そんな乙女ちゃん
乙女ちゃんには、「星崎つぼみ」という少女漫画の主人公のような本当の名前があります。乙女ちゃんも、パパが自分が産まれる前から一生懸命考えてつけてくれたこの美しい響きの名前を、たいそう気に入っておりました。けれど、みんな、乙女ちゃんのことを、『乙女ちゃん』と呼ぶのです。それは、バナナが大好きな女の子、さっちゃんの本当の名前がサチコというのとはわけが違います。だって、「星崎つぼみ」という名前に「乙女ちゃん」と呼ばれる要素はありませんから、もし、さっちゃん方式でいくのなら、乙女ちゃんは、「つっちゃん」と呼ばれるべきなのです。けれど、乙女ちゃんのことを、「つっちゃん」なんてなぞの海洋生物のような呼び方で呼ぶ人は誰もいません。
高校でも、みんな乙女ちゃんを乙女ちゃんと呼びます。生徒はもちろん、先生方も、乙女ちゃんの前や他の生徒の前では呼びませんが、職員室では乙女ちゃんと呼んでいることを、乙女ちゃんは知っていました。
乙女ちゃんが乙女ちゃんと呼ばれるのは、乙女ちゃんが偏に乙女だからです。他の理由など存在しません。
乙女ちゃん自身も自分が乙女であることを自覚しています。いいえ、むしろ乙女ちゃんは、常に乙女であろうと心がけているのです。それが乙女ちゃんにとってのアイデンティティだからです。
せっかく女の子に産まれてきたのだから、乙女を満喫しなくては大損です。乙女ちゃんは、乙女なので、欲張りなのです。損なことはしたくありません。だから、産まれてこのかた乙女でなかったことはありません。
乙女ちゃんの好きな色は白です。嫌いな色はネイビーです。好きな食べ物を聞かれたら、ミルクレープと答えます。けして焼肉などとは言いません。バイブルは昭和の少女漫画です。
乙女ちゃんはロリータ主義ではありません。「乙女」イコール「ロリータ」ではありません。乙女というのは心根のあり方なのだと乙女ちゃんは考えています。もちろん死語ではありますが、ぶりっ子と呼ばれるものでもありません。そんな上辺だけを取り繕っただけのものではないからです。任侠の世界が仁義を重んじるというのなら、お侍の世界が武士道精神を重んじるというのなら、乙女の世界は己を重んじるものなのです。自分の信念にのっとり清く正しく美しく、お花とリボンとレースの世界で、たおやかに生きてゆくのです。
そんな乙女ちゃんには今、好きな人がいます。
三年二組の定禅寺トオルくんです。トオルくんは背が高く、鼻も高く、色も白く、頭もよくて、図書委員長です。これで髪にウェーブでも当ててくれたら完璧なのに、と乙女ちゃんは思うのでが、パーマは校則で禁止されているのです。
以前、トオルくんは乙女ちゃんに愛の告白をしました。
けれど、それはあまりにも突然で、乙女ちゃんはとっさにその場を逃げ出してしまいました。その場を逃げ出すというのは、乙女にとってはあたり前の行為です。そして、それを男の子が追いかけてくるというのがお約束というものなのですが、トオルくんは追いかけて来てはくれませんでした。それ以来乙女ちゃんはトオルくんが気になって気になって仕方がないのです。夜は星空に、朝は神社に、乙女ちゃんは「トオルくんと結ばれますように」と祈るのが日課です。
ですが本当に結ばれてしまっては困ります。乙女ちゃんは片思いに満足していました。柱の陰からそっとトオルくんを見つめる、それだけで幸せなのです。片思いをしていてこそ、真の乙女なのです。両想いになってキャッキャウフフなんて、乙女の美学に反します。それに、両想いというのは、死亡フラグのような気がしてなりません。キャンディキャンディしかり、ベルサイユのばらしかり、武者小路実篤しかりです。だから、乙女ちゃんは、この現状に非常に満足しているのです。
最近、トオルくんに近づく、ふとどきな一年生の女子がいます。恋の物語には意地の悪いライバルがつきものですが、乙女ちゃんは内心穏やかではありません。乙女は欲張りなのです。トオルくんが他の誰かに奪われるなどという、もったいないことはあってはいけません。
トオルくんのお家は、大きなお花屋さんです。切り花も売っていますが沢山の鉢植えを取り揃えています。乙女ちゃんは基本、鉢植えのお花より、切り花のブーケのほうが好きです。鉢植えの、花の盛りをすぎて葉っぱだけになっても植木鉢にしがみつく姿が嫌いです。切り花の、散り際を知る潔さの方がだんぜん素敵です。
そんな乙女ちゃんですが、最近気になっている鉢植えがあるのです。それはオブツーサという植物なのですが、大好きな可憐な花は咲きません。ただプニプニとした緑色の丸い粒がポコポコと土から生えているだけです。けれどその粒はキラキラと、光りを吸収し輝いていて、まるで宝石のようなのです。乙女はお花も好きなのですが、イミテーションの宝石も好きなのです。決して本物であってはいけません。イミテーションであることが大事です。本物の宝石のギラついた輝きはお金の匂いがします。乙女は間接的にならともかく、嫌味なほどのお金の匂いをさせてはいけないものなのです。
乙女ちゃんは、このオブツーサの鉢が欲しいのです。思い切ってトオルくんに話しかけてみることにしました。
すると、トオルくんのお家のお花屋さんでは扱っていないけれど、数日待ってもらえれば手配できるという返事でした。乙女ちゃんは喜びました。オブツーサが手に入ることもそうですが、トオルくんとお話しできたこと、そして、またトオルくんとお話しする理由ができたことに。
久しぶりにお話しするトオルくんは素敵です。輝いています。背景にはバラの花が見えてきそうです。胸がドキドキします。トキメいています。その空間だけが現実から切り離され、まるでシャガールの絵の中にでもいるようです。
ところがです、例のあの一年生女子がライバルがライバル足るゆえんのような登場をしたのです。「トオルお兄ちゃ~ん一緒に帰ろう」だなんて。妹属性でしょうか?なんとも腹立たしい、と、乙女ちゃんは出来ることなら、ハンカチの角を噛みしめたい思いでした。
トオルくんは乙女ちゃんの顔を名残惜しそうに見つめます。やはりトオルくんは乙女ちゃんのことが好きなのでしょう。乙女ちゃんもできることならばそう確信してしまいたい気持ちでした。
数日後、トオルくんからオブツーサが入荷したという知らせを受け、放課後、それを受け取る約束を乙女ちゃんはしました。そして放課後になり、トオルくんのもとへオブツーサを受け取りに向かおうと思ったのですが、そこで乙女ちゃんは待ち合わせ場所を決めていなかったことに気がつきました。教室に残っていた女子に、トオルくんを見なかったかと聞くと、「中庭を腕を組んで歩いて行くのを見た」と言うではありませんか!乙女ちゃんは慌てました。あの妹属性にトオルくんを取られてなるものかと。
中庭へ向かうと確かにトオルくんが腕を組んで歩いています。何かを考えるように腕組みをしてウロウロと歩きまわっています。乙女ちゃんはホッと胸をなでおろしました。
「定禅寺くん!」
と乙女ちゃんは声をかけました。心の中は、トオルくんと呼んでも、学校では「定禅寺くん」と呼びます。その方が秘めたものがあって素敵です。
トオルくんは乙女ちゃんに気がつくと、笑顔になりました。夏の青い空に浮かぶ白い入道雲のような爽やかな笑顔です。
「星崎先生!」
と、トオルくんは乙女ちゃんを呼び、手を振りました。
乙女ちゃんは、「星崎先生」と呼ばれるのが好きです。みんなが乙女ちゃんと呼ぶ中、トオルくんはきちんと「星崎先生」と呼んでくれます。エロスです。この場合のエロスは、イヤラシイという意味ではありません。愛という方の意味です。
トオルくんは乙女ちゃんにオブツーサの育て方を丁寧に教えてくれました。乙女ちゃんはそんな優しいトオルくんを素敵だと思いました。そして、トオルくんが早く卒業してくれたらいいのにな…と思いました。先生と生徒の背徳的な恋も憧れるけれど、やはりキャッキャウフフも素敵だなと、乙女ちゃんは思いました。
いいえ、乙女の美学には反しません。乙女心は秋の空のように変わりやすいと、昔から決まっているのですから。
お読みいただき、ありがとうございます。
初めて、こっちで書いてみました。
いつもはR18の方で書いています。
絵本ぽく書いてみたいなと思ったのがきっかけです。
ひまつぶしにでも読んでもらえたらなぁ…くらいの気分で書いてしまったので、そのくらいの気持ちで読んでいただけたのなら、ありがたいです。