遥かなる路
輝ける陽が大地を照らす。風が木の葉を揺らす。先の見えない道を、一人の青年は歩いていた。
緑色の、ところどころ破れたローブに身を包み、ゆっくりと歩く。緑溢れる草原は果てしなく続く。
「・・・・・・」
立ち止まり、自身の歩んできた道を振り返る。どれほど、歩いたのかはもう、わからない。果てしなく遠い地への思い。物も、人も、移ろいゆく。悠久の刻の中に。すべてが遠い過去。それでも、歩みを止めることはない。彼には、もはや進むことしかできないのだ。
緩やかな丘を越えた先には大きな街があった。川沿いに作られた町は、この近辺では交易の宿場街であり、治安もそれなりに良い。レンガ造りの家々の中を青年は歩く。やがて宿を見つけるとそこに入っていった。
「いらっしゃい」
若い女性が受付に立っていた。レンガの家の中は小ざっぱりとした内装であった。不快に思わない程度の装飾のみがされていて、実用性重視の内装に青年は好感を抱く。
「何拍の予定ですか?」
「とりあえず三泊ほど」
「7セルになります」
腰から袋を取り出し、七枚の銅貨を差し出す。宿にしては破格の値段であろう。少し驚きながら、青年は差し出す。
「あら?」
女性が青年の腰を見る。正確にはそこにある剣を。
「お客さん、騎士さんかい?」
青年は剣を女性の目線を負い、剣を見た。鞘に収まった、自身の剣を。
「いや」
青年はふと、遠い何かを懐かしむ目をして言った。
「妻の形見、だ」
青年はその後、宿で一晩を過ごした。久方ぶりの安息。しかし、それは一時の安らぎでしかなかった。
昼ごろ、街には喧騒が広がっていた。
曰く、軍が攻めてくるらしい、と。
この街は二つの強国に挟まれている。両国の間に位置するために、交易地として古来より栄えてきた。しかし、近年両国の関係は悪化していた。聖教会の教えを信奉する国と、それを拒む国。宗教対立は大きな火種となっていた。いつ戦争が起きてもおかしくはなかった。
人々も、それは承知していたが、いきなり、しかもこの街が標的になるとは思いもしなかった。
「どうする、街の防衛だけじゃ、あの軍勢にはかなわない!」
街への帰りにその姿を見た商人が悲鳴にも似た声で言った。
「やつら二千もいるんだぞ!」
この町の規模は五千人ほど。うち戦えるものは半分もいない。しかも、ほとんどが素人だ。商人の護衛として雇われる傭兵もそう数はいない。
絶望感が街を覆う。
「お客さんも大変な時期に街に来ちまったね」
受付の女性が言った。昼飯を食べる青年は関心がないようにスプーンで粥を掬い、飲み干す。
「二千の軍勢、しかも相手は大陸随一の軍隊だ。耳狩り公、クレムリンのね」
クレムリン公爵。別名耳狩り公。残虐非道の狂戦士。槍の名手。そしてその名の通り、征服地の住民の耳を切り取り、コレクションする。悲鳴を上げる女子供の耳を快楽の表情で切り取る。その対象は聖教会にとっての異端のみであるため、聖教会は英雄として称えているという。
「もう、潮時かね。ここも先代から受け継いだんだけどね」
父親のことを思い出す女性。目には涙が浮かんでいたが、客前であるからか、その涙が流れることはなかった。
青年は席を立つ。女性は彼の食器を下げる。青年は外に向かっていった。
「こんな時にどこに行くんだい」
青年は振り返らず、女性に言った。
「軍勢を止めに」
無謀にも一人で立つ向かおうとする青年に街の人々は反対した。仮に街全体で蜂起しても、敵いはしないと。
「ならば、このまま死するか」
青年は人々に問うた。静かな、しかし力強く、響き渡る声で。
「誇りも、己を捨てて、奴らに助命を請うか」
周りを見渡し、話し続ける青年。
「顔を上げよ、剣をとれ。そこに己が信じる正義があるのならば。立ち上がれ、さすれば希望は訪れよう」
そういって青年は街の門を出て行った。鳴り響く行進の音。敵はすぐ近くに迫っていた。
街の住人はもはや、恐怖で動けない。しかし、青年は歩みを止めない。
耳狩り公は街を眺めていた。抵抗の一つもないまま、征服するのも味気ない、と内心思いながら。存分に異教徒を狩ることが至高の喜びである。堪えきれず、進軍を命令しようとし、彼はやめた。
門から一つの影が現れた。次第に光でその姿がはっきりしてくる。男、それもまだ二十代ほどの青年。
ぼろぼろのフードをかぶり、顔ははっきりと見えないが、長身である。腰に剣が見えるが鎧は来ていない。間違っても戦いに来たわけではあるまい、とつまらなさそうに耳狩り公は思った。
「進軍だ」
そして命令を下す。軍勢が槍兵を先頭にゆっくりと、着実に街に迫る。恐怖を響かせる行進の音に、青年は怯みもせずに進んでくる。
「馬鹿な異教徒を突き刺せ」
耳狩り公の無慈悲な命令が戦場に響く。そして、無数の槍が憐れな青年を貫く、はずだった。
響いたのは、青年の断末魔ではなく、槍兵たちの首が飛ぶ音であった。
倒れていく身体。軍勢の歩みが止まる。青年は静かにその場に立っていた。しかし、再び歩き始めた。
「な、何をしている!槍兵、その男を殺せ!囲い込んでハチの巣にしてやれ!」
命令通り動く兵士たち。突き出される槍を青年は興味なげげに見た。そして手を振った。剣は握られていない。兵士たちと青年の間には距離も開いている。にもかかわらず、兵士の首は空を舞った。頭部のない姿態が量産された。
青年は再び歩き始めた。恐怖がその場に伝染する。得体の知れない何かが、歩いて近づく。歴戦の戦士も、信仰心熱い信徒も、その姿に恐怖を覚えた。今まで経験した、あらゆるものを凌駕する恐怖を。
「な、何者だ、貴様は!」
耳狩り公が叫びながら合図すると、近くにいた弓兵が一斉に弓矢を放つ。放たれた矢は青年には当たらなかった。屋が自然にそれた。だが、一本の矢が青年のフードを微かに掠めた。その拍子フードは背に落ちた。漆黒の髪が風に揺れる。そして、青年のこの世のものとは思えない美貌が現れた。
耳狩り公は驚愕した。その青年の姿、そして、その瞳の色に。
「深紅の瞳と金の瞳・・・・・・もしや、貴様は・・・・・・」
青年の瞳は血のように真紅の色と、頭上に頂く太陽すらも負けるほどに輝く金色であった。
その瞳の持ち主はただ一人。そしてそれは、この世界に生きる者は一度は耳にする、存在。
「永遠の刻を生きる異教の神!神代の十二騎士にして、最後の騎士!神すら殺し、何者にも屈さぬ戦いの神!貴様があの伝説のロゥランか!」
耳狩り公は驚愕の声を上げた。彼の信じる神。その神が人間のために作り出した、究極の戦士。
「なるほど、確かに強い。だが、所詮は異教の神だ、われらの主たる神の名のもとに貴様を殺してくれる!」
恐怖を抑えようと高笑いするクレムリン。しかし、その笑みは強張っていた。
青年、ロゥランは腰の剣を抜いた。
「力を振りかざす者たちよ、誇りを捨てし者たちよ。己が正しいというのなら、その力でもって我を滅せよ。さぁ、空を見よ、絶望の星を」
「!!」
ロゥランが剣を空に掲げる。神剣『ネルグリューン』・・・。彼の妻の躯より生まれ出た魔剣。死してなお、愛する夫を守る穢れなき、誇り高き女王。別名『墜天の女王』。その剣は天の星を落とすという。
蒼き空に降る星が耳狩り公の軍勢を飲み込む。一方的な虐殺がそこにあった。
戦いは終わった。一瞬にして二千の軍勢が跡形もなく消えた。耳狩り公一人を残して。
「なんということだ」
愛用の槍を片手に佇む男にゆっくりと近づくロゥラン。慌てて槍を構えるクレムリン。
「なるほど、確かに私は負けたようだ。だが、このまま死ぬわけにはいかん。貴様の首を手土産に神の身元にいたろう。さすれば、次なる生で私は救われる!」
禍々しい魔槍をクレムリンは突き出す。
「かつて貴様と轡を並べた戦士、グラウコスの槍を忘れはしまい?どんな英雄模試を逃れることはできないという、この槍の恐ろしさを!」
突き出される槍。人の限界を超えた動きでロゥランに迫る。ロゥランは剣を構えもしない。にやりと笑うクレムリン。槍がロゥランを貫いた。
「くくく」
笑うクレムリン。深く、深く槍で死神の体をえぐる。
「!!?」
突如、血を吐くクレムリン。腹に何かが刺さる感触がした。ゆっくりと己の底を見ると、自身の愛槍が突き刺さっている。
「な、ぜ・・・・・・?」
「その槍は」
無傷でそこに立つロゥラン。静かに、愁いを秘めた瞳で槍を見ていた。
「我が盟友の遺したもの。その槍が私を傷つけることはない。例え、私が彼をこの手にかけていたとしても」
「・・・・・・・」
物言わぬ死体となったクレムリン。その形相はすさまじいものであった。
戦いは終わった。青年はそのまま、去っていった。その行方を誰も知らない。
その後、この街に手を出す者はいなかった。両国が開戦した時も、暗黙の了解として、その街は存在し続けた。
街を救った英雄の話を聞くことはなかった。しかし、稀にたった一人のさすらい人の話が聞こえた。
ふと、戦場に現れる、一人の死神の話が。