表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/7

第4話 呼び声

「……と言う訳で、現在行方不明になっているがこの三人だ」

 五月五日午後八時過ぎ、七釜戸署内の第二会議室。「折妖人間すり替え事件」の捜査会議で、事件の概要について説明を終えた後、沢崎は行方不明者三名――西村大輔、牧原昇、高倉伸也の名を黒板に書き付けた。

「西村は四頭鬼町在住の大学生。牧原、高倉の両名は市議だ。すり替えられた理由は配布した資料にあるように、市議二名についてはある程度見当がついている。だが西村については一切不明だ。ただ折妖人間に関しては共通点がある。資料を見て」

 沢崎の声に二十名近い出席者は配布済みのガリ版の資料に目を落とした。

「折妖人間の周妖光が、極めて優秀な妖視能力者にのみ見えることと、黒い妖紙が使われていた点だ。高倉の妖紙は折妖の死亡により回収不能となったが、残る二体の妖紙はうちの方で押さえてある。なおこの妖紙には異物が織り込まれており、鑑識の結果――」

 一回言葉を切ると、沢崎は居並ぶ部下の顔を見渡した。

「人間の髪の毛であることが判明した。血液型についても鑑識結果が出ている。西村の物はB型、牧原の物はO型だ。牧原については本人の血液型と一致、西村については本人の血液型が不明のため、明日材料を当人の部屋より採取して確認をとる。妖紙が黒く染められていたのは、髪の毛の混入をわかりにくくするためと思われる」

 妖紙に人の髪が混ぜ込まれていたという事実に、職員の間からどよめきが起こった。妖魔は他生物とは異なる進化の過程を辿った、生物界の「異端者」。たとえ妖紙となっても、他生物由来の物質とは決して混ざらない。妖魔課職員は全てが紙士ではないが、警察で妖魔がらみの仕事をしている以上、この程度の知識は得ていた。

「課長。織り込まれた髪の毛が、仮にすり替えられていた本人の物であれば」

 二列目の席に座っていた中堅係員がスッと起立した。

「それを利用して本人と同じ折妖人間を作った……ということになるのでしょうか?」

「うん、その可能性が高い。実は昔、髪の毛を妖紙に混ぜ、特定の人間の折妖人間を作ろうとした事件が、今の村雨市で起こっているんだよ。これさ!」

 沢崎が手にとって掲げたもの。それこそが村雨署から借りた「鹿出しかいで町で発生した折妖人間作製未遂事件」の捜査資料であった。

「今から丁度五十年前の麗明れいめい十七年、世界を巻き込んだ大戦が終わった直後のことだ。髪の毛を用いて折妖人間を作る研究を密かに進めた者がいた。その者の名は渡十郎わたりじゅうろう。当時、天才染士と評判だった男だよ」

 沢崎は事件の経緯について説明し始めた。麗明十七年一月。渡は勤務先であった国立妖紙研究所へ突然辞表を提出した。渡はこの時二十七歳、既に七段の腕前を持つ若きホープ。研究所の将来をしょって立つ人材として期待されていた人物だ。実際、渡は紙合わせの研究で目を見張る成果を幾つも出しており、百年に一人の天才と言われていた。そんな優秀な研究員を引き留めようと、所長や上司は必死で説得。しかし渡はこれに応じず、退職する理由すら話さず研究所を去った。

 理由など言えるはずもなかった。渡は紙士最大の御法度・折妖人間作製の研究を独自に行おうとしていたのだ。自らの能力と研究所で得た知識や経験を素に、特定の人間そっくりの折妖人間を極秘に作り出そうとしたのである。

 実のところ全身写真を妖紙に転写し、その人物と同じ姿を持つ折妖人間を作る手法は、当時既にあった。だがこの技法には大きな欠点があった。写真には写らない箇所や細かい部分までは再現出来なかったのである。

 渡はこうした欠点のない、より精巧で本人に近い折妖人間を目指した。従来の写真転写法は、あくまでも折妖を写真通りの形にするだけ。更に本物へ近付けるためには、本人の身体の一部を混入する必要があるーーこれが渡が出した結論だった。

 そこで渡は採取が容易な髪の毛に着目し、これを妖紙に織り込もうと試みた。だが一言に「織り込む」と言っても、一筋縄では行かない。そもそも人の髪は、妖紙にはなじまないのだ。喩えて言うなら水と油を混ぜ合わせるようなものである。されど渡は天才と謳われた辣腕染士。私財をなげうって鹿出町の自宅に自前の研究設備を設置。試行錯誤を繰り返しながらもその実力と熱意を以て、僅か九ヶ月のうちに不可能を可能にする一歩手前までこぎつけた。

 ところがここで不測の事態が起きた。渡の紙士養成学校時代の同期の友人で、研究の「協力者」であった折士・墨田智明ともあきが、警察に渡の違法行為を通報したのだ。渡の研究には折士の協力が不可欠。いくら首尾良く妖紙への髪の毛織り込みに成功したとしても、折士が実際に妖紙を折って覚醒させなければ、折妖人間の出来を確認出来ないのだから。そこで渡は友人の墨田に協力を依頼、己の研究へ引き込んだのである。

 しかし、渡の何かに取り憑かれたような姿に――一心不乱に研究に打ち込む姿に、墨田は次第に恐怖を覚えるようになった。さらに当時の墨田には、妻と幼い息子がいたのだ。

 墨田は考えた。もし渡の研究が世間に露見すれば、自分も共犯者として捕らえられる。そうなれば妻子はどうなるのか。犯罪者の家族として白眼視され、肩身の狭い思いをするばかりか、自分の服役中は苦しい生活を強いられる……。これが墨田が親友・渡を裏切った真の理由だった。

 かくして渡は逮捕され、事件の二ヶ月後に拘置所内で病死。友人の背信、完成を目前にして阻まれた研究……。その怒りと無念が渡の心身を蝕んだのだ。もし生きている間に判決が出ていれば未遂であっても終身刑、最悪死刑を言い渡されていたものと思われる。当時の折妖人間作製に対するは刑罰は、現在よりも遙かに重かったのである。

 一方墨田は執行猶予付き懲役刑並びに、紙士免許剥奪と紙士術の封印で済んだ。妖紙加工の研究は渡が全て一人で行い、墨田は折妖覚醒以外の行為には手を貸さなかったこと。渡の研究が完成する前に警察に通報したこと――以上が配慮され、温情措置がとられたのだ。

「……とまあ、以上がこの事件のあらましだ。幸いにも渡の研究は完成寸前で阻止され、研究データや資料は全て警察が押収。後日厳重に処分されたそうだよ。ただこの事件、紙士の常識を覆しかねない大事件なのに、殆ど報道されなかった。当時は戦後の酷い混乱期でそれどころじゃなかったし、その混乱に拍車をかけるような真似は警察も妖魔局もしたくなかったようだね。だから私もつるちゃん……じゃなくて鶴岡課長から話し聞くまでは、そんなことがあったなんて知らなかったよ」

「しかし課長。何故渡はそこまでして、精巧な折妖人間の研究をしたのでしょうか?」

 井上が小首を傾げるのも無理はなかった。国立妖紙研究所の研究員は紙士の羨望の的。特に染士にとっては夢のような職業で、将来を有望視される者のみが就ける。「最低条件は紙士養成学校の首席卒業。でも実際になれる可能性があるのは、全六校の首席卒業者のトップただ一人のみ」とも言われ、まさにエリート中のエリートだ。そんな恵まれた地位を捨ててまで、違法な研究を行おうとした理由が、井上には想像すら出来なかったのである。

「その理由がさっぱりわからないんだよ。いくら尋問しても渡は頑として答えず、墨田も詳しいことは全く知らされていなかった。ただ墨田が言うには渡は、『この研究は素晴らしいことに使う』と話していたとか。金儲けがしたかったわけでも、誰かに依頼されていたわけでもなさそうで、それにも拘わらず執念の虜となって研究に没頭する様が、墨田には尚更不気味に見えたってことだ」

「素晴らしいことに……ですか。よくわかりませんね。ならばこの理由の件はいいとして……。一番の焦点はこの事件と今回の事件が、繋がりがあるかということかですね。課長はどうお考えなんですか?」

「彰さん、私は大ありだと思うよ。妖紙に髪を織り込むなんて真似、有免許者ほんもの無免許者もぐりに関係なく、染士なら絶対にやろうとしない。やっても無駄だと信じ込んでいるからね」

 沢崎曰く、紙士養成学校の染士クラスでは、実習で妖紙に動物の血液を垂らす実験を行うという。血液は弾かれて表面を水銀粒のように転がり、これによって「妖紙は妖魔以外の生物由来物とは決して混ざらない」ということを頭へ叩き込まれるのだ。そのため妖紙に押すスタンプのインクや染直しに用いる染料は、妖紙から抽出した色素を使うのである。混入する物が液体ではなく、固体であっても出来ないことには変わりがない。この常識を覆そうと試みたのは、紙士四百年の歴史の中でも渡一人だけ。彼の研究成果無くして、他者が髪混入妖紙を作り出すことなど不可能だ。

「でも課長は先程、研究データや資料は全て処分された……と言われましたね? もし渡の事件と今回のすり替え事件が関係あるとしたら、どこかで渡の研究成果が外部に漏れていたってことじゃないですか」

 大木の些か意地の悪い質問にもへそを曲げることなく、沢崎は淡々と答えた。

「確かにその通りだよ。漏れていなきゃこんなこと絶対に起こらない。何故五十年も経った今頃、渡の目指した折妖人間が出現したかという疑問も残るけど。勿論、当時の事件担当官が、不正をした可能性もなきにしもあらずだ。けど、物が物だけに取扱には相当気を遣い、焼却処分する時は県警本部長も立ち会ったらしい。またこの捜査資料によれば渡は孤独な男で、墨田以外に親しい者も親戚縁者もいなかったとか」

「そうなれば、一番怪しいのは墨田ですね。研究には直接関係がないふりをして、実際は渡の成果をくすねていたんじゃないんですか? 墨田を絶対に聴取すべきです」

「うーん、それも生きていれば可能なんだけどね、和さん」

「……ってことは、墨田は既に死んでいるんですか?」

「そ。お亡くなりになっているよ。九年前の暮れ、隣県の青波県で起こった妖魔による一家惨殺事件。この時の被害者がいしゃの一人が墨田だよ!」

 ああ、あれですかという呟きが方々から聞こえてきた。この事件は当時、妖魔が民家を襲った稀な事例として、記憶に残っていた職員も多かったのだ。

 今から九年前の吉華十六年、年の瀬も押し迫った十二月の末。青波県下城郡(しもじょうぐん)菊川村で事件は起きた。夜の八時半頃、村の東地区にある民家の離れ屋で、その家の住民が無惨な姿で発見されたのだ。被害者は一家の四人――家主である墨田智明と息子夫婦、そして孫娘であった。

 死体は一滴の水分も残っていない、カラカラの干物状態。だが死体発見現場やその周辺からは、犯人の手掛かりとなるような物は何一つ――足跡や毛一本すら見付からなかった。このことから警察は妖魔の一種・幽鬼ゆうきの仕業であると断定した。幽鬼は外観が体毛のない骨と皮だけの人といった感じの妖魔で、大きさも人と大差ない。ランク5以上の個体は相手の体から全水分を抜き取る「脱水」と、体を数センチ宙に浮かせた状態で移動する「浮遊歩行」という特殊能力を持っている。これらの恐ろしい力と狡猾さが原因で徹底的に駆除された結果、今の和州ではかなり珍しい種となり、荒野や山林でたまに見かける程度だ。ただ菊川村は周囲を山に囲まれた静かな山村であり、事件当夜には妖魔警報が発令されていた。故に幽鬼が出現しても、それ程不自然なことではなかったのである。

 しかしこの事件、謎も残った。妖魔は滅多なことでは、人家へ侵入してまで人を襲うことはしない。妖魔には人間の気が強く籠もる場所を嫌い、その中には入りたがらないという特性があるからだ。せいぜい獲物や人を追いかけていた突撃獣が、勢い余って民家へ突っ込んだ……という事件が数件ある程度なのである。

 突撃獣のように癇癪持ちで力馬鹿な妖魔ならともかく、幽鬼は知能が極めて高いうえに用心深い。人里離れた場所で入念に罠を仕掛け、急襲することを好むのだ。稀に集落に出没することもあるが、そうした場合は巧妙な手口で人気のない所まで相手をおびき寄せる。わざわざ嫌悪感を抑えてまで民家の中の人間を襲うような真似はしないはずである。あの四面鬼ならば、その巨体や特殊能力を以て人家など木っ端微塵に出来るので、人の気など関係ないだろうが。

 この不可解な謎から犯人は幽鬼ではなく、幽鬼が素妖の折妖ではないか――という説も当初は浮上した。もしそうであれば、折妖に殺害命令を下した人物がいるはずだが、その目的が盗みでないことは一目瞭然だった。家の中は全く荒らされておらず、金品は愚か何一つ物はなくなっていなかったからだ。

 あと考えられる理由といえば、財産狙いか怨恨ぐらい。だが墨田家の財産は菊川村の自宅だけで、資産価値もたかがしれている。一家は当時、近所の者や親戚縁者との関係も良好で、トラブルは一切抱えていなかった。怨恨面で過去に智明が関わった事件が思い出されたが、報復を企てそうな者は当時から存在していない。墨田一家を殺す理由は何処にも見当たらないのだ。無差別殺人の線も薄く、折妖犯人説は消え去った――

「成程……。墨田が死んだのでは、渡の研究成果についての聴取は出来ませんね……。あ、でも!」

 何か重要なことを思い出したのか、井上は指先で眼鏡を押し上げた。

「家族の中で、一人だけ生き残った者がいたはずです。たしか墨田の孫で、この事件の第一発見者でもある、えーっとえーっと……」

「墨田仁だよ」

 記憶を引っ張り出そうと四苦八苦する井上を見かね、沢崎が口を挟んだ。

「この孫も気の毒なもんだよ。年末年始を実家で過ごそうと、大学の下宿先から帰省した途端、変わり果てた家族とご対面……なんだからね」

「孫の仁が、何か知っている可能性もあるんじゃないでしょうか? あるいは――」

 井上は言葉を切ったが、言わんとしていることは明白だった。渡の研究成果が墨田智明へ渡り、さらに孫の仁へ伝えられたのではないかと。

「とにかく、墨田智明について仁から聴取する必要はありそうだね。ただしこの聴取をやるのは、私もしくは和さんか彰さんじゃなきゃまずい。何てったって相手は――」

 沢崎は黄ばんだ歯を見せ、ニッと笑った。

「警視庁警備部警備課の警部補だからね。同等か上の者でないと、会ってもくれないよ」

「え、え……。墨田仁ってもしやあの……」

「そう、折士エスピーの墨田仁だよ。彰さん、同じ折士のよしみで、墨田警部補の聴取はあんたに頼もうか。ただし、くれぐれも失礼の無いようにね」

「わ、わかりました……」

 了解したものの、井上は冷汗をダラダラかいていた。同じ警部補でも井上は県警察署の係長、墨田は警視庁警備部所属のエスピー、格が違う。沢崎が釘を刺すのも当然なのだ。おまけに相手は十四段折士、和州の紙士の中でも指折りの実力者ときた。

「あと、重要なことを一つ。今回のすり替え事件、失踪者の安否が不明なこと、砂川さんの存在が犯人側に発覚すれば、彼女の身に危険が及ぶ可能性があることから、報道機関には非公開とする。わかったね!」

 沢崎の言葉に、はいと力強く返事をする一同。ただ一人、井上だけは目を伏せ、溜め息混じりの声を出したに過ぎなかったが。


「あー、美味かった。やっぱり真肉のカツ丼は最高だよな」

 米の一粒まで残さずカツ丼を平らげ、鳳太は応接用ソファーの上で満足げに膨れた腹を叩いた。九時前ようやく店屋物が届き、鳳太と凰香は遅めの夕食をとることが出来たのだ。が、昼抜きで空腹は限度を超えているはずなのに、凰香は何故か親子丼を半分も食べていない。

「どうした凰香、腹減っていないのか? いらないんなら、俺が食ってやるぞ」

「もうお兄ちゃんたら、意地汚いんだから。別にお腹が空いていない訳じゃないわよ。さっきの大家さんとの話が気になるの」

「西村の実家に電話が繋がらないって話か? 西村の奴、結構間抜けだったからな。実家の電話番号、大家さんに間違えて教えたんじゃないか? それに大家さんが電報打ってくれたって言うんなら、大丈夫だって」

「違うの。私が気にしているのは、西村さんのことじゃない。大家さんのことよ」

「え、大家さん? 大家さんがどうかしたって?」

 きょとんとする兄をじっと見詰めながら、凰香は丼をテーブルの上に置いた。

「大家さん、西村さんのこと、物凄く心配していたわ。私達も明日は戻るのかって、何度も訊いていたし。西村さんにも私達にも、早く帰って来て欲しいって感じだったの」

「へー意外だな、あの婆さん。気丈夫そうなくせに」

「きっと独りじゃ寂しいのよ。四頭鬼町に来る前、お祖母ちゃんが言っていたじゃない。大家さんは気の毒な人だって。初恋の人と添い遂げられず、その後資産家の人と見合結婚したけど子宝にも恵まれず、十五年前に旦那さんにも先立たれて、以来ずっと独りぼっち。アパートを建てたのも、人を近くに置いて寂しさを紛らわすためだって聞いたわ。旦那さんの遺産があるから、暮らしには困っていないらしいけど……」

「そう言えば天目荘がある区画、四頭鬼一丁目十九番地は昔、大家さんの旦那がまるまる所有していて、でっかい家が建っていたって話だな」

「でもその家も取り壊して土地も殆ど売ったから、今は天目荘とその敷地しか手元に残っていないって。老人が一人暮らすにはそれで十分だって、大家さんも言っていたわ」

「あーあ、土地持ちはいいよな。悠々自適で」

「お兄ちゃん! 少しは大家さんの気持ちも察してあげたらどうなのよ! もういいわ。これあげるから黙っていて頂戴!」

 凰香は自分の丼を鳳太の方へ突き出すと、そっぽを向いた。そこへ大木が呆れ顔でフラフラと事務所へ入ってきた。

「おい、事務所の外まで怒鳴り声、聞こえるぞ。また兄妹喧嘩か。本当に仲がいいんだな」

「別に喧嘩していた訳じゃありません。大木さん、会議は終わったんですか?」

 大木に質問する傍ら、凰香は兄へ冷たい一瞥をくれた。自分が食べ残した親子丼を、鳳太が夢中になって頬張っていたからだ。凰香は呆れて開いた口が塞がらなかった。

「いや、まだだ。警報発令の影響でみんなバテ気味だから、少し休憩をとろうってことになってな。課長もこれ以上ヤニ切れ状態が続くと、やばいってこともあるが。あ、あとお前等、捜査にある程度めどがつくまで、家に帰るなよ。犯人にお前等のことがばれたら面倒なことになるか……おら砂川! 飯食ってばっかりいないで人の話、聞け!」

 大木に雷を落とされ、鳳太はやっとのことで箸を置いた。恥ずかしさのあまり凰香はその場から逃げ出したくなったが、何とか踏みとどまった。

「でも急にそんなこと言われても……。それに私、さっき大家さんに電話した時、明日帰るって伝えてしまったんです」

「なら今日はもう遅いから、明日にでも電話してその旨説明すればいいだろう。それともお嬢さん、家に急いで帰りたい理由でもあるのか?」

「いいえ。貴重品は全て持ち出していますし、冷蔵庫も空っぽだから……。ただ着替えがありませんし、帰宅出来ない間、私達何処に寝泊まりすればいいんですか?」

「それなら心配無用。課長が面倒見てくれるってことだ」

 沢崎は七釜戸署から徒歩圏内にある県の職員住宅に一人で住んでおり、そこに二人を泊まらせるという。つまり鳳太と凰香は、沢崎と一緒に彼女の自宅と警察署を往復することになるのである。

「課長の家はヤニ臭いぞー。覚悟しておけよ」

「そりゃ参ったなあ。大木さんの家に俺達を泊めてはくれないんですか?」

「俺が住んでいる職員住宅は、宝林町にあるからな。電車を使わなきゃ行けないから、遅くなったら無理だろう。それに妹の方ならともかく、お前は絶対に駄目だ」

「どうして凰香はよくて、俺は駄目なんです?」

 相手の何か言いたげな態度にカチンと来た鳳太は、険しい表情で大木に詰め寄った。ところが大木が返答する前に、凰香が口を出した。

「お兄ちゃん、本当に鈍いわねー。大木さんには高校生のお嬢さんがいるのよ。なのに得体も知れぬ男の人を、自宅に連れて帰ると思う?」

「……凰香。俺が何か不埒な真似でもすると言うのか?」

「あーら、わからないわよ。お兄ちゃん、可愛い子見るとすーぐでれっとするから」

「こ……こいつーっ!」

 頭に血が上り、平手を振り上げる鳳太。凰香も負けじと出前屋の盆を掴み、臨戦体勢へ入る。

「こら止めろ、この馬鹿が! 女に手を上げるなって言っているだろう!」

 怒号と共に大木の拳が顔面に炸裂し、鳳太はソファーの上にひっくり返ってしまった。


 一夜明けた五月六日。前夜を沢崎の自宅で過ごした鳳太と凰香は、この日の朝、再び妖魔課へやって来た。しかしやることもなく、ソファーに座ってぼんやりと時間を潰すだけ。鳳太は頬をさすりながら、自席で捜査書類に目を通している大木に不満をぶつけた。

「大木さん、少しは手加減して下さいよ。おかげで腫れ、まだ少し残っているんです」

「お前が馬鹿だからだ。俺は女房や娘に手を上げたことは一度たりともないぞ」

「俺だって他の女には絶対に手を上げませんよ。俺達双子ですから、お互いに遠慮しないんです。凰香とはガキの頃から、あれぐらい派手に喧嘩していました。ただし、拳で殴ったことはありません。喧嘩する時はいつも平手、しかもちゃんと手加減しています」

 その凰香は今は不在の井上の席で、電話の受話器を手に頭を下げている。時刻は十一時半、西村の件で訪れていた捜査員が天目荘より引き上げた頃を見計らい、暮里へ連絡を入れたのだ。

「ご免なさい、大家さん。暫くそちらへ帰れなくなりました。え? どうして天目荘に帰れないかですって? それは――」

 凰香ははっとなった。沢崎が煙草を手にしたまま、人差指を口先へ当てている。黙っていろというのだ。

「それが訳ありで……。戻るまで何処にいるのかって?  ちょっとそれも……。とにかく心配ありませんから。いつ帰ってくるかと言われても……。あ、でも今日の夕方までに一度着替えを取りに戻りますから、その時に顔を見せますね。失礼します」

 電話を切った凰香がフーッと溜息をつくと、沢崎は一服吸った後申し訳なさそうに言った。

「大家さんを信用していない訳じゃないけど、あんた達の情報、何処から漏れるかわからないからね。念には念を、だ。悪いね」

「はい課長さん、わかっています」

 凰香がそう答えた時、外へ調査に出ていた中堅係員が一人、事務所へ帰ってきた。凰香が兄のいるソファーへ戻るのとほぼ同時に、係員は課長席の前でぴたっと止まり、沢崎へ一回頭を下げた。

「課長、杉野議員から聴取がとれました。ただし本人からではなく、秘書からですが」

「御苦労さん。で、例の議案を議会に提出した理由についてはわかったのかい?」

「はい。秘書が言うには、やはり杉野元市長の遺志を継ぐためだとか……。杉野議員も市議に当選する前から、心中この案件をずっと温めていたようです。ただ――」

「ただ? 何かあった?」

 すると係員は懐から手帳を取り出し、軽く咳払いをした。

「杉野議員の支持者の中に、格別この議案提出を推す人物がいたそうです。その人物の名は秋野満あきのみつる、四頭鬼町在住の五十二歳の男です」

「そう、か……。臭いね、その秋野って男。その男の住所や連絡先は押さえている?」

「はい、こちらの方に」

 係員から手帳を受け取ったところで課長席の電話がけたたましい音をたてて鳴り、沢崎は煙草を灰皿へ置いて受話器へ飛びついた。

「はい、もしもし……。ほいほい、御苦労さん。西村大輔のこと、調べはついた? そうかいそうかい、髪の毛も採取出来たんだね。……え、何? そりゃ本当か?」

 何かあったのか、途中から沢崎の口調が一変、重々しくなった。

「わかった。それじゃその件は引続き調査するように。ところで今、四頭鬼町にいるのかい? そうなら別件で調べて欲しいことがあるんだ。秋野満という人物についてだ。秋野の自宅は四頭鬼一丁目十九番十四号。電話番号は……」

 沢崎が口にした住所を聞いて兄妹は一瞬耳を疑った。自宅ーー天目荘と同じ番地だったからだ。

「お兄ちゃん。秋野さんって、斜め隣りのあの秋野さんじゃないの?」

「お前が昨日、演奏会のことで怒鳴り込もうとしたな。あそこがどうかしたって?」

 沢崎も百戦錬磨の警察官、耳聡い。この二人の会話、電話中でもしっかり耳には届いていたようで、受話器を置くや尋ねてきた。

「あんた達。この秋野って人、近所の人みたいだけど、どんな人?」

「それが……。うちの近所じゃ偏屈者で有名な人ですよ。なあ、凰香」

 鳳太が問いかけると、凰香は口をへの字に曲げた。

「はい。そこの家、家族揃って無愛想なんです。特に奥さん、デブで物凄く感じ悪いし」

「砂川さん、家族構成はわかる?」

「わかります。旦那さん、奥さん、息子さん、それに奥さんの弟さんも一緒に住んでいるって話です。旦那さんと奥さんの弟さんが、個人タクシーの御者やっているとか」

「成程。で、市議の後援会に入って、積極的に活動しているって話は聞いたことがある?」

「さあ……。そこまではわかりません」

「そう。有り難うね。ところでお二人さん。西村大輔についてなんだけど」

 残り僅かになった煙草をすぱすぱ吸いながら、沢崎は渋い表情を見せた。

「今、うちの職員から電話があってね。こう言うんだよ。七釜戸大学には西村大輔なる学生は在籍していないってね。大学まで足を運んで確認とったから、間違いはないよ」

「え……馬鹿な。だって俺達、大家さんや西村さん本人から聞いたんですよ。二浪して七釜戸大の国文に入ったって。大学にも毎日、きちんと通っているみたいだったし……」

「それじゃ砂川君、訊くけどね。七釜戸大生であることが証明出来るような物、例えば学生証なんか見せてもらったことはある?」

「それは……」

「だろうね。うちの若いもんが西村の部屋に入って調べてみたんだけど、国文学科の学生らしき持物――それ関係の教科書やらノートやらは一切見付からなかったってさ。更におかしいのは、西村の実家に連絡がつかないってことだ。実家に電話も繋がらない、電報も届かないときた。こりゃ怪しいね」

「……」

「つまり西村は自分の身元を偽っていたんだ。これが行方不明になったことと何か関係があるんじゃないかい?」

 鳳太も凰香も何一つ反論出来なかった。一体何故西村は自分達や暮里を欺いて、七釜戸大学生を名乗っていたのか。大学生でなければ、西村は何者なのか……。これらの謎を解かなければ西村の行方――いや、この事件の謎は解けないと痛感した二人であった。


「いや、申し訳ありません。お休みのところをお邪魔しまして」

 頭を垂れると、眼鏡の男は目の前に立つ人物へ名刺を差し出した。その名刺には『如月県警察七釜戸警察署 妖魔課折士係長 警部補 四段折士 井上彰彦』とある。

 この眼鏡の男――井上は五月六日午後二時過ぎ、首都・州都市の一等地にある、県の職員住宅の一室を訪れていた。対妖魔エスピーの墨田仁の自宅をアポなしで。

 取っ組み合いをしたら絶対に勝てないな――これが墨田に対する、井上の第一印象だった。相手は華奢な井上とは実に対照的な、身長百八十センチを超える大男。ワイシャツの上から見てもわかるほど筋骨逞しく、肩もがっしりしていて腕など丸太のようだ。だがエスピーである彼は、この体格で素早い身のこなしが出来るのだから大したものである。

 名刺を渡したものの、墨田はこれといった反応を見せない。警察官を名乗る見知らぬ人物が訪ねてきたので、警戒しているのだろう。ここは自分の身分が証明出来るものを、ずばっと見せた方がいい――そう判断した井上は警察手帳を取り出した。

「如月県警の井上警部補ですか。失礼しました。私に何かご用ですか?」

 井上の作戦は功を奏し、墨田は僅かに相好を崩した。ホッと胸を撫で下ろす井上。

「はい。少々伺いたいことがありまして……」

「そうですか。ではここでは何ですので、どうぞお上がり下さい」

「よろしいのですか、墨田警部補。中にお邪魔しても……」

「どうぞ。この土日――六日と七日は非番ですので」

 自分を室内へ招き入れようとする墨田を見て、井上は面食らった。警視庁のエスピーというのでもっと高慢な人物かと思いきや、いや何の何の、予想以上に丁寧な男である。だがよく考えてみれば、墨田も井上と同じ県警察採用のノンキャリア組。墨田は大卒なので高卒の井上より早く昇進しているものの、その点を良く心得ているのだろう。

 職員住宅の間取りは三DKで、独身の墨田が一人で住むには広すぎるはず。だが掃除は行き届き、中のインテリアも充実していた。井上が通された部屋には絨毯が敷かれ、応接セットにリビングボード、最新型のカラーテレビが置いてある。畳の上にちゃぶ台とおんぼろの白黒テレビしかない、井上の自宅とは雲泥の差だった。

「ここで暫くお待ち下さい。コーヒーをお持ちします」

 井上がソファーに座ったところで、墨田は台所へ消えた。僕のうちだったらコーヒーじゃなくて、玄米茶だよな――と井上は苦笑したが、ふと横のリビングボードの上に目が行った。しゃれた置物に混ざって、小さな額に入った写真が飾られていたのだ。一目で家族旅行の写真だとわかるものだった。

 何処かの山にでも行った時のものだろうか。バックに木々が生い茂る峰と空、白い雲が見える。写真に写っている登山服姿の人物は全部で五人だ。向かって一番右にいるのが、墨田本人。ただし今よりも少し若く、二十代前半といったところか。更に墨田の横に中年の男女、高校生ぐらいの若い娘が並び、左端には老人がいる。

 ――これは墨田警部補の家族……。ということは、この老人が墨田智明か……。

 井上は身を乗りだし、写真の老人へ視線を注いだ。他の四人が満面の笑みを浮かべているのに対し、この老人の笑顔だけはどこか寂しげなものを感じさせる。

 が、台所から足音が近付いてくることに井上は気付き、慌てて姿勢を正した。そこへ盆を持った墨田がタッチの差で現れた。

「お待たせしました。井上警部補、それで私に訊きたいこととは?」

 コーヒーカップを卓上に置き、井上の正面に腰を落ち着けると、墨田は尋ねてきた。相手に敵意はないとわかっていても、井上は直ぐに話を切り出せない。軽く咳払いをしてから、ゆっくりと語り始めた。

「どうかお気を悪くしないで下さい。お訊きしたいこととは、智明氏のことなのです」

「祖父のことと言いますと……?」

「報道機関に公開していないので、詳細は申し上げられませんが……。実は当管内で、智明氏が過去に関わった事件と繋がりがあると思われる事件が起こったのです」

「その祖父が関わった事件とは、九年前に私の実家で起こったあの事件ですか!」

 墨田は雷鳴が如く叫んで立ち上がり、殺気立った眼を井上へ向けた。そのあまりの迫力に井上は息を呑んだが、相手を落ち着かせようと一呼吸置いてから答えた。

「いえ、違います。五十年前に村雨市で起こった事件です」

「……そうですか」

 墨田はまるで草が萎れるように、椅子の上に崩れ落ちた。相手の酷い落胆ぶりを目の当たりにして、井上は直感した。墨田の家族を殺した妖魔は未だ見付かっていないのだと。墨田は家族の仇をとっていないのだと。

 妖魔が起こした事件は犯人の逮捕(捕獲)が難しい。妖魔は不可視状態でいることが多く、加えて人とは頻繁に接触しないので、目撃情報がなかなか得られないこと。体色以外の個体差が乏しく、犯人妖魔の特定がしにくいこと。人を襲った妖魔はその場所から即座に姿を消し、時には外国まで高飛びしてしまうこと――というような理由があるためだ。そのため犯人が妖魔であるとわかった時点で、捜査を断念するケースも少なくないのである。

 気まずい雰囲気の中、井上はどう声をかけて良いのかわからず、黙り込んだ。だが墨田はエスピー。気持ちの切り替えも早かった。

「……見苦しいところをお見せして、大変失礼しました。それで井上警部補が言う、五十年前の事件というのは、祖父が折妖人間の製造に関わった件でしょうか?  あの事件で祖父の名は、報道機関には公表されなかったと聞いていますが」

「あ、はい……。村雨署から当時の捜査資料を取り寄せまして。それでその……ですね。何かその事件のことで御存じのことがありましたら……と」

「残念ですが、私も詳しくは知らないのです。祖父に前科があったことを私が初めて知ったのは、家族の葬儀の時です。九年前の事件を担当した警察官から聞きました」

「しかし何故? 智明氏は墨田警部補に事件について話されなかったのですか?」

「その通りです。私や妹には愚か、父にも一切話さなかったようです。父は当時は三、四歳の子供でしたから、事件のことは全く覚えていませんでした」

 ここで墨田はカップを無造作に掴み、まだ湯気を立てているコーヒーを一気に飲み干した。渇ききった喉を――いや、心を潤すように。

「祖父が若い頃折士だったことは、幼少時からそれとなく知っていました。でも祖父は何一つ教えてくれなかった。祖父はその事実に触れられるのを、酷く嫌っていたのです」

「やはり智明氏は、違法行為に手を貸したことを悔やまれていたのでしょうか?」

「それも勿論ありますが、友人を裏切ったことに対する罪悪感の方が、遙かに強かったのだと思います。そう、あれは私が確か小学校二年生の時――」

 二十年以上前のある日、当時八歳だった墨田が自宅の離れ屋を覗くと、智明が横になって昼寝をしていた。ところが様子がおかしい。苦悶の表情を浮かべ、全身汗まみれで唸っていたのだ。「ゆ……許せ、十郎。許してくれ……!」と呟きながら。

 驚いた墨田が身体を揺すると、智明は直ぐに目を覚まし、作り笑いを見せた。が、墨田が「どうしたの? 十郎って誰?」といくら尋ねても、智明は「何でもない」と答えるだけであった……。

「祖父が犯した事件について聞いた時、私はこの答えを知りました。そして何故祖父母が、如月県から菊川村へやって来たのかも。名こそ公表されなかったものの、周囲の冷たい視線に耐えられなかったのでしょう。事件以後、祖父母は如月県にいられなくなり、祖母の実家を頼って逃げるように青波県へやって来たのです」

「そうですか。ではもう一つお尋ねしますが」

 相手を怒らせないためにも、露骨な質問はぶつけられない。井上は慎重に言葉を選ばなければならなかった。

「智明氏の遺品の中に、五十年前の事件に関係あるような物はありませんでしたか?」

「いいえ。遺品の整理の時には、その様な物は一切出てきませんでした。祖父は折士であった過去を消し去ろうとしていた。故にそれに関わる物も全て事件直後に処分したのでしょう。井上警部補、祖父は実直な人物でした。その事件については当時、全てを警察に話したはずです。もう一度捜査資料を確認された方がよろしいかと思います」

 やんわりと断りを入れられ、井上は覚った。これ以上の深入りは無用だと。

「わかりました。では、この辺で失礼させて頂きます。どうも有り難うございました」

 井上はそそくさと墨田の家から立ち去った。結局、肝心な部分には踏み込めず、これと言った情報は得られなかったが、別段気落ちもしていない。長年の経験と捜査で培ってきたカンからある確信を得ていたのだ。


 井上がいなくなり、後片付けを済ませた墨田は、リビングボード上の写真――井上が見ていたあの写真を手に取った。九年前の八月。大学四年の夏休みに家族揃って北和州のとある山へ登山に出かけ、撮った最後の家族写真。写真を撮る直前の――峠へ差し掛かった時の家族の声が、墨田の脳裏に鮮やかに蘇った。

 ――うわぁ、綺麗! みんな、早く来て。ほら、ここ凄くいい眺めだよ。ここで写真撮ろうよ。

 ――こら、礼子! 祖父さんのことも考えろ。もっとゆっくり歩きなさい。

 ――そうよ、お父さんの言う通りよ。あんたは本当にせっかちなんだから。

 ――ハハハ、儂は大丈夫だよ。まだまだ若いもんには負けん。

 燃えるような山々の緑と、澄み切った青空に流れる白い雲。そんな美しい山岳の景色をバックに家族四人が並ぶ。カメラを三脚にセットしてレンズを覗き込む墨田。ピント調整を終えてセルフタイマーをかけると、墨田も急いで家族の列へ加わった。数秒後、カシャッというシャッター音がしてーー

 そんな幸せ一杯の思い出の後に浮かんできたのは、悪夢のような光景だった。真冬の寒々とした離れ屋。薄暗い玄関とその先の廊下に転がる干涸らびた物体――

「……仕事だ!」

 頭を一回大きく振って写真を戻すと、墨田は電話の受話器をとった。だがダイヤルするも、聞こえてくるのは呼び出し音ばかり。相手が出る気配はない。

「昨夜も出なかった……。どうしたんだ……。俺を避けているのか……」

 受話器を置き、墨田は応接テーブルに俯した。あの時のことが思い出される。五ヶ月前に起こったある出来ことが。

 昨年の十二月初旬、墨田は突如警視総監・梶原雅人かじわらまさとより直々に呼び出しを受けた。この時墨田は青波県警察より警視庁警備部にスカウトされ、僅か一月。緊張した面持ちで一人警視総監執務室へ入り、椅子にもたれ掛かる梶原へ敬礼した。

 ――墨田警部補、警視庁ここに赴任して間もないのに、急に呼び出してすまなかったな。

 ――お心遣い、畏れ入ります。ところで、ご用件は何でしょうか?

 ――うむ、そのことなんだが……。

 椅子から腰を上げると、梶原は眼鏡の向こう側から鋭い眼光を放った。

 ――墨田警部補、三木塚朋子みきづかともこという女性を知っているかね?

 ――いえ、存じません。

 ――そうか。では、須藤すどう朋子は?

 ――はい、彼女でしたら。中学時代の後輩ですが……何か?

 ――三木塚朋子と須藤朋子は同一人物なんだよ。

 ――成程。彼女も結婚して改姓しましたか。

 ――いや、そう言う訳ではない……。

 梶原はつかつかと歩み寄り、一枚の書類を墨田に差し出した。墨田を愕然とするばかりであった。ただの書類ではなかったのだ。

 ――こ、これは命令書……? 一体自分に何を――

 ――内容はこうだ。三木塚朋子に近付き、「あること」を聞き出すこと。方法は君に任せる。いいな、これは上部からの命令だ。この任務、期限についてはあまりうるさく言うつもりはないが、「あの方」の任期中に必ずや達成させるのだ。心してかかりたまえ。

 上部からの命令は絶対、拒否する事など出来るはずもない。命令書を受け取り、墨田は黙って執務室を後にするしかなかった……。

「今夜もう一度連絡を取って、出なければこちらから出向いて行くかしかあるまい。だが命令とはいえ、俺は一体何をやっているんだ……!」

 墨田は自棄になったように、リビングボードからウイスキーボトルを引き出した。酒の力を借りなければ、この苦しい思いを消すことは出来なかったのである。


 午後三時、妖魔課は毎日恒例の「お茶タイム」を迎えていた。事務所内の職員が一斉に手を休め、全員で十五分ばかり休憩をとるという「習わし」があったのだ。

 鳳太も大木とならんで、ソファーに座って茶をすすっていた。しかし凰香の姿はない。実は先程、凰香は七釜戸署を出て天目荘へ向かったのだ。自分と兄の分の着替えを取りに行くために。

「おい砂川、いいのか? 彼女を戻らせて」

「大木さん、俺だって言いましたよ。俺が行くから、お前は残れって。でもあいつがそれを嫌がったんです。仕方がないじゃないですか」

 確かに鳳太は当初、自分が自宅へ戻ると主張した。だが凰香は兄の提案を激しく拒絶。眉間に青筋を立てて顔をよせると、ぞっとするような声で囁いたのだ。

 ――お兄ちゃん。私の部屋に入って、私の着る物まで持ってくる気?

 後から妹の細い指が喉にかかるのを感じ、鳳太は首を横へ振らざるを得なかった。上に着る物はともかく、下着に触れようものなら――というわけだ。これでもまだ「俺が行く」などと言おうものなら、本気で首を絞められてしまう。

 無論、二人一緒に帰ることも検討したが、予定ではタクシーで七釜戸署と天目荘を往復することになっている。これなら荷物が沢山あっても大丈夫だし、交通量の多い道路を通るので安全も確保される。それに今朝の妖魔出没予報では、七釜戸市内には妖魔注意報すら発令されていなかった。二人で行く必要はないのである。タクシーは小型車を利用する予定なので、荷物がある状態で二人で乗車すると、窮屈になってしまうこともあるが。

「砂川。タクシー代、今回も俺が自腹切っているんだからな。感謝しろよ」

「勿論ですよ、大木さん。ところで、今夜は何をおごってくれるんですか? 俺、寿司が食いたいんですけど」

「ちっ、勝手にしろ」

 ふてくされる大木の横で、鳳太は課長席の沢崎へ目をやった。実は「お茶タイム」が始まる直前、妖魔局から午前中に問い合わせた件の回答があった。眼毛玉の妖紙のことだ。結果は「眼毛玉の妖紙の輸入申請は現時点では一件も実績がない」だった。だがその回答を聞いても、沢崎は「あー、やっぱり密輸だったねー」と、あっけらかんとしていた。これで犯人へ近付けるとは、端から期待していなかったのである。

 と……いうわけで、沢崎も気にとめることもなく寿司湯呑みの茶をガバガバ飲んでいた。そんな彼女の姿を見て、鳳太はふと昨夜訊けなかったあることを思い出した。

「大木さん。昨日課長さんが西村の妖紙から取り出した物、何だったんですか?」

「ああ、あれか。人間の髪の毛だとよ。恐らく西村本人のだ」

 いともあっさり大木は答えたが、鳳太は口に含んでいた茶を危うく吹き出しそうになった。

「ちょ……ちょっと待って下さいよ。人の髪の毛を妖紙に織り込むなんて。そんな事出来るはずが……」

「それが出来る奴がいるから問題なんだろうが。昔それを可能にする一歩手前までやった奴がいてな。そいつが起こした事件と関係があるんじゃないかって、課長は睨んでいるんだよ」

「それじゃあ課長さんが他の署から持ってこさせた資料って……」

「そ。その捜査資料だ。村雨署の鶴岡課長に頼んで借りてきたんだよ」

 大木の話をきいて鳳太は黙り込んでしまった。わかったのだ。何故あれほどまでに西村に酷似した、出来のいい折妖が作り出せたかを。そして周妖光が凰香にしか見えないかを。凰香も折妖西村の周妖光が「他の折妖に比べて弱いような感じがした」と言っていた。恐らくこれは髪の毛混入の影響ではないか。人由来の物が妖魔特有の「気」を弱め、並の妖視能力者では感知できなくなっているのではないか……と。

 難しい顔をして考え込む鳳太が物珍しく見えたのだろう。不意に大木がその頬を小突いた。

「おい、どうした? 何を考えている?」

「いや別に……。不可能を可能に出来る奴がいるなんて……」

「そうか。そう言えば不可能を可能……で思い出したが、お前、九級のくせによく13レベルの折妖を折解き出来たな。せめてその種明かしぐらいしてもバチは当たらんだろう?」

「ああ、その事ですか。俺は気合いだって言ったんですけど」

 鳳太は自分のリュックサックから妖紙筒を取り出し、金色の妖紙を大木に見せた。

「妹はどうもこれが怪しいんじゃないかって、睨んでいるみたいです」

「ほー、随分とゴージャスな妖紙を持っているな。何処で手に入れた?」

「四頭鬼町内ですよ。銭湯の前にいた尾長鼠を俺が見付けて、妹が漉いたんです」

「尾長鼠が素妖なのか。妙だな。奴等は高ランクでも、大した特殊能力を持っていなかったはずだが。それにその妖紙、鑑定済印がついていないな。まだ鑑定していないのか?」

「多々良妖紙に持ってはいきましたよ。でもそこの染士の爺さんが、鑑定不能だって惚けたことぬかすんです。五段染士のくせに」

「なら、うちの課長に鑑定頼んだらどうだ? 課長は七段染士だ」

 その手があったかと、鳳太は目を輝かせた。沢崎は妖紙鑑定士の資格を取得していないので、妖紙に鑑定済印を押すことも、鑑定証を出すことも出来ない。それでも七段の役職警察官のお墨付きをもらえれば、心強いというものだ。

 ところが鳳太が鑑定を願い出ようとしたその時、一人の若手係員が息を切らして事務所へ駆け込み、沢崎の前で急停止した。

「ゼエゼエ……。か、課長。只今戻りました」

「御苦労さん。渡十郎のこと、何かわかったかい?」

「は……それが。何しろもう五十年も前のことですので、関係者も多くは死亡しておりまして。渡が育った児童福祉施設も三十年以上前に閉鎖され、国立妖紙研究所も当時の関係書類は残っていないとのことでした」

「何だ、それじゃ何もわからないのと同じじゃない。今まで何処ほっつき歩いていた!」

 カッとなった沢崎は、書類の束で部下の頭をパチーンとはたいた。されど係員はめげず、捜査メモを広げたまま不動の姿勢をとっている。

「あの課長……。報告はまだ終わっていません。実は鹿出町の住民から、ある興味深い情報を得たんです」

 その「興味深い情報」を提供したのは、かつて渡の斜め向かいに住んでいた七十代の男だった。彼が言うには渡が逮捕された翌年の春、空き家になった渡の家の扉を必死の形相で叩いている若い女を見かけ、何事かと思い声をかけたという。

 ――お嬢さん。その家は空き家だよ。今は誰も住んじゃいないよ。

 ――え……。それじゃこの家に住んでいらした、渡十郎さんは今どちらに?

 ――あんた、渡さんがどうなったのか、知らないのか?

 相手が何も知らないようなので、男は事情を説明した。近所の住民ということもあり、男は渡の件で警察に色々と捜査協力をしていたので、大まかな事件の経過を知っていたのだ。しかし渡が禁を犯して逮捕され、その後拘置所内で死亡したと聞くや女はわっと泣き崩れ、慰めようとする男を振りきって走り去ってしまったのだ。

「それでその女の名前は? 年齢は? 身元は? 容姿は?」

「それが二十歳ぐらいだということ以外、情報提供者もわからないということで……」

「馬鹿っ! 何でもっと詳しく調べてこなかった!」

 壁にひびが入らんばかりの怒声に、事務所は水を打ったように静まりかえった。鳳太も大木も、湯飲みに口を付けたままの状態で固まってしまったほどだ。

「その女、臭いんだよ! プンプン臭うんだよ!  よーく考えてみな。渡は孤児で、身内はいなかった。って事はその女、渡とは血の繋がりはないはず。にも拘わらず、渡の死を知って人前で号泣するなんて、よっぽどのことだ。渡にただならぬ感情を抱いていたんだよ、その女は! ならば渡の方も憎からずってことは、十分にあるだろう!」

 机をバンバン叩いてまくし立てる沢崎を前にして、係員は縮こまるばかり。「わかるまで戻ってくるな!」との怒声に追い立てられ、事務所から飛び出して行った。

 係員がいなくなっても沢崎はムスッとした表情のまま、ブカブカ煙草を吹かしている。大木は肩をすくめた。

「あーあ、久し振りに怪獣サワゴンが火を吹いたな。くわばらくわばら。砂川、課長に鑑定を依頼するのは後にしろ。少し冷却時間をおいた方がいい」

 されど鳳太には、大木の囁きが全く耳へ入っていないようだ。魂が抜けたかのように瞬きもせず、呆然としている。

「砂川、どうした? 課長の怒鳴り声にびびったか?」

 大木が鳳太の顔の前で掌を左右に振ってみても、瞳は真正面に据えられたまま。大木に指先で額を弾かれ、鳳太はようやく一言発した。

「今、聞こえたんです……」

「聞こえたって、何が?」

「凰香の声です……」

 放心状態から抜け出せぬまま、鳳太はよたよたと立ち上がり、叫んだ。

「凰香が俺に助けを求める声が、聞こえたんです! 『お兄ちゃん、助けてーっ』っていう声が確かに……!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ