第5話 再会
「……ああ、良かった。気が付いたみたいね」
柔らかな女性の声が耳へ届き、凰香は目を覚ました。何処かの室内に仰向けになって横たわっているのか、薄灰色の天井と蛍光灯らしき照明が見える。
「私、一体……。ここは何処……」
凰香が半身を起こして辺りを見渡すと、傍らに座る一人の女が視界へ入った。年の頃は凰香よりやや上くらいか。艶やかな長い髪と透けるような白い肌。すらりとした体つきの見目麗しい美女だ。跳ね返りの凰香とは異なり、気品ある雰囲気を漂わせている。
今、二人がいる場所は十畳ほどの一室だった。床には畳みこそ敷かれていたが、壁はむき出しのコンクリート、窓は無い。室内にあるのは格子窓の付いた鉄扉と、その反対側の木製の扉、天井近くの壁に開けられた小さな格子、そして照明だけだ。
見たこともない場所に自分がいることに気付き、凰香は狼狽えて女に尋ねた。
「あの……ここは何処なんでしょうか?」
「地下牢よ。あと二室あって、そこには男の人が閉じ込められているわ。ところであなた、大丈夫? 怪我はないみたいだけど、ここに入れられた時は意識がなかったから」
「あ、はい……。でも私、一体どうしてここに……!」
凰香は目を閉じた。気絶する直前まで記憶を遡らせようと。
そう、あれは三時過ぎ――タクシーで七釜戸署から天目荘へ戻った時のことだ。最初に暮里を訪ねるも、呼び鈴を鳴らしても出て来ない。
ーー大家さん、何処行っちゃったのかしら? 顔を見せるって言ったのに……。
また後で寄ることにして、凰香は自宅へ入った。まず自分の着替えをとろうと自室で衣装箱を探っている最中、玄関戸が開く音が聞こえた。
ーー大家さん、来たのかしら? でも私、玄関の鍵かけていなかったっけ?
いつも自分が帰宅したときは、必ず玄関ドアは施錠してから室内へ上がるはず。でも今日は少し考え事をしていたから、かけ忘れたのかしらーーと思って立ち上がった凰香だったが、次の瞬間部屋の戸襖が開き、誰かが入ってきた。
だが予想に反してその人物は暮里ではなかった。見知らぬ一人の若い男だったのだ。禿頭でゴム製のウエットスーツと革手袋を着用し、素足。しかし凰香を驚愕させたのはそのちぐはぐで場違いな格好ではなく、男そのものだった。表情が全く動かない鉄仮面顔。身体が床から数センチほど宙に浮いているうえにーー周妖光が見えたのだ。
――この人、折妖人間……! お兄ちゃん、助けてーっ!
恐怖に駆られた凰香は咄嗟に庭の方へ逃げようとしたが、折妖人間に肩を掴まれた。凰香が覚えていたのはそこまでだ。鳩尾に激しい痛みを覚え、意識が遠のいていった……。
「気が付いたらここに……。私、気絶している間にここに連れてこられたんですね?」
「そういうことになると思うけど、それなら私と同じね。私も昨夜――五日の夜、会社から自宅に戻ったところを連れ去られて、ここに閉じ込められたの。私をさらったのは多分、あなたの時と同じ男のはずだけど。ところであなた、周妖光がどうのって言っているところをみると、紙士ね?」
「はい、漉士です」
「やっぱり……ね」
「え、それじゃあなたももしかして……」
「いいえ、私は紙士じゃないの。でも鬼の眼持ちよ。ただ私にはその男の周妖光は見えなかったわ。だから最初見たとき、折妖とはわからなかったけど……」
「ってことはあの折妖人間、西村さんや議員さんと同じ類の――」
そう言いかけた時、凰香の目がある物を捉えた。女の首に光る銀色のネックレス。何処かで見たことあるような……と思っていると、突然隣室から馴染みのある声がーーあの素っ頓狂な声が壁の格子を通って降ってきた。
「ああ、やっぱりその声は凰香ちゃんだね! 君も奴等に誘拐されたんだ」
驚きのあまり、凰香は返事すら出来なかった。隣室にいたのはあの西村だったのだ。その声に女は表情を引き締め、立ち上がった。
「圭一! お前、この人のこと、知っているの?」
「知っているも何も……。さっき話した双子の紙士の妹だよ、姉さん」
壁越しのやりとりを耳にした凰香は卒倒寸前だった。この女と西村との関係は……。まさか……。
「あ、あの……。あなた、もしかして西村さんのお姉さんなんですか?」
戸惑う凰香に女は慌てて腰を下ろした。
「ご免なさい。あなたが砂川凰香さんなのね。私の名は三木塚朋子。そしてあなたが西村大輔と思っていた人物は私の実の弟――須藤圭一なのよ」
「須藤……圭一? それが西村さんの本名? でも一体何故……?」
「それが……」
女――三木塚は目を伏せ、事情を説明した。三木塚と西村大輔こと須藤は青波県出身だった。しかし須藤は二年前、突如実家から姿を眩まし、行方不明となってしまったのだ。家族は手を尽くして捜したが、須藤は見付からなかった……。
「まさか西村大輔と名乗って、四頭鬼町に潜伏していたなんて……。灯台もと暗しとはまさにこの事ね。全く気付かなかったわ」
「灯台もと暗しって……?」
「私、今は青波県の実家を離れ、鉄町に住んでいるの。それにしても馬鹿な弟。あんな連中と行動を共にするなんて……」
三木塚の目から涙が一滴、こぼれ落ちた。それを目の当たりにした凰香は、訊くに訊けなかった。「あんな連中」とは誰なのかと。そこへ須藤の声が再度聞こえてきた。
「凰香ちゃん。俺や姉さん、そして俺の隣の部屋にいる市議さんや凰香ちゃんをこんな所に閉じ込めたのは、秋野の奴等だよ。奴等、家族揃ってもぐり紙士なんだ」
「え! それじゃあの折妖人間を作ったのは、秋野さんなんですか!」
「そうだよ。秋野の旦那がもぐり染士で、奴が妖紙を加工したんだ。それを折ったのはもぐり折士のカミさん。息子と義理の弟はもぐり漉士だよ。凰香ちゃん、あの一家は個人タクシー屋だろう? 奴等がタクシーと折妖馬の置き場に使っている場所、知っているよね?」
「ええ。天目荘がある区画の真ん中にすっぽり空いた空き地ですよね。秋野さんの私有地の」
「そう。今いる場所はその真下さ。ここはその空き地の地下に作られた地下室なんだ」
天目荘がある四頭鬼四丁目十九番地は、半分近い面積を中央にある空き地が占めている。そこは秋野家が所有する土地で、タクシー馬車二台と折妖馬三頭が置かれている。秋野の自宅や天目荘、そしてそれ以外の六軒の家が空き地をぐるっと取り囲むように建ち、私道が一本空き地から延び、公道へと繋がっている……それがこの番地の概要だ。つまり今凰香達がいるのは、天目荘の隣の地下ということになる。
愕然とする凰香。その間も須藤のお喋りは続いた。
「この地下室は奴等のアジトで、牢の他に妖紙の研究施設もある。この地下室と地上を結ぶ出入口は秋野宅の庭にあって、奴等はそこからここへ出入りしているから、近所の連中にも気付かれない。周りを防音壁で固めているから俺達の声、外へ聞こえないよ」
「で、でもどうして秋野さんは私達をさらったんですか?」
「それはね、凰香ちゃん。奴等が首塚を――」
「圭一!」
三木塚は眉をひそめ、鞭の一振りの如く鋭い声を放った。
「お前はどうしてそうぺらぺらと……。その口の軽さが全ての元凶だってこと、まだわかっていないの!」
姉の尋常ではない怒りにすっかり怖じてしまったのか、須藤は黙り込んだ。凰香に知られては困ることまで須藤は喋ろうとしたらしい。されど凰香はここで話を中断させる訳にはいかなかった。事件に関する事は全てを知っておきたかったのだ。
「三木塚さん、その『首塚』って四面鬼の首塚ですか? 不死身の首を埋めたっていう」
「ど、どうしてそれを……」
目を丸くする三木塚に、凰香は鬼の首塚の存在を知った経緯、そして首塚に関して自分が得ている知識を伝えた。
「成程……。その課長さんの御実家は神職なのね。身に覚えはあるでしょう、圭一」
「うん。下柳の奴が話したんだ、きっと。あいつの親父も地元神社の宮司だったから。俺が例のことを話した、二人のうちの一人だよ。勿論、もう一人はあの秋野昌宏だけど。昌宏は秋野家の息子で、俺の高校時代の同級生だよ、凰香ちゃん」
「でもその課長さんも大したものね。言霊の力のことまで見抜いているなんて……」
「姉さん、もう凰香ちゃんには全て話してもいいんじゃないか?」
「そうね。そこまでわかっているのなら、隠すこともないわ。話しましょう。凰香さん、座って頂戴。大事な話だから」
大事な話とは鬼の首塚に関することであろう。凰香は背筋を伸ばして正座をすると、緊張した面持ちで三木塚と向い合った。
「凰香さん。四面鬼のことを知っているのなら、柴山六郎のことも知っているわね?」
「はい。四面鬼を倒した、西和州出身の折士ですよね?」
「その通りよ。実は柴山六郎は私達の先祖でもあるの。柴山は鬼の眼持ちだった。私や圭一が紙士でもないのに妖視能力を持っているのも、その血を引いているから。鬼の首塚の場所は柴山の子孫である、たった一人の鬼の眼持ちにのみ伝えられてきた。その首塚の場所を知る者こそが、『塚守』。今の塚守は私なのよ。そして先代の塚守は、私の母方の大伯母だった……」
当時、柴山の末裔である鬼の眼持ちは、存命者の中ではこの大伯母を除けば、須藤家の姉弟――朋子と圭一の二人だけであった。そこで十二年前、大伯母は二人を次期塚守候補とし、鬼の首塚の存在や塚守の役目など、首塚の詳細な場所以外の全ての知識を与えたのだ。
しかしそれから十年が経った今から二年前、高齢であった大伯母は病に伏した。死が近いことを覚った大伯母は次期塚守を正式に決めるため、朋子と圭一を自宅へ呼び出したが、その沙汰は意外なものであった。次期塚守に選ばれたのは朋子だったのだ。塚守は重大な責任を負う大役故に、女性より男性の方が好ましいとされている。大伯母が塚守になったのも、当時男性の鬼の眼持ちがいなっかったからだ。よって次期塚守となるのは圭一であろうと、姉弟は疑いもしなかったのである。
圭一――須藤が次期塚守となれなかったのには、明確な理由があった。今から九年前の夏、当時高校生だった須藤は親友・秋野昌宏ともう一人の友人に、四面鬼の首塚や塚守の存在を明かしてしまったのだ。それは塚守と塚守候補者のみが知ることを許されている極秘情報。この失態を大伯母は知り、激怒。須藤を指名しなかったのである。
一方、次期塚守に指名された朋子は、大伯母の養女となって首塚の場所を伝承され、三木塚朋子を名乗った。三木塚は護鬼塚→御鬼塚→御木塚→御木塚→三木塚……ということからわかるように、塚守の証とも言いうべき姓。養女縁組みをして一月も経たぬうちに大伯母が他界し、三木塚は現塚守となった。
塚守になれなかったことは、須藤にとって大きな誤算であった。須藤は自分が塚守となった暁には、首塚の場所を教えると秋野昌宏に約束を――正確には首塚の場所を昌宏に大金で売り渡すと、高校生の時に密かに約束してしまったのだ。姉弟の父親が事業の失敗によって多額の借金を抱えており、纏まった金がどうしても欲しかったのである。
須藤も昌宏――秋野一家の狙いはわかっていた。首塚の封印を解いて四面鬼の首を復活させ、紙漉きして妖紙を手に入れるつもりだと。その後妖紙を売るのか、自分達で使うのかは不明だったが、相手はもぐり紙士。いずれにせよろくでもない事に決まっている。
約束を果たせなかった事を知り、昌宏は須藤を激しく責めた。
――おい、圭一。何のために俺達は七年間、婆さんが死ぬのを待っていたんだ?
――すまない。頼むから姉さんにだけは手を出さないでくれ……。
須藤は秋野一家が最終手段に出ることを何より恐れた。姉に危害を加え、強引に首塚の場所を聞き出そうとするのではないかと。やむなく須藤は、更なる情報を昌宏に提供した。四面鬼が復活する前段階として、まずその分身である「天の邪鬼」が復活する。天の邪鬼は不可視状態でいると、鬼の眼持ちにしか姿が見えない。塚守が鬼の眼持ちに限られるのも、これが理由だった。
天の邪鬼を捕らえれば、おのずと首塚の場所もわかるはず。秋野一家は全員妖視能力を持っていたが、それは訓練によって身に着けた後天的なもの。不可視状態の天の邪鬼は見えない。自分の目が必ずや役に立つはずだ――須藤はそう主張し、秋野一家と合流した。秋野一家は八年前の吉華十七年に、青波県から四頭鬼町へ移り住んでいたのだ。
「これが弟の失踪の真相だった。圭一は実家の父母は勿論、隣町に住む私にも自分が秋野一家と行動を共にしていることを知られないように、七釜戸大生の西村大輔を名乗ったのよ。生活費は秋野一家が工面していたみたいね」
「それで秋野家と同じ番地にある天目荘に住み込んだんですね?」
「ええ。大学に通うふりをして、実際には秋野家に入り浸っていたのよ」
「だから実家に電話もかからなければ、電報も届かなかったのか……。大家さんに偽りの連絡先を教えていたんですね、須藤さんは……。で、その天の邪鬼って、もしかして柴山六郎が四面鬼を倒す前に殺したっていう、小鬼のことですか?」
「そうよ。天の邪鬼は確かに一度殺されたけど、四面鬼の分身でもあるから、四面鬼が生きている限りいずれは復活する。先祖は首塚の封印を施した宮司に忠告されたそうよ。この封印が弱まれば、まず天の邪鬼が先に復活するだろうと。だから天の邪鬼が姿を現わしたら、それはゆゆしき事態なの。封印が弱まっている証拠だから」
天の邪鬼を復活させるには、封印を適度に弱めなければならない。これを如何にして行えばよいか。ここで須藤が再び提案した。「言霊の力」を消せばよいと。四頭鬼町を囲む四つの町の名を変えてしまえばいいというわけだ。
この提案を受け入れ、秋野満は動いた。町名変更運動に積極的だった杉野良平議員へ接近、議案の提出を強く促したのだ。結果、議案は市議会に提出されたが、微妙なところで否決される可能性が高くなった。そこで――
「二人の若手議員を折妖にすり替えて、可決させようとしたんですか!」
「その通りよ。個人の髪の毛を混ぜ込んだ妖紙を作り、それを人の形に折って覚醒させれば、その人そっくりの折妖人間が出来る。そうね、圭一」
そうだ、という須藤の声が、壁向こうから返ってきた。
「ただこの方法で折妖人間の妖紙を作るには、少なくとも一週間程度の時間が必要とか。だから事前に二人の議員の自宅に忍び込んで、髪の毛を採取したらしいわ。そして定例議会が始まる直前に本物を誘拐し、折妖人間にすり替えた……」
「人間の髪の毛を妖紙に……。そんなことが出来るなんて……」
「……出来るみたいね、秋野満は。どうしてそんなことを思いついたのか、どうやって作ったかのはわからないけど」
三木塚の話に耳を傾けつつも、凰香は舌を巻いていた。沢崎の推理は全てどんぴしゃ、大当たりだったのだ。犯人の狙い、言霊の力……。推測とはいえ見事なものである。
「でもね、凰香さん。ここでやっと圭一が目を覚ましたの。自分がこんな恐ろしい連中の手助けをしているってことにね。それで捕らえられた議員を助け出そうとして――」
「……失敗したんですね?」
三木塚はこくりと頷いた。五月二日の午後六時半頃、秋野家の夕食時を狙って須藤は地下室へ忍び込んだ。が、あえなく見付かってしまい、牢へ放り込まれてしまった。須藤の動きを見越していたのか、秋野満は予め須藤の髪の毛入り妖紙を用意しておいたようだ。そしてそれで作った折妖須藤を、身代わりとして天目荘に置いたのである。より本物らしく見せるために、須藤が大事にしていたネックレスを部屋から持ち出し、身につけさせて。
「圭一が裏切り、もう手段を選ぶ必要はないと思ったんでしょうね。昨日の夜中、見知らぬ男が家の前で待ちかまえていて、私をここへ連れてきた。その時、秋野満はこう言ったわ。『我々も手荒な真似は極力控えたい。話す気になったらいつでも聞こう』と……」
「話すって、首塚の場所のことですか?」
「……ええ。秋野満はこう言いたげだった。いつまでも黙っていると、弟と議員の命はないぞ、と……。人の命を盾にとるなんて。私はどうなっても構わないけど……」
「こんな事言っては何ですけど、話すつもりはないんですか?」
「ないわ、何があっても絶対に」
三木塚は強い口調で言い切った。
「四面鬼の首の紙漉きが可能になっても、歴代の塚守がなお頑なに口を閉ざしてきたのは、その妖紙が悪用されることを恐れたから。私だって出来ることなら首を紙漉きして、妖紙を燃やしてしまいたい。そうすれば不死身の四面鬼を永遠に葬ることが出来るから」
「正義のために紙漉きしても、妖紙を横取りしようとする連中は絶対現れますからね」
「それを何より恐れ、塚守は首塚の場所を隠し通してきた。私が塚守になってから、鉄町に住むようになったのもそのためよ」
「どうしてですか? 首塚が四頭鬼町にあるのなら、四頭鬼町内に住めば……」
「首塚の存在が知られた時の防衛策よ。もし四頭鬼町に住めば、その場所に首塚があると思われるでしょう?――たとえそうじゃなくても。だから塚守は代々、首塚の監視も容易な隣町に住むことになっているの」
「でも大丈夫なんでしょうか。誰かが知らずにその場所を掘ったりしたら……」
「心配ないわ。封印は相当深い所に施されたから、少し掘ったくらいではびくともしない。小さなビルなら首塚の上に建てても大丈夫だって、大伯母は話していたのよ。ただ私も大伯母の遺言で、塚守となってから一度も首塚へは行ったことがないの。もし行って首を狙う者にその場面を目撃されたら、場所を教えているようなものだからって……」
おかげで三木塚は四頭鬼町内を通過することすら叶わなかった。いつ誰に監視されているのかわからない。もしうっかり足を止めて視線を向けようものなら、その場所に首塚があると誤解されてしまう恐れがある。その結果騒動でも起きれば、周辺住民に多大な迷惑をかけてしまうのだ。
三木塚の話に納得する一方、凰香は不安を拭えなかった。秋野一家が自分達をどうするつもりなのかと。三木塚は暫くは生かされるだろう。須藤や議員達は三木塚に対する「人質」として役立つので同様だ。されど凰香は……。秋野家特製の折妖人間を見破れるのは自分だけであり、秋野一家にこの事を知られれば……。そう思うと凰香は生きた心地もしなかった。
「凰香さん、どうしたの? 震えているみたいだけど」
「それが……。秋野一家が私のこと、殺すかもしれないって……」
「大丈夫。もしそうならあなたは今、ここにはいないわ。秋野満があなたをここに連れてきたのは、あなたが必要だから。あなたにやって欲しい『あること』があるからよ」
そう言って三木塚はその「あること」を語り出した。
「お……遅い! やっぱり凰香の身に何かあったんだ!」
妖魔課の事務所内をウロウロ歩き回っていた鳳太は、応接セットの前に立ち止まり、ソファーへ拳を叩き込んだ。午後五時を回っても凰香は戻らない。妹の許へ直ぐにでも飛んでいきたい……。逸る気持ちを何とか抑えていた鳳太だったが、もはや限界だった。
そんな鳳太に大木は呆れ顔で言った。
「砂川、お前は本当にせっかちな奴だな。ここを発ってからまだ二時間半くらいしか経っていないだろう。あと一時間待ったらどうだ? それでも戻らなかったら、大家さんに電話して確認とってみろ」
「でも大木さん! 俺には聞こえたんです。凰香の助けを求める声が!」
「おいおい、そんなことがありえるかよ。大方、幻聴か何かじゃないのか?」
「馬鹿にするな!」
喉が張り裂けんばかりの声で一括すると、鳳太は大木の席までずかずかと歩み寄った。
「俺と凰香はな、お袋の腹の中にいた頃からの付き合いなんだよ! お互いの身に何か起これば、どんなに離れていたってわかる。あいつに何かあった時は、いつだってあいつの声が俺には聞こえたんだ! はっきりと!」
今にも胸座へ手が伸びて行きそうな勢いに、大木はたじたじだ。ただならぬ雰囲気を感じ取ってか、沢崎が鳳太の許へ飛んできた。
「砂川君、和さんの言うことにも一理あるよ。ここはまず大家さんに電話を入れなさい。妹さん、帰宅したら一度大家さんの所に顔を出すって言っていたんだから、戻っているのならそれでわかるはずだ」
人生経験豊富な女性の言葉には、それなりの説得力がある。鳳太もここはひとまず憤怒の刃を収めることにした。
「……わかりました。とりあえず大家さんに電話してみます」
「よしよし、それでいい。それにしても、あんたは本当に妹さん思いだね。まるで保護者みたいだよ」
「だって俺が守らなきゃ、誰が凰香を守るんですか。そりゃいつかは俺に替わる男が、現れるとは思いますけど……」
「娘を守る役目は普通、父親が担うもんだ。今はあんたがその代行をしているの?」
「いや……そう言う訳ではありません。うちの親父は……」
鳳太はむらむらと込み上げてくる怒りを抑えようと、言葉を一回切った。
「世間体を気にするだけの駄目親父です。俺達が生まれた時も『異性の双子は心中した男女の生まれ変わりだ。気味悪い』ってお袋を責めた。そんな人ですから、俺達のことも殆ど可愛がってくれませんでした。それでも俺は長男だからまだ良かった。凰香には些細なことで暴力を振るい、それも四年前のお袋の死を境に一層酷くなりました。俺も高校生になって腕っ節じゃ親父には負けなくなりましたから、何とか妹を守れましたけど……」
母が早死にしたのは、あいつのことで心労が絶えなかったからーーと、鳳太は父を恨んでいた。妻子に対し、口でも手でも暴力を振るう。酒を飲めばそれに拍車がかかり、手が着けられなくなった。あまりの酷さに母親は一度兄妹を連れ、実家へ避難したこともあった。それでも父の暴力は治まらず、とうとう母は四年前に帰らぬ人となってしまったのだ。
そんなことがあっても兄妹が実家に執着するのは、祖母がいたからだった。祖母は兄妹の名付け親であり、母と共に常に二人の味方であったのだ。時には息子である父を宥め、時にはたしなめて二人を庇ってくれた。父に勘当されるのは、痛くもかゆくもない。むしろ望むところだとさえ鳳太は思っていた。だが祖母に会えなくなるのは……。これが兄妹が必死になって昇格試験に臨む真の理由だった。
「砂川! お前の親父、一度ここに連れてこい! たっぷりと俺が説教してやる」
いきなり大木が鬼のような形相で、鳳太の肩をぐいと引いた。
「是非とも熱いご指導を宜しくお願いしますよ、大木さん」
眉尻を下げつつ、鳳太は大木の卓上にある電話の受話器を取った。するとほぼ同じタイミングで墨田への聴取を終えた井上が、事務所へ入ってきた。
「おー彰さん、お疲れさん。それでどうだった?」
席へ戻った沢崎が労いの言葉をかけると、井上は微笑んだ。
「それがこれといったことは聞き出せませんでした。でも、手応えはあります」
「手応え? どういうこっちゃ、それ」
「墨田警部補はシロです。確信が持てました。物的証拠はありませんが」
井上は墨田が事件に拘わりなしと判断した理由の説明を始めた。最初は警戒していたものの、警察官であることがわかった途端、墨田が自宅へ自分をあげたこと。捜査資料に載っていないような墨田智明に関する話、いわば「内輪話」を嫌がることなく聞かせたこと。これらは「同じ警察官であるあなたに対し、自分は隠し事をするつもりは毛頭ない」という無意識のうちの意思表示ではないか――というのが井上の分析であったのだ。
「その間、墨田警部補の言動に不審な所は見当たりませんでした。それプラス僕のカンで、渡の研究成果については、心当たりがないものと思われました。如何でしょうか?」
「なーるほど。よくわかったよ、彰さん。墨田警部補の件については、取り敢えずこれで終いにしよう。もし今後何かあれば再度調べはするけど」
沢崎はそう言って煙草に火を着けると、静かに煙を吐いた。先程の若手係員の時とは、百八十度違う反応だ。井上の毅然とした態度と、自信満々の笑顔に納得したようだ。
「さーて、墨田警部補がシロだとすると、あと渡の研究成果と関わりがありそうなのは、現時点では一人だけだね」
「え? 課長、墨田警部補以外にも、誰か捜査線上に浮上したんですか?」
「うん彰さん、一人怪しい女がね。その女のことを若いのが突き止めたまでは良かったんだけど、詰めが甘くてさ。詳しいことは何一つ調べてきやしなかった。だからわかるまで戻ってくるなーって、叩き出してやったよ。カッカッカ!」
ところが沢崎は慌てて笑い声を呑み込む羽目となった。受話器を握り締めながら青ざめる鳳太の姿が目に入ったのだ。
「出ない……。何度鳴らしても大家さんが……。凰香はどうしたんだ!」
「そ……そんなことだったなんて……」
三木塚から話を聞き終えた凰香は、目眩を覚えてよろめいた。
「あなたには失礼だけど、秋野満はこう言っていたわ。『これで出来の悪い漉士が確保出来たな。この女、目も研究に使えるし』って」
凰香は動揺を隠せなかった。確かに三木塚が語った「あること」の内容もショッキングだった。だがそれにもまして秋野一家が自分の力を折妖人間の研究に利用しようとしていることが、恐ろしくて堪らなかったのだ。凰香に周妖光が見えない折妖人間など、一見しただけでは誰にもその正体を見破れない。こんな「究極」の妖紙人間が「闇市場」に出回り、和州は愚か世界中で悪用されたら……と思うと、背筋が寒くなるのも当然だった。
一方で秋野一家が、如何にして凰香の特異な妖視能力に気付いたかという謎も残る。何処からどのようにして、自分の情報が漏洩したのか……。凰香は悪寒が止まらなかった。
しかし今は、こんな所で縮こまっている場合ではない。一刻も早く地下牢から脱出し、鳳太の許へ戻らねばならないのだ。とは言っても室内に窓はなく、扉も二つだけ。うち木製扉はトイレ及び洗面室の出入口となっており、ここからの逃走は不可。残る鉄扉は地上へ通じる通路に面していたが、扉には外から鍵ががっちりかけられている。更に――
「凰香さん、通路の方を見て。外には見張りもいるのよ。秋野一家に命じられて、私達が逃げないようにずっと監視しているの。牢の鍵もあいつが持っているわ」
鉄扉の格子から凰香が外を覗いてみると、通路の薄暗闇の中に光る二つの目が見えた。男が一人、廊下の壁に背を預けて立っているのだ。凰香はその男を見てあっと小さな声をあげた。天目荘で遭遇したあの折妖人間だ。ただ今は白いワイシャツに黒っぽいズボンと普通の服を着て、革靴も履いている。
「三木塚さん。あの折妖人間、何とかならないんですか?」
「難しいわね。あの男は秋野一家の命令しか聞かないわ。通してくれと頼んでも無駄よ」
「なら強行突破しましょう。鍵さえあいつから奪えば、こっちのものです」
自分の誘いに乗ってくれるかどうか自信はなかったが、取り敢えず相手を呼び寄せてみようと、凰香は格子の隙間から手を伸ばした。が、そこへ三木塚が血相を変えて背後から飛びつき、凰香を扉から引き離したのだ。
「駄目よ! あの折妖人間は幽鬼が素妖だって秋野満が言っていたわ!」
「幽鬼が……。そうか、だからあの男、足が宙に浮いていたんだわ!」
「幽鬼は手を触れることによって、相手の身体から水分を抜き取ることが出来るわ。もし下手に騒いで触られたりでもしたら、先輩の家族みたいに――」
「え? 先輩の家族って……?」
「それは……」
急に三木塚は口籠もり、俯いてしまった。気まずい雰囲気にそれ以上突っ込みも入れられず、凰香が困っていると、隣室から須藤の声が聞こえてた。
「先輩って言うのはあの対妖魔エスピーの墨田仁ことだよ、凰香ちゃん。墨田さんは姉さんの彼氏なんだ」
「違う!」
三木塚は髪を振り乱し、狂ったように叫んだ。
「言ったでしょう、圭一! 私と先輩はそんな関係じゃないって。確かに墨田先輩は、私にとって憧れの人だった。でも先輩は、私のことをそんな風には見ていない。だって先輩は、首塚の場所を聞き出すために私に……」
声を殺して泣く三木塚を前にし、凰香はおろおろするばかりだった。あの墨田が三木塚に……という驚きもあったが、彼の家族の身に何が起きたのか想像に難くなかったので、混乱してしまったのだ。
「……あのね、凰香さん」
暫くして三木塚は顔を上げ、泣きはらした眼を凰香に据えた。
「墨田先輩は中学校時代の剣道部の先輩だったの。先輩、凄かったのよ。成績もトップクラスで、剣道部の主将。全国大会で優勝したこともあるの。剣道部女子の、いいえ全校女子の憧れの的だった。部活の時はいつも沢山の女の子が、道場の周りで黄色い声をあげて声援を送っていたわ。だから一年生で剣道初心者の私なんて、近寄れもしなかった……」
墨田は三木塚にとって手の届かない所にいる輝かしい存在。先輩後輩として挨拶を交わし、ごく稀に剣道の稽古を付けてもらう程度の関係。思いを寄せながらも、三木塚は墨田を「遠く」から見詰めることしか出来なかった。
三木塚が墨田の後輩でいられたのは、僅か一年足らずだった。中学を卒業した墨田は、青波県内一の名門高校へ入学したのだ。だが三木塚は中学二年生の秋、父親の仕事の都合で県西部の別の学校へ転校。元の中学も墨田がいる高校も県東部にあり、三木塚も自宅近くの高校へ進学したせいもあって、彼に会うことは勿論、風の便りすら届かなくなった。
そして二人の出会いから十五年が経った、昨年十二月上旬の夕方。高校卒業後、州都市内の会社へ就職した三木塚は、この日も勤務を終えて帰路へついた。ところが勤め先の最寄り駅までやって来た時、改札口から出てきた見知らぬ男にいきなり呼び止められたのだ。
――もしや君、須藤さん?
――は、はい……。あの、どちら様でしょうか?
警戒心も露わに三木塚は一歩後退した。行く手に立ちはだかるのは、まるで巌のような大男。トレンチコートにサングラスと外観もかなり怪しげだ。すると男は暫しの沈黙後、口元を微かに緩め、サングラスをとった。
――久しぶりだな。墨田だ。覚えているか?
三木塚は我が目を疑った。無理もない。記憶の中にあるのは、幾分子供っぽさが残る中学時代の墨田だったのだから。けれど今目の前にいる墨田は、大人の魅力に溢れた堂々たる男性。三木塚は胸の高鳴りを抑えられなかった。
――せ、先輩。お久しぶりです。お元気そうで何よりです。
――君もな。ところで、これから何か用はあるか?
――いいえ。仕事も終わって、家に帰るだけですから。
――そうか。なら近くの喫茶店で、コーヒーでも飲んでいかないか?
三木塚は二つ返事で承知した。中学時代はあちらから声をかけてくることなど、数えるほどしかなかったのだ。天にも昇る心地とは、まさにこのことであった。
この日は喫茶店へ入り、世間話や中学時代の思い出などを話す程度で終わった。が、その後も墨田は度々三木塚を呼び出し、二人の関係は次第に親密なものとなっていった。
だが三木塚はこの現状を素直に喜べなかった。その理由は二つあり、うち一つは塚守の制約にあった。塚守及びその候補者は、結婚や恋愛が禁じられている。塚守の任務に支障をきたす恐れがあるからだ。先代の大伯母も例外ではなく、直系の子孫を残すことは出来なかった。そのため自身の弟の孫である須藤姉弟を次期塚守候補としたのだ。三木塚が二十八歳になる今まで独身を通し、男を誰一人として近寄らせなかったのもこの制約がある故だった。
墨田と付き合えるのは嬉しい。でもこのままズルズルと関係を続けていくのは……。いつかは別れを切り出さなくてはならない。しかしいつどうやって墨田に話を付ければいいのか。三木塚は思い悩んでいた。
もう一つはどうして墨田が、急に自分に親しげな態度を示したかということだった。先輩後輩関係は中学時代のたった一年間。しかも三木塚は当時、しがない一部員にすぎなかったのだ。自分のことを覚えているかどうかも怪しいのに――三木塚は訝しがった。
こんな憂いや疑問とは別に、気になる点もあった。中学時代の墨田は明るく、溌剌としたイメージがあった。ところが今は違う。かつての生き生きとした輝きは跡形もなく消え失せ、替わって何か重苦しい影が墨田を覆い尽くしているように、三木塚には感じられたのである。
「でも暫くして、その影の正体がわかったの。去年の大晦日の夜、私は先輩に誘われて州都港沿いの公園へ出かけた。その時に先輩が話してくれたのよ。あの話を」
その「あの話」は、三木塚が何の気なしに発した言葉が切っ掛けで始まった。北風が吹きつける真冬の公園で、波打ち際の道を並んで歩きながら、三木塚は墨田にこう言った。
――先輩が警察官になられたことには私、少しも驚いていません。先輩の剣道の腕は本当に素晴らしかったんですから。でも紙士になられたのは、正直意外でした。
すると墨田ははたと足を止め、港に浮かぶ船灯と青黒い冬の海へ目を向けた。
――あれは今から八年前、こんな寒い年末のことだった。大学四年生だった俺は州都市の下宿先を出て、菊川村の実家へ向かった。だがその途中、思わぬ事が起きた……。
墨田が言う「思わぬ事」とは鉄道事故だった。州都市と青波県を結ぶ都波線が人身事故で全線不通となり、墨田が乗った電車も途中駅で停車。車内で復旧を待つ羽目となったのだ。夕方には家へ着くはずだったのに、これでは何時に帰れるのかわからない。墨田は駅の公衆電話から実家へ連絡を入れ、帰りが遅くなることを伝えた。
――電話に出たのはお袋だった。妹も電話口に出てきた。「遅くなって最終バスに間に合わなかったら、お父さんに馬車で迎えに行ってもらうから、こっちの駅に着いたら電話しなさい」というお袋の優しい声。「早く帰ってきてよ、お兄ちゃん」という妹の無邪気な声。だがこれがまさか家族との最後の会話になろうとは、この時俺は想像もしていなかった……。
都波線が復旧したのは、事故発生から五時間が経過した頃だった。墨田が実家の最寄り駅へ到着した時には日はとうに暮れ、時計の針も午後七時五十分を指していた。
降車するや否や、墨田は駅前の停留所目指し、全速力で走り出した。菊川村へ向かう乗合馬車の発車時刻が迫っていたのだ。が、改札口を通過した直後、墨田はふと立ち止まった。
――お兄ちゃん!
妹・礼子の声が――泣き叫ぶ声が聞こえたような気がしたのだ。しかし墨田が駅前広場を見渡しても、妹の姿はない。そこへバスの車掌の拡声器を通した声が聞こえてきた。
――二番乗り場より鳥越村・菊川村経由要村中央行きの最終便が、間もなく発車いたします。ご乗車の方はお急ぎ下さい。
幻聴だったのか……と思いつつ墨田は停留所までダッシュし、停車しているバスへ飛び乗った。直ぐに扉が閉まり、バスは数人の乗客を乗せて発車。駅前の市街地を抜け、山道を進み出した。
座席に腰を下ろし、時折暗い夜道へ目をやりながら、墨田は考えた。来年の春には社会人になるので、年末年始を何日にもわたってゆっくり過ごせるのも、恐らく定年まではないだろう。さて、どう過ごそうか。家族や親戚と初詣へ行くもよし。地元の友人と旧交を温めるもよし。祖父や父と酒を酌み交わしながら、家でのんびりするもよし……と。
三十分程バスに揺られ、墨田は菊川村の停留所で下車した。だがその間際、車掌が声をかけてきた。
ーーお客さん。菊川村周辺に今夜は妖魔警報が出ていますよ。お気をつけ下さい。
菊川村の周囲には林野が広がっており、危険な妖魔も多数潜んでいる。警報発令時はいつ妖魔が村内に出没しても不思議ではなく、夜ならば尚更だ。これはまずかろうと、墨田は小走りで実家へと急いだ。
走った甲斐あっていつもなら十分かかるところを、七分で実家へ到着。一息入れると、只今という声と共に墨田は玄関戸を開けた。が、誰も出てこない。いつもなら真っ先に出迎える妹ですら。時刻は八時半、山間の夜は冷える。いつもなら夕食も終わり、祖父を除く三人は居間でこたつに入ってくつろいでいるはずだ。実際、居間の方からはラジオの音が聞こえてきた。
――ラジオに夢中で、みんな俺が帰ってきたことに気付かないんだな。やれやれ……。
苦笑しつつ墨田は家に上がり、居間まで行った。ところが入口の襖を開けた途端、サーッと冷たい風が顔面を直撃し、前髪を押し上げたのだ。それもそのはず、寒風吹きすさぶ夜だというのに、部屋と縁側とを仕切る東障子、庭に面したガラス窓、雨戸……全てが開けっ放しになっていたのである。
何故か室内に人の姿はなかった。こたつの上には殆ど口を付けていない湯飲みが三つと、食べかけのみかんが二つ。赤々と火が灯もる石油ストーブ。ラジオからは陽気な落語家の声。間違いなくつい先ほどまで家族はここーー居間にいたのだ。
――父さん、母さん、礼子。何処にいるんだ?
荷物のスポーツバッグを下ろし、ストーブを消してラジオのスイッチを切ると、墨田は縁側へ出た。庭を挟んで母屋と向い合うように、祖父が自室として使用している離れ屋がある。
――みんな祖父さんの離れ屋にいるのか? こんな時間に?
ふと視線を下の方へやった墨田は、意外な物を見付けた。踏み石の上に父と母の突っかけがある。縁側から離れ屋へ行くには庭を横切らなければならない。もし両親がここから離れ屋へ行ったのであれば、履物がある訳がないのだが……。
離れ家の入口は居間から見て反対側にある。雨戸も全て閉められており、内部の様子はわからない。中を覗いてみようと、墨田は父の突っかけを履き、離れ屋へ向かった。
どういう訳かこの寒さの中、離れ屋の玄関戸も開け放たれていた。光は室内より差し込んでくる灯だけなので、玄関もその先の廊下も薄暗い。されど墨田の目には、中の光景がはっきりと見えた。見覚えのある服を纏った人型の物体が、玄関に転がっている。しかも二つだ。さらに廊下に同じような物がもう一つ……。
その三つの物体が一体何であるか、墨田には直ぐにわからなかった。十秒経ち二十秒経ち……ようやく墨田は理解した。それが干涸らびた人間の身体であることを。家族の変わり果てた姿であることを。玄関にある物は両親、廊下にある物は妹。手は虚空を掴み、苦悶の表情を浮かべ、死の瞬間を留めていた。
墨田は歯をガタガタ震わせ、一歩、二歩と後退した。声が出ない。喉が支え、譫言のような声しか。下がるうちに身体が家の外弊にぶつかり、腰が砕けてズルズルと落ちた。尻が地へ着いた衝撃で喉の支えがとれ――墨田は絶叫した……。
――瞬時にして俺の頭の中は真っ白になった。それから暫くのことは全く記憶にない。我に返ったのは深夜、家には警察と叔母夫婦が駆け付けていた。さらに警察の調べで、離れ屋の室内で祖父の同じような遺体が発見された……と叔父が教えてくれたが、それを聞いてももはや涙すら出てこなかった……。
墨田は三木塚の傍らを離れ、近くにあった仕切の鉄柵を掴んだ。
――捜査の結果、家族を殺害した犯人は幽鬼であると断定された。その事を話した際、担当の警察官は言った。電車が事故で遅れて良かったと。死亡推定時刻は午後八時前後、もし予定通りに実家に戻っていれば、間違いなく俺も妖魔の餌食になっていただろうと。だが……だが俺はそうは思わなかった。俺がいれば家族を妖魔から守れたかも知れない。あの事故さえなければ……。
――すいません先輩、嫌な事を思い出させてしまって。私、その様な事件があったとは知らなかったんです。本当に申し訳ありませんでした……。
懸命に頭を下げる三木塚に、墨田は振り返ることなくフーッと溜息をついた。
――気にするな。あの事件は妖魔が屋内の人間を襲った事件。警察も市民に知られると動揺が広がることから、殆ど報道させなかったんだ。地方紙の三面の片隅に小さく載って終いだ。
ーーそんな……。
ーーそれより朋子、これでわかっただろう。俺が何故紙士になったかを。警察は奴を捕らえることは出来なかった。いや、捕らえることを断念した。もはや奴は見付からないだろうと。だが俺は諦めなかった。必ずや奴を見つけ出し、家族の仇を討つと誓った。そのためには漉士か折士の力がどうしても必要となる。俺は就職内定を蹴って大学卒業後に紙士養成学校に入学し、折士の力を身に着けた。その後警察官になったのも、奴の手掛かりを見つけ出せるかも知れないと思ったからだ。しかし……しかし……まだ奴は!
墨田は鉄柵をギュッと握り締め、戦いた。涙を見せまいと背を向けたまま。そのあまりに悲しげな姿に、三木塚は目頭を押さえずにはいられなかった……。
「先輩の話を聞いてわかったわ。家族をあんな惨い方法で奪われた悲しみ、そしてまだ見付からぬ犯人への怒りと憎しみ……。それが先輩にまとわりついている影の正体だということを。八年もの間、心の傷を癒すことも出来ず、ずっと苦しみ続けてきたのね……」
この日を境に三木塚の態度は変わった。今までは墨田の呼び出しに応じるだけであったのが、逆に自分から墨田を誘うようになったのだ。無論、塚守の掟を忘れた訳ではない。だがその心の傷を知りながら、墨田を突き放すことなど三木塚には出来なかった。可能な限り側にいて、安らぎを与えようと努めたのである。墨田の許を去るのは、あの暗い影が消えてからでも遅くはないのだから。
ところが五月三日の夜、二人の関係に異変が起きた。州都市内の喫茶店で会った際、墨田の口から信じられない言葉が飛び出したのだ。
――朋子……。折り入って頼みがある。四面鬼の首が埋まっている場所――鬼の首塚の在処を教えてくれないか……。
三木塚は頭を殴られたような衝撃を受け、言葉も出なかった。鬼の首塚のことなど、一言たりとも話した記憶はない。それなのに何故墨田は、その存在を知っているのか……。
――頼む、この通りだ。教えてくれ。
墨田は額に脂汗を滲ませ、懸命に頭を下げた。しかし三木塚は、
――出来ません。いくら先輩の頼みでも、これだけは絶対に……!
と叫び、引き留める墨田を振りきって立ち去ったのだ。
「それを聞いてやっぱりね……って思ったの。先輩は私に好意を寄せてくれていた訳じゃない。別の目的があったって。その日は家に帰って泣き明かしたわ。あれから一度も先輩にも会ってもいないし、話してもいない。また同じことを頼まれるだけだから……」
涙を堪えて話す三木塚に、凰香は同じ女性として深い同情の念をよせると同時に、墨田に対する怒りや不満も隠せなかった。三木塚が抱いていた憧れ、そして相手を労る心を墨田は踏みにじったのだ。三木塚もまさか鬼の首塚目当てだったとは夢にも思っておらず、ショックも計り知れなかったはずである。
「でもね、凰香さん」
むくれる凰香を宥めるように、三木塚は少しだけ身を乗り出した。
「その事を頼んでいる時の先輩、本当に辛そうだった。好きであんな事をやっているんじゃないってことは、直ぐにわかったわ。きっと仕事か何かで嫌々やっているだけなのよ。私には心当たりもあるし」
「心当たりって何ですか?」
「うちの会社は警察庁とも取引があるから、噂には聞いていたの。政府は今、危険な中・高レベル妖魔を国内から可能な限り排除しようと、躍起になっているって。ほら、ここのところ閣僚の不正が相次いで、内閣支持率が低下してきているでしょう? 首相もこれを重く見て、人気回復の手に打って出たのね。このままでは次の総選挙で与党が政権を取ることが難しくなるから」
「鬼の首塚の件も、その人気回復作戦の一環ってことなんですね……。そんなことのために三木塚さんを利用しようとするなんて、あんまりです。墨田さんだっていくら仕事とはいえ、何ヶ月も三木塚さんを騙すなんて……。そんな酷い人とは思いませんでした」
「凰香さん、それは違うわ。先輩はそんな冷たい人じゃない」
三木塚は凰香の手の上に自分の手をそっと重ねた。
「先輩は本当はとても優しい人よ。大事な家族を失って辛い思いをしたんだもの。人の痛みがわからない人じゃないわ、絶対に……」
先輩のことを悪く思わないで……という三木塚の思いが、温もりと一緒に凰香へ伝わってきた。思いを踏みにじられ、利用されてもなお墨田を庇う三木塚。そんな三木塚の優しさに胸を打たれると共に、その恋情を羨ましくも感じた凰香だった。
「畜生、駄目だ! 何度かけても出ない! もう十回以上かけているのに!」
鳳太は受話器を下ろすと、頭を抱え込んだ。午後七時になろうというのに、凰香は七釜戸署へ戻ってこない。連絡もない。暮里に妹のことを尋ねようとしても、一向に電話に出ない……。鳳太の焦りは募る一方だった。多少のことでは動じない沢崎も、流石に心配になったのか、自席でうーんと唸った。
「こりゃ何かあったね。よし、直ぐにうちの若いのを捜しに出させるよ」
「結構です。俺が捜しに行きますから!」
鳳太はソファー横に置いてあったリュックサックを掴み、背負った。が、足を踏み出す前に、沢崎の声が矢となって鳳太の身体を貫いたのだ。
「馬鹿! 軽はずみな真似をするんじゃないよ! 砂川さんがもし事件に巻き込まれていたら、あんたも同じ目に遭うかも知れないんだよ! ミイラ取りがミイラになってどうするのさ! 安全は保証すると言った以上、こっちだって全力で捜す。あんたは事務所で大人しくしていなさい! わかったね!」
怒濤の如く剣幕の前に、鳳太は全くの無力だった。反論の言葉すら思い浮かばない。
「ま、わかればいいさ。砂川君、ちょっとこっちに来なさい」
打って変わった優しい声で、沢崎は鳳太を呼び寄せた。鳳太が課長席の前までやって来ると、沢崎は煙草の火を消し、椅子から立ち上がった。
「あんたが妹さんを思い、守ろうとする気持ちはよーくわかる。でもあんたは妹さんのことになると分別が付かなくなって、むきになる嫌いがあるね。あんた、妹さんを守るためなら、死んでも構わない……何て思っていない?」
「それは……」
言葉に詰まる鳳太をしげしげと見ながら、沢崎はハーッと息をついた。
「図星みたいだね。でもその考えは感心出来ない。危険な目に遭った妹さんを助けようとして、あんたが死んだとしよう。あんたはそれで本望かも知れない。じゃあ、残された妹さんはどうなると思う? あんたの死をどう受け止めると思う?」
「……」
「早い話、私が言いたいのは残された人のことも考えろってことだ。砂川君、私が小さい頃、そりゃ酷い戦争があったんだよ。沢山の男達が異国の戦場へ送られ、そこで死んだ。私の叔父もそうした戦死者の一人さ。私も三つ四つの子供だったから、叔父の葬儀のことなんて殆ど覚えていない。でも母や祖父母が嘆き悲しむ姿は、この目に焼き付いているよ。お国のために戦って死んだって慰められても、遺族はちっとも嬉しくなんかないんだよ」
「生きて帰ってきて欲しかった……ということですか……」
「そう。砂川君、自分の命を犠牲にするのは本当に最後の手段だ。無茶をして、突っ走るんじゃないよ!」
頭が冷えたのか、鳳太は無言でソファーへ腰を下ろした。それを見届けた沢崎は煙草の箱を手にしたが、いきなり自席の電話が鳴り、泡を食って箱を放り出した。
「もしもし……おー、まだやっていたのか、お前。てっきり家に帰ったかと……。ん……何、本当か! 例の女の名前がわかったって!」
連絡をしてきたのは、昼に沢崎が怒鳴って再調査へ出した若手係員だった。再度鹿出町の男の許まで出向き、更なる情報提供を求めたのだ。十分以上粘った結果、男はようやくある場面を思い出した。問題の女が渡の家の玄関戸を叩いていた時、己の名を叫んでいたというのである。「十郎さん、○○○です! 開けて下さい!」と。
「よし、でかした! それじゃ至急こっちの方でも調べてみるから、帰ってきな。そう、勿論今直ぐにだ。緊急事態発生で人手がいるんだよ。いいね!」
興奮冷めやらぬまま電話を切った沢崎だったが、ふと考え込んだ。若手係員が告げた女の名前に聞き覚えがあったのだ。もしや……と、今回のすり替え事件の捜査書類を広げ、二、三枚捲ったところで沢崎は手を止めた。
「まさか彼女が……ね。ま、一応確認はとってみるか。あれ、砂川君は何処? ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
沢崎が見回しても、事務所に鳳太の姿はない。沢崎が電話で話している間に、トイレに行くと言って席を立ったらしい。ソファーの上に投げ出された鳳太のリュックサックを見て安心したのか、沢崎は煙草を吹かし始めた。
しかし十分経っても二十分経っても、鳳太は戻ってこない。不吉な予感に駆られた沢崎は、係員の一人にトイレを見てこいと命じた。
暫くして係員は怪訝な顔付きで帰ってきた。署内のトイレを隈無く調べてみたが、鳳太は何処にもいないというのだ。その報告を聞いた沢崎はぎゅっと煙草のフィルターを噛み潰した。
「えーい、これだから若いのは……。あれ程忠告したのに、捜しに行ったね!」