暴な真似は控えておくれ」

「でもあの折妖人間は、先輩の家族を殺したんですよ! しかもお祖父さんだけではなく、自分の判断で三人も! 先輩にとっては家族の仇でもあるんです! 私はあの男を許しません。それに理解も出来ません。渡さんがどうしてあんな折妖人間を作ろうとしたのかが!」

「あの人は……十郎さんは、折妖人間を悪いことに使う気は、これっぽっちもなかったんだよ! ただ遺族を慰めたい一心で……役に立ちたい一心で作ったのよ!」

「止めて下さい、二人共。今はそれどころじゃありません」

 口論する二人の間に凰香は入った。三木塚は直ぐにハッと我へ返り、表情を和らげたが、暮里はまだ目を潤ませている。凰香は暮里の肩に手を置き、諭すように言った。

「大家さん。私、思うんです。作った理由とそれをどう使うかは別問題だと。あのノーベルもダイナマイトを平和利用目的で作りましたけど、結局は戦争に使われました」

 凰香は一呼吸おくと、暮里が少し落ち着きを取り戻した事を確認したのち話し出した。

「あの折妖人間は渡さんそっくりでしょうし、記憶も残っているかも知れません。でも渡さんの魂が入っている訳じゃない。やっぱり人形だと思うんです。その人形が側にいれば、遺族は幸せになれると思いますか? そうやって愛する人の死を受け入れようとせず、うやむやにする方が、よっぽど不幸なんじゃないんでしょうか」

「そんなことわかっているよ。頭じゃね。でも心の方はそうじゃない。折妖人間だろうと何だろうと、私にとってあの人は十郎さんなんだよ。私の大切な初恋の人なんだよ」

「けれどあの人は、秋野一家の命令しか聞かないんでしょう? それに大家さんや秋野一家が警察に捕まったら、あの折妖人間も捕まるんですよ」

「凰香ちゃん。だから……だからこそ、それまであの人の側にいたいんだよ。少しでも長くいたいんだよ。私達、恋人同士だった。約束したんだよ、あの桜の木の下で。一緒になろうって将来を誓い合ったんだよ!  十郎さんが自分を蘇らせて欲しいと望んだのは、きっとそのせい。私との約束を果たすためだったんだよ!」

 暮里はワアワアと声をあげて泣き出した。身を捩って号泣する様は、とても七十近い老婆ものとは思えない。

 ――渡さんを慕い恋する心はあの時の……十七歳の娘の時のままなんだわ。だから大家さんはこんな事をしてしまったのね……。

 愛しい者をこの手に取り戻すために、道を踏み外した暮里。その一途で狂った愛情に同情はすれど、共感を覚えることは出来ない凰香だった。

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