第3話 鬼の首塚
「……ったく、金もないのにタクシーなんか使いやがって」
七釜戸署・二階の妖魔課事務所。今にも垂れ下がってきそうな瞼を擦ると、漉士係長・大木は応対カウンター越しに鳳太の頭を小突いた。
「これでお前の言う『重大事件』とやらが大したことなかったら、ただじゃおかないぞ。俺は一昨日から殆ど寝ていない。眠くて気が立っているんだからな」
「大木さん、タクシー代ごっつぁんです。でも冗談抜きでとんでもない事件なんですよ」
ざまあみろと心中舌を出しつつも、そんなことはおくびにも出さず、鳳太は問題の物――黒い妖紙をカウンターの上へ広げた。
「これを見て下さい。こいつが隣人の西村って人に化けていたんです。つまりこいつは折妖人間だったんです。折妖だってばれた途端、妹に襲いかかって……」
しかし鳳太が息つく間も惜しんで熱心に語っても、大木は退屈そうに頬杖をつくだけ。一通り話し終えるや、鳳太はずいと顔を突き出した。
「……大木さん。俺の話、聞いています?」
「はいはい、ちゃんと聞いていますよ」
二、三回頷き、大木はチッと舌を打った。
「お前の話、どうも胡散臭いな。妹に周妖光が見えて兄には見えないっていうのもそうだし、本当にお前が折解きをしたのか?」
「しましたよ! だから妖紙になっているんじゃないですか!」
「あのなー。こんな真っ黒い妖紙で人間折ったら、それこそ炭人形みたいな奇怪な代物が出来るぞ。ダッコちゃんじゃないんだからな。それにこれじゃ、絶対に特定の人間のそっくりさんなんか作れないんだ」
「……もしかして大木さん、そのそっくりさんの作り方、知っているんですか?」
「まあな。俺も長いこと、こんな仕事をしているからな」
大木曰く、「そっくりさん」折妖人間の作製には、純白の妖紙を用いるという。これに似せたい人物の全身写真を転写、人の形に折って覚醒させればいいのだ。ただこの転写は熟練を要する闇技術、習得しているのは一部の「もぐり染士」だけとのことであった。
「黒い妖紙じゃ写真を転写しようにも像が写らないだろう。わかったか」
「それはよくわかりましたよ。じゃあ、妹の首の痣はどう説明するんです?」
「お前が悪ふざけしてやったんじゃないか? 心配するな。たとえそうだとしても傷害罪ではなく、兄妹喧嘩として処理してやる」
「この……!」
いらぬ嫌疑をかけられ、鳳太は目を剥いた。もし凰香が咄嗟に腕を押さえていなければ、その拳は確実に大木の顔面を捉えていただろう。
「ちょっと和さん!」
突然聞こえてきた「どら猫を追い立てるおばちゃん」風の声に、だれていた大木はバネ仕掛けの人形の如く跳ね起き、起立姿勢をとった。
「何若い子からかっているの! 大人げないよ!」
「は……はい。す、すいません」
大木は百八十度回転し、最敬礼したものの、まるで様になっていない。緊張のあまり、全身がかちこちに固まってしまっている。
大木をこれ程までに畏怖させる人物は、事務所の一番奥の席で煙草を噴かしていた。くゆらせるなどという上品な吸い方ではない。口から鼻からそれこそ怪獣のように、ぶわーっと煙を辺り一面に撒き散らしているのだ――酸いも甘いも噛み分けたはずの五十代とおぼしきの女が。
「和さん、あんたその子の話す態度、見ていなかったのかい? 嘘を吐いてるようには見えなかったじゃないさ。何年警察官やっているんだい!」
「は、はあ……」
「ま、ここのところの連続勤務で、疲れているのはわかっているけどさ。とにかく、その妖紙見せてくれる? 今そっちに行くから」
女は煙草を灰皿へねじ込むと、席を離れた。着席時には目立たなかったが、その恰幅の良さたるや男顔負け。背丈も百七十センチくらいありそうだ。怒り肩を揺らし、のっしのっしと歩み寄る様は、マンモスといったところか。勿論、この間大木は直立姿勢のままである。
もっとも圧倒的な迫力に押されたのは、大木だけではなかった。カウンター越しに女と対面した兄妹も、腰が引けてしまったのだ。のし掛かってくる威圧感は、半端なものではない。鳳太は生唾を呑み込むと、大木の腕をつついた。
「あの……誰ですか、この女」
「……妖魔課の課長だ」
大木が引きつった声で答えた直後、辺りを漂う緊張感がスーッと消え失せた。
「染士係長兼任だけどね。七釜戸署妖魔課課長の沢崎喜代美、七段染士だよ」
女――沢崎は相好を崩した。ヤニで黄ばんだ歯が気になりはしたが、朗らかな笑顔だ。大木の時とは打って変わった態度に戸惑いつつも、兄妹は会釈をした。
「二人共悪かったね。全く、和さんもあんた達くらいの歳の子の父親のくせに、馬鹿なことしてさ。ま、つまらない話はここまでにして、まずはこれを見てみようか」
沢崎は黒い妖紙を手に取り、早速鑑定を開始した。透かし、撫で、細かい繊維に至るまでじっくりと見る。手際の良さはあの櫛山に勝るとも劣らない。流石は七段染士だけのことはある。
「この妖紙のレベルは9、素妖はランク3の八目竜、サイズは十七ってところだね」
沢崎が出した鑑定結果を聞き、凰香は疑問を覚えた。ランク3以上の八目竜は念術という特殊能力を持っているので、折妖西村がこれを使えた点については問題ない。納得いかないのはレベルだ。9レベルの折妖など鳳太が折解き出来るはずもない。
「あれま、これ染直しをしているね。元の色は青なのに。でも何でわざわざ黒なんかに……。ん……?」
妖紙の上を滑っていた沢崎の指が、中央付近のある一点でピタリと止まった。
「何か紙の中に織り込まれているじゃない! 誰かナイフ貸して!」
係員の一人から肥後守を受け取ると、沢崎は妖紙の問題の箇所を慎重に削り始めた。鳳太も凰香もハラハラしながら作業を見守った。大事な証拠品に穴でも空けられはしないかと心配だったのだ。沢崎ほどの優秀な染士ならば、多少の傷くらい難なく修復出来るとわかっていても、不安は拭えない。
額に汗を滲ませ、沢崎は険しい表情で妖紙と格闘していたが、続いてピンセットとメモ用紙を要求。ピンセットで妖紙から長さ二センチ程の黒くて細い糸状の物をつまみ上げた。メモ用紙の上に採取した物をそっと置き、沢崎は作業を再開。こうして十分程の作業の末、計三本取り出すと、メモ用紙を小さく畳んで若手係員の目の前へバンと置いた。
「これ、鑑識に回して! 急いで!」
「は……はいっ!」
係員は飛び上がり、包みを持つと鉄砲玉の如く勢いで鑑識係へ向かった。
「どうしましたか課長、何か――」
おろおろする大木を無視し、沢崎は妖紙を手にしたまま自分の机までダッシュ、電話へ飛びついた。汗も拭わずダイヤルを回すその姿には、何やら鬼気迫るものがある。だが相手が電話に出た途端様子が一変、爽やかなものとなった。
「もしもし? 七釜戸署の沢崎だけど、鶴岡課長、いる?」
鶴岡課長とは、村雨署の妖魔課課長・鶴岡正治のことだ。二人は紙士養成学校時代からの付合いで、その間柄は俗に「マブダチ」と呼ばれるものであった。
「あ、つるちゃん、元気? ええ、もうこっちは大変よぉ。管内に警報出っぱなしでてんてこ舞い、漉士係なんてみんな死にかけでさ。カーッカッカ!」
室内に耳障りな高笑いが響き渡り、妖魔課の職員はうんざりしたように耳を塞いだ。ただ兄妹は呆れると言うよりは、むしろ驚いた。沢崎自身も妖魔警報が発令された二日夜から、事務所に詰めっぱなしのはず。それを物ともせず、課内の悲惨な現状までも話のネタにし、笑い飛ばすとは……。
「それで早速なんだけど。ほらこの前、伝馬町の飲み屋で話してくれた、戦直後にそっちの管内であったあの事件……。そうそう、それそれ。悪いけどその時の捜査資料、至急貸してもらえない? うん、出来れば今日中に持ってきてもらえれば有り難いんだけど。本来ならこっちから取りに行くのが筋なんだけど、警報のせいで人をよこせないんだよ。悪いねー。今度会ったときはおごるからさ」
とても警察署の課長同士の会話とは思えないものではあったが、業務の話をしていることは間違いない。沢崎が電話を切ったのを見計らい、大木が飛んできた。
「一体村雨署から、何の捜査資料をお借りしようっていうんですか?」
「あんた達が生まれる以前に起こった、ある事件だよ。私のカンが当たっていれば、その事件とこの妖紙は関係がある。ただ、ちょっと嫌な予感はするけどね」
「止めて下さい。課長がそう言われると、本当にとんでもないことが起きるんですから」
黒縁の眼鏡を押し上げて起立したのは、沢崎の右手の席にいた男――折士係長の井上彰彦だった。同じ係長なので大木と年齢は大差なさそうだが、ずっと若く見える上に色白で身体の線も細い。
「彰さん、何びびっているんだよ! あんたも警部補なら、部下の前でつまらないことぼやくんじゃないよ!」
井上の発言が気に食わなかったのか、沢崎は眉間に皺をよせた。
「あ……どうも失礼しました。以後気を付けます」
ひたすら頭を下げる井上を見て、兄妹は笑いを噛み殺した。どうやら妖魔課の職員は全員、沢崎にはまるで頭が上がらないようなのだ。
女性紙士が警察官になるケースは決して多くない。たとえ採用されても、その殆どが役職に就く前に辞めてしまう。結婚及び出産も理由の一つだが、警察がまだまだ男社会であることが大きい。そんな中で男性紙士との熾烈な出世競争に勝ち抜くだけのパワーと度胸、そして警察の昇任試験にパスする程の実力を兼ね備えた者だけが、沢崎のような課長――警部にまでなれるのである。大の男を抑え付け、指揮をとる女課長の逞しさに兄妹は心底感心した。
「この妖紙はうちで預かるとして……。和さん」
煙草を口にくわえると、沢崎は大木の方をチラッと見た。
「そこの二人からもう一度、しっかり事情聞いておきなよ」
「それは勿論ですが……。ただ、彼の発言には些か引っかかる箇所があるんです。あの砂川鳳太という若者、九級折士なんです。課長の鑑定によればその黒い妖紙は9レベル、折妖にしても彼には折解きは不可能なはず。でも折解きしたと言い張るんです」
「本当です!」
カウンターから身を乗り出し、凰香は涙声で叫んだ。
「兄が折解きをして、私を助けてくれたんです! そうじゃなかったら私、今頃どうなっていたか……」
沢崎がじーっと目を覗き込んでも、凰香はたじろぎもしない。十数秒後、沢崎は眼光の威力を落とし、微笑んだ。
「その目は嘘を吐いている目じゃないね。でもあんたの兄が折解きをしたっていう話は、私も正直信じ難い。彰さん! 9レベルの折妖、折士係で幾つか持っていたね? その中から適当な物を選んであげな」
沢崎の考えを覚り、凰香はサッと顔を曇らせた。実際に9レベルの折妖を用い、鳳太の実力を検証しようというのだ。
――あの時はお兄ちゃん、私を助けようと必死だったけど、今は……。
9レベル折妖に対応するには、二級の腕前が必要となる。常識で考えれば鳳太にはどだい無理な話だ。しかしそんな妹の心中など知る由もない鳳太は、
「いいですよ。やってやろうじゃありませんか」
と胸を張り、やる気満々の態度を見せている。
事務所内に覚醒折妖を放つ訳にはいかないので、「検証」は署裏側の馬車置場(駐車場)で行われることになった。大木と兄妹が見詰める中、井上は駐車場の真ん中に薄緑色の折紙の猫――睡眠状態の折妖猫を置き、片膝をついて指を一本押し当てた。
「汝を折りし折士が命じる。起きろ。そして指示あるまでこの場より動かず、汝に向かって放たれた折解きの術に対処せよ」
折紙は覚醒し、瞬く間にライオンと見紛うような巨大な折妖猫となった。井上は数歩後ろへ下がり、鳳太へ呼びかけた。
「それじゃ砂川君、やってみな。本当にこいつを折解き出来るかどうか」
「任せて下さいよ! おい凰香、ちょっと荷物を頼むな」
背中のリュックサックを凰香へ預けると、鳳太は数メートル先に蹲る折妖猫へ向かって印を結び、枠内に目標を捉えた。
「折られし者よ。その仮初めの姿を解き、二次元の存在へ戻れ!」
自信満々の鳳太は、少々格好を付けようと大きく踏み込み、印から虹色の光を発した。ところが折妖猫は、長い尾を振り上げ――そう、まとわりつこうとしたハエをはたくように、ただの一撃であっさり光を叩き落としてしまったではないか。
「プクク……。お話にならないね、こりゃ。ハッハッハ!」
最初は何とか堪えていた井上も、ついに我慢出来なくなり、腹を抱えて笑い出した。呆気ない結末はもとより、口をポカンと開ける鳳太の姿がおかしくて仕方なかったのだ。
「こら! やっぱり出来ないじゃないか!」
大木の怒鳴り声に鳳太は我へ返り、負けじと言い返した。
「今のは気合いが足りなかったんです! 気合いさえ入れれば……」
「馬鹿。気合いぐらいで折解きが出来るか! 見ろ、相手は余裕綽々だぞ」
折妖猫はで後ろ足で頭を掻き、くつろいでいる。「あんなものは屁の河童だね」とでも言わんばかりに。そんな相手の小馬鹿にした態度が癪に障ったのか、鳳太は地団太を踏んだ。
――やっぱりあの折妖猫は、お兄ちゃんの手に負える相手じゃないわ。大木さんの言うように、気合いで何とか出来るもんじゃない。なら、あの時は何故……。
凰香は懸命に考えた。天目荘で折妖西村と遭遇したのは午前十時四十分頃、現在は正午前。僅か一時間ちょっとの間に、鳳太の実力が変動したとは考えにくい。
――気合い以外に、あの折妖を折解きをした時と異なる点があるのかしら?
記憶を遡らせ、凰香は天目荘での出来事の場面を脳裏に再現してみた。暫し考え込んだ後、凰香はあることに気付いて兄の元へ駆け寄った。
「お兄ちゃん! 今度はこれ――リュック背負ってやってみて!」
「これをか? 邪魔だからお前が持っておけよ」
「もう、いいから早く!」
「ちぇっ、仕方がないな……」
妹から押しつけられ、鳳太は渋々リュックサックを背負った。
「それじゃ、今度は気合い全開で行きますよ!」
大木の前で鳳太は二、三度力強く四股を踏んだ。
「よーし。これでまた失敗したら、二人共説教じゃ済ませないからな。覚悟しておけよ」
「わかっていますよ。でも上手くいったら、どうします?」
「三日間飯おごってやる」
「いいですねえ。約束ですよ」
「警察官に二言はない!」
額が擦れ合わんばかりに顔をよせ、視線をぶつけ合う鳳太と大木を目にして、井上は込み上げてくるおかしさを隠せなかった。
「あーあ和さん、いい親父がむきになって。砂川君もまだまだ子供だよなあ。折解きよりも、こっちのやり取りの方が断然面白いな。なあ、お嬢さん」
しかし返事はなかった。凰香は何故か落ち着きを失い、辺りをキョロキョロと見回していたのだ。
「ん? どうかしたのかい?」
「その……。今、周妖光を纏った人が、チラッと見えたような気が……。あ……!」
凰香は震える手である一点を指差した。その先――警察署の裏門前を一人の男が通過しようとしている。褐色のスーツを纏った、やや小柄な三十代くらいの男が。
「あの人、周妖光が見える! 折妖だわ!」
「何? 僕には見えないが」
「じゃあきっと、あの人は西村さんと同じ類なんです! 早く捕まえて下さい!」
が、井上は首を捻り、その場に佇むだけ。自身の目には周妖光が映らないのだから、戸惑うのも当然だろう。大木も然りだ。即座に動いたのは鳳太だけであった。
「何しているんですか! 相手は折妖人間ですよ! 野放しにしておくつもりですか!」
問題の男は既に裏門の前から消えている。見失っては厄介だ。鳳太が駐車場から飛び出し、左手を見ると、裏門前の通りをゆっくりと歩く男の後ろ姿が目に入った。
「逃がさないぞ、この折妖野郎! とっ捕まえて、化けの皮を剥がしてやる!」
鳳太の怒号に男は歩みを一旦止めて振り返った。が、敵意をむき出しにして迫ってくる相手を見るや、逃走を開始した。鳳太も懸命に追いかけたが、両者の距離はなかなか縮まらない。
「畜生、このままだと逃げられる……あ!」
鳳太のすぐ横を薄緑色の塊が駆け抜けていった。ようやく事の重大さを覚った井上が、折妖猫を動かしたのだ。足の速さは折妖猫の方が断然上で、あっという間に二、三メートル後方まで接近。一声低い唸り声を発し、しなやかな身を弾ませて折妖猫は男へ飛びかかった。
だが鋭利な爪も牙も男の身体へ届くことはなかった。ビュンと一陣の風が吹いたかと思うと、折妖猫は空中で頭から縦に真っ二つ、身体を切り裂かれてしまったのだ。断末魔の叫びを上げることも叶わず、物言わぬ物体と化した折妖猫は、血飛沫と臓物を撒き散らし、路上へ落ちた。
「何て奴だ! 僕の9レベル折妖猫を一撃で仕留めるなんて……」
井上の驚愕の声に続き、大木の叫び声が鳳太の背中へ飛んできた。
「砂川、そいつは風の刃を使うぞ! 下がれ!」
風の刃とは突風を起こすことによって生じる真空域で、相手を切り裂く妖魔の特殊能力の一つだ。こんな特殊能力を持つ折妖と戦っても、万に一つも勝ち目はない。鳳太も鳳太が所持する2レベルの折妖犬も、相手にとって虫けら同然。風の刃を使うまでもなく指先一つで「プチッ」だ。
返り血を浴びた身体を翻し、男は鳳太と向き合った。瞬きすらしない無表情な顔。あの折妖西村と同じだ。だがその瞳の中に、爛々とした殺意の炎が灯ったのを鳳太は見逃さなかった。
しかし、逃げようと一歩下がったところで、鳳太は思い留まった。折妖人間を逃がす訳にはいかないのだ。この通りは路地裏で、しかも警察署の駐車場に面している。警邏馬車の緊急出動に備え、一般人の通行は規制されており、人通りも殆どない。が、七釜戸署がある栗坂町は市庁舎や公共施設、諸企業のオフィスビルが建ち並ぶ市の中心街。しかも今の時間帯は、町内に勤務する人々が昼休みで屋外へ出ている。もしもこんな凶悪な折妖がこの通りから外れ、暴れでもしたら……!
――それにここで俺が今逃げたら、誰が凰香を守るっていうんだ!
その強い思いが鳳太を奮い立たせ、再度術を使わせる決意をさせた。背中を汗でびっしょり濡らしつつも、鳳太は印を結んだ。
「折られし者よ。その仮初めの姿を解き、二次元の存在へ戻れ!」
印より放たれる光を目前にしても、男は動きを見せない。鳳太の実力を見抜いているのだ。しかし今度は、折妖猫の時とは勝手が違った。胸元へ命中した光は、男の身体を包み込んでいったのだ。男は倒れ、のたうち回って光をはらおうとしたが、抵抗出来たのは数秒たらず。ボン、と音をたてて男の肉体は消滅し、服が路面にへばり付いた。
「や……やったあ! 上手くいったぞ!」
鳳太は両手を上げて飛び跳ねたが、その喜びも一瞬にして冷めてしまった。大木の拳が後頭部を直撃したのだ。
「この大馬鹿野郎、折解きなんかしやがって! おかげであの折妖を取調べ出来なくなったじゃないか! 誰に化けていたのか、誰に折られたのかわからなくなったんだぞ!」
大木が激怒するのも無理はなかった。折妖は折解きされるなどして妖紙へ戻ると、折妖でいた間の記憶が全て消えてしまう。たとえ再度折って覚醒させても、もう何も語ってはくれないのである。
「そんなことわかっていますよ、俺だって折士なんですから!」
殴られても鳳太は怯まなかった。
「でも緊急事態じゃないですか! それなら大木さんはあいつを捕まえられたんですか! あのまま放っておいたらあいつ、何しでかすかわからなかったんですよ!」
「なにをぉ、こいつ!」
火を吹きそうな勢いで癇癪を起こす大木と、少しも引かず噛みつく鳳太。そんな両者の間へ井上が落ち着き払った態度で割って入った。
「まーまー、お二人さん。ここは抑えて抑えて。それに和さん、少なくともあの折妖人間が、誰に化けていたかくらいはわかるよ」
「何? 本当か、彰さん」
「ああ。ほれ、こっちに来てみろ」
井上は大木を男の残骸の許へ連れてくると、スーツの襟を指差した。襟のボタン穴には、ナナカマドの花と葉をあしらったバッジがつけられていた。
「うっ、これは七釜戸市の記章……。こいつ、市の職員か?」
「そういうこと。しかもこの記章、特別あつらえだ。ほら、花と葉以外にも実が付いているだろう? この記章を付けられるのは市長を除けばただ一つ――市議会議員だけだ」
さらに井上はハンカチで手を覆うと、スーツの内ポケットを探った。
「お、あったあった、パスケースだ。この中にこいつの個人名――いや、化けていた人物を特定出来るものがあるんじゃないか?」
井上が睨んだ通り、パスケースの中には市議会議員の身分証明書が収められており、氏名欄には「牧原昇」とあった。
「ここに貼付してある顔写真、先程の男のものに相違ないな。なあ和さんよ。課長じゃないが、物凄く嫌な予感がするんだ」
「彰さん、俺もだ。折妖議員はこいつだけなのかってな。とにかく、課長に報告だ。あと若いもん呼んでこよう。人が集まってくる前にお前さんの折妖猫、片付けなきゃならん。野次馬に見られたら厄介だ」
警察官二名があれこれとヒソヒソ話し合っている間、鳳太は路地の片隅でずっと妹を抱きしめていた。凰香にしか見分けがつかない折妖人間が、西村以外にも見付かったのだ。この特殊な折妖人間が、更なる悪事に利用されたのではないかと思うと、凰香は立っていることも出来なかった。
「怖い……怖いよ、お兄ちゃん……」
泣きじゃくり、腕の中で震える凰香を、鳳太はしっかりと支えた。何があっても必ずお前を守ってみせると、心の中で叫びながら。
五月五日も午後七時を回り、闇の帳が下りても市の中心街が眠ることはない。馬車の走行音やクラクションの音が方々から聞こえ、繁華街を彩るネオンサインの光が夜の町を鮮やかに照らしている。
鳳太は窓の外の賑々しい景色から自分の隣、応接用ソファーに横たわる妹へ視線を移した。眠っているのではない。気絶しているのだ。今、ここ妖魔課事務所にいるのは、兄妹を除けば大木のみ。井上と係員は全員、これから開かれる捜査会議の準備で出払っている。この夜、四頭鬼町に出されていた妖魔警報がようやく解除となり、町内へ警邏に出る必要性はなくなった。よって準備にこれだけの人を割けたのだ。そして沢崎は――
「二人共今日は申し訳なかったね。本当にお疲れさん」
沢崎が小脇に分厚いファイルを抱え、事務所へ戻ってきた。夕方、村雨署から依頼した捜査資料が届き、別室で一人内容をチェックしていたのだ。
捜査資料を自分の机に置くと、沢崎は兄妹の正面に腰を下ろした。
「砂川君、どう? 妹さんの様子は」
「駄目です。未だ目を覚ましません」
鳳太は妹の青白い頬にそっと触れた。凰香はかれこれ五時間以上意識が戻らない。七釜戸署を訪れて僅か半日の間に、二人はそれこそ信じられないようなことを、次々と体験する羽目になったのだ。
鳳太が折解きをした後、折妖議員・牧原の服の中から黒い妖紙が発見された。この事に加え、周妖光が凰香にしか見えないことから、折妖牧原は折妖西村の同類だと断定された。さすればこの両者、同一人物の手によって作り出された可能性が高い。
折妖が市議会議員に化けていたことを知った沢崎は、即刻署長に市議会議場への立入り許可を求めた。沢崎もまた、大木や井上と同様のことを危惧したのだ。即ち、牧原以外にも折妖が市議会議員の中に潜り込んでいるのではないかと。今月三日より定例市議会が、市庁舎内の市議会議場で行われていたのである。
午後一時前、沢崎は兄妹と数人の警察官を引き連れ、会議場へ向かった。とはいえ、このまま警察官を会議場へ突入させ、場内を騒然とさせる許可までは下りていない。そこで二階傍聴席から場内を見下ろし、凰香が中の人間を確認することになった。
凰香は市長、議長、そして二十七人の市議会議員など、場内にいる人物を一人ずつ、順次観察した。結果――
――ひ、一人だけいます! あの人です! 間違いありません!
凰香が言った「あの人」とは、末端の席にいた高倉伸也という若手議員だった。沢崎の命を受け、三人の私服警察官が会議場へ入り、高倉を外へ連れ出した。少しも慌てず、嫌がる素振りも見せず、高倉は大人しく七釜戸署まで引かれて行った。
ところがいざ取調室へ入り、連行した理由を井上が説明すると、高倉の態度が豹変。「ナラバ仕方ガアルマイ」と、両手の爪をサーベルのように伸ばし、振りかざしたのだ。
――化け物め! 抵抗すれば撃つぞ!
この様子に外で待機していた警察官が数人、取調室へ雪崩れ込み、一斉に銃口を高倉へ向けた。銃弾では致命傷を与えることが難しい妖魔も、折妖となれば話は別。銃撃されれば、たちまち身体を蜂の巣にされてしまう。
高倉は一瞬動きを止めたが、この後予想もしなかった行動に出た。爪を警察官ではなく、己の首へ向けたのだ。たった一振りで首は切断され、無表情な頭が床へ転がり落ちた。何事かと中を覗き込んだ凰香は、血の海と化した室内を目にし、意識を失った……。
「あれはあんた達にはちょいと刺激が強すぎたね」
「でもあの折妖議員、何で自殺したんでしょうか? そう命令されていたから?」
「多分ね。正体がばれていよいよやばくなったら、自ら命を絶て――そう事前に命じられていたんだよ。命令者や作製折士のことを相手に知られてはまずいからね」
「やっぱり……。でも牧原議員に化けていた折妖にしても、通行禁止の警察署の裏を平然と歩いていたところから見ると、流石にそこまで細かい事は指示されていなかったんですね。あそこをあのタイミングで通りさえしなければ、凰香に見つかることもなかったのに」
「ま、そこまでの指示はなかったにせよ、逃げたり正体を隠し通すための方法は、あらかじめ命じられていたはずだ。西村っていう折妖があんた達を殺そうとしたのは間違いなく口封じのためだし、牧原も最初は逃げようとしたからね」
「相手もいざという時のことを考えて、しっかり手を打っておいたんですね……」
「敵」のしたたかさを感じつつも、鳳太は一方で納得していた。もしも折妖議員が警察の手に落ちたらどうなるか。いくら作製折士や命令者に「絶対に口を割るな」と厳命されていても、折士警察官の扱えるレベルであれば――早い話、四段折士の井上が取扱可能な14レベル以下の折妖であれば、折妖馴しを施されてしまう。さすれば折妖議員は、折妖馴しを施した警察官に命じられるがままに、ぺらぺらと尋ねられたこと全てに答えてしまうのだ。それを防ぐためには、「自爆」する仕掛けを施しておく必要があった。
ただ鳳太にしてみれば、この「事前指示」で気になる点があったのも事実だ。折妖西村は、鳳太の目から見て明らかに自主的にとった行動があった。折妖議員も折妖西村と同類であれば、同様に指示以外の動きを見せた可能性もあるはず。折妖牧原も人から注意されれば、警察署の裏ではなく別の道を通っていたかもしれない。されど明確な証拠がない以上、鳳太も自説を腹の中に収めざるを得なかった。
この他にも沢崎が黒い妖紙から何を取り出して鑑識に回したのか、他署から急いで何の捜査資料を借りようとしたのか……も気になってはいた。ただこれらはまだ大木達妖魔課の職員も知らないことのようなので、聞き出さない方が無難だと鳳太は感じていた。
「さて……牧原議員も高倉議員も自宅不在で、行方知れずだ。と、なると今回の事件の謎は」
沢崎は最後の一本となる煙草を摘み出すと、空箱を握り潰した。
「本物はどうなったのか。あの三体の折妖人間を作った者が誰なのか。そしてその目的は何なのかってことだ。砂川君、あんた心当たりはある?」
「さっぱりわかりません。西村さんがいなくなった理由すら見当もつかないのに」
「そう。私も西村君の件はわからないけど、議員失踪の理由なら察しはついているよ」
「え、それ本当ですか!」
驚く鳳太の前に、沢崎は一枚の書類を差し出した。今回の定例市議会で採決予定となっている議案の一覧だ。
「市議を折妖にすり替え、『犯人』にとって何かいいことはあるか? 一番自然な理由は、自分等と何らかの関わりがある議案を、可決または否決させることだね。でも折妖になっていたのは二人だけ。二人すり替えればいいってことは、それだけ微妙な採決となる議案が、犯人のターゲットって訳さ」
「本当にそうなんでしょうか? 例えば誰かが問題の市議に不正に献金して、それを隠蔽しようと折妖にすり替えた……とか」
「うん、あんたはなかなか鋭い。私もその可能性を探ったけど、どうもそっちではないね。すり替わった市議は二人共、今年の三月に無所属から初当選したばかりで、不正の可能性は低い。他の個人的な理由があるとしたら、二人いっぺんっていうのは変だろう?」
さらに沢崎は牧原も高倉も独身で、市の職員住宅に一人で住んでいることに注目した。折妖人間は表情に乏しく、食事もとらない。もし家族と同居していれば、直ぐに異変に気付かれてしまう。が、それ以外の者には「無愛想になったなあ」くらいにしか思われないし、食事も何とか誤魔化せるだろう。鳳太も折妖西村に初めて遭遇した時、おかしいと感じながらも深く考えようとはしなかったのだから。
「それが彼等が狙われた理由ですか。で、当選後、折妖にすり替えられたんですか?」
「そう。この二人の秘書の証言もそれを裏付けているし。先生は議会が始まる直前から様子がおかしくなった。口数がめっきり減り、食事も一緒にとらなくなった……ってね。さらにこのご両人、私がターゲットだと睨んでいる議案については、反対の意向を示していたらしい。彼等が反対すれば、その議案はお釈迦――否決されるはずだったんだよ」
「その議案って、この中のどれなんです?」
「これだよ、これ。『北部四町の町名変更について』ってやつさ!」
沢崎がびしっと指先で議案を示すと、鳳太は眉を微かに動かした。
「町名の変更……。これってもしかしたら……」
「……今朝の回覧板で反対署名が回っていたあれよ、お兄ちゃん」
そう言うと凰香は身を起こして兄の横に座し、沢崎へ向かって頭を下げた。
「どうも心配おかけしました。私が勝手に中を覗いたんですから、今回の件は自業自得です。ただ、流石にあんなことになるとは……。妖魔なら何てこと無いんですけど、人間や人の形をしたものはちょっと……」
「あんたも女だてらに漉士やっているんだから、絶対度胸はあるはずなんだけどね。どんなに素質があったって、小心者に漉士クラスを推すような真似は養成学校の教師は絶対にしないから。『漉士はまず度胸が第一。臆病者は好適とは認めない』って教師やってるうちの同期が言っていたよ」
「そんな……。度胸なら課長さんの方があると思いますけど」
「いやー、照れるね。私も本当は漉士になりたかったんだけど、親に漉士だけは止めてくれって泣きつかれて、仕方なく染士で我慢したってわけ。アッハッハ!」
豪快な笑い声を正面から浴びながら、鳳太は思った。親の許可さえあれば、沢崎は貴重な女辣腕漉士になっていただろうと。妖魔と直接向い合う漉士の活動には、常に危険が伴う。カーレーサーや冒険家などと同様、「生命保険に加入出来ない職業」の一つでもある。
故に紙士養成学校で適していると判断されても、漉士クラスを希望する女性は稀だ。そのため兄妹の同期の漉士クラスでは、十対一で男性の割合が圧倒的に高かった。残り二クラスはこれ程極端ではなく、折士クラスは四対一で男性が多く、染士クラスではほぼ同比率だった。多少の変動こそあれ、学生の男女比は毎期このような感じだという。
「回覧板で署名の期限が先月の二十日になっていたのは、今回の定例市議会に間に合わせるためだったのね。これだけの人が反対しているって議会で示せば、反対派も勢いづくから」
凰香が呟くのを聞きながら、沢崎はその顔を覗きこんだ。
「顔色も良くなってきたみたいだし、もう大丈夫そうだね。で、目を覚ましたばかりで申し訳ないけど、ちょっと訊きたいことがあるんだ。牧原議員に化けていた妖紙をさっき鑑定してみたんだけどね。何か見たこともない妖魔の姿が頭に浮かんでくるんだよ」
「それって、どんな姿なんですか?」
凰香が尋ねると、沢崎はうーんと唸った。
「得体の知れない姿でさ。白い長毛に覆われた巨大な目玉って感じだよ。サイズは十六ぐらい、牧原議員とおなじくらいだね。私もそんな変ちくりんな妖魔知らないし、『妖魔大系』で調べてみても載っていないんだよ。漉士である和さんもわからないっていうし。でもあんたは卒業したばかりで、最新の知識も養成学校で学んでいるはずだ。心当たり、ある?」
「妖魔大系」とは全七巻からなる妖魔の図鑑のことだ。和州で確認されている全種と、世界に生息する主な妖魔がイラスト付きで網羅されている。大変貴重な本で、紙士養成学校の図書室でも禁帯出扱いになっていた。凰香も欲しくてたまらなかったが、高価でとても手が出せる物ではなかった。
「『妖魔大系』にも載っていない……。課長さん、それもしかしてーー」
凰香はぽんと手を打った。
「眼毛玉じゃないでしょうか。確かそんな姿をしていたと思います。ランク4以上で風の刃が使えますし、今まで確認された個体のうち、半分くらいは体毛が白かったはずです。結構怖い妖魔で、高ランク個体になると石化や竜巻といった特殊能力も持っているとか」
「成程。それでその眼毛玉、ランク1個体のレベルは?」
「8レベルだったはずですけど」
「つまりあの妖紙は13レベルだったから、ランク6か。風の刃は使えるね。でもそんな特徴のある妖魔、警察に情報が来ていないなんて」
小首を傾げる沢崎に凰香は遠慮がちに言った。
「あー、それは無理もないかもしれません。眼毛玉は昨年に発見された新種の妖魔なんです。『妖魔大系』の最新版は五年前に発行されたものですから、載っていません。眼毛玉のことは養成学校の講義で教わるくらいですから、妖魔局には情報が来ているはずです。ただ和州産の妖魔ではありませんので、県警まで情報が行っているかはちょっと……」
「はい? 眼毛玉は外国産の妖魔なのかい?」
「はい。中東産です。主な生息地が砂漠なので人との接触が殆どなく、発見が遅れたとか」
「……ってことは、あの妖紙は輸入品か!」
沢崎は思わず身を乗り出した。「妖魔産物利用法」では、危険な特殊能力を持つ妖魔が素妖の妖紙は、原則輸出入が禁止されている。どうしても輸出入したければ、妖魔局に対して事前申請を行い、特別な許可をもらわなければならない。ただこうした申請は、公的機関や大手企業が研究目的で行うことが殆どだ。勿論申請しても全てが審査を通るわけではない。特に個人申請の場合は、まず許可は下りないという。
今回の妖紙は十分に危険な代物であり、「足跡」が必ず残っているはずだーー正規の手続きを経て輸入していれば。もっとも犯人が、真っ当な方法で眼毛玉の妖紙を入手しているとは思えなかったが……。
「十中八九密輸品だと思うけど、ちゃんと手続きを踏んで輸入していても横流しされている可能性もある。輸入申請がなされているか、一応妖魔局に当たってみるか」
密輸品ーー沢崎のその言葉を聞いて、兄妹の脳裏にある事件が過ぎった。先日の総理襲撃事件だ。あの時に使われたと思われる黒虎の妖紙も輸入品に違いない。もしや……と思った凰香が口に出そうとした時、沢崎がにっと笑った。
「それにしても流石は新卒漉士だね。随分と詳しいじゃないさ」
「そりゃそうですよ」
ここで突然鳳太がしゃしゃり出てきた。
「凰香は養成学校の卒業試験、実技はさっぱりでしたけど、筆記の方は漉士で一番だったんですよ。頭はいいんですから」
「ほー、そりゃ大したもんだ。で、あんたは筆記試験、どうだったの? 今一つだったんじゃない? アハハ!」
図星であったため、鳳太は黙り込んでしまった。そんな兄を見かねて凰香が助け船を出した。
「それで課長さん……。さっき話していた町名変更、今回の事件と何か関係があるんですか?」
凰香の質問に、沢崎は派手に開いた口を慌てて窄めた。
「あー、そのことね。この件については、あくまでも私の推測ってことで話を進めるよ。いいね?」
二人が声を揃えて承知したところで沢崎は立ち上がり、背後の壁に貼ってあった七釜戸市全域地図の上部――北部の一画をつついた。
「ほら、ここが四頭鬼町。そしてこの周りにある四つの町が、名称変更案があがっている四つの町――鉄町、霧隠町、碧鳥町、白石山町だよ」
鉄町は四頭鬼町の北と東に、霧隠町は西に、碧鳥町と白石山町は南に位置している。この四つの町が四頭鬼町を取り囲む形となっているのだ。
「ところで、四頭鬼町とこの四町の名前の由来、知っている?」
「いいえ。俺達、この三月に七釜戸市に越してきたばかりですから」
鳳太が首を横へ振ると、机に俯して眠っていた大木がむくりと起きた。
「それを知りたいのなら、これを読んだ方が早いぞ」
寝不足気味の大木は少々危なっかしい足取りで歩み寄り、一冊の冊子を二人の前へ放り出した。冊子のタイトルは「七釜戸市の歴史」、七釜戸市教育委員会編集・発行とある。ところがその冊子を手に取った凰香は、裏面の意外な書き込みに気付き、くすくす笑い出した。
「『四年二組 大木直子』ですって。これ、大木さんのお嬢さんが学校で使っていた本ですか?」
「娘さんの学校教材を大事にとっておくなんて、大木さんも結構親馬鹿ですね」
「和さん、直子ちゃんもう高校生じゃない。全くあんたって人は……アハハ」
鳳太や沢崎にまでからかわれ、大木はきまり悪そうに鼻の頭を掻いた。
「……とにかく、そのしおりが挟んであるページを開いて読んでみろ」
これ以上冷やかすと後で何をされるのかわからないので、凰香は指示されたページを開いた。そこには「四面鬼と柴山六郎」という題の史話が載っていた。
今から三百五十年ほど昔のことだ。東和州、ことに現在の如月県と飛鳥田県の住民を恐怖のどん底へ叩き落とした、ある恐ろしい妖魔がいた。身の丈十数メートル、全身鋼鉄の如く漆黒の鱗に覆われ、一つの胴体から四つの首が伸びた鬼だった。四面鬼と呼ばれたその妖魔は、現在の和州では絶滅した種・多頭鬼の君主。姿も消さずに白昼堂々と己の巨体をひけらかし、村や町を襲っては人々を惨殺し、家や田畑を焼き尽くした。その破壊力は凄まじく、四面鬼が通った後には草一本残らないほどであった。僅か一日で三つの村を壊滅させたこともあったという。
四面鬼は四つの口から灼熱の炎や雷を吐き、多種多様の妖術を駆使した。これらの能力から見て、四面鬼は多頭鬼の中でも君主に相応しい高ランク個体だったと思われる。妖魔レベルも現在のものに換算すれば、30レベルあったようだ。
この当時の漉士の技術はまだ未熟で、これ程の高レベル妖魔を紙漉き出来なかった。漉士に倒せなければ、折士が折妖に戦わせて倒すしかない。折妖の牙や爪ならば、妖魔にもダメージを与える事が可能なのだ。腕に覚えのある折士達は自慢の折妖を率い、四面鬼に立ち向かった。が、ことごとく返り討ちに遭い、二度と戻ってこなかった。
西和州で名を成したの柴山六郎という折士もまた四面鬼の悪行を聞きつけ、はるばる東和州まで駆け付けた。柴山はがむしゃらに突っ込んでいくだけでは勝てないと覚り、まずは敵を観察することにした。すると四面鬼の首根に住まう、一匹の小鬼を発見した。何かあると直感した柴山は、小鬼が四面鬼の傍らを離れた隙にこれを打ち殺した。
小鬼の姿が消え、焦る四面鬼を見た柴山は、好機を逃すまいと六体の折妖をけしかけた。そして激戦の末、ついに四面鬼を仕留めたのだ。だがこの戦いで柴山の折妖もまた深手を負い、四体が息絶えた。柴山はこの出来事を人々の記憶に留めようと、戦いの舞台となった地に四面鬼の名を、その周辺に四体の折妖の名を配した――
「これでもうわかっただろう? 戦いの舞台となった地が四頭鬼。そして柴山六郎の死んだ四体の折妖――鉄、霧隠、碧鳥、白石山の名が周囲の地名になったってことが」
「ええ課長さん、よくわかりました。昔はこんな凄い妖魔が、人里に出没していたんですね。養成学校の講義でそんな話、聞いていましたけど……」
冊子を閉じ、凰香はしんみりと言った。当時に比べれば紙士の技術も格段に進歩している。その甲斐あって高レベル妖魔の数は激減し、人里離れた辺境でしか遭遇しなくなった。人の世も随分と平和になったのである。
「でもこの『四面鬼は滅びました。めでたしめでたし』って話が、何かあるんですか?」
鳳太が尋ねると、沢崎はまだ半分近く残っている煙草を灰皿へぐいと押しつけた。
「めでたしめでたし、か……。ところが、そうじゃないかも知れないんだ。実は二、三年前、変な噂を耳に挟んだんだよ。四面鬼は滅んでいないってね」
「そんな馬鹿な! この本にも『四面鬼は倒された』ってあるじゃないですか!」
鳳太は妙にむきになっていた。同じ折士として、柴山の偉功を汚すような噂が許せなかったのだ。強力な妖魔を己の折妖で倒すことは、折士にとって最高の栄誉なのだから。
「砂川君、よく聞きなさい。その噂によれば四面鬼の四つの首のうち、一つだけは如何なる方法を以てしても息の根を止めることが出来なかった。困り果てた柴山六郎は高名な宮司に依頼し、その首を地中深く封印してもらった。そして首を埋めた場所――『鬼の首塚』が、三百年以上経った今でも四頭鬼町の何処かに存在しているっていうんだよ。首塚と言っても塚になっている訳じゃなく、普通の地面と見た目は変わらないらしいけど」
「鬼の首が地中に……。何か欧州の何処かの国で暴れた多頭蛇みたいですね。その多頭蛇も九本の首のうち一本だけは死なず、やむなく岩の下に埋めたとか。それで鬼の首塚って、何処にあるんですか? 私達、首塚なんて聞いたことありませんけど」
「砂川さん、その場所は誰も知らないよ。わかっていればとうの昔に、馬鹿な漉士がそこをほじくり返しているはずだからね。何って言ったって30レベルの妖魔だ。上手く妖紙にして売ればしこたま儲かるし、それで折妖を作れば――どうなるかはわかるね?」
二人共沢崎が言わんとしていることは、よくわかっていた。30レベル妖紙を紙折り出来る折士など、世界に数える程しかいない。紙士の本場で、技術も最高峰と言われる和州でさえたった二人だ。だが紙士の中にはもぐりと言われる犯罪行為も平気で行う者達もおり、正規の者に勝るとも劣らない腕利きもいるという。もし彼等の手に四面鬼の妖紙が渡れば、過去の悪夢が再現される恐れもあるのだ。
「この首塚の話は噂話だけど、『火のない所に煙は立たぬ』っていう喩えもある。もし事実だとすれば――いいかい、絶対にあの四つの町の名前を変えちゃいけないんだよ!」
沢崎が両掌をテーブルへ叩き付けた衝撃で、鉄灰皿がガタンと揺れ、灰が舞い散った。唖然とし、言葉も出ない兄妹。これはまずいと沢崎は一回咳払いし、声色を和らげた。
「つまりね。私が思うに、柴山六郎は自分の功績を後世に伝えるため、折妖の名前を地名にしたんじゃない。恐らく、宮司に助言されたんだ。『言霊の力』を利用せよと」
「言霊の力って何ですか?」
だが凰香の問いかけに応じたのは、ちゃっかり沢崎の隣に座った大木だった。
「例えば鉄町の人間が、隣町の蕎麦屋から出前を取る時、何て言う?」
「出前なんて、七釜戸市に来てから一度もとったことはありません。なあ凰香、お前、腹が減っていないか?」
「うん、とっても。お昼も食べていないから」
「だろうな。俺も折解きしたし。ところで大木さん、牧原議員の妖紙、13レベルだったそうじゃないですか。井上さんの折妖猫より上ですけど俺、折解き出来ましたよ。例の約束、守ってもらっても――」
「あー、わかったわかった。何か食わせてやる。食わせてやればいいんだろう!」
大木は自棄になって頭をかきむしった。しかしもとはと言えば、自分で撒いた種だ。市の中心街やその周囲には、遅くまで出前をする店があるので、大木は泣く泣く電話をする羽目となった。兄妹も少しは遠慮するかと思いきや、
「俺は真肉のカツ丼!」
「私は同じく親子丼!」
と、全く容赦しない。先日大木に大目玉を食らったので、少し意地悪してやろうと思ったのだーー二人揃って。
「二人共、話の続きをするけどいいかい?」
久し振りの丼物に心躍らせ、ニコニコする兄妹に、沢崎は笑止顔を改めた。
「つまりこう言うはずだ。『鉄何丁目何番何号の何々ですけど、天蕎麦を……』とね。重要なのはここさ。地名をそこの住民や通行人などが、毎日口に出して言うってことが」
首塚が存在する場所やその周辺で、柴山の折妖の名前を人々が四六時中口にする。言葉に出す。何の力もない平凡な人の「言葉」でも、寄り集まれば強大な力となる。これこそが「言霊の力」だった。言霊の力を用いれば、四体の折妖が四面鬼の首を包囲しているのに等しい状況が出来るのだ。
「柴山六郎はこの言霊の力を封印に利用したんだ。正確に言えば、封印をより強固な物とするために利用したんじゃないかな。地下に首を埋めた時点で、宮司が正式な封印を施しているはずだからね。でもこれらの地名が失われれば、当然封印は弱くなる。下手をすれば鬼の首が復活するかも知れない」
「成程……。『敵』の狙いはここにあるんですね。町の名前を取っ払って封印を弱め、鬼の首を復活させようと」
「わかったようだね、砂川君。私もこの議案、地元住民の反対が多いから、てっきり廃案になるかと思っていたよ。七釜戸市は戦後の市町村の大統廃合で、三つの市と町が合併して出来た。この際市内の町の再編成も行われたんだけど、四頭鬼町と周囲四町だけは『柴山六郎の功績を過去のものにするな』と、住民の反対にあって町の名は残された」
「結果としてそれは大正解だったんですね。でも今頃何故、町名変更など……」
「この議案を提出したのは杉野良平っていう議員でね。この人、以前に町の再編成を推進した初代七釜戸市市長・杉野降三郎の孫だよ。口では『柴山六郎の功績は、四頭鬼町だけを残せば問題ない。他の四町はより現代風な名とし、名実共に生まれ変わらせる』なーんて言っているけど、本当は祖父さんの食い残しを始末したいだけなんじゃないか、はん?」
煙草が切れたせいか、沢崎の口調が次第に荒れてきた。相手を刺激しないように凰香は声のトーンを落とし、慎重に問いかけた。
「それで……その杉野議員は、鬼の首を狙って議案を出したんでしょうか?」
「さーね。それはこれから調べるよ。それで事件の全貌が明らかになればいいんだけど、そうは簡単にいかないんじゃないかな。だって今話したことは、全て私の推測の域を出ていないんだからね」
「でも課長さん、凄い物知りですね。言霊の力のことなんか、驚きました」
「うちの実家は小さいながら神社でね。子供の頃からこの手の話は親から色々聞いていたよ。で、砂川さん。悪いけど今後も協力のほど、よろしく頼むね。勿論、砂川君も。あんた達の身の安全は保証するから」
直ぐに凰香が、やや遅れて鳳太がはい、と返答した。二人から了解を得たところで、沢崎は事務所内の掛け時計へ目をやった。
「おや、もうすぐ八時かい。二人共、直に会議が始まる予定なんだけど、それが終わるまで事務所で待っていてくれないかい?」
「それは構いません。まだ出前も届いていませんし。それで会議は何時頃に終わるんですか? 私達、遅くとも終電には間に合うようにここを出たいんですけど……」
「それはわからないね。でも心配しなくてもいい。今夜の宿はこちらで用意するから」
「そうですか。でしたら大家さんに連絡をしたいので、電話を貸して頂けませんか?」
「ああ、いいよ。ついでに大家さんに言っておいて。明日の午前中に西村君の件で色々伺いたいことがあるから、うちの職員がそちらにお邪魔するって」
わかりましたと凰香が答えた時、事務所へ若手係員が入ってきて、会議の準備が整ったと沢崎に告げた。ここでくつろいでいなさいと二人に言うと、沢崎は村雨署より借りた捜査資料を取りに自分の席へ戻った。ところがそこへ大木がすすっと近寄ってきたのだ。
「あの……。あいつ等のタクシー代と飯代、公費で落とせませんか?」
「だーめ。税金の無駄遣いは許さないよ。どのみち、ここんところの連続勤務で臨時勤務手当、たっぷり出るんでしょう? それでまかないなさい」
「俺ので……ですか?」
「とーぜん。あんたが食事、おごるって言い出したんだからね。彰さんからちゃんとその話、聞いているよ」
じゃ、そういうことでと大木の背中を叩き、沢崎は会議室へ向かった。がっくりと肩を落とした大木も後へ続き、妖魔課事務所内には兄妹だけが残された。
「へへっ。これで三日間は、飯代には困らないな。明日は寿司でも頼むか」
してやったりと鼻の下をさする鳳太とは対照的に、凰香の表情は今一つ冴えなかった。
「でもお兄ちゃん、何で9レベルや13レベルの折妖を折解き出来たの?」
「そりゃお前、決まっているだろう。気合いだよ、き・あ・い」
「そうかなあ……。私はお兄ちゃんのリュックに原因があるんじゃないかと思うけど。だってリュック背負っていなかった時は、全然駄目だったじゃない。もしかして――」
凰香はソファーの横に立てかけてあった兄のリュックサックへ飛びついた。だがリュックサックの口紐を解いたところで、鳳太がその手を止めた。
「凰香、そんなこと明日にでも確かめればいいだろう。それよりお前、いいのか? 捜査の協力をあっさり引き受けて。折妖人間は未だいるかも知れないんだぞ。その度にお前、あんなに怖がっていたんじゃ……」
黒い妖紙で作った「あの」折妖人間が、とんでもないことに利用されようとしている。凰香が恐れていたことが現実のものとなろうとしている。妹をもう怯えさせたくはない。いくら凰香の「目」が捜査には不可欠とはいえ、この事件には関わりたくはない――これが鳳太の本音だった。しかし当の凰香は、そんな兄の心配を吹き飛ばすかのように、毅然とした態度で答えた。
「うん、もう吹っ切れた。私、腹を括ったわ。こうなったらとことんこの事件とつき合おうと思う。事件の解決に私の妖視能力が役に立つんだったら、喜んでやるわ。それに西村さんやいなくなった議員さんの行方も気になるし」
「まあそうだが、あまり深入りするなよ。事件は警察に任せておけばいいんだからな」
「大丈夫、わかっているって。あ、そう言えば大家さん、西村さんの実家と連絡とれたのかしら? ついでに訊いてみようっと」
凰香は軽やかにステップを踏んで沢崎の席まで行き、電話をかけた。
「もしもし、暮里さんのお宅ですか? 夜分遅くすいません、凰香です」
暮里はマナーに結構うるさく、夜間の訪問や電話を嫌がる。機嫌を損ねるのではないかと鳳太は冷や冷やした。が、杞憂に終わったようで、凰香の口調に変化は表れなかった。
「今、兄と一緒に七釜戸署にいます。今夜はもう遅いので、警察の方でお世話になると思います。あと明日の午前中に、西村さんの件でそちらに警察の人が行きますから、対応お願いします。あ、それで西村さんの実家に連絡は……え?」
言葉が急に滞り、凰香は暮里の話を聞く一方となった。何かあったなと感じた鳳太は、妹が受話器を置くと直ぐに側へ駆け寄った。
「どうした凰香、何かあったのか?」
「うん、お兄ちゃん……。西村さんのことなんだけどね」
僅かな間をおき、凰香は視線を兄の足下へ落とした。
「電話が通じないって。西村さんの実家の電話番号、全然違う人の番号だったのよ」