第2話 折解(おりほど)き
「畜生、駄目だ!」
白髪頭をかきむしり、櫛山はカウンターの上に金色の妖紙を叩き付けた。
「この妖紙は一体何だ? 調べようとすると、途端に全身から力が抜けてくるぞ。俺も長年妖紙鑑定をやっているが、こんな事は初めてだ。あんた達、何ともないのか!」
五月二日の午後五時過ぎ。鳳太と凰香はその日の妖魔狩りを終えて家へ戻る途中、いつものように多々良妖紙へ立ち寄った。そして今日の狩りの成果と一緒に、昨夜桃の湯の近くで入手した金色の妖紙の鑑定を櫛山に依頼したのだ。高額評価間違いなしと期待に胸膨らませていた二人であったが、櫛山の予想外の反応に戸惑い、思わず顔を見合わせた。
「何ともないのかって……なあ、凰香」
「ええ。何ともありませんけど。ほら」
凰香は問題の妖紙で口元を隠し、頭を傾けておどけて見せてた。しかし櫛山はむっとした表情を浮かべるだけで、機嫌は直らない。妖紙鑑定歴三十年、ベテラン染士としてのプライドが許さないのだろう。
「……悔しいが、これは鑑定不能だ。わかるのは色と素妖のサイズだけ。サイズは一か二くらいだな。後は――レベルも素妖の種類も、特殊能力も寿命もさっぱりわからん」
「素妖は尾長鼠で、レベルは1か2ですよ! 妹があっさり紙漉き出来たんですから!」
「でも俺にはそれを証明出来ないな。鑑定出来ん物に評価額は出せんし、買取もせん。持って帰れ。こいつ以外の妖紙は今、鑑定証を出してやる」
そんな物など見たくもないと言わんばかりに、櫛山は金色の妖紙から目を背け、鑑定用紙を取り出した。今日の成果は町中での狩りにしては珍しく大猟と言えるもので、2レベルの妖紙が全部で七枚。合計評価額は予想を上回る千百円だった。二人は七枚全てを換金し、店を出た。
とはいえ、レア品と見込んでいた妖紙が売れず、落胆したのも事実。凰香は大学通りから虚ろな目で空を見上げた。
「あーあ、折角高い値で売れると思ったのに……。がっかりだね、お兄ちゃん」
「あの爺さん、惚けやがって。鑑定出来ないのは、自分の実力が足りないからだろうが。で、どうするんだ、この妖紙。いっそのこと魚か鳥に折って、食っちまうか?」
鳳太が妖紙の端を持って齧り付く素振りを見せると、凰香は驚き飛び上がった。
「そんな、勿体ない! ならペットにでも折ってよ。金のペットなんてゴージャスじゃない」
「でも折妖にすると、確実に余命が減っていくぞ。こいつの寿命がわからない以上、このまま保管する方が無難じゃないか? 妖紙の状態なら半永久的に保存出来るし」
「うーん……。何か宝の持ち腐れっぽいけど、それがいいわね」
「そうと決まったのなら、こいつは俺が持っておくからな」
鳳太はリュックサックを背中から下ろし、妖紙筒を取り出した。妖紙筒とは妖紙を収納する長さ二十五センチ程の筒で、紙士の必需アイテムである。一昔前までは竹や木、防水処置を施した厚手の紙で作られた物が多かったが、安価で丈夫、軽量ということもあり、現在はプラスチック製の物が主流になっている。新米紙士である二人の愛用品もプラスチック製だ。鳳太は大事な収穫物を筒状に丸め、青い妖紙筒へ収めた。
「さて、帰るか。ところで、今夜は何を食おうか?」
「お金も入ったことだし、秋葉亭でコロッケ買って帰らない?」
「お、いいな。暫く食っていないし。なら真肉のコロッケを……」
「駄目よお兄ちゃん、そんな贅沢は。真肉コロッケは折妖肉コロッケの倍もするのよ。折妖肉のコロッケにしましょう。はい、決まり」
要求をぴしゃりとはねつけられても、鳳太は文句の一つも言えない。四頭鬼町で生活を始めて一ヶ月半、貧乏生活の影響で凰香は徹底した倹約家になってしまったのだ。そんな妹が財布の紐をがっちり握っている以上、ささやかな贅沢も許されない。
「欲しがりません、勝つまでは……じゃなくて、欲しがりません、昇級す(あが)るまでは……ってことかよ……。トホホ……」
鳳太は項垂れるばかりだった。兎にも角にも、この苦しい生活から抜け出すには、紙士としての腕前を上げる以外に方法はないのだから。
北七釜戸駅前の商店街をぶらつきながら、商店街中程にある惣菜屋・秋葉亭での買物を済ませると、兄妹は天目荘へ帰った。そして直ぐに夕食の準備に取り掛かったのだが、いざそれも終わって食卓に着こうとした時、凰香はあっと声を上げた。
「いけない、すっかり忘れてた。ソース切らしていたんだわ」
「なにーっ! そりゃ本当か、凰香!」
カッとなった鳳太は、ちゃぶ台の端を叩いた。久し振りの「御馳走」もソース無しでは味気ない。空腹も手伝い、鳳太は大人げなく声を荒げた。
「何で買っておかなかったんだよ!」
「だってお金、無かったじゃない。少し余裕が出来たら買おうと思っていたんだけど……。そうこうしているうちに、忘れちゃった。御免、今回はソースなしで我慢して」
凰香が手を合わせて謝っても、鳳太は頑として首を縦へ振らない。口をへの字に曲げたまま、妹へ向かって掌を差し出した。
「俺、今からソース買ってくる。金をくれ」
「えっ、だってもう七時過ぎているじゃない。お店閉まっているわよ」
「四頭鬼本通り沿いに確か乾物屋が一軒あっただろう? あそこなら八時くらいまでやっていたはずだ。ひとっ走り行ってくる」
「でも今夜は町内に妖魔警報が出ているわ。私が行った方がいいんじゃないの?」
「5レベル以上の妖魔をお前が漉けるのかよ。なに、いざとなったら折妖犬を起こして妖魔にけしかけ、その隙に逃げるから。とにかく、お前は家で待っていろ」
妹を家に留まらせようと、鳳太は敢えて憎まれ口を叩いた。凰香もそんな兄の心遣いを察したのか、何も言わずに蝦蟇口を開いた。
百円硬貨を三枚ジーンズのポケットへ押し込み、鳳太を家を出た。いつもの日であればこの時間帯、四頭鬼本通りでは北七釜戸駅方面へ向かう人や馬車が多数見受けられる。だが今日は妖魔警報発令の影響か、通過するのは駅とは逆方向ーー東へと急ぐ者たちばかり。皆駅から大慌てで帰宅しようとしているのだ。この様子では目指す乾物屋も、早めに店終いするかも知れない。鳳太の足取りは自然に速くなっていった。
幸いにも乾物屋は未だ開いており、鳳太は中濃ソースを一本購入することが出来た。しかし店を出た直後、鳳太の足は止まった。手元には百円硬貨が一枚残っている。鳳太の心の中に先程凰香にばっさりと却下された願望が蘇ってきた。
「よーし、うるさい凰香もいないことだし、コーラでも飲んでいくか。百円くらいなら誤魔化してもばれはしないだろう」
本来なら引き返すはずの四頭鬼本通りを、鳳太はさらに西へ向かって進んでいった。目指す場所はあの金色の尾長鼠を見つけた、桃の湯斜め向かいの酒屋。そこの軒下に瓶コーラの自動販売機が据えられていたのを、鳳太はしっかり覚えていたのである。
ところが大学通りとの丁字路を通過したところで、鳳太の視界にある物が入った。左手の一郭に見慣れない高い囲いが立っている。そこは四頭鬼二丁目十二番地の北半分。兄妹が四頭鬼町に来た時はただの更地で、囲いはおろか何もなかったはずだ。
「何だありゃ? ここら辺は最近、全然通ってなかったからな」
桃の湯に行くのにはもっぱら裏道ばかり使っており、この周辺の四頭鬼本通りは通らない。大学通り沿いにある多々良妖紙にも別ルートで行くことが殆どだったので、ここ一月の変化に鳳太は全く気付いていなかったのである。
興味を覚え、鳳太は柵の隙間から中を覗いてみた。すると土砂運搬用の馬車や幾つかの工機、詰め所らしきプレハブ小屋が見えた。明らかに何かしらの工事が行われているのだ。
「何の工事をやっているんだ? ん……?」
人の声に気付き、鳳太は左手――東の方へ視線を向けた。スピーカーを通したものと思われる、微かにエコーのかかった声だった。
「こちらは七釜戸警察署です。現在、四頭鬼町全域に妖魔警報が発令中です。今晩から明朝にかけて、危険な妖魔が出没する恐れがありますので、外出は極力ご遠慮下さい。外出中の方は、人通りの少ない道や暗い所は避け……」
声は次第に大きくなり、複数の光が四頭鬼本通りを速足で進みながら、鳳太の方へ近付いてきた。前後に一騎ずつ、計二騎の騎馬警官を伴った警察馬車だ。前を行く騎馬警官の前照灯――馬の胸繋に取り付けられたライトが鳳太を照らし出し、その一騎が駆け寄ってきた。
「おーいきみきみ、こんな所で何をしているんだ? 早く帰りなさい」
「あ、すいません。直ぐに帰りますから」
鳳太が会釈してその場から離れようとすると、警察官一行は目の前で止まった。馬車は小回りが利く一頭引きの二輪車で、屋根には「警邏中」の札が下がり、座席後部にはスピーカーが設置されている。住民にアナウンスで注意を促す一方、妖魔が出没した時に備え、警邏も同時に行っているのだ。
馬車には二人の警察官が乗車していた。一人は手綱とマイクを手にした御者兼アナウンス担当の若手。そしてもう一人は――
「よう、また会ったな。今日は一人か?」
聞き覚えのある声に鳳太は顔を引きつらせた。馬車に足を組んで座っていたのは、あの大木だったのだ。殴られ、散々説教された人物と日もおかずに再会するとは……。ついていないと心中嘆きつつ、鳳太は答えた。
「……妹は自宅にいます」
「懸命な判断だな。お前も早く帰れ帰れ。昨日みたいな目に遭いたくなかったらな」
鳳太は相手の高飛車な態度が気に食わなかったが、その実力は昨日の事件で実証済み。反抗したくても、睨み返すのが精一杯だった。
「係長、先を急ぎませんと……」
「おっと、そうだな。出してくれ」
騎馬警官に促され、大木は「またな、ひよっこ」と言う台詞を残して去って行った。
「あいつ係長だったのか。道理で偉そうにふんぞり返っていると思ったぜ」
フンと鼻を鳴らしたものの、心配げに自分の帰りを待つ凰香の姿が鳳太の脳裏を過ぎった。コーラは諦めた方が良さそうだ。鳳太は全速力で自宅へと向かい、勢いそのままに四頭鬼本通りから天目荘前の通りへ突入した。が、曲がってすぐに何かしらの存在を認め、急停止した。天目荘の斜め前辺り、薄暗い街灯の下で蠢く影がある。しかし妖魔ではないことは直ぐに知れた。色がきちんと着いている。そこにいたのは人間――西村だったのだ。
西村は背を向けたまま、右手にゴミ用のポリバケツをぶら下げていた。西村が立っている場所はこの近辺のゴミ集積場になっている。されどゴミ収集馬車が来るのは明朝、夜にゴミ出しをするのはマナー違反。これはまずかろうと鳳太は三、四メートル前まで接近し、声をかけた。
「西村さん、夜のゴミ出しはいけませんよ。大家さんに見付かったら怒られますよ」
が、西村が無言で面を向けた次の瞬間、鳳太は一歩身を引いてしまった。相手の表情があまりにも異様だったからだ。息をしているのかさえも疑いたくなるような、能面の如きその顔。うっすら開けた目から放たれる視線には、暖かみは微塵も感じられない。単なる無愛想だけではすまされない不気味さを感じ取り、鳳太は背筋が寒くなった。手にしていたソースを危うく落としてしまいそうになったほどに。
やがて西村はポリバケツを持ったまま、天目荘へと戻っていった。鳳太が歩き始めたのは西村がアパートの門をくぐり、自室のドアが閉まる音がした数秒後だ。その近寄りがたい雰囲気に身がすくんでしまったのである。
「何だよ、昨日はあんなに馴れ馴れしかったのに……。酔っぱらっているのか?」
愛想はいいが図々しくて喜怒哀楽が激しく、妹にちょっかい出したがる油断ならぬ男――これが鳳太の目から見た西村だ。ただマナーは全般的にいい方だし、今まであれ程気味悪い態度を見せたこともない。声をかければ必ず挨拶の一つくらい返してくるはずだ。
何か釈然としないものを感じてはいたが、鳳太は今の件を凰香には黙っておくことにした。妹にいらぬ心配をかけさせたく無かったからではない。西村など凰香の眼中にはないのだ。いくら真剣にこの話をしたところで、「あ、そう」の一言で片付けられてしまうとわかっていたのである。
「どうなっているのかしら……? もうずっと発令しっぱなしよ」
五月五日の朝。コーヒーカップに口を付けつつ、凰香はラジオのスイッチを切った。鳳太と凰香は自宅で朝食をとりながら、朝の妖魔出没予報を聴いていたのだが、今朝もまた四頭鬼町全域に妖魔警報が発令されたのだ――二日の夜からかれこれ六回連続で。これ程立て続けに警報が出るのは住宅地では珍しく、十年に一度あるかないかの異常事態であった。
「参ったな。凰香、金はもう無いんだろう?」
「うん。どうするお兄ちゃん、今日は出る?」
「そうするしかないだろうな……」
ホットミルクを一口飲むと、鳳太は白い口髭をつけたまま大の字に寝そべった。妖魔警報の対象となる5レベル以上の妖魔は、二人の手に負える相手ではない。よって警報発令中は買物以外、外出しないことにしている。無論その間の収入はゼロ、今や財布も空寸前。このせっぱ詰まった状態では、多少の危険を覚悟してでも狩りへ出ねばなるまい。
妖魔警報の発令は二人だけではなく、一般市民の生活にも少なからぬ影響を及ぼしていた。屋外へ出るのは極力控えること。仕事などやむない理由があって外出する場合は、明るい時間帯に帰宅すること。小中学生の登下校は必ず集団で行い、保護者や教師を同伴させる……等の規制がかかる。商店も休業したり、たとえ開けても客足が落ちるので早々にシャッターを下ろす店が多い。
「でも何か不思議よね」
食パンにジャムを塗りながら凰香がぽつりと漏らすと、鳳太は半身を起こした。
「不思議って何がだ?」
「聴いていなかったの、お兄ちゃん。市内の他の町には何も発令されていなかったじゃない。四頭鬼町に警報が出たのなら、隣町に注意報ぐらい出てもおかしくないのに……」
「そう言われてみればおかしいな……」
「七釜戸市だけじゃなくて、隣の村雨市や緋木川市にも何も出ていなかったわ」
「何かまるで七釜戸市やその周囲の妖魔が、全部四頭鬼町に集まってきたみたいだなぁ」
と、呟いたところで鳳太は以前、警察官になった紙士から聞いた話を思い出した。妖魔警報が発令されると、管轄署の妖魔課職員は警邏に妖魔退治にと俄然忙しくなるのだ。特に妖魔を直接滅せられる漉士はたとえ非番であっても全員呼び出され、警報が解除されるまで帰宅も許されないという。
あの大木は妖魔課の漉士だ。二日の夜から働きずくめで疲労困憊、相当参っているはず。自分達に偉そうなことを言った報いだ――鳳太は痛快でたまらなかった。
「どうしたのお兄ちゃん、ニヤニヤして」
「あ、いや、何でもない。それで何時くらいに狩りに出ようか?」
「狩りをするなら、レベルの高い妖魔の出没頻度が比較的低い、お昼を挟んで三、四時間の間がいいわ。十時半くらいに出て、二時前に戻って来ましょうよ」
「そんなもんでいいか。俺達が探しているのは1、2レベルの妖魔だからな」
その様な訳で午前十時半過ぎ、二人は狩りへ出ることとなった。予定の時間が来て妖紙筒や免許証、貴重品を入れたリュックサックを背負い、いざ出かけようとドアノブを掴もうとすると、呼び鈴が鳴った。暮里が回覧板を持って訪ねてきたのだ。
「あら、出かけるところだったのかい? 悪いけど急ぎだから、読んだら直ぐに西村さんに回してね。どうも斜め隣の秋野さんが回さずに、長いこと止めていたみたいなんだよ」
「はい、わかりました」
凰香は回覧板を受け取って暮里と別れるなり、玄関へ腰を下ろした。家を出る前に読んでしまうつもりなのだ。鳳太は苛々してきた。
「おい、早く出かけようぜ。そんなもの、帰ってきてから見ればいいだろう」
「駄目よ。大家さんが急いで回してって言っていたじゃない。ささっと見て今、西村さんの所に持っていけばいいでしょう」
「ったく、仕方ないな……」
渋々鳳太は凰香の横から回覧板を覗き込んだ。画板に挟んである回覧物は「訃報」や「野々瀬川清掃員募集のお知らせ」など、二人には関係がないものばかり。ところが後ろの方に綴じてあった緑色のチラシを見て、凰香は歓声をあげた。
「『クラシック演奏会のお知らせ』ですって! 開催日時は五月二十日の午後六時、場所は七釜戸市公会堂。葉書での応募者の中から抽選で五十名を無料招待ってあるわ!」
「残念でした。応募要項をよく見てみろ」
鳳太は意地悪そうにチラシの下の方をトントンと指先で叩いた。
「応募締め切りは四月三十日だ。もう過ぎているじゃないか」
「え……。そんな……」
ぬか喜びに終わり、シュンとなった凰香だったが、それも僅かな間だけ。癇癪を起こして回覧板を玄関戸へ叩き付けたのだ。
「もうっ、くやしーっ! 締め切り前にわかっていれば、絶対に応募していたのに……。秋野さんに文句言ってやるーっ!」
「お前も乱暴な奴だな、全く。画板を壊す気か。おや……」
目を通した憶えがない水色の紙が、画板からはみ出している。鳳太は回覧板を拾い上げ、その紙を抜き出した。他の回覧物の間に包まれるようにして綴じられていたので、気付かなかったらしい。
「何だ、これは。えーと『鉄町、碧鳥町、霧隠町及び白石山町の町名変更反対署名のお願い』か……。あれこの町、全部四頭鬼町の周りの町だよな。北七釜戸駅があるのは確か碧鳥町だったし。でも町の名前を変えるなんて話、あったのか?」
「私は聞いたことあるわ。ここに来て間もない頃、地域のニュースで言っていたの。これらの地名は三百年以上の歴史を持つ由緒あるものだから、古い住民が反発しているって」
「それで四つの町の町内会がこうして署名を集めているのか。どうする、署名す……」
問いかけて鳳太は苦笑した。署名の締め切りは四月二十日、とうに過ぎていたのだ。署名欄に一つの記名もなかったことは幸いだったが。
「先月の二十日が締め切りってことは、この回覧板は随分前に回し始めたってことだぞ。秋野さんは一体何日止めておいたんだ?」
「知らないわ、そんなこと。でも腹が立つわ。きっとあのデブおばさんの仕業ね!」
凰香は回覧板を鳳太からひったくり、表の回覧済欄に「砂川」と書いて立ち上がった。
「お兄ちゃん、狩りに行く前に秋野さんの家に寄ってもいい?」
「お前、本当に文句を言いに行く気か? あまり根に持つなよ」
「持つわよ! 折角ただで演奏会に行けるチャンスをパーにされたんだから!」
ヒステリックに叫ぶ凰香を、鳳太は宥めることも出来なかった。凰香は高校時代、音楽鑑賞部に所属、クラシックには目がない。お気に入りのクラシックを聴いている最中にうっかり声でもかけようものなら、何を投げ付けられるかわからないのだ。
「……でもその前に西村さんの所ね。回覧板持って行かなくっちゃ」
凰香の顔にも声にも落ち着きは戻っていた。怒りを露わにした状態で西村に会うのは、流石にまずいと思ったのだろう。
二人は外付けの階段を登って201号室の前まで行き、呼び鈴を鳴らした。返事はなかったがドアは直ぐに開き、西村が姿を見せた。
「こんにちは西村さん、回覧……」
西村の顔を見るなり、凰香は回覧板をバサリと落とした。目を見開いたまま、まるで凍り付いたかのように微動だにしない。何事かと思った鳳太は後ろから妹の肩に手を置いた。
「おいどうした、凰香」
「お、お、お兄ちゃん……。こ、この人……」
鳳太の手に微かな振動が伝わってきた。凰香は戦き、歯の根が合わない。妹の肩を己の胸元へ引き寄せ、鳳太は耳元でそっと囁いた。
「お前、何そんなに怯えているんだ? 西村がどうかしたのか?」
「え……。わ、わからないの、お兄ちゃん……」
「だから何が?」
「この人、西村さんじゃない……」
違うと指摘されても、目の前にいる人物は見紛う事なき西村本人。ただ西村は口を閉じたまま、無機質な視線を二人へ注いでいる。その表情は三日前の夜に鳳太が見たものと全く同じものだった。改めて異様な雰囲気を感じ取り、鳳太の身体に戦慄が走った。
「じゃ、こいつは誰なんだ?」
「人じゃない……。人じゃないよ、お兄ちゃん……。これは……」
恐怖に耐えきれなくなった凰香は、目をバッと伏せた。
「折妖よ!」
「何だと!」
妹の衝撃的な発言に、鳳太の頭の中は真っ白になった。だがその僅かな隙をつき、西村――いや折妖西村が凰香へ襲いかかったのだ。反動で鳳太はよろけ、凰香は悲鳴をあげた。
「キャー! 何するの!」
折妖西村の両腕が凰香の華奢な首を捉えた。凰香が必死に抵抗しても、食い込んだ指は離れない。折妖西村は喉を握り潰さんばかりの力で首を締め付けてくる。
「この野郎! 妹を放せ!」
怒りの鉄拳を顔面へ叩き込まんと、鳳太は折妖西村へ飛びかかった。ところが拳が相手へ達する前に身体が宙へ浮き、通路の端へ放り出されてしまったのだ。
「畜生! この折妖、念術を使うのか! あ……!」
鳳太は再度と突撃を試みたが、通路に脛が貼り付いて動けない。折妖西村に念術で押さえ付けられてしまったのだ。
「馬鹿メ。大人シクソコデ待ッテイロ。妹ヲ始末シタラ直グニ行ッテヤル」
折妖西村は冷めた口調ではっきりと鳳太に言った――西村本人の声で。
「助け……て……お兄ちゃ……」
凰香は力無く膝を付いた。意識が朦朧としているのか、手がだらんと垂れ下がっている。
「お……凰香ぁ! だ、誰か!」
鳳太はありったけの声を出して助けを求めたが、妖魔警報の影響か反応は皆無。暮里さえ出てこない。
折妖西村を睡眠状態ーー折り紙の状態へ戻したくても、相手の身体に触れなければ術は施せない。だが鳳太は諦めなかった。折士として、未だ試すべき手段が一つだけ残っていたのだ。
――こうなったら折解きをするしかない!
「折解き」とは覚醒状態の折妖をいっきに妖紙へ戻すもので、「紙折り」と並ぶ折士の代表的な術の一つだ。術の発動時に印を結ぶ必要があるが、今の鳳太は手の自由はきく。
鳳太は両手の親指と人差指をピンと伸ばし、これを組んで正方形の「枠」を作った。漉士の紙漉きと同じ印だ。しかし折妖西村のレベルは、鳳太の目から見て確実に3レベル、いや7レベル以上ある。これで折解きを試みても、術が相手に弾き飛ばされてしまうのは目に見えていた。
だが今は奇跡を願ってやるしかない。鳳太は印を敵へ向け、叫んだ。
「折られし者よ。その仮初めの姿を解き、二次元の存在へ戻れ!」
印より発せられた四角い虹色の光が、折妖西村目がけてまっしぐらに飛んでいった。ところがあに図らんや、脇腹へ命中した光は跳ね返されることなく、舐めるように体表を覆い始めたではないか。折妖西村は光を振り解こうと凰香を放り出して身を捩ったが、拡大を食い止めることは出来ない。そして光が手足の先まで達したと同時に――
シュボッ。
短い爆破音を立てて折妖西村の肉体は消滅し、服がくたっと通路へ崩れ落ちた。その横でがっくりと肘をついた凰香は蹲り、激しく咳き込んだ。
「凰香! 大丈夫か!」
通路から足が外れた鳳太は凰香の許へ駆け寄り、片膝を折ってその背を撫でた。暫くさすっているうちに息が整い、咳も収まって凰香は顔を上げた。
「お兄ちゃん……!」
目を潤ませ、凰香は兄の胸へ飛び込んだ。余程恐ろしかったのだろう。戦慄きが止まらない。その震えをおさえるように、鳳太はしっかりと妹を抱きしめた。
「怖かった……。私もう駄目かと思った……」
「心配するな。いつだって俺がお前を守ってやる」
鳳太の言葉に偽りはなかった。自分に替わる者が現れるその日まで、妹は必ず守り通す――十年以上ずっと心に抱いてきた思いだ。その思いを感じて安心したのか、凰香の震えは次第に治まっていった。
「有り難う、お兄ちゃん……」
「どうだ、もう立てるか?」
「うん、大丈夫」
凰香はふらつきながらも立ち上がった。深刻なダメージを受けずに済んだと知り、鳳太は安堵の息をついた。しかし凰香の首には、指の痕がくっきり残っている。あまりに痛々しさに鳳太は正視出来ず、折妖西村の「残骸」――着用していたワイシャツの襟を掴んだ。力任せに一回振ると、服の隙間から真っ黒い紙が一枚落ちてきた。
「こいつが西村に化けていたのか! くそっ!」
妖紙を拾い上げ、鳳太は服を蹴り上げた。もうはらわたが煮えくり返る思いだった。妹が殺されかかったことも勿論あるが、理由は他にもあった。
紙士を志す者が、紙士養成学校の各クラスで最初に教わること。漉士の場合は、「自分の能力で扱えない妖魔をロックオンしてはならない」だ。一方、折士はこう教わる。「人間の折妖を作ってはならない」と……。
折妖人間の作製は、紙士法にもその禁止が明記されている超一級の違法行為。これを犯した者には長期懲役刑が科せられる。御法度の理由はただ一つーー悪用すれば際限がないためだ。事実、過去に折妖人間を用いた事件は数え切れない程起きている。殺人の発覚を防ぐため、殺した人物の折妖で周囲の者の目を欺いた事件。大物政治家を抹殺せんと、その秘書官そっくりの折妖に爆発物を仕込んだ事件。折妖人間で強盗団を結成、銀行を襲撃した事件……等々。
「誰がこんなことを……! でも凰香、どうして西村が折妖だってわかったんだ?」
「やっぱりお兄ちゃん、わからなかったのね。お兄ちゃんには西村さん、どう見えた?」
「気味悪い感じはしたが、普通の人間にしか見えなかったぞ。お前は違うのか?」
「うん。私には折妖に見えたわ」
覚醒状態の折妖――例えば馬車を引いている折妖馬を見た時、一般人と妖視能力者とでは見え方が異なる。一般人の目には「本物」の馬と外見上全く同じように映る。それに対し、妖視能力者には、虹色の光が折妖の周囲にまとわりついて見えるのだ。この光――周妖光が折妖と本物とを見分ける決め手となっているのである。
「私には西村さんの周りに周妖光が見えたわ。ただ他の折妖に比べれば、少し弱いような感じはしたけど……。お兄ちゃんにはそれが見えなかったのね?」
「そうだ。でも俺だって鬼の眼持ちだぞ。その俺が周妖光がわからないなんて」
「私、何だか怖い。紙士の目も欺けるような折妖人間を作る技術があるなんて……」
凰香が恐れること。それはこの「識別困難」な折妖人間が、邪な企みに利用されることだった。折妖人間を用いた事件の中には、紙士や鬼の眼持ちが正体を見破り、未遂に終わったケースも多い。もし彼等に見分けがつかなければ、一体どうなるのか。想像を超えるような恐ろしい事件が起こる可能性もあるのだ。
だが西村に化けていた折妖、鳳太の目は誤魔化せても、凰香の目は誤魔化せなかった。その理由は何処にあるのか、二人共薄々感付いてはいた。実は凰香の妖視能力段階は最高峰と言われるSSなのだ。
通常、妖視能力は不可視状態の妖魔の見え方により、EからSまでの六段階に格付けされる。最下位のEでは妖魔はモヤモヤとしたスライム状にしか見えず、種の判定など全くをもって不可。それに対して最上位のSは妖魔の毛や羽の一本一本がはっきり確認出来るうえ、骨格までうっすらと透けて見えるという。
そしてこのSの更に上を行く超常妖視能力がSSだった。妖魔の特殊能力の一つに「穏形」というものがある。妖魔がこれを使って姿を消すと、妖視能力者や他の妖魔の目すら欺ける。この状態の妖魔であっても見えるのがSSで、紙士養成学校百年の歴史の中でも数人しか確認されていない。凰香が漉士に適していると紙士養成学校で判断されたのも、この優れた妖視能力があったことが大きかった。ただ残念なことに、折角の天賦の才を上手く使えていないのが現状ではあったが。
一方、鳳太の妖視能力段階はA。Sのように骨格まではわからないが、妖魔の細かい毛並みまではっきり見える。紙士の妖視能力としてはかなり優秀な方だが、SSには到底敵わない。今回、この差が周妖光の可視や不可視となって現れたに違いなかった。
「でもあんなに出来のいい折妖人間、どうやって作ったんだろうな。折妖であることがばれないのも凄いが、細部に至るまで西村そっくりだったじゃないか。姿ばかりか声までも」
「折妖の声は素妖の声に似るから、西村さんと同じ声を出せる訳がないわね」
「そうだろうな。それにもし通常の方法で折妖人間を作る、つまり妖紙をそのまま人の形に折って覚醒させても、それこそ埴輪みたいなのっぺりした面にしかならないはずだ。ただ噂によれば、特定の人間にそっくりな折妖人間を作る方法があるらしい」
「え、それってどんな方法なの?」
凰香が興味深そうに尋ねると、鳳太はたちまち不機嫌となった。
「俺が知る訳ないだろう。学校で違法行為の手段を教えると思うか? とにかく、それを解明するにはこの妖紙を調べるしかないな」
「そうね。けどお兄ちゃん、よく折解きが出来たわね。あの折妖は2レベル以下?」
「いや……。俺の目にはそうは見えなかったが。それにあいつ、念術使いやがったぞ」
「でしょうね。私の知っている範囲じゃ、念術を使う2レベル以下の妖魔なんていないから。そんな特殊能力を持っている妖魔は、少なくとも7レベルはあるはずだわ」
「妖紙や折妖は大抵の場合、素妖のレベルや特殊能力をそのまま引き継ぐからな。ってことは、あいつも7レベル以上か。俺の腕が上がったのか?」
一変、笑顔を見せる鳳太。だが凰香の反応は冷ややかだった。
「まさか……。こんな凄い折妖人間を作る技術があるのなら、紙合わせで妖紙に特殊能力を追加するくらいどうにかなるんじゃないの。実際、養成学校の染士の実習じゃ、『レベルの低い妖紙を別の妖紙と紙合わせして、念術を付けてみましょう』なーんていうのがあるっていうし。きっとあの折妖人間は2レベル以下だったのよ」
「念術を持つような高レベル妖魔の妖紙と低レベルの妖紙を紙合わせしたら、その中間くらいのレベルになるはずだろう」
「わからないわよ。紙合わせは奥の深い術だから、組み合わせによってはレベルが著しくダウンすることもあるって話だから」
「お前、可愛くないな。さっきまであんなにメソメソしていたくせに」
「だって……。あっ!」
鳳太が蹴り上げた折妖西村の残骸へ目を移し、凰香は思わず大声を上げた。服の中に銀色に光る物が紛れている。凰香はそれを拾い上げた。
「このシルバーチェーンのネックレス、前に西村さんがお姉さんとのお揃いの品だって自慢していた物よ。お姉さんが初任給で買ってくれたとても大事な物だから、誰にも触らせないって。これを折妖人間が着けていたってことは……。本物の西村さんに、何かあったってことじゃないかしら?」
「そう言われてみれば……!」
鳳太も凰香も折妖人間や妖紙ばかりに気をとられ、肝心なことを忘れていた。本物――人間の西村がどうなったかを。西村は兄妹を除けば、全くといっていいくらい紙士との関わりを持っていない。その西村の部屋に、彼そっくりの折妖が居座っていたのだ。しかも西村が決して他人へ渡すことのない、大切なネックレスを身に着けて。
「凰香、お前、今日より以前に西村を見たのはいつが最後だ?」
「えーっと……今月の一日よ。ほら、午後の狩りへ出る前、台所の窓から手を振っていたじゃない。あれは間違いなく本物だったわ。周妖光なんて見えなかったし。お兄ちゃんは?」
「俺は二日の夜だ……」
鳳太が二日の夜にあった出来事を話すと、凰香は眉をひそめた。
「それでその時の西村さん、さっきの折妖同様、鉄仮面みたいな顔をしていたのね?」
「ああ。だからその時、既に西村は折妖人間だったんだろうな。でもその前日、鯉の切り身をせびりに来た時のあいつは、絶対本物だったという確信がある。お前の声を聞いてやたらと嬉しそうな顔をしていたし、第一折妖は人間の食い物を欲しがったりしないからな」
「つまり西村さんは、一日の夜から二日の夜の間に折妖になったのか……。ねえ、ちょっと西村さんの部屋、調べてみない? 何か手掛かりがあるかも知れないわ」
「そうだな。幸い鍵も開いているし。物に手を付けないように注意すればいいか」
二人は西村の衣服を拾い上げると、彼の部屋へ上がり込んだ。そして十分ほど内部を見て回った結果、物置の中である物を発見した。郵便受けから抜いたままの状態の新聞が、纏めて放り込まれていたのだ。
「読んだ形跡が全くないな。何日からの分があるんだ? えーと、三日の朝刊から今朝の分までか……。凰香、奥の部屋に読みかけの新聞があったな。あれ、いつの新聞だ?」
「二日の夕刊だったわ。西村さん、あの部屋で夕刊を読んだのよ」
「でも三日の朝刊はここにある。折妖は新聞なんか読みはしないから、ここにしまい込んだんだ」
「西村さん、二日の夕方まではここにいたのね。そしてお兄ちゃんが会った時間、夜の七時半過ぎまでの間にすり替わったんだわ。……あらお兄ちゃん、どうしたの?」
凰香は不思議そうに兄の顔を覗き込んだ。鳳太が珍しく難しい顔をして考え込んでいたからだ。
「西村に化けていた折妖人間、おかしいと思わなかったか?」
「おかしいって、何が? 周妖光の他に何かあったの?」
「そうか。お前は漉士だから、気付かなかったんだな……」
漉士が妖魔の、染士が妖紙のプロであるように、折士は折妖のプロである。三役の中で折妖の知識に関しては右へ出る者はなく、その端くれとはいえ鳳太も例外ではなかった。
「凰香、忘れたのか? 折妖は主ーー命令者の命には決して逆らわないってことを。そりゃそうだよな。折妖が命令に従わず、勝手に動き回ればどうなるか、わかるだろう?」
「ええ。馬車馬が御者の命令を無視しようものなら、大変なことになるわ」
折妖は自分を折った折士――作製折士には、絶対的な忠誠を誓う。鳳太が「神妙にいたせ!」と言った途端、折妖鯉が全く抵抗しなくなったのもこのためだ。たとえ殺されるとわかっていても、逆らうような真似は決してしない。
ただ折妖が作製折士の命にしか従わないのでは、問題も起こる。他の人間が折妖を生きた状態で利用したい場合だ。そうした時、作製折士は「折妖馴し」と呼ばれる特殊な術を施し、折妖が自分以外の人間でも扱えるようにする。この折妖馴しには、一定の人間の命令のみに従うようにする処置法と、複数の人間の命令にも従うようにする処置法がある。前者は個人のペットや警備用動物、後者は公共交通用の家畜などが代表的な処置例だ。
因みに自分が折った折妖でなくても、折士は何の支障もなく折妖馴しを施すことが出来る。他人の折妖も自分の支配下に置けるということだ。言うまでもなく、それが自分が扱えるレベル以下の折妖であれば……の話だが。
折妖馴しを施した折妖も、そうではない折妖も、命令者が出した命に忠実である点は同じである。命令は「今すぐ何々せよ」という即時的なものだけではなく、事前に出しておいたものでも問題ない。例えば折妖番犬に、「自分が留守の間、家に侵入しようとする者を追い払え」と言い聞かせておくことも可能なのだ。
「折妖は馬鹿正直だ。前もって命じておけばその場に命令者がいなくても、命令通りに動く。だがそれは同時に命令者が側にいないと、命令以外の行動は何一つしなくなるってことでもあるんだ」
極端な話、前述の折妖番犬の例で言うと、留守中に家が外から放火されても、折妖番犬は犯人を捕らえようとも火を消そうともしない。命令は侵入者の阻止だけだからだ。
「じゃあお兄ちゃん、逆に命令者が側にいれば、折妖は命令以外のこともするの?」
「それは全然珍しくない。例えば命令者が質問した場合、求めた答え以外のことまで喋ったりするのはざらだ。あと折妖ペットによくあるんだが、命令者に気に入られようと愛嬌を振りまいたりとか。それでも命令に反したり、逸脱するような行為は絶対にしないぞ」
「つまりあの西村さんの近くには、命令者と思われる人物がいなかったから、事前命令でしか動けないはずなのね?」
「ああ。でも実際はそうじゃなかった。お前を殺そうとしている時、あいつは俺に向かって悪態つきやがった。『悪口を言え』なんて不必要で意味のない命令、前もってする物好きはいないぞ。それにあいつはゴミを集積場へ捨てようとし、俺が注意したら止めて持ち帰った。こんな細々としたことまで、事前に命令されていたとは思えないだろう」
「誰かが別の場所から折妖に命令を出して、遠隔操作をしていたのかも知れないわ」
「あいつをいちいち監視しながらか? 馬鹿な。そんなことがあり得るか」
「それならお兄ちゃんはどう考えているの?」
凰香が横目で睨むと鳳太は少し間をおき、やや重い口調で答えた。
「俺の考えはただ一つ。折妖西村は自分の意思で行動したんだ」
「えーっ! でも折妖は命令以外のことはしないって……」
「だから変だと言うんだ。こいつは何かあるぞ、凰香。警察に妖紙を持っていって事情を説明しよう。折妖人間の作製自体違法だし、西村の捜索願も出さなきゃならんからな」
「ねえ、その事なんだけど……。もしかしたら西村さんが大学の講義をさぼろうとかして、自分で折妖を置いたってことは考えられない? 誰かに頼んで自分の折妖、作ってもらって」
「あのなー、お前」
鳳太は大きくため息をついた。
「さっきあの折妖に殺されそうになったこと、忘れたのか? あの野郎は口封じのために俺達に襲いかかってきたんだぞ。本物の西村はお前に気があった。いくら折妖であることがバレたからって、お前に危害を加えるような真似をあの野郎にさせると思うか? 誰かが西村の失踪を隠すため、折妖を天目荘に置いていったとしか考えられないぞ」
「そっか……。ならお兄ちゃん、警察に行く前に大家さんにもこの事、話しておきましょうよ。西村さんの実家に大家さんから連絡入れてもらった方がいいし」
「あ、そうだな。大家さんにはきちんと話しておかないと。それに実家の親だって、息子が行方不明……なんて言われるのなら、警察より大家さんの方が幾分ましだろう」
兄妹は頷き合い、西村の部屋を出ると一階へ降りて暮里の部屋を訪ねた。ところが相手の顔を一目見るなり、即刻立ち去りたい気分に駆られた。皺だらけの額に一層皺を重ねた、見るからに怖い顔付きで暮里は二人を出迎えたのだ。
「ちょっとあなた達! さっき上で何騒いでいたの? 人が電話をしている時くらい、静かに……」
そこまで怒鳴ったところで、暮里ははっとなった。鳳太の後ろに隠れるように立っていた、凰香の異変に気付いたのである。
「お、凰香ちゃん! その首の痣、何? どうしたの?」
「大家さん、実は……」
妹に代わり、鳳太は先程起きた出来事を事細かに語った。凰香の首の痣が折妖に絞められた痕だと知り、暮里はその項にそっと手を触れ、涙ぐんだ。
「まあまあまあ、可哀想に……。何てことなの。でも鳳太君、本当なのかい? 西村さんが折妖にすり替わっていたのは」
「はい。それでこれから警察に行って来ます。すいませんが大家さん、西村さんの実家にこの事を伝えて頂けますか? 実家の電話番号、御存じですよね?」
「ええ、勿論。西村さんが入居する時、実家の住所と電話番号は教えてもらっているからね。直ぐにでも電話するよ」
「お願いします。凰香、お前は家に残って首の手当をしていろ」
こんな傷を負った妹を外へ連れ出すのは忍びないし、第一本人が嫌がるはずだ――そう思って鳳太は言ったつもりだったが、凰香は首を横へ振った。
「嫌よ、お兄ちゃん。私も一緒に行くわ」
「馬鹿、そんな怪我で外に出るのか」
「そうよ凰香ちゃん、あなたはここにいた方がいいよ。ちょっと待っていて、いい湿布薬があるから付けてあげる」
暮里は奥の部屋へ急いで駆け込もうとした。しかし凰香は、
「結構です、大家さん。私も兄と一緒に警察に行きます。だってあの折妖の周妖光を見たのは、私だけなんですから」
と、きっぱり断って鳳太の腕へ手を回した。
「行こう、お兄ちゃん。警察なら北七釜戸駅前にある交番がここから一番近いわ」
「あ、ああ。それじゃ大家さん、失礼します」
「凰香ちゃん、待ちなさい! せめて傷の手当てくらいしてーー」
驚いて制止しようとする暮里を振り切り、二人は北七釜戸駅方面へ向かって駆け出した。しかし四頭鬼本通りを横断したところで、鳳太は急に立ち止まってしまった。
「どうしたのお兄ちゃん、こんな所で」
「駅前の交番には行かないぞ、凰香。ここで賃走馬車を拾う」
「ええっ! タクシーに乗って何処に行くのよ! お金ないのに!」
「金のことなら心配すな。何故って行き先は――」
鳳太は親指を突き立てて微笑んだ。
「七釜戸署だからな。タクシー代、あの係長のおっさんに何とかしてもらおうぜ」