第1話 鳳凰兄妹
皆様初めまして。工藤湧と申します。
本作品「紙使い」は、昭和の日本に似た国が舞台となっています。携帯電話もない、コンビニもない、ハンバーガーショップもないーーそんな時代です。でも「日本に似た国」ですから、おかしな点もあります。町中には電車も走り、空には飛行機も飛んでいるのに、路上には自動車もバイクも見当たらない。目に付くのは馬車や馬に乗った人ばかり……とまあ、そんな感じです。
この世界で一目置かれる存在が「紙士」です。人類の脅威である妖魔を駆除し、利用できる術を彼らは使います。この術は魔法と言ってもいいものです。つまりーーこの話はちょっと変わったファンタジーなのです。
本作品には主人公のようなペイペイからエスピーを勤める凄腕まで、様々な紙士達が登場します。彼らの活躍をどうぞお楽しみ下さい。
「ロックオン!」
軽やかな若い娘の声が、閑静な住宅地を突き抜けた。ぽつんと開けた空き地のほぼ中央、娘の前方数メートルの空間が、麗らかな春の日差しを受けて蜃気楼のように揺らめき出す。が、数秒経って透明だった「それ」に色が着き始めるのを見て、娘は真っ青になった。
「え……うそ。どうしよう、間違えちゃった!」
「馬鹿っ、何やってんだ! に、逃げろ!」
そう叫ぶやいなや傍らにいた若者は娘の手を掴み、全速力で走り出した。娘が誤って照準を合わせてしまった「それ」を放置したまま。やがて完全に姿を現わした「それ」はグオーッと怒りの咆哮をあげると、二人を追って空き地から飛び出した。体長およそ四メートル。口から四本の牙が突き出た、深紅の剛毛に覆われた大猪だ。まるで火の玉が転がり落ちるかの如く、全身の毛を逆立てて坂道を駆け下りてゆく。
追う猪、逃げる娘と若者。両者の距離は見る間に縮まって行った。迫り来る蹄の音に気付いて振り返った途端、娘は爛々とした眼に睨まれ、涙声で叫んだ。
「このままじゃ追いつかれちゃうよ、お兄ちゃん!」
「くそーっ、何とかならな……うわっ、まずい!」
懸命に走り続ける二人の視界へ飛び込んできたもの。それは赤い色が灯った信号機とその下にぶら下がる「四頭鬼四丁目」という標識だった。一際幅の広い舗装された道路が、行く手を遮っている。町内でも有数の道路である四頭鬼西通りとの交差点へ出てきたのだ。
躊躇っている暇などなかった。交通規則を守っていたら、猪に追いつかれてしまう。速度を緩めることなく、二人はまっしぐらに交差点へ向かって突っ込んでいった。
ところが丁度この時、四頭鬼西通りを進む一台の乗合馬車が、交差点を駆足で通過しようとしていたのだ。突如目前に出現した人の姿に御者は血相を変え、咄嗟に手綱を引いた。四肢を踏ん張る二頭の馬。タイヤは擦れ、客車は軋んで乗客は悲鳴をあげた。
幸いにもバスは交差点の寸前で停車し、辛くも事故を免れた。謝罪もせずに駆け去る二人に、御者は安堵の息を漏らする間もなく怒りを爆発。顔を真っ赤にさせて鞭を振り回した。
「こらーっ! 危ないじゃな……」
次の瞬間、御者の怒りは消し飛んだ。続いて飛び出してきた猪が、バスの前でピタリと足を止めたのだ。客車の中には十人を超える人間がいる。若造二人を牙にかけるより、こちらの方が遙かに「やりでがある」と思ったのだろう。猪はブホッと唸ると、ゆっくりと向きを変えた。
「わ、わ、化け物め! く、来るなーっ!」
御者が鞭を一発頭へお見舞いしても全くこたえていないようで、猪は平気な顔。頭を客車の下へ潜り込ませようとする。怪力に物をいわせて客車をひっくり返し、破壊しようと企んでいるのだ。恐怖の虜となった御者は身体が竦み、もはや馬に一鞭当てることも不可能。乗客はパニック状態に陥り、ドアロックを解除しようとする車掌を押しのけ、我先に乗降車口へ殺到したが――
「しっ、静かに。奴を下手に刺激するのは危険だ。ここは俺に任せろ」
最前列の座席に座っていた男が他の乗客を宥め、窓から客車の外へ降りた。男は白髪交じりの四十代くらいで、体格は少々太め。着ているワイシャツはよれよれで面立ちも冴えないが、相手――猪を見詰める目つきはナイフの如く鋭い。
「やれやれ、ランク3の突撃獣か。今朝の予報は大外れだな」
男はやや丸みを帯びた顔に、うっすらと笑みを浮かべている。相手の落ち着き払った態度に、猪は本能的に何か危険なものを感じ取ったのか、身を翻した。
「おっと、逃がさんぞ! 俺に目を付けられたのが運のつきだと思って、観念しろ!」
男は両手の親指と人差指を突きたて、それを組んで正方形の「枠」を形作った。そしてこの枠を猪へ向けると、大きく息を吸い込んだ。
「魔性のものよ。その異形の身を溶かし、二次元の存在と化せ!」
男が叫ぶや否や、枠から正方形の光が発せられた。、違うことなく猪に命中した光は、数秒足らずで猪を覆い尽くし――光に押し潰されるように猪は消滅した。路上に焼き付けられた四つの蹄跡の間に、二十センチ四方の真っ赤な紙一枚を残して。
白昼の、しかも町の大通りで発生した出来事に、交差点は騒然となった。通りを走行していた個人馬車や騎馬は全て止まり、流れは完全に滞っている。騒ぎを耳敏く聞きつけ、周辺住民までぞろぞろと集まってきた。そんな中、男が悠然と紙を拾い上げ、鞄から取り出した紙筒へ収めていると――
「あー、酷い! 最初に見付けたのは俺達なのに」
先程猪に追われていた二人が人混みをかき分け、男の前に現れた。若者は長身だが線は細く、口を尖らせるその顔は何処か生意気そうで、まだまだ子供っぽさが残っている。娘はロングヘアで目はぱっちり、鼻筋も通っていてなかなかの美女だったが、淑やかさは微塵も感じられない。二人共ジーンズに運動靴と身軽な服装で、使い古されたリュックサックを背負っていた。
「妖魔をロックオンしたのは妹ですよ! その妖紙は俺達の物じゃないですか!」
「お、お兄ちゃん、まずいってば。この人、結構な腕前の漉士よ。もしこの事を妖魔局に言いつけられたら……」
横に立つ娘が、顔をしかめて若者の袖を引っ張った。
「でも、妖紙はロックオンした漉士の物になるって教わったんだろう、お前」
「だからそれは紙漉きに成功した場合だって。あ……」
目を三角にして近寄ってくる男を見て、娘はサッと若者の背後へ隠れ、若者も後ずさりした。こんな大勢の人の前で、雷を落とされては堪らない。二人は急いで野次馬の中へ逃げ込もうとしたが、男の声に足が止まってしまった。
「こら、逃げるな。二人共免許証を見せてみろ」
「免許証……ですか?」
狼狽える娘を見据えながら、男は大きく頷いた。
「そうだ。お前達、もぐりでなければちゃんと持っているんだろう? 紙士の免許証を! おい、若いの。紙士法第五条第二項を言ってみろ」
「『紙士は如何なる時も免許証を携帯すること。そして免許証の提示を求められた際は速やかにこれを見せ、その身分を明らかにしなければならない』……でしょ」
若者がボソボソと答えると、男はほんの少し相好を崩した。
「よーし、上出来だ。わかっているんなら早く見せろ」
「ちぇっ……。出せばいいんでしょ、出せば」
二人は渋々リュックサックを下ろし、中からパス入れを取り出して男へ手渡した。
「どれどれ……。砂川鳳太、九級 折士。砂川凰香、九級漉士。共に五十期生か。ハーッハッハ! 何だお前達、この三月に養成学校を卒業したばかりのひよっこじゃないか。それでお前達、何歳だ? 吉華四年七月十八日生まれって事は、まだ二十歳か。ん……?」
男は二つの免許証を見比べ、目を見張った。
「誕生日が同じ……。お前達は双子か?」
「……そうです」
仏頂面で若者――砂川鳳太が答えると、男は些か驚いたようだった。それもそのはず、双子のわりには二人の顔付きは殆ど似ていない。今時のがさつな若いカップルと言われても、全く違和感はないだろう。
男は免許証を返すと、娘――砂川凰香に尋ねた。
「ところでお嬢さん。養成学校の漉士クラスでまず最初に何て教わった?」
「それは……」
「自分の能力で扱えないレベルの妖魔をロックオンしてはならない……って教わらなかったか?」
「教わりました。私、さっきの妖魔を3レベル妖魔だと勘違いして、ロックオンを……」
「おいおい、3レベルでも九級じゃちょいと苦しいぞ。何でそんな背伸びをした?」
「私達、今年度中に少なくとも五級まで昇級しなければならないんです。だから少しぐらい無理をしても、腕を上げないと……」
「ははーん、お前達フリーの妖魔狩人か。しかし困ったもんだな。どういう理由があって昇級を急いでいるのかは知らないが、無理してロックオンするのはまずいだろう」
男は紙筒から抜き取った紙――妖紙を凰香の目の前でヒラヒラと振って見せた。
「この妖紙の素妖――お前達を追っかけていた妖魔は、ランク3の突撃獣。5レベルの妖魔だ。5レベル妖魔を紙漉きするには、六級以上の腕前が必要。お前には無理だろうが」
「私もロックオンした後にそれに気付いて、その……」
「それで逃げ出して、こいつに追っかけられたのか。妖魔を紙漉きするには、ロックオンしなきゃならん。だがロックオンすれば妖魔は可視状態となり、人間の目に晒されるようになる。そうなれば何が起こるか、わかっているな? 突撃獣は気が荒い。襲い掛かって来るぞ。お前達が殺されるのは勝手だが、関係のない人を巻き込むのは勘弁してくれ」
「すいません……」
素直に頭を下げたと思いきや、凰香は横で口を尖らす鳳太の脛を蹴飛ばした。
「おい、何すんだよ、凰香!」
「大体、お兄ちゃんがいけないんだからね! 珍しい妖魔がいるって急かしたりして!」
「そう言うお前だって、ろくに確認もせずにロックオンしたくせに!」
「何よ、人の苦労も知らないで! 一番危ない目に遭うのは、漉士なんだから!」
「お前、妹のくせに生意気だぞ!」
「双子に上も下もないわよ!」
「こいつ!」
鳳太は反射的に手を上げたが、妹の頬へ振り下ろす前に男に腕を押さえられた。
「こら止めんか、この暴力野郎が! 女を殴って更に恥をさらす気か?」
だが鳳太は力任せに手を振り払うと、男へ食ってかかった。
「そう言うあんたは誰なんです? さっきから随分と偉そうなこと言っていますけど、先輩風吹かせて俺達に説教する権利でもあるんですか!」
「そうか、自己紹介が未だだったな。俺の名は大木和馬という。紙士歴二十四年の三段漉士だ。ついでに言えば職業は――」
男――大木は懐へ手を入れ、二人の前へ一冊の手帳を突き出した。手帳の表紙には燦然と輝く和州国警察のマークがある。
「げげっ! あんた警官かよ!」
「そういうこと。七釜戸署妖魔課所属の警部補だ。今日は非番でな。たまたまあのバスに乗り合わせていたんだ。警察官として、お前達の行いに目を瞑る訳にはいかん。確かに活動中の紙士は、多少の交通規則違反なら見逃してもらえる。だがそれは、他人に迷惑をかけないことが前提だ。今日のは明らかに限度を超えている。危うく人身事故を引き起こすところだったんだからな。さて――」
大木は右肘をグッと引くと、鳳太の頬へ思い切り拳を叩き込んだ。
「署までご同行願おうか。でもその前にやってもらうことがある。二人共、バスの御者と車掌、乗客に謝ってこい!」
「は……はい。お兄ちゃん、ほら、行こう」
妹に腕を引っ張られても、鳳太は返事すらしなかった。大木のきつい仕置きのせいで、目の前を幾つもの星が舞い飛んでいたのである。
妖魔。それは自然界の生物とは、別の進化の過程を辿ったと言われるモンスター――魔性の存在。その姿形・性格・能力は、種族や個体によって多種多様。だが、多くが人間に敵対心を抱き、有史以前から様々な害悪を及ぼしてきた。害悪も大した能力も持たないレベルの低い妖魔ならば、人を転ばしたり、物を隠すなど「悪戯」程度で片付けられる。が、レベルが高くなるにつれ、それも悪辣になって行く。集落を襲撃して民を殺し、自然災害を引き起こし、飢饉や疫病をもたらす。国際紛争の火種となる事すらあるのだ。
そんな妖魔も意外なことに、己の存在を人間に覚られることを酷く嫌う。普段は姿を消し、人の目に触れることはない。妖魔は密かに悪事を働くことに喜びを覚えるのである。
太古より人々は妖魔と戦い、これを滅しあるいは退けようとした。だが妖魔は――殊に中レベル以上の妖魔は、人間の武器では容易に傷付かない。高レベル妖魔となれば、銃器すら効かないのだ。人々は目に見えぬ敵を相手に、長きに渡り苦戦を強いられた。
ところが戦況が一変する出来事が、今から四百年程前に起こった。和州国と呼ばれる東方の小さな島国で、画期的な技術が確立されたのだ。妖魔を「紙」と化し、この紙を折って生き物の形と成し、再び血肉を通わせて利用する。この特殊な技術を習得した者達こそが、「紙士」だった。
有害な妖魔を駆除し、有効利用出来る力を持った紙士には、以下の三役があった。
妖魔に照準を合わせて「可視化」した後、「紙漉き」をしておよそ二十センチ四方の紙、即ち「妖紙」へと妖魔を変える「漉士」。妖紙を作り出せる唯一の存在であり、三役の中で最も重要かつ尊敬される者達だ。
妖紙を生き物の形に折り、この「折妖」と呼ばれる物を「覚醒」させて血肉の通った生き物と化し、操って使役する「折士」。妖魔を実用化する能力を持っていることから表舞台で活躍することが多く、紙士の花形ともいえる。
妖紙の染変えや合成などの加工、修復等を行う「染士」。完全な裏方で、使える術も地味なものが多いが、彼等もなくてはならない存在だ。
和州の紙士は、この力を他国の人間にも次々と伝授。紙士の技術は瞬く間に世界中に広がり、人々を妖魔の脅威から救った。時は流れ、文明が発達して人々の生活が変わっても、依然紙士の活躍の場は減らない。いや、むしろ増えている。四百年経った今も妖魔は滅びる気配を見せていないうえ、折妖の用途も多様化してきているからだ。
現在は長距離大量輸送の時代。町中に電車や汽車が走り、空には飛行機が飛ぶようになった。しかし未だに路上輸送の主役は折妖家畜が引く車であり、一般家庭でも輸送や乗用に用いる折妖馬をごく普通に飼っている。折妖は寿命尽きるまで餌もいらず、糞尿も垂れ流さず、疲れも知らず働き続ける、低コストでクリーンな労働力だからである。
輸送以外にも折妖の利用法は多数ある。牛や豚などの食用家畜や魚の折妖を作り、これらから肉を得る。こうした折妖の獣肉や魚が、町の商店の店頭には普通に並べられている。「本物」に比べてかなり安価なうえ、味も殆ど変わらず安全性も確認されているので、需要も高い。他にもペットや警備用動物、工業・農業用家畜など、折妖は人々の生活で必要不可欠な存在となっているのだ。
だが折妖の使い道は、何も平和利用に限ったことではない。折妖を軍事に利用し、他国の侵略や国家転覆を企てる――こんな事件が全世界で幾度となく起きている。そこで紙士発祥の地・和州国では今から百年程前、妖紙や折妖、紙士を管理する事を目的とした法律・「妖魔産物利用法」及び「紙士法」が施行されたのだ。紙士を国家資格とし、国立紙士養成学校を卒業した者だけに免許を与えることも、後者によって定められていた。
鳳凰兄妹と呼ばれる砂川鳳太・凰香の兄妹も、この紙士養成学校の卒業生だった。二人は先輩に当たる三段漉士の大木に、七釜戸署でこってり絞られ――午後五時過ぎ、ようやく自宅のある如月県七釜戸市四頭鬼町へ戻ってきた。
――今日はこんなもんで勘弁してやる。でもまた変な騒ぎを起こすようなら、上部機関に報告するぞ。そうなればどうなるか、わかっているな?
大木に釘を刺され、二人は落ち込んでいた。もし警察庁妖魔局(対妖魔保安、妖魔や紙士絡みの事件並びに紙士等の管理を扱う警察組織での最高機関)に不祥事が発覚すればよくて罰金、最悪免許剥奪といこともありえる。もう今日のような無茶は出来ないのだ。
時は五月一日、木々の新緑も眩しい穏やか季節だったが、青い空とは対照的に二人の心は晴れない。四頭鬼町と隣町との境を流れる二級河川・野々瀬川沿いの遊歩道をとぼとぼ歩きながら、鳳太は石ころを蹴り上げた。
「何だよ、あの大木って奴。有段者だからって威張りやがって」
「お兄ちゃん、もうよそう。それよりその顔、冷やした方がいいよ」
「そうだな……」
鳳太は左頬をさすりつつ、妹の寂しげな横顔を見た。折角見付けた獲物も紙漉き出来ず、妖紙を「横取り」されてしまったのだ。漉士としてショックを隠せないのだろう。
紙士三役のうち、最も危険な役がこの漉士だった。妖紙を得るため、妖魔と直接対決しなければならないのだから。故に漉士の多くは折士とコンビを組む。折士が操る折妖が妖魔から攻撃を受けた時や、紙漉きの際に大いに助けとなるためだ。されど先の件では鳳太は結局、何の手助けも出来なかった。妹の手を引いて逃げるのが精一杯だった……。
「とにかく帰る前に公認ショップに寄ろうよ、お兄ちゃん。今日手に入れた妖紙、鑑定してもらわなくっちゃ。どうせ大した額にはならないけど」
「あの染士の爺さんの顔を見るのは癪だが、仕方がないか。この近辺にはあそこしか公認ショップはないんだからな」
遊歩道から外れ、二人は公認ショップへ向かった。公認ショップとは妖魔局が妖紙や折妖の取扱いを認可した店で、妖紙の売買及び修復や加工全般、さらには折妖の作製販売など、その業務は多岐に渡っている。
この公認ショップ、紙士の国家資格を持つ者が持ち込んだ物に限り、妖紙の無料鑑定も行っていた。実は妖紙は妖紙鑑定士――多くは有段資格を持つ染士――が鑑定し、レベルや素妖の種類等を明確にした物でなければ、売買出来ないと妖魔産物利用法で定められている。よって妖紙を現金化するには、どうしても鑑定を済ませなければならないのだ。
兄妹は妖紙の売却だけで生計を立てており、実力のなさもあって生活は非常に苦しい。その日暮しの生活をせざるを得ないのだ。今日の収穫も突撃獣に追いかけられる前に紙漉きした、下級妖魔の妖紙たった二枚だけだった。
三、四分歩いた後、二人は大学通り沿いの角地にある、七釜戸市北部で唯一の公認ショップへ辿り着いた。東和州地方一帯にチェーン店を展開する、多々良妖紙の四頭鬼店だ。
「いらっしゃ……何だ、またあんたらか」
引き戸を開けて店の中へ入るや、奥から老人の気の抜けた声が聞こえてきた。声の主は店主の櫛山瀧也。妖紙鑑定歴三十年のベテラン染士であったが、格下の紙士には横柄な態度をとるので、鳳太も凰香も櫛山のことがどうしても好きになれなかった。
二人が訪れた時、店内に客の姿はなかった。尤も客がいても、殺風景なことには変わりがない。六坪程の店内で目につく物は、入口横に据えられたガラスの陳列棚、壁のB1判模造紙に書かれた妖紙査定表、そして奥にある接客用カウンターと書類棚だけなのだから。
直ぐに凰香の目は、陳列棚に並べられた妖紙に釘付けとなった。どれも一万円以上の評価額がついた高額品、凰香の技術ではひっくり返っても漉けない物ばかりだ。
「13レベル、ランク5魔鹿の妖紙……。紫色のレアものかあ……。値段十五万円……」
妖紙を見詰める凰香の目は、心なしか潤んでいるように見えた。下級紙士の惨めさを知っているだけに、鳳太も敢えて止めようとはせず、黙ってカウンターまで歩み寄った。
「また鑑定をお願いします、櫛山さん」
「どれどれ、半熟紙士。今日の上がりを見せてみろ」
櫛山は老眼鏡をかけると、鳳太から斑模様の妖紙を二枚受け取った。表面を撫でたり透かしてみたりと一通り確認作業を行った後、櫛山はカウンターの引き出しからカーボン付の帳面を取り出し、記入し始めた。
「はい、鑑定証」
櫛山は帳面から紙を一枚切り離し、鳳太へ差し出した。
『 妖紙鑑定証 【鑑定証発行番号:0501の2】
妖魔局公認番号第67号 多々良妖紙株式会社四頭鬼店
如月県七釜戸市四頭鬼3-12-6
妖魔レベル:2 素妖:ランク1地鳥 サイズ:4
色:白黒 特殊能力:無し 寿命:1年
評価額:100 枚数:2 合計評価額:200
上記の通り鑑定したことを証明します
吉華25年5月1日 五段染士 櫛山 瀧也 』
「やっぱりこんなもんか……。今日一日町内歩き回って、二百円とは……しょぼ。もう少し何とかならないんですか? これじゃコロッケ二つ三つ買ってお終いですよ」
「あのねー、ランク1地鳥の妖紙じゃ、この程度の評価額にしかならんよ。もっと儲けたかったら、腕を上げてレベルの高い妖魔を漉きなさい」
櫛山の言葉は、凰香に対するあからさまな嫌みだった。だが鳳太には返す言葉はない。レベルも低い、特殊能力もない、かといって色も平凡でレアものでもない妖紙など、良い値がつくはずもないのだから。
「で、どうするんだい? この妖紙、うちに売るのか売らないのか」
櫛山は掌の上で百円硬貨を二枚、ちゃらちゃら揺らしている。鳳太は殴りつけてやりたい衝動に駆られたが、グッと堪えた。
「……自分で引き取ります」
「あ、そう。それなら今、鑑定済印を押してやるからな」
櫛山は妖紙の裏面の隅に公認番号や鑑定月日、鑑定証発行番号が入った銀色のスタンプを手早く押し、鳳太へ返した。
凰香はまだショーウインドーに貼り付いたままであった。おかげで櫛山の嫌みは耳へ入っていなかったようで、鳳太に肩を叩かれてようやく我へ返った。
「あ、どうだった、お兄ちゃん」
「ほれ、この通り二百円。売らなかったぞ」
「二人がかりで一日二百円じゃ、とてもやっていけないね……」
「公認ショップは査定法がきっちり決まっているから、評価額を上乗せしてはくれないな。いっそのこと闇ショップにでも持っていくか?」
勿論、鳳太は本気でこんな事を口にしたのではない。闇ショップとは非公認ショップのことだ。国家資格を持たないもぐり紙士が経営・利用する店で、違法行為が行われることもしばしばだという。確かに闇ショップへ妖紙を持ち込めば、もう少し良い値で買い取ってくれる可能性はある。しかし利用したことが発覚すれば厳罰に処されるし、そもそも二人共闇ショップが何処にあるかも知らなかった。
「今夜のおかずも折妖だね、お兄ちゃん」
「ああ。今日は何がいい?」
「魚がいい。鯛を折ってよ」
「鯛は折り方が難しいから、鯉で我慢しろ」
「えー、横着しないで折ってよ。お兄ちゃんが持っている紙折り指南書に鯛の折り方、載っていたじゃない」
「鯛の折り方が載っているのは、上級編だろうが。鯛は折り回数も多くて工程も複雑だから、難しいんだ。紙折りに失敗して、不味くなっても俺は責任持たんぞ」
「……鯉でいいわ」
膨れっ面で承知する凰香。されど不満なのは鳳太も同じだった。折妖ではない本物の魚や肉――真魚や真肉が食べたいのは山々だったが、妖紙売却のみで生計を立てている二人の収入は微々たるもので、とても手が出せないのだ。
二人が暗い面持ちで佇んでいると、店の扉が開いて誰かが店内へ入ってきた。ぴしっと折り目がついた背広を着た、羽振りの良さそうな中年男だ。
「いらっしゃいませ。今日はどんな御用で?」
カウンターの奥でふんぞり返っていた櫛山は素早く立ち上がり、にこやかに一礼した。明らかに二人の時とは態度が違う。得意客のようだ。中年男はカウンターの前までやって来ると、些かはにかむような口調で櫛山に話しかけた。
「……いや、実は子供の誕生日の祝いに、ポニーをあげようと思ってね」
「成程、お子様の乗用馬ですか。どんな馬がご希望でしょうか?」
「体高は一メートルぐらい、色は緑がいい。寿命は五年もあればいいか。それまでには子供も大きくなって、普通サイズの馬の方がよくなっているだろうし」
「特殊能力及びレベルのご希望は?」
「特殊能力は特にこだわらないよ。レベルはそこそこあればいい。ようはちゃんと子供の言うことを聞く、安全な折妖馬がいいんだ」
「と、なりますと……。体高一メートルなら、体長は百二十から百三十センチくらいになりますから、素妖のサイズは十二か十三。色は緑、寿命五年という条件になりますね。暫くお待ちを。妖紙の在庫を調べますので」
櫛山は背後の書類棚から「在庫台帳・素妖サイズ十~十五」という背表紙の台帳を引っ張り出し、開いた。ところが数ページ捲ったところで、さも残念そうに客へ告げた。
「生憎ですがお客様、今当店には素妖サイズ十二または十三/寿命五年の妖紙は、黒と赤しか御座いません。緑色の物は他店からの取り寄せになりますが、それには一週間前後お時間がかかります。もしお急ぎでしたら、在庫の妖紙を染直しして緑色に致します。ただその場合は、別に染直し料が加算されますが」
「子供の誕生日は今月下旬だから、特に急ぎはしないよ。取り寄せてくれないか」
「畏まりました。では、こちらの申込書にご記入を。折妖が完成し次第、ご連絡します。折妖馴しの際は命令者の立会いが必要となりますので、お子様もご一緒に……」
櫛山と客とのやり取りに空しさを覚え、二人は店を出た。二人も馬は是非とも欲しかったのだ。妖魔狩りに出たくても、徒歩では四頭鬼町とその周辺の町くらいが限度。バスや電車に乗れば遠出も出来るが、金が勿体ない。
「凰香。馬に折れるような妖魔、この辺じゃ見付からないのかよ」
「それは難しいわ。サイズ二十くらいの大物、町中にはなかなか出てこないし」
四頭鬼町は七釜戸市北部の町だ。七釜戸市は県庁所在地でこそないが、如月県の中ではかなり開けた市。首都・州都市が存在する飛鳥田県との県境にあり、首都のベッドタウンでもある。郊外には幾分田園も残っているが、四頭鬼町は完全な住宅地で、サイズ十五(サイズ一は十センチに相当するので、一メートル半)を越える妖魔の出没頻度は決して高くない。住宅密集地は彼等にとって窮屈な場所なのだ。おまけに町内には私立大学もあり、学生の姿も多い。普通の住宅地に比べて人通りも激しく、妖魔が嫌う条件が揃っているというわけだ。
「それにしてもさっきの突撃獣、欲しかったよな。サイズは四十くらいあったから、あの妖紙で折妖作れば、二人楽々乗せられるような大馬が出来たのに」
「でも5レベルの妖紙なんて、お兄ちゃんじゃ折れないじゃない。公認ショップで折妖馬を作ってもらうのだって、お金がかかるのよ」
やたらと軽い財布を振って見せる凰香をみつめながら、鳳太は先程の客のことを思い出した。折妖馬は手軽な移動手段として需要が高い。町の折妖馬専門店に行けば、いくらでも出来合いのものを購入することが可能だし、手頃な値段の物も沢山ある。しかしあえてそれをせず、公認ショップでオーダーメードするということは、金銭的に余裕がある者でなければ出来ない行為なのだ。しかも自分が使うのならまだしも、子供の誕生日プレゼントとは……。
――あのおっさん大金持ちだ。世の中銭だ。
つくづくそう感じた鳳太は、ただ空を仰ぐことしか出来なかった。
鳳太と凰香が帰宅したのは、日も暮れかかった五時半頃だった。現在二人が住んでいるのは、四頭鬼一丁目にある「天目荘」という木造アパートだ。近隣の七釜戸大学の学生の利用を見込んで、八年前に建てられたものである。間取りは相部屋を想定して作られているためか、六畳二間に台所と物入れ、そしてトイレと学生が住むにはやや広め。これが一階と二階に各二部屋、計四室あり、うち三室が入居済であった。
二人が住まいである102号室の玄関戸へ鍵を差し込もうとすると、隣の101号室から着物姿の品の良さそうな小柄な老婆が出てきた。大家の暮里東 (くれさとあずさ)だった。
「凰香ちゃん。三時くらいに静代さんから電話があったよ」
「祖母から?」
「ええ。また後で電話するって」
「わかりました。有り難う御座います」
軽く頭を下げ、二人は屋内へ入ってドアを閉めた。
「祖母さんからの電話って、何だ? 親父の小言でも伝えに来たのか?」
「まさか。お祖母ちゃんがそんなことで電話するはずがないじゃない。何かあったのよ」
「まあな。祖母さんは俺達には優しかったからな」
「でしょ。ちょっと待って、今タオル出すから」
凰香は流し台横の引き出しからタオルを一枚引っ張り出し、水で濡らして絞ると鳳太へ手渡した。これで顔を冷やせというのだ。
「私、これからご飯炊くから。お兄ちゃんは治療が済んだら、妖紙でおかず折ってね」
そう言って凰香は割烹着に袖を通すと、文化鍋をコンロにかけた。鳳太は濡れタオルを頬に当てながら自分の部屋へ籠もった。玄関から見て手前の部屋を鳳太が、奥の部屋を凰香がそれぞれ使っていたのだ。
腫れが引くのを待ち、鳳太は本日の収穫――二枚の折妖のうちの一枚を折り始めた。2レベルの妖紙を折ることなら、九級折士の鳳太でもそれ程難しいことではない。そもそも紙士の国家資格の格付けは、どのレベルの妖魔や妖紙、折妖を扱えるかによって決まる。1レベルを扱えるのが最下位である十級、2レベルは九級……といった具合に、取扱い可能レベルが上がるにつれ、級位及び段位も上がる仕組みだ。
鯉の折り方は極めて簡単だった。完成までの折り回数も少なく、小学生低学年でも折れる。黒白斑模様の妖紙は、五分も経たないうちに鯉の形となった。鳳太は人差指を折紙の鯉へ押し当て、厳かな口調で述べた。
「汝を折りし折士が命じる。起きろ!」
折紙の鯉は長さ四十センチほどの正真正銘見事な鯉――覚醒状態の折妖鯉となった。折妖鯉は斑の身をくねらせ、ピチピチと畳の上を元気よく跳ね回った。
「まな板の鯉という喩えもあるであろう。神妙にいたせ!」
時代劇調の台詞がきいたのか、折妖鯉は静かになった。鳳太は右手に棒状の文鎮、左手に折妖鯉の尾を掴んで窓際へ行き――その頭を思い切り文鎮で殴った。二、三発文鎮を振り下ろすうちに事切れたのか、折妖鯉はピクリとも動かなくなった。
「覚醒した直後にご臨終とは……。悪く思うなよ。どのみち起きたら、お前の余命はあと一年しかないんだからな。おい凰香、捌いてくれ」
襖を開け、兄の部屋へ入ってきた凰香であったが、折妖鯉を見るなり肩を落とした。
「思っていたより小さいわね。これじゃ一回分のおかずにしかならないわ」
「文句言うな。素妖のサイズが4なんだから、こんなもんだろう。それに俺だって嫌なんだぞ。自分で折った折妖を殺すのは」
「気持ちはわからないでもないけど……食べるためなんだから、仕方がないじゃない。それより私が捌いている間に、七厘の火を起こしておいてね」
折妖鯉を受け取った凰香は台所へ戻り、鳳太は七厘に火を起こすため庭へ出た。
凰香が三枚におろされた鯉を持ってきた時には、陽は沈みかけていた。部屋の灯を頼りに切り身を焼く一方、鳳太はせっせと手を動かした。残る一枚の妖紙を折っていたのだ。
紙折りが終わり、魚にも焦げ目が入り始めた頃、頭上から若い男の声が降ってきた。
「おー、今日の晩飯は魚か?」
二階の窓から顔を出していたのは、201号室に一人で下宿している七釜戸大学の三年生・西村大輔だった。魚を焼く臭いにつられてついフラフラと……という訳だ。
「西村さん、これ折妖ですよ」
「食えれば何だっていいじゃな~い。貧乏学生には折妖魚すら買う金もないんだからさ~」
陽気なその声と同じくらい、西村は性格も軽い。相手の欲しげな目つきに鳳太は苛立ち、舌を打った。
「……皿を持ってここへ来て下さい」
皿を片手にいそいそと西村は庭へ下りてきたが、自ら貧乏学生と言うだけあってひどい格好をしていた。着ているシャツもズボンも皺だらけ、髪もボサボサ。足に引っ掛けている突っ掛けも壊れかけている。そんな西村を見て、鳳太は露骨に嫌な顔をした。見た目が嫌だったわけではない。西村が食べ物をねだるのは、これが初めてではなかったからだ。天目荘へ兄妹がやってきて一月半、週に一度はこんな事が起きている。折妖は二人が苦労の末手に入れた妖紙を素に作ったもの。それを目敏く狙うのだから西村も図々しい。
「いいよなー、紙士は」
切り身をひっくり返す鳳太に、西村は言った。
「引く手あまたで就職先には困らないから。俺なんて浪人して三流大学の国文だ。就職出来ても二流企業の事務か営業くらいだろうな」
「紙士の全てがいい職に就ける訳じゃありません」
鳳太は箸を置き、団扇を手に取った。
「九級じゃ何処の会社も役所も雇ってくれません。殆どが七級以上が条件ですよ」
鳳太は団扇を扇ぎ、故意に西村の方へ風を送った。煙の直撃を受け、激しくむせる西村であったが、口の方ではまだまだ負けてはいないようだ。
「お前達さ、ガキの頃から妖視能力、あったんだろう? それで九級卒業か?」
「先天的な妖視能力の有無と紙士の素質は、関係ないって事ですよ。それに妖視能力なんて、ない方がいいんです!」
フッと鳳太の脳裏に浮かんだのは、幼き日の苦い思い出だった。四歳の頃、凰香と一緒に近所の友達と公園で遊んでいた時だ。急に凰香がジャングルジムを指差した。
――あの上に変なものがいるう!
確かにジャングルジムの天辺には、奇妙な生物が留まっていた。頭に角を生やした足の長い鳥が。しかし何故か身体に色が着いておらず、向こう側の景色が透けて見える。
――本当だ。何だろうあれ。ねえ……。
鳳太は友達の方を振り返ったが、異様な雰囲気に気付きハッとなった。友達が不思議そうに兄妹を見詰めていたのだ。
――何かいるって、何もいないじゃない。
――何がいるんだよう。お前ら、嘘吐いてんな。
――やーい、嘘吐き。鳳ちゃんと凰ちゃんの嘘吐き。
友達は二人を囃し立てながら、駆け去っていった。泣き出す凰香。鳳太も悲しい思いを堪え、俯くしかなかった……。
この時見た謎の鳥の正体が妖魔であり、普通の人には見えないことを二人が知ったのは、それから二年後のことだ。妖魔は普段、姿を消している。漉士がロックオンをして初めて妖魔は可視状態となり、一般人の目にも映るようになるのだ。
この姿を消した状態――不可視状態の妖魔を見る能力を妖視能力という。ただ不可視状態の妖魔は妖視能力者でも、色が着いていない透明な姿にしか見えない。「色を塗る前のアニメのセル画」の状態と言えわかりやすいだろうか。また見え方にも個人差があり、辛うじて大まかな姿がわかる人、身体の皺や筋、目鼻まで見える人、羽や毛さえも明確に見える人……といった具合に様々だ。妖魔が可視状態となり、身体に色が着けば、見え方に差はなくなるが。
妖視能力を生まれついて持っている人間は、数十万に一人といわれている。だが紙士は妖魔が見えないことには話にならない。特に妖魔狩りを生業とする漉士にとって、妖視能力の欠如は致命的だ。故に紙士を志す者は、紙士養成学校へ入学して最初の三ヶ月間、妖視能力を身に着けるための訓練にいそしむことになる。この間に妖視能力を得られなかった学生は紙士不適正者と判断され、強制退学となってしまう。
兄妹は数少ない先天性妖視能力者――俗に言う「鬼の眼持ち」であったため、この入学直後の厳しい訓練を受けていない。他学生よりも楽をしているのだ。それにも拘わらず、この二月の卒業試験で二人が取得出来た免許は、下から二番目の九級だった。同期の卒業生の半数以上は七級より上、首席学生に至っては二級で卒業したのだが……。
期待を込めて紙士養成学校へ二人を送り出した父親は、この結果に酷く失望した。将来は優秀な紙士になるだろうと有望視されていた、近所でも評判の「鳳凰兄妹」が、下級免許しか取得出来なかったのでは体裁が悪い。
そこで父親は二人に命じた。一年間別の場所で紙士修行してこいと。一年以内に五級以上に昇級すれば帰宅を許すが、出来なければ二度と実家の敷居を跨がせないというのだ。
紙士の昇級試験は年に二回、三月と九月に紙士養成学校で実施される。されど二回の試験で五級にまで昇級するのは至難の業だった。合格しても一回の試験で一つ上がるのが普通、飛び越し合格は毎回数人程度。勿論不合格すれば昇級は出来ない。それどころか試験内容如何によっては、降格すらあり得るのだ。
――一つ昇級するのだって大変なのに、たった二回の試験で四つも上がれるかよ。クソ親父の奴、無茶苦茶言いやがって……。
鳳太がそんなことを考えていると、けたたましい電話のベル音が耳についた。兄妹の部屋には電話はない。自称貧乏学生の西村の部屋にも。202号室は空室。電話があるのは大家の部屋だけだ。ベル音がおさまって間もなく、暮里が庭へ顔を出した。
「鳳太君、静代さんから電話だよ」
「あ、すいません。でも俺、今は手が離せないから妹に出てもらいます。おーい、凰香。祖母さんから電話だ」
目を離したら西村が魚をくすねちまうからなーーと思いつつ鳳太が声をかけると、はーいという声がして、足音が遠ざかっていった。その可愛らしい声ににんまりする西村。間髪入れず、鳳太は西村の皿へ焼き上がった中骨を放り投げるように置いた。
「焼けましたよ、西村さん。冷めないうちに部屋に戻ったらどうですか」
「なあ鳳太。凰香ちゃんは可愛い――」
「あんまりしつこいと、こいつを起こしてけしかけますからね」
鳳太は今折ったばかりの犬の折紙を西村の鼻先へ突き出した。この犬の折紙は睡眠状態の折妖犬だ。折士の命一つで目覚め、生きた犬になることぐらい西村でも知っている。
「おお、おっかない。わかった、わかりましたよ。今日はこの辺で失礼させてもらうよ。でもよお前等、何で七釜戸市なんかに出てきたんだ? 実家は井澄市なんだろう? そこで修行してもいいじゃないか」
「実家近くだと親に甘えるからって、親父に突き放されたんです。ここの大家さんと祖母さんは幼馴染み同士。そのよしみで世話になっているんです」
「月々の家賃、祖母さん持ちなんだってな。羨ましい」
「祖母さんが出してくれるのは家賃だけで、あとの生活費は全部自腹です。親の仕送りで呑気に暮らしていける、西村さんとは違うんですよ」
早く立ち去れ――といわんばかりに眼光で圧力をかける鳳太。西村はすごすごと自室へ戻り、入れ替わるように凰香が庭へ姿を見せた。
「おい、凰香。どうだったんだ、祖母さんからの電話」
「別に大したことじゃなかったわ。最近、妖魔出没予報で四頭鬼町の名前がしょっちゅう出てくるから、気を付けてだって」
「祖母さん、相も変わらず心配性なんだな。俺達紙士は妖魔が出なきゃ商売あがったりだっていうのに。ところで、飯は炊けたのか?」
「うん、出来ている」
「なら魚も焼けたことだし、飯にするか」
食事をする場所はいつも凰香の部屋と決まっていた。台所はタイル張りで床が冷たく、鳳太の部屋は散らかっていて食事をとる雰囲気ではないからだ。それにしても寂しい食卓だった。ちゃぶ台の上に並べられたのは焼いた鯉の切り身が二切れ、鯉濃、僅かな漬物、そして具のない味噌汁。実家にいれば黙っていても納豆に芋の煮つけ、ほうれん草の浸し物くらいは加わるはずだ。
「そう言えばお兄ちゃん」
文化鍋から飯をよそいながら、凰香が言った。
「実家でついにカラーテレビを買うことになったんですって。お祖母ちゃん、さっき電話で嬉しそうに話していたわよ」
「カラーテレビ買う金があったら、少しはこっちに回してもらいたいもんだな。俺達なんか白黒テレビは愚か、ラジオを一台買うのがやっと――」
鳳太はふと時計へ目をやった。時刻は六時四十四分だ。
「おっと、妖魔出没予報が始まる時間だな。ラジオつけないと」
茶碗片手に手を伸ばし、鳳太がスイッチを入れると、ラジオから雑音に混じってアナウンサーの声が流れてきた。
「……六時四十五分になりました。妖魔出没予報の時間です。まず、全国の概況から……」
口と手を忙しなく動かしながらも、二人はラジオのアナウンスにじっと耳を傾けた。妖紙売却で生計を立てる妖魔狩人の紙士にとって、予報は重要な情報源。今日も四頭鬼四丁目で妖魔狩りをしていたのも、今朝の予報で注意報が出ていたからに他ならなかった。
妖魔出没予報とは、国営局のラジオ及びテレビで放送される番組だ。妖魔が現れると思われる場所と時間帯を国民に事前に知らせ、防衛に役立てることを目的としている。放送時刻は毎日二回、午前午後の六時四十五分から十五分間。朝は午前七時からの、夕は午後七時からのそれぞれ十二時間の間に出没が予想される地域が具体的に報じられる。3、4レベルの妖魔の出没が予想される時は妖魔注意報、5レベル以上の妖魔の出没が予想される時は妖魔警報が発令される仕組みだ。なお、2レベル以下の妖魔は害悪も野良猫と同等なので、予報の対象とはなっていない。
州都局からの全国の概況終了後、放送は各県の放送局へ引き継がれ、その県ごとの予報となる。四頭鬼町のある七釜戸市は、順番も如月県の中では最後の方だった。
「続いて七釜戸市です。七釜戸市に妖魔警報は出ておりません。妖魔注意報が出ている地域は以下の通りです。築山一丁目及び二丁目、雫北全域、宝林三丁目から五丁目……」
気合いを入れて放送を聞いていた二人であったが、一気に全身から力が抜けていった。
「全部市の南部だわ。今夜はこの辺り、期待出来ないみたい」
「まあ……な。でも出没予報も百パーセント正確じゃない。今日だって注意報といいながら5レベルの妖魔、出たじゃないか」
「あれは予想外の出来事だったわ、本当。私は3レベルの妖魔を期待していたのに」
3レベル妖魔なら、九級漉士の自分でも頑張れば何とかなる――そう思ってロックオンした相手は、実は5レベルの妖魔だった。だが判断ミスに気付いた時には既に手遅れ。姿を露わにされた妖魔は激怒、二人に報復せんと追いかけてきたのである。
「もっと相手をしっかり見極めろよ。妖視能力は俺よりお前の方が上だろう」
「そんなこと言ったって……。野生の突撃獣は今回初めて見たのよ。仕方がないじゃない」
「言い訳になるか、そんなこと。漉士が妖魔のレベルわからなくてどうなるんだよ」
「何ですってーっ!」
「お、やるか!」
ちゃぶ台を挟んで二人は戦闘態勢に入った。双方が平手を構え、睨み合っていると――
ポーン。
七時の時報が鳴ったのだ。開戦寸前の二人の間へ割って入るかのように、絶妙なタイミングで。直後、ニュースが始まった。
「和州国営放送ニュースの時間です。最初は真柴総理が妖魔に襲撃されたニュースから」
のっけからのとんでもないニュースに、二人は喧嘩も忘れて聞き入った。職業柄、妖魔がらみの事件には大いに関心がある。首相が襲われたとあっては尚更だった。
さて、ニュースによれば――今日の午前十時頃、青波県のフラワー博覧会を訪問していた真柴隆次首相が、開会の挨拶のため壇上へ上がったところ、突然妖魔に襲われた。が、これを対妖魔エスピーの折士・墨田仁の折妖が瞬時に葬り、首相を守ったのだ。後で妖魔局の漉士が確認した結果、この妖魔はランク7黒虎であったことが判明したという。
「凰香、ランク7黒虎って何レベルだったっけ?」
「確かランク1黒虎が10レベルだから……16レベルだわ」
全ての妖魔の「強さ」は「レベル」と「ランク」の二つの単位で格付けされる。「レベル」は妖魔全体での強さを、「ランク」は同一種族内での強さを表す単位だ。兄妹が今日捕らえた「ランク1地鳥」はレベル2。地鳥の中では最下位、妖魔全体でもブービーという極めて格の低い妖魔なのだ。一方、黒虎はランク1でもレベルは10。つまり黒虎は地鳥など足元にも及ばない強力な妖魔ということなのである。
「16レベル妖魔を瞬殺か……。おっそろしい折妖を操っているんだな、墨田は」
「でも凄いわ。流石はエスピーね。墨田さんて、何段折士?」
「十四段だ……」
化け物だ――鳳太は内心震え上がった。稀代の天才折士と誉れ高い墨田は、現在三十歳。六年前に紙士養成学校を初段で首席卒業、三年後には十段、そして昨年十四段と信じがたい速さで昇級した。その実力を買われ、半年前に青波県警察より警視庁警備部へスカウトされたのだ。十四段といえば二十四レベルの妖紙を折り、その折妖を使役する能力を持っていると言うこと。駆け出しの折士である鳳太が畏怖するには十分すぎた。
「お兄ちゃんも早く墨田さんみたいになってね」
「うるさいな! それよりもその黒虎、可視状態で現れたんだろう?」
「うん。総理の前に真っ黒い虎が出たって、ニュースで言っていたわね。何か変だわ」
実際、凰香の指摘通りだった。妖魔が可視状態で人を襲うことはまずない。姿を消して急襲するのが常だ。しかも黒虎は熱帯原産の妖魔で、和州には生息していないのである。
「何処かの漉士が妖紙を紙解きして黒虎へ戻し、襲わせたんじゃないか? 違うか、凰香」
「私もそうじゃないかと思う。でも問題はそれが誰かって事よね。犯人、捕まっていないんでしょう?」
「らしいな。ニュースじゃ黒虎が会場に出没した原因を調査中……何て言っていたが、妖魔局のことだ。誰かが故意に黒虎を放ったことぐらい察して、犯人捜しをしているに決まっている。駆け出し紙士の俺達ですら、漉士の仕業だって感じたくらいなんだからな」
「犯人、ね……。16レベルの妖紙を紙解き出来る漉士ってなると……六段か。六段以上の漉士なら、和州国内には結構いるわ。養成学校の教師の中じゃ六段なんて普通だし」
「それにしても、黒虎を撃退する映像を見たかったよな。凄かっただろうな……」
「やっぱりテレビが欲しいね……。出来ればカラーテレビが」
だが兄妹にとってテレビは高根の花。毎日の食事にも事欠くようでは話にならず、二人はただただ溜息をつくばかりだった。
「遅いな、凰香の奴。女は長湯だから嫌なんだよな……」
濡れたタオル片手に、鳳太は一人ぼやいた。今、鳳太がいる場所は四頭鬼二丁目にある銭湯「桃の湯」の前だ。夕食後、兄妹はそろってこの銭湯へやって来たのだが、鳳太の方が先に風呂から上がった。時刻は午後九時過ぎ、女の一人歩きは危険だ。自分だけ先に帰る訳にも行かず、仕方なく鳳太は妹が出てくるのを待っていたのである。
「あー、酒が飲みてえ。湯上がりの一杯は格別だよな。こう、グイッと……」
鳳太の視線は斜め前の酒屋へ据えられていた。紙士養成学校時代、寮で歳上の同室生に時々酒をおごってもらったものだが、今は御馳走してくれる人もいなければ買う金もない。せめて杯を仰ぐ真似をして、飲んだ気分に浸るしかなかったのだが――
「あ……」
鳳太は飛び出しかけた叫び声を慌てて呑み込んだ。酒屋の看板の上に不可視状態の妖魔がいる。全長三十センチくらいの尾の長い鼠が、ちょこんと座っているのだ。そこへ都合よく凰香が「女湯」の暖簾をくぐり、銭湯から出てきた。
「お待たせー。あれお兄ちゃん、どうした……」
兄が指差す先を見て凰香は驚き、そっと囁いた。
「お兄ちゃん。あれ、尾長鼠じゃない」
「やっぱりそうだよな。で、レベルはどんなもんだ?」
「3レベルないわ。ランク1か2の尾長鼠だもの、多分」
「よーし、そうとわかれば紙漉きするぞ!」
呑気な尾長鼠は毛繕いに夢中で、自分が狙われていることにも気付かないらしい。ところが凰香が砂利を踏んだ途端、その耳がピクリと動き――両者の目が合った。
「まずい、気付かれたぞ! 早くロックオンしろ!」
「そんなこと言ったって……。あ、逃げちゃう!」
妖紙にされては堪らぬと尾長鼠は路面へ飛び降り、走り出した。大抵の妖魔は漉士に存在を感付かれると、まず逃走を試みる。不可視状態であれば素通りしてしまう漉士の紙漉き術も、ロックオンされて可視状態となればまともに食らってしまうからだ。あの突撃獣のように逆上したり開き直ったりして、漉士に襲いかかって来るケースも多々あるが。
最弱妖魔といわれる尾長鼠で、しかも低ランク個体。それでも下級漉士にとっては貴重な獲物だ。二人は後を追ったが、尾長鼠は身軽で素早く、隠れるのはお手の物。このままでは闇苅の物陰へ潜り込まれてしまう。見失うのは時間の問題と察した鳳太は、ジーンズのポケットへ手を突っ込んだ。
「汝を折りし折士が命じる。起きてあの妖魔を捕まえろ!」
鳳太が放った折妖犬は、着地するや白黒斑の柴犬の姿となり、追跡を開始した。流石は脚力自慢の地鳥が素妖。あっという間に追いつき、尾長鼠の尾に噛みついた。
「やった、捕まえたわ! チャンス到来!」
凰香は右手の人差指と小指を立てると、街灯の下でじたばたする妖魔へ掌を向けた。
「ロックオン!」
妖魔は瞬く間に色着き、可視状態となった。目は赤く、耳と尾の先は白。だがそれ以外は全て目映いばかりの金色だったのだ。凰香は奇声を発した。
「キャー、何これー! 金色の尾長鼠なんて初めてよー! 尾長鼠は普通黒か茶色、ごく稀に白がいるだけなのに!」
「解説はいいから、早く紙漉きしろよ!」
「言われなくてもやるわよ!」
両手の親指と人差指で正方形の「枠」――印を結び、その内側に妖魔を捉えると、凰香は気合いを込めた一声を放った。
「魔性のものよ。その異形の身を溶かし、二次元の存在と化せ。えーい!」
鳳太が指先ですっと合図すると、折妖犬は口を離し――直後、印から発せられた四角い虹色の光が尾長鼠を直撃した。もし3レベル以上の妖魔であれば、光ははね返されてしまう。が、今度は凰香も相手のレベル判断を間違わなかったようで、たちまち妖魔は金色の紙に姿を変えた。
「上手くいったわ、ばっちりよ!」
煌めく妖紙を拾い上げ、躍り上がる凰香。鳳太も声を弾ませた。
「普通の尾長鼠の妖紙なら大した値はつかないが、こいつは金色だ。珍しいから高く売れるよな、絶対に!」
「勿論! 超レアものだもの! 千円……いや、一万円つくかも!」
「よっしゃー! 早速明日売りに行こうぜ!」
満面の笑みを浮かべ、二人はハイタッチを交わした。通行人や周囲の民家から注がれる冷ややかな視線など、全く気付くこともなく。