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――おかえり、リン……。
ずっとずっと遠いところで、誰かが嬉しそうに笑っていた。
だからわたしも笑って返した。
……ただいま。
返事は遠く転がっていって、誰かの元まで届いたようだった。
ますます喜びを含む笑い声にわたしも笑う。
額が仄かにあたたかかった。
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瞼の上から日の光を感じ、そっと目を開いた。
視界一面に青空が見えた。薄い空色は高く澄み渡っていて、それほどきつくない陽射しがふりそそいでいる。ぽかぽかしていてまどろみたくなるような気候。
「……雨降りだったのに、どうして!?」
慌てて上半身を起こした。
急な動作にくらりと目眩がして手を突いたら地面は柔らかく、ひやりと水気を含んだ冷たさ。
ぎょっとして見ると、手の下に花が群生していた。パンジーに似た花が地面を覆っている。大地に花の絨毯を敷いたようだ。ざっと見ただけで三百メートル四方に広がっていた。
花畑の先には木立が見えた。花は全て同じ種類だが色は違った。ほとんどが白く、ときどき水色や薄紅色をしたものもあった。これだけたくさん一種類の花が固まって生えているのは、誰かが世話をしているからだろう。花に混じって雑草がないことにそう思った。
ここはどこなの……?
まるで見たことのない場所だった。今まで一度も訪れたことがないと断言できる。
次いでぱたぱたと自分の身体を撫で回した。
手足、顔、頭。
あるべきものは変わらずにあった。足は折れていなかったし、額、頬、鼻の下、どこにも血の感触や痛みはない。両親にもらったままの身体だ。
――本当に生き返ったんだ……。
もちろん喜びもあったけれど、夢であったらいいと思ってしまった。
生き返ったと思うのは死んだ記憶があるからで、自分が交通事故に遭って死んだということからおきた一連の出来事全てが、何もかも夢だったらよかったのにと思った。
でもここはわたしの住んでたところじゃない。日本じゃない。
夢にしてはやけに現実味を帯びすぎている。
濡れた花びらの感触、甘い花の香り、花から花へと遊ぶ蝶は鮮やかな青色をしていた。真っ青な蝶なんか見たことがない。
一度も見たことのないものが夢に出てくるのはおかしい。そこまで自分が想像力が豊かな訳がない。
神様の言った通りだとしたら、ここが異世界……テュリダーセ、なの?
子供の姿をした神様が語ったことは無茶苦茶だが、嘘を言っているようには思えなかった。それに神様に感じた不思議な親愛の情。
指が無意識に額を触っていた。祝福だとキスされたときのような温もりはなかったが、何だか安心した。
よかった、ちゃんと覚えてる。神様、記憶も残しておいてくれたんだ。
お父さんとお母さんのことも学校のみんなのことも。
記憶はわたしの今までの人生そのものだから失いたくないといった願いを叶えてくれたんだ。死ぬ前のことも、事故の瞬間も、神様と話したことも覚えている。
二度と会えない人たち。それを思うと泣きたくなるほど寂しいけど、わたしが忘れない限り心の中にいてくれる。
神様に感謝した。異世界に来ても、わたしが鈴木鈴であると自覚できるのはとても幸せなことだった。
……それにしても、異世界に行くと承諾したから元の世界に戻れないだろうとは思っていたけど、記憶のリセットを拒んだらそのまま異世界に放り出されることは予想していなかった。
神様のバカ、とちょっと思ってしまった。
記憶を保持したままで転生させることはできなかったのかな、と都合の良いことを願って恨んでしまう。
だけど十六年分の記憶を持った赤ん坊なんて、たとえ自分のことだとしても相当奇妙な気がする。だから神様は生前と同じ肉体を持って生き返らせてくれたのかも……。
逆に、見方を変えればわたしは幸運に恵まれていたのかもしれない。もちろん事故で死んでしまったことは不幸だけれど、人間は一度死んだらおしまいだ。
でも、生き直すチャンスを与えられた。断ち切られた糸が再び結び直された。ただし結ばれた先の糸は全く違うものに取り替えられてしまったけれど。
進学し、大学卒業後に就職して結婚。庭のある家に子供は二人。
取柄という取柄もない平凡なわたしは、そんなマニュアル通りの将来を夢想していたのだ。
この先、日本で思い描いていたどんな未来も当てはまることはないだろう。異世界が日本と同じ文化でない限り。
「まず、人に会わないと」
テュリダーセがどんなところか、それを知らないと動きようがない。
見回しても、辺りには誰もいなかった。ここで漫画や小説なら「世界を救う勇者様」と誰かが待ち構えていたり、駆け寄ってきたりするんだけど……。
そんな漫画みたいな話、あるわけない。勇者も柄じゃないし。
神様がわたしの故郷へ、といったから記憶を刺激する見覚えのある風景を期待していたのに……まったく見覚えがない場所だった。
ただひとつ発見があった。
木立の向こうに小さく塔のようなものが見える。外国の城のように細長く尖った塔で、天辺には風がないためだらりと垂れ下っている旗。何が描いてあるのかは皺がよっていて見分けられない。
わたしの居る花畑も手入れされている。すくなくとも、花を育てたり城のような建物を建築する技術がテュリダーセにはあるみたい。
建物があるなら人は住んでいそう……、とそこまで考えた時だった。
「――驚いたな。お前は何者だ?」
突然背後から低い声がかかり、心臓が縮みあがった。
先ほど周囲を見渡した時には誰も居なかった。
声のした方を振り返って、ぽかんとして言葉を失った。
背後にはいつの間に近づいたのか、ひとりの青年が立っていた。
背の高い人だった。混じり気なしの長い黄金の髪と、蒼い瞳。宝石に例えるならサファイアのように蒼いけれど、宿る意志が石にはない瑞々しい彩りをそえて、力強く人を惹きつける。彫りの深さは日本人が持ち得ない類のものだった。
……外国の王子様みたい。
月並みな感想しか思い浮かばない。
白皙の頬に影を落とす長い睫。すうっと瞳を細めた動作さえなければ、名匠の手による彫像だといわれても頷いてしまいそうだ。
青年はそれこそ漫画の登場人物のように現実感のない服装をしていたのにも関係がある。白い服と皮のブーツ、踝まである長い白のマントを羽織っていた。
「どこから、どうやってきた? わたしは瞬きすらしていない。忽然とお前は現れた。どんな手を使ったのか聞かせてくれないか」
ファンタジーな格好をした青年は矢継ぎ早に質問を繰り出した。ぼうっと青年に見惚れていたわたしは、違和感をおぼえた。
青年の口の動きと、耳に聞こえる音声が違うのだ。
実は英語を喋っているけれど、音声は翻訳された日本語の吹き替え映画のように、青年の言葉が頭の中で自動的に翻訳されて伝わっているみたいだった。
当然わたしはそんな便利な能力は持っていない、持っていたら英語のヒアリングテストであんな絶望的な点数は取らなかった。わたしをつれてきた神様の計らいだろうか?
「聞こえているのか?」
青年の声は穏やかだけど、蒼い視線の冷たさは尋常ではない。わたしは蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。返事をしたいけれど、声が出てこない。
黙っているわたしに痺れを切らしたのか青年が舌打ちした。
軽くマントを払った瞬間、いつそれを抜いたのか、キラリと冷たく陽を弾く切っ先が目の前に突きつけられていた。
え、なにこれ……剣……?
目を凝らしてみても変わらない。こちらに突きつけられていたのは本物の剣だった。
日本では当然間近に見たことも、ましてや刃物を向けられた経験もない。びっくりして身体が強張った。
瞬きする間にも、鼻先に突きつけられた剣先がツ……と下がり、縦だった刀身が水平に反された。
両刃の刀身は白く輝いていたがよく見れば細かい傷があり、女子高生のわたしにも、お飾りの眩さとは違う使い込んで磨かれた武器の凄みを感じとれた。
けして軽くはないだろう剣を突きつけ微動だにしない青年の腕。布越しに盛り上がる腕の筋肉が見えた。
「――どうした? なぜ答えない? 王家所有の庭に許可なく踏み込んで、まさか命があるとは思っていまい。わたしは万人に慈悲深い人間じゃない、子供にも容赦はしないぞ。――今すぐ答えねば、喉を突く」
腕の振り一つだった。
ちりっと首に痛みが走ったと思ったときには、ぬるりと熱い何かが首筋をつたい落ちていく感触がした。ヒッと喉が鳴った。ようやく声が出た。
ジンジンと首が痛む。
今、何をされたんだろう……?
考えたくないのに思考は変に冴えて、剣で斬りつけられたのだと答えをくれる。斬りつけられたショックで身体は震えだしていた。
そんなわたしを見下ろしながら、首筋を切り裂いた青年は眉一つ動かさない。
人を傷つけた、暴力をふるった気の咎めや動揺など微塵もない、冷静な瞳。
それは慣れているから? この青年は王子様なんかじゃない。切り裂きジャックだ。通り魔だ。わたしが答えなかったら首を刎ねる気かもしれない!
何を問われていたっけ!?
どうして入ったか!?
「わ、わた、わたし……しししらなかったんですっ、本当です! ……は、入っちゃいけない、その、庭だってこと知らなかったんです!!」
日本語が通じるかどうかなんて気にしていられなかった。
でも必死で言った言葉は通じたようだった。青年の言葉が日本語に翻訳されて聞こえているのと同じで、わたしの言葉も異世界語に変換されているらしい。
ただわたしの返答が気に入らなかったことは、物騒に動く剣が明白に表していた。
「お前は、わたしの話を聞いていたのか?」
くん、と剣が動いたので二閃目は予想していた。
目をギュッと瞑る。
「いっ!……」
い、たっ! 痛いよう……。
反対の首も同じように斬られた。
わかっていても痛いものは痛い。血が肌を流れる感触。痛みと恐怖で吐きそうになった。心臓は激しく鼓動を打ち、猛スピードで流れる血液が耳の奥でごうごうと耳鳴りを響かせる。
生き返った早々殺されかけている状況に思考がついていけない。
瞳を潤ませたわたしを見て青年は笑った。笑顔なのに、蒼い瞳だけは変わらず冷たい。
「わたしはなぜここへ来たのかなど理由は訊いていない。どうやって入ってきたのか、手段を問うているんだ」
三度目はない、とまっすぐ喉の真ん中に照準を合わせた切っ先が告げていた。次は斬り裂くのではなく突き殺すという脅しだろう。
ううん、脅しなんかじゃない。この人本気なんだ!
入ってきた手段? 手段って方法?
気がついたらここに居たからそんなことわからないのに!!
神様に連れられてきた、と正直に言えば「ふざけるな」と斬り殺されそうだ。それが本当のことでも信じてくれそうにない。かといってとっさに上手い言い訳も浮かばず、気持ちだけが焦る。
「あの、あの、きっ気を失ってて、きが、きがついたら、ここっ……いて、……ほんとです! うそじゃっ、ないですっ……ほんとです……本当です! しんじて、くださいっ……」
こみ上げてきた涙を押し殺し、わたしは必死に目の前の青年に訴えた。
これ以上の説明なんかできない、だって自分でもわからないんだから……。
恐怖で身体が固まり、拭うこともできない涙が頬に零れた。
青年は無感動な眼差しで泣いているわたしを見下ろしていたけれど、やがて剣を引いた。
マントの端で剣についた血を拭うと鞘に収めた。その動きでマントが翻り、金色のベルトにもう一振り細剣を吊っているのが見えた。マントの下は軍服のような服で、左胸には何かの紋章が縫い取られていた。
「――さて困った。きみが嘘をついているようには見えないけれど、それはきみがよほど演技に長けているか、僕の見る目がないかのどちらかだろうね。真実は地下牢獄の中で明らかにしよう」
急に青年の言葉遣いが柔らかくなった。その物言いにうっかり聞き流しそうになったけれど、青年はどちらにしてもわたしが嘘をついていると言っている。
状況から胡散臭いと思われてもしょうがないけど、地下牢獄ってどういう意味?
「……地下の、牢獄?」
「初耳かい? きみたちが真っ先に教えられるものものだと思っていたよ。この国の獄吏は優秀だからね」
青年はそこに連れて行くつもりらしい。わたしがどうやってこの庭に入ったのか取り調べるつもりなのだろう。拷問されるのかとわたしは再び恐怖に震えた。結局青年はわたしの涙にほだされたのではなく、単に取調べを専門家に引き渡すことに決めただけだったのだ。
青年はじろじろと怯えるわたしを眺めていた。
気が変わって今殺すことに決めたんだったらどうしよう?
「なっなんですか……?」
「――どうもきみは素人臭いね。ころころ表情が変わる。何の目的か知らないが、心の中が筒抜けじゃ、こういうことに向いてないと思うのは僕だけかな? その態度すら演技だとしたら大したものだけど」
「演技? し、素人とかきみ達とか、一体なんの話ですか!?」
「ふうん……とぼけるのも真に迫っているね。そうだな、話に乗ってあげるとしたら、きみたちとはきみを含めた一族についてだよ。この国の言葉をここまで淀みなく話せるのはすごい……国内で教育を受けたのかと思ったよ」
蒼い瞳がその瞬間探るようにわたしを舐めた。背筋がゾクリとする冷酷な視線だった。
「悪目立ちするだろうにおかしな格好をしている。間諜か、暗殺か、どこの群か知らないが本気で潜入させる気があったのかと問いたくなるね。……髪色からしてトリスタンかと思ったけれど、肌色は違うなぁ。顔立ちもこの国では見かけないものだ。辺境の混血かな?」
青年の言っていることがおぼろげに理解できた。
間諜って、スパイのこと? ひょっとして、わたし、この人からどこかの国のスパイだと思われてるの!?
髪色や肌色と言っていたことから、トリスタンというのは民族の特徴を指すのかもしれない。ヨーロッパ人やアジア人などのくくりだろうか。
青年の顔を見て気がつくべきだった。青年は思い切りヨーロッパ系の顔立ちをしている。この国の人がもしみんな青年のような顔だったら、純日本人なわたしを怪しんで当然だ。
わたしは祖父母のそのまたご先祖様からずっと日本人の血を受け継いでいる。つまり、色素の薄いらしいこの国の人から見れば、わたしはおうとつの少ないのっぺりした顔に見えているはず。
おまけに青年から子供だと言われたことを考えると、年相応に見られていないのかもしれない。東洋人は童顔に見えるそうだし。
彼もわたしから見たら二十代中頃に見えるけど、実際はいくつなのかわからない。
日本にいた頃、街で外人さんを見ることはあった。
物珍しさはあったけど、だからといってスパイとまで飛躍して考えたりしない。
「わたし、間諜なんかじゃありませんっ。トリスタンとか全然知りませんし、関係もありませんから! 混血でもないです! 父と母は純粋な日本人ですから!」
わたしは力いっぱいスパイ疑惑を否定した。
それが逆に青年の眉を顰めさせる結果となった。
「ニホン? 聞いたことがないね、そんな名前」
しまった、とわたしは青ざめた。
口を滑らせたと後悔しても後の祭り。わたしの話す日本語が翻訳されて伝わっていたので、日本という国自体がテュリダーセにないのを忘れていた。
言葉が通じたって、ここは異世界なのだ。